16.私などが触れてしまって──なんて、もう言わせない
王都を出てから、すでに一日が過ぎていた。
春先とはいえ、朝の空気はまだひんやりとしている。柔らかな陽が差し込む馬車の中で、オリアナは揺れる窓の外をぼんやりと眺めていた。
──あの宴のことが、夢だったような気さえする。
サディアスが、あれほどはっきりと『自分にとって最も大切な女性』と言ってくれたこと。
ジュリアナ王女の前で毅然と立ち、自分を庇ってくれたあの姿。
まるで『物語』が少しずつ塗り替えられているようで、現実味がない。
(でも……あれは確かに、私に向けて言ってくれた言葉だった)
胸元の宝石に触れる。
あの夜、そっと握られた手のぬくもりが、まだ残っている気がした。
「……王妃が、星輝石のことを狙っているのは、予想していました」
静かに告げられた声に、オリアナははっと我に返る。
「え……?」
サディアスは窓の外を見たまま、落ち着いた口調で続けた。
「鉱山事業に、王家が急に割り込んできたのは……そういうことです。大粒の星輝石が存在すると気づかれたのだと」
「それで……結婚も、急いだのですね」
「ええ。王家の命令で、すぐにと。本来ならば、もっと準備を整えてから迎えるべきだったのですが……残念でした」
その言葉に、オリアナの目が見開かれた。
(……えっ?)
思い返す。結婚式で、彼は確かに『残念です』と言っていた。
てっきり、自分のような妾腹の王女を迎える羽目になったことを指していると思っていたのに──
「その、『残念』って……準備のことだったのですか?」
ぽつりと尋ねると、サディアスはわずかに目を瞬かせた後、頷いた。
「はい。部屋の改装も半ばでしたし……場所も衣装も、何もかもが……」
ぽつん、と、胸の奥に小石を落とされたような感覚が走る。
「…………」
オリアナは思わず顔を覆った。
その仕草を不思議そうに見つめるサディアスの視線に、ただただ顔を伏せるしかなかった。
(この人……本当に、不器用すぎる……!)
頬の熱が引かないまま、けれど同時に心のどこかが、じんわりと温かく満たされていた。
そしてふと、気になっていた疑問が口をついて出る。
「……あの、ひとつお伺いしてもよろしいですか?」
「もちろんです」
サディアスがまっすぐに向き直る。
その誠実な態度に、かえって胸が詰まりそうになる。
「そんなに貴重なものを……嫁いだばかりの妾腹の王女に渡すなんて。まさか、王妃の……いえ、王家の側の人間かもしれない、とはお思いにならなかったのですか?」
ほんの少しだけ声音が震える。だが、それは自分自身への問いでもあった。
サディアスは一瞬きょとんとしたあと、首を小さく横に振った。
「いいえ。……思いませんでした」
「なぜ、そんなにあっさりと……?」
「あっさり……ですか?」
サディアスはわずかに首を傾げたあと、真面目な顔で続けた。
「オリアナ姫は……私が誰からも相手にされなかった頃、たった一人だけ声をかけてくださった方です。ですから、疑う理由がありませんでした」
「……えっ?」
「醜く、誰もが触れようとしなかった私に、あなただけが……。だから、私はあなたを信じると決めたのです」
「……」
オリアナは呆然とサディアスを見つめた。
(そんな、たったそれだけのことで……? でも──それだけのことすら、彼にとっては奇跡のような出来事だったのかもしれない)
胸が締め付けられるようだった。
「……それだけの理由で、私を信じてくださったのですか?」
思わずそう尋ねると、サディアスは少しだけ困ったように眉を下げた。
「はい。それが私のすべてです」
その真摯な眼差しに、胸の奥が熱くなる。
この人は本当に、ただまっすぐなのだと思った。
沈黙が、けれど心地よく流れた。
馬車の揺れは穏やかで、ふたりの間に流れる空気も、どこか柔らかい。
──信じている、と言ってくれた。
その言葉が胸に残るまま、けれどオリアナはふと、もうひとつだけ引っかかっていたことを思い出す。
「……あの、サディアスさま」
「はい」
少しだけ躊躇してから、思い切って口を開いた。
「いえ……ほんの些細なことなのですけれど」
「どうぞ、どのようなことでも」
真面目な顔で向き直られてしまい、ますます言い出しにくくなる。けれど、今のこの空気だからこそ話せる気もした。
「結婚して、ずいぶん経ちましたのに……あなた、まだ『オリアナ姫』とお呼びになりますよね」
その一言に、サディアスが一瞬固まる。
「……はい」
「『姫』では、なんだか他人行儀というか……距離を感じますわ。だから……その、できれば『オリアナ』と、呼んでいただけたら、嬉しいです」
そう言ってしまってから、胸がどきどきしはじめた。けれど、サディアスはじっとオリアナを見つめ──やがて、静かに口を開いた。
「……では、これからは『オリアナ』とお呼びします」
その声音はどこかぎこちなく、それでも確かに優しかった。
顔が熱くなるのを感じつつ、オリアナも言葉を返す。
「では、私も……『サディアス』とお呼びしても、よろしいでしょうか?」
その問いかけに、彼はわずかに目を見開き、けれどすぐに微笑んだ。
「……はい。とても光栄です、オリアナ」
名前を呼ばれただけなのに、胸が跳ねた。
けれどその響きは、たまらなく嬉しくて──思わず、オリアナもそっと微笑みを返す。
名を呼び合ったことで、二人の距離がほんの少し近づいた気がしていた。
……のだが。
「……っ!?」
馬車が突然、大きく揺れた。
「きゃっ!」
思わず体勢を崩したオリアナは、そのままサディアスの方へ倒れ込んでしまう。顔が近い、いや、というか密着している。
「……オ、オリアナ、大丈夫ですか?」
彼の声はいつもの通り冷静……に聞こえるが、耳が、真っ赤だった。
「あ……はい、すみません! あの、ちょっとびっくりして……!」
密着したまま、体を起こすことも忘れていた。
心臓の鼓動が、ありえないほど早くなっているのが自分でもわかる。
サディアスの胸の中は驚くほど広く、硬く、そして――温かい。
(な、なにこれ……近すぎて息が……)
どうにか体を起こそうと手をついた瞬間、彼の胸に触れてしまい、指先に伝わる鼓動にオリアナの全身がびくりと震える。
彼の胸に触れた指先から、じわりと熱が伝わってきて──まるで、心の奥を直接揺さぶられたようだった。
「す、すみません……!」
あわてて身を引こうとすると、彼の腕がわずかに動き、彼女を庇うように支えた。
目が合う。瞬間、オリアナの喉が鳴った。
その瞳は、まっすぐで優しくて──けれど、どこか怯えているようにも見えた。
「……申し訳ありません。私などが触れてしまって、不快ではありませんか?」
静かにそう言ったサディアスの声に、オリアナは目を瞬いた。
「え?」
「……こうして触れるたび、ふと思ってしまうのです。昔のままの、醜い自分が、まだどこかに残っているような気がして」
その言葉に、オリアナはしばし絶句した。
まさかと思って見つめると、彼はあの宴の夜にジュリアナが放った『冴えない豚』という言葉を、本当に今も引きずっているようだった。
オリアナはつい、呆れたように息を吐く。
「サディアス、それはもうやめてくださいませ。今のあなたは、世の令嬢たちが集団で失神しそうなほどの、眩い美青年です」
サディアスがぽかんと目を見開いた。
「……私が?」
「ええ、あなたです。ご自分がどれほど魅力的か、そろそろ少しは自覚なさっては?」
「……初めて言われました」
少ししてから、ふっと目を伏せて続ける。
「だから……戸惑っているのかもしれません」
「本当に、わかってなかったんですね……」
オリアナが思わず肩をすくめると、サディアスは困ったように、けれどどこか嬉しそうに口元をほぐした。
馬車の中に再び静けさが戻る。けれど、その静けさは心地よいものだった。
サディアスはそっと手を差し出し、もう一度、オリアナの指を取る。
その手は、ほんの少しだけ震えていたけれど、確かにオリアナの手を包んでいた。
そして、数日後。再び見慣れた石造りの門が、彼らの前に姿を現す──




