川辺の紫、貴方は絵画のレタッチを
美しい海辺のサンゴ礁。キラキラと輝く夏の余韻。そんな、美しい光景よりも、私は鉄製の橋に落ちていく夕陽と、インディゴブルーに染まる夕空が、交じり紫に色相を変える瞬間が好きだった。
カメラを持って、一瞬と呼ぶには少し長い時間を、レンズに収める。パシャリという音がとても好きで、一枚だけ撮ったら、後はカフェオレと甘いドーナツを、近隣の喫茶店で頂くだけ。後は終わる夏に恋をする夜と一緒に、数冊の本を読みながら、眠れる時が来るのを待つ。
情熱とは程遠いけど、この静けさが漂う人生がとても好きだった。
ある日は一匹の黒猫を追いかけたことがある。その子は、なんだかとても不機嫌そうな顔をして、でも嬉しそうに尻尾を揺らしながら、私に着いて来いと言うようだった。
何か冒険が始まるみたいなワクワク感と小さな羊を抱いたような…幼き憧憬を彷彿とさせる。夕焼け空に透かして見た、水風船の中の水が、絵具みたいに奇麗だと気付いた、あの時みたいに…。
黒猫は、緑の茂みの中に逃げ込んで、プイッと顔を逸らして、少し意地悪にも私から逃げてしまったけど。青空に、ゆったりと浮かんでいた入道雲と、暑さの中で買ったラムネ瓶の、冷たいカラカラとした音が心地好くて、素敵な日だったと想えた。
そして…今日もまた、あのバイオレットに沈む空を写真に残すため、私は夕風が涼しい橋の下まで来ていた。家の近くにある、この場所へ今まで何度訪れたことだろう。
だから先客が居たことに、驚きといつもと違う事への喜びを感じ、私は思わず彼に話しかけていた。ぼんやりと川を見つめ、黒いコートを風にはためかせている青年だった。
「何をしているの?」
「…?」
薄い光彩の瞳が私を捉え、微かに睨むように細められる。
「何か、俺に用か?」
「ううん。ただ、何をしているのかなって。」
白いレースのスカートが風に揺れ、強めの風に思わず髪を抑えた。遠くへ棚引く淡いピンクの雲が、優しい夕焼けに流れていく。美しい光景を、写真に撮りたくなったけど、我慢して目の前の彼に視線を向け続ける。
「…ああ、絵を描きに来たんだ…でも、面倒になってしまって。」
「そうなの?」
「自分の部屋に籠って…デジタル絵を描いてる方が…ずっと楽だ…。」
少し長めの黒髪が風に揺れ、青年の首元を擽った。嫌そうに顔を顰めて、首元に手をやる仕草が、なんだかあの黒猫と重なって見える。
「私は写真を撮りに来たんだけど…貴方を撮っても良い?」
「えっ?」
瞳が見開かれて、すぐに嫌悪したような表情を取る。立ち上がると、彼は腕を組んで私を見下ろしながら、絶対に嫌だと口にした。
「そう…別に良いけど。いつか撮らせて欲しいな。」
「はぁ?俺は、写真嫌いなんだ。嫌だ。」
私は写真を撮るのが好きだから、鮮やかなグレーに絡まった鉄塔と鈍色に光る橋、ずんと炎は燃え盛る、夕空を覆った温度の高い色彩。私じゃ、表現できない質量感を持つ、その青年が空を仰ぐ瞬間を被写体として、収めたいと想ったのだけど…。
「またね。」
「へ…?あ…ちょっと…おい…?」
私は、慌てたように目を開く青年を置いて、立ち去った。今日の写真は…カフェで食べる予定のフィナンシェで良いかな…なんて考えながら…。
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「また会ったな。」
「うん。でも今日はいいや、それよりこの白猫さんを撮りたいし。」
「…。意味が分からん。」
気持ちよさそうに、河川敷の小石に敷かれた、柔らかな草と花の上で眠る、真っ白な毛皮の白猫さんを、川の音色をBGMにパシャリと一枚の写真にする。
「スマホじゃなくて…カメラで撮るのか?」
「うん。特に理由はないよ、こっちの方が素敵に感じただけ。」
「…そうか。」
青年が私が座っている隣に腰掛けて、スケッチブックを取り出す。今日も黒いコートを羽織って、中は黒シャツ黒ズボン。本当に、あの黒猫みたいだと思う。
「絵を描くの?」
「ああ…まあ…猫なら描けるだろ。」
「…?」
真っ白なスケッチブックに、鉛筆と黒色のボールペンを使って、猫の輪郭とは思えない線を描いていく。驚いて、彼の手が動く一瞬一瞬を観察していたら、見るなと怒られた。
「気が散るだろ。」
「うん、でも凄いなって。」
「はっ…当たり前だろ。俺の描き方は…多分他と違うからな…。」
最初は自信気に、片方の眉を吊り上げて、少し馬鹿にしたような声を上げたのに、段々寂し気な顔になっていく…。出来上がっていくにつれ、絵は猫を中心にどんどん、世界を広げていく。
まるでどれを主人公にするのか、躊躇っているような構図になった。
「うーん…物語的だね。」
「は?」
「本当は、この一匹の猫じゃなくて、この絵の世界を中心にしたいんじゃない?」
「…いや別に、そこまで考えて描いてない。」
「でも、この絵の猫ちゃんは、この世界の道に沿って、お散歩したそうだよ?」
描かれた曲線と、見つめるふわふわの猫…その先には、魔法で彩られた宝石の世界。その場所に飛び込みたそうに、白猫はうずうずとしている。
「この猫が、寝てんのが悪い。」
「どうゆうこと?」
すやすやと夢の国に居る白猫を指さし、彼がぶっきらぼうにそう言うが、意味がよく分からなくて、私が首を傾げると、心底居づらそうに黙りこくった。
「でも…この絵自体は好きだよ。貴方は奇麗な…輝いてるものが好きなんだね。」
「…誰だってそうだろ。」
わざわざ、汚い泥濘を描きたがる人間なんか居ないと、吐き捨てるが、そんなことも無いだろうにと、私は困りながらも微笑んだのだった。
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「今日はスケッチブックじゃないんだ。」
「まあ…たまには?」
既に、此処から見える風景を描いてるのであろう、絵画が途中まで仕上がってる。
「思ったけど…貴方は、貴方自身の目で見たままには書かないんだね。」
「ん?これは俺が見た世界…そのままだぞ。」
まあ多少の脚色は在るが、と言って色付けをしている…その色は、色彩が混在していて、単なる夕焼け空ではない。スペクトルの光散乱に偏ったかと思えば、世界全体の次元すら歪み、中心に沿って竜巻を起こしたような抽象画だ。
「立体的だよね…。」
「写真とは違うんだよ。此処でだけ、俺は俺が見たものを、そのまま描ける。」
「…。そっか。」
小鳥が潺、冷たい湿度の中、灰に朽ちる烏達が飛び去る一瞬、写真が日付と時間とフレームを焼き付けるのと同じ。自分が心をぐしゃぐしゃにされた、バラバラの時計をかき集めるような作業なのだろう。絵描きとは不思議だなと…撮影された鳥の群れを見ながら考えた。
「アーティストなんだね。」
「え…いや。普通の会社員…だから…。」
「私も、写真が好きなだけの、カフェバイトだよ?」
「えぇ…。」
小説を書いたり、写真を撮ったり、好きなことがしたかった。大学で学んだ分野で、オンラインの派遣業務に就いたり、カフェのバイト…今は猫ちゃんのカフェだけど。色々、楽しくお仕事を変えてみてる。
「俺とは違うじゃん。」
「そうなの?どんなお仕事してるの?」
「え…技術系…。別に、絵とか関係ないし…。」
「それでも良いんじゃない?だって、お仕事だもん。」
困ったように彼の瞳が、ちらりと私を見る。そう言われてしまったら、もう返せないよと言われてるみたいで、二人して困り顔で見つめ合ってしまった。
「やっぱり今度撮らせて欲しいよ。絵を描いてる所で良いから。」
「別に…良いけどさ。」
この青年は、多分色んな感情を呑み込んで、この橋の下まで来たんだろう。そう考えたら、少しだけ出会えたことに、喜びを感じた。
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「わっ!」
「こんなところで会うとはな。」
子ども向けの図書館で本を借りていたら、本棚の角からぬっと黒い影が現れてびっくりした。いつも通り、黒シャツ黒ズボンだけど、コートは着ていなくて、代わりにネクタイを締め、襟足も髪ゴムで括っている。
「お仕事中なの?」
「まあ…今は貸出に関係するシステムの部署だから。」
「いつもと違う雰囲気。」
「俺だって、仕事の時ぐらいはちゃんとする。」
苦笑交じりの笑顔を浮かべていたのに、直ぐに仏頂面になってしまう。やっぱり黒猫なのかもしれないと思っていたら、私が手にしている本を奪われた。
「ふーん…子供向けじゃん。これとか絵本だし。」
「返して欲しいかもしれない…。」
「別に良いんじゃないの?大人のグロいドロドロした小説読むより。」
「えぇ…。」
そう言う彼は、どんな小説を読むのだろうとちょっと気になったが。仕事を邪魔するのも良くないだろうと、その場を後にした。
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「ふぅ…。」
カフェで抹茶のドリンクと、抹茶のチーズケーキを頼む。抹茶尽くしの世界で、森に迷い込む小さな女の子の絵本を読みながら、溜息をついた。
「不思議な人だな…。」
情緒不安定で機嫌の悪い青年だと思ったら、仕事とは真面目に取り組んでいて…。絵は誰にも描けない、物語性を反映した抽象画。写真を撮られるのは嫌がるけど、一緒に居る分には構わない…というか、寧ろ嬉しそうな感じもする。
「よく分かんないけど。お友達になれたら嬉しいな。」
人との交流は広くないし、狭く深くもない。ただゆったりとした、日常の中で、少しの楽しみとして、学生時代の友人と出会うだけ。
「このケーキ美味しい…。」
少しだけ、現実的な思考をしてみたけれど。すぐに抹茶の美味しさと、絵本の中に居る少女が出会った洋館でワルツを踊る、男女のオルゴールに気持ちが向いて、そこから小説が生まれ…。
「今日の写真は、美味しい抹茶ケーキだね。」
淡い水色のカメラを取り出すと、私はケーキと絵本を並べて、写真を撮ったのだった。
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「…今日も来たのか。」
「私は、ほぼ毎日来るから…雨とか降ったら行かないけど。」
「普通に危ないからやめとけ。」
珍しく仕事の格好のまま来たらしい。ただ、かなり着崩してるせいで、学校帰りの学生みたいに見えた。
「ねえ、制服とかちゃんと着ないタイプ?」
「急になんだ…。まあ、確かに奇麗に着るとか…面倒だったけど。」
やっぱりそうなんだ…と思いながら。青年の隣に座って、キラキラと輝く川を見つめる。
「あ、貴方ってどんな小説読むの?」
「今日は急だな…基本的に特定の作家…太宰とか、そう言うの読むことが多い。」
太宰治…人間失格や斜陽といった、題名が思い浮かぶ。走れメロスもそうだっけ?全体的に暗いテーマが多い気がした。
「暗いんだね。」
「うるせぇ…悪いかよ。」
そっぽを向かれてしまうが、夕陽の橙に照らされて、その嫌そうに眉根を顰めた顔も、何だか一つ芸術作品みたいに想える気がした。
「あ…そのまま。」
「んぇ?」
彼が表情を変えて、私の方を振り向く前に、パシャっと写真を撮る。
「ちょ…おい!」
「もう何枚か撮らせてくれても良いんだよ?」
そう言うと、うっと息を詰めて、青年はスケッチブックを抱きしめたまま、私を見る。
「別に良いけど…いや…やっぱりダメ。」
「そうなの?」
どうしてそんなに嫌がるのか…分からない。そう思いつつも、立ち上がった。
「またね。」
「え…ああ…。」
彼は座ったまま頷く。その場を立ち去りながら、私は涼風の心地良さに目を細めたのだった。
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「…。」
夜の静かな時間にはココアを一杯飲む。甘さの中にある、ほんの少しの懐かしさが、心を癒してくれるから。
「ふぅ…。」
カタカタとキーボードを打ち、小説の執筆を進める。私の物語はいつも、仄かな世界観と微かな希望を籠めるけど。やっぱり少し物足りない。
「心情描写は苦手だからね…。」
小さな物語には、大きな展開はなく、淡々と情景だけが移り変わっていく…。それを私は愛しているし、その物語に出てくる動物達はみんな私の宝物だ。
「でも…君が足りないんだ。」
真っ黒な姿で、カラスのように私の心へ降り立った青年を想い出す。出会って僅かでも、確かに彼の表現する人生凡てを掛けた、物語に惹かれている。
「…ちょっと休憩しようかな。」
柔らかなランプの灯り、透明なガラスからこぼれる星の光。ブランケットの暖かさと、パソコンの画面に書き記された日本語の文字列。あの川辺から帰る途中、ケーキ屋さんで購入したクッキーをサクサクと食べる。
「美味しい…。」
穏やかな時間に包まれて、私は緩やかな睡魔に導かれる。ゆったりとした、午後十一時の就寝を受け入れ、ベッドへ入ったのだった。
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「描いても良いか?」
「え?何を…?」
「…いや…あの別に…嫌なら良い。」
カメラの中に映りこんだ青年の赤面した顔を見る。夕陽とのコントラストが際立って、水辺に咲く小さな、秋の花々も楽しそうに揺れていた。
「普通にしてれば…俺が勝手にする。」
「そうなの?」
スケッチブックではなく、黒色のイーゼルと真っ白なキャンバス。それに、使い古された様子の絵具箱から、夥しい量の色彩を持った、絵具がパレットに絞り出されていく。
「…写真撮ってろよ…別に静止してろとは言わん。」
「分かった。」
カメラを空を切り裂くように飛び交う、鳥達へと向ける。二羽のモノクロな名前も分からない鳥が空から落ちるように、絡まっても連れて、やがて軌道を整えた瞬間を写真にする。
「楽しみにしてるね。」
「…うるせぇ。」
その声に微かに笑いながらも、私は何となく…今この瞬間を覚えておきたくて、一枚と言わずに何枚かの写真を、撮って残したのだった。
「描けた…。」
少しためらったような表情を浮かべ、青年が口ごもる。
「うん、見てもいい?」
「良いけど…人間は上手く描けないんだ…。」
そう言いつつも、彼が色鮮やかに描き上げた、一枚の絵画を見せてくれた。中央で空にレンズを向けている少女を中心として、光が屈折を重ねて…鳥達が都会の風景に焼き焦がされていく。
「うーん…鳥が好き?」
「…ああいう風に、自由になれたらと思う。」
「人は…?」
「あまり描きたい対象ではない…美しさがないからな。」
それでも、私を描いてくれたことに、少しの嬉しさを感じる。籠の中に居るだけで、飛び立てない鳥よりも、自由に空を滑空する姿が好きであることに、同色に染まった感覚を見つける。
「どう思うんだ?この絵を見て。」
「やっぱり細部まで、物語が描かれてるように感じる。」
「…ふーん。」
視線を逸らすと、青年が自らの首に手をやって、気恥ずかしそうな顔をする。照れているのだろうか…?よく分からないけれど。
「私は大好き…もっと貴方の色んな絵が見たい。」
「…そっか。」
優しげな表情を浮かべ、彼が私から絵を受け取る。そう言えば、大切なことを忘れてた、小説の主人公にはこれが必要だから。あの黒猫には聞けなかったけれど…。
「貴方の名前…教えて欲しい。」
「えっ…。」
まだ言ってなかったっけ?と首を傾げる。知らないことが沢山ある。この人生と言う名の物語で、貴方は私にとっての主人公になる気がするから…。
「俺の名前は…。」
「そっか。」
紫の花のように…世界が少しずつ染まっていく。可憐にも重圧にも感じる、その輝く名前に私は静かに微笑を浮かべたのだった。




