シロクマと白色矮星
流氷に立ち、イディオムを込め、空を見上げたシロクマが一つ吠え声を上げました。
南天を墨で染めた、鋭角な瞳。真っ白な毛皮はアルプスを見下ろす、月浴の天ノ川を思い起こさせる、高貴な美。肥沃な氷に立てる爪は象牙の硬さを誇る。非常に見目の良いシロクマでした。
シロクマは、もう一つ吠え声をあげました。辺りは曇り空。バケツを絵の具で塗りたくり、カイロに住む老人を引っ張り出したような。そんな、ほの暗い空でした。
氷は流され、しかし景色は変わらず。時折流れていくシロクマをじっと見ている皇帝ペンギン以外には、他に何もない寂しい場所でした。
シロクマが、吠えました。風光明媚な景色などいざ知らず。最早、特筆すべきことはひとつも無くなりました。ただ、永遠のクリークに金平糖で着飾った幽霊達が蔓延る大気圏。北緯零度で、低迷を期す落日の心象風景でありました。
シロクマが、吠え始めてから数年が経ちました。玲瓏に消えゆく、淡々とした陽炎。花に降る映画が、ノクターンを呼称するよりも長い。閑静な時が過ぎたのです。
そして、ある日シロクマは、吠えることを止め、その場に倒れ伏しました。人間から見て、シロクマの年齢など分からないものですが、恐らく彼は幾許か黄泉の匂いを嗅ぎつけていたのでしょう。シロクマは、疲れたように息を吐きました。皇帝ペンギンは、それをじっと見つめます。やがて、ペンギンは静かに海の中へと潜り、魚を取り始めました。
シロクマは、吠えました。倒れ伏したまま。曇り空で隠れて見えませんが、夜空に輝く白色矮星に向かって、小さな吠え声をあげました。彼らは、特別な友情で繋がっており、シロクマは大切な友に別れを告げようと、吠え声をあげたのです。雲の向こうで白色矮星が強く瞬き始めました。
シロクマはもう吠えませんでした。流氷が彼を海水の深くへと送り出し、何れ堆積していく塵の欠片となる。ただ、それだけを待つ屍は、冷たい氷の上でその体を横たえていました。
「ああ、もう死んでしまったんだね。」
シロクマの吠え声が止まってから数時間。彼は、まるで元からそこにいたかのように現れました。
「僕がもう少し早く君の声に気づいていれば!もっと、早く君の元へ行けたならば...。」
そう、彼はあの白色矮星でした。輝く身体で懸命に宇宙を渡り、友の死の前に駆けつけようと全力でここまで来たのです。蠍座に毒を打たれ、双子座にからかわれ、乙女座から慈悲を貰い、必死でここまでたどり着いたのです。それでも、彼は友の死に間に合わなかったことを深く悔やんでいました。
「君は孤独で、友達が欲しかった。だから、何年も吠え声をあげたんだ。誰かから返事が来るまで。でも、応えたのは遥か遠くに住む白色矮星の僕だけだった。」
白色矮星は、涙を流しながらシロクマに抱きつきました。
「僕がもっと君の近くで、君の孤独を埋めてあげられたならば!でも、僕に出来たのは時折モールス信号を送ることぐらいだったさ。僕がしょっちゅう北極に降り立っていたら氷が全て溶けてしまうからね。」
閉じられた瞳に口付け、彼は愛おしそうにシロクマの頭を撫でました。
「本当は僕の住んでるところに君を連れて行ってあげたいんだ。でも、それは出来ない。君は、この海の底の冷たいとこに帰らなくちゃいけないんだ。それに、僕も...。」
白色矮星は、すっと立ち上がると美しい親友に向けて一例し、肩に羽織っていた薄いベールをシロクマに掛けてあげました。
そして、十分間。水中花をあしらわれた宵の明星が沈むまでの間、そのベールがシロクマを包んでいくのを見守っていました。
「それじゃあね。」
白色矮星は、惜しむようにベールの隙間から僅かに見えるシロクマの白銀の毛皮を撫でていましたが、やがて夜空の遥か十万光年先まで帰って行ったのでした。
シロクマは輝くベールに包まれ、ゆっくりと、流氷に乗って海を進みます。それを、魚採りから戻った皇帝ペンギンがじっと見つめた時でした。曇天が晴れ、オーロラが流れ、星々は囁き、それはシロクマへ祝福を灯す天啓の如く。美しき情景など見ることが叶わないと思われた北極でサイレンを瞬かせたのでありました。
シロクマは、もう嘶事も吠える事も、鼻を鳴らす事もありません。
しかし、流氷に乗り磁場を駆け巡る極光を受け、大切な友人からの贈り物を受け取った彼は、いつか海底に沈みゆく日に向けて、眠りに落ちていったのでした。
おしまい