同じ意味の言葉を間違えて繰り返して使う奴で言うとこれは始まりのオープニング
――目の前にサッカーボールが落ちてきた。
っと、思ったんだ。だって、非日常的すぎる。
サッカーボールだと思い込むしかないだろ。
そう思いたかったよ俺だって。
今からでもそうであってくれと鬼のように天に頼んでる。
俺は工場整備点検会社に勤めている29歳の男性社員。
彼女もいなけりゃ彼氏もいない。
どちらも募集中って言うと決まって周りは俺のことをゲイだとか抱いてやろうかと馬鹿にするが、自由恋愛のこのご時世にまだまだ差別的な思考をお持ちの方が大勢いらっしゃるようだ。
そもそも俺はバイセクシャルというよりはノンセクシャル。
パートナーができたって体の関係を持ちたいとは思えない。
ただ、俺の傍に寄り添ってくれて、一緒に愉快にお話ができればそれでいい。
そんな俺は今帰宅中の身。
今日の仕事は本日の稼働が終わった食品工場の設備点検。
それを夕方から深夜にかけてしてきたところだ。
帰ったら家で冷えてるビールでも開けて、お供に工場で貰ってきた一口チキンをつまみを食べようかとウキウキして帰っていた。
俺の右足の義足もキシキシと音を立てて喜んでいる。
だが、いつも通っている道が今日は封鎖されていた。
理由は最近噂の殺人鬼。
こんな夜遅くに警備ロボがうようよと、目の前の事件現場で証拠を集めている。
通りすがりの俺の全身も、ついでと言わんばかりにスキャンして去っていく。
職質されるよりは時間を取られずに便利だが、知らないところで俺の身体データが隈なく調べられるかと思うと相変わらず気持ちがいいもんではない。
せっかく盛り上がっていたテンションを少し落としながら、俺は短い緑色の頭髪が生えている首の後ろ辺りを掻いた。
それでさて、なるべく近道をして帰るかと、合成食品の匂いが充満する人気の無い路地裏を通ったのが運の尽きだった。
俺は辺りを漂ううまそうな匂いに腹を空かせ、思わず手持ちの袋に入っていたチキンを一つまみしてしまった。
へぇ、命の危険味っていうからにはどんだけまずいのかって思っていたら、塩辛いだけで意外と食えるな。
なんて思っていたら、目の前でゴトッと鈍い音がした。
黒くて丸い物体が落ちてきたんだ。
サッカーボール、にしては凹凸が激しくて、肌色も混じっていて、赤い液体が滴っていて、なんか人間によく似た表情を浮かべていて。
それで、今に至る。
俺は手持ちのチキンの味以上に今の状況に命の危険を感じている。
なんで人の生首が落ちてきた?
落ちてきたってことは、上にはこの生首の本体がある。
そして、この生首を落とした犯人もいる。
おいおい、嘘だろ。嘘だと言ってくれ。
このまま上を見ずに何事も無かったかのように通り過ぎたら、上の人は気を立てることなく俺を見逃してはくれませんか?
くれませんよね。
そもそも、俺がここにいることも気づいていないかもしれない。
このまま音を立てずに突っ立っていたら、気づかずにどっかに行ってくれるかもしれない。
俺はそんな風に思考を回転させながら、音を立てないように上を見上げた。
見上げてしまった。
月も星明りも無い真っ暗な空の下、建物の光に下から照らされて、低い屋根の上にいる男の影が見えた。
手には切れ味の良さそうな血濡れたナイフ。
真っ白なジャケットに首元どころか鼻先まで隠れる大きな立った襟。
側面を刈り上げて上は長めに流している髪型。
無気力な目。
その、無気力な目と目が合った。
やっちまった。
犯人の身体的特徴を確認してしまった。
全力でスルーするのが正解だったかはさておき、俺は不正解を踏み抜いてしまったようだ。
しばらく、俺と殺人鬼の間には沈黙の時間が流れる。
殺人鬼はおもむろにジャケットのチャックを首の所まで下ろし、俺に口元が見えるようにした。
声も発さずに口をゆっくりと言葉の形に動かしている。
なるほど、死にたくなければ俺に読唇術をしろってわけだな。
任せろ、スパイ映画に憧れて覚えたんだ。まさかこれで命が救われる日が来るとはな。
えーと、何々、『に・げ・た・ら・む・ご・く・こ・ろ・す』、逃げたら惨く殺すか。了解。逃走はアウト。次は?
『に・げ・な・か・っ・た・ら・ざ・ん・こ・く・に・こ・ろ・す』、か。
どっちもアウトじゃないか。
俺が来た道を戻って警備ロボの所まで逃げようと振り返った直後、視界が急速に上昇していく。
それと同時に浮遊感。
俺は下に飛び降りた殺人鬼に持ち上げられて、そのまま直で屋根の上に飛ばれた。
殺人鬼は俺を屋根の上に転がすと、ご自慢のナイフを構えて無表情で俺に歩み寄ってくる。
おいおい、楽しくないんだったらさっさとやれよ。
それとも鬼ごっこをご所望ってか?
いつでも殺せるような身体能力している癖に、この俺が勝てるわけないだろ。
それでも俺は走り出した。
屋根の上を飛んで、次の建物の屋根まで。
この殺人鬼ほどじゃないが身体能力は高い方だ。
俺は振り向くことなく一心不乱に建物の上を駆ける。
足音が迫る。
俺のすぐ後ろにいる。
ぴったりとくっついていて離れない離せない。
俺の右足の義足が何度も何度も軋んだ音を立てる。
この日のために飛行機能とかのオプションでもつけておくべきだったか?
生き残れたら考えておこう。
とにかく今は少しでもコイツのお楽しみ時間を盛り上げてやって、時間を稼ぎながら少しでも人通りのある所まで行くのが先決だ。
頼むよ。飽きないでくれ。飽きないでくれ。
逃げ回る俺の視線の先に、大型広告看板の張り替え業務用の糊が放置してあるのが見えた。
これなら足止めに使えるんじゃないか?
後ろのアイツとの距離にもよるが、糊を倒して足を取らせる。
よし、この作戦で行こう。
俺は糊が入ったバケツを手に取ると、次の建物に飛び移る瞬間に自分の足元に糊を撒いた。
正直、こんな子供騙しが通用する相手とも思えないが、とにかくやれることをやらないと生き残ることは出来ない。
フッと、俺の後ろの足音が途絶えた。
俺は勢いを殺せずにそのまま五メートル走ったところで立ち止まる。
おいおい、マジかよ。やったのか?こんな程度の悪あがきで。
とも思ったが、今の俺の行動はホラー映画の鉄板、『逃げ切ったと思って調子に乗って足を止めたら死ぬ奴』のそのままの行動をしている。
正直足を止めたことを後悔している。
次の瞬間には俺の首は宙を舞い、体とはおさらばしているだろう。
しかし、いつまでもその時はやってこない。
俺の首はいつまでも体と仲よくしている。
俺は息苦しくて張り裂けそうな胸を落ち着かせながら、振り返って一歩一歩ゆっくりと引き返す。
このまま逃げてもいいんだが、見えない敵に一生怯えて暮らすことになるのも嫌だ。
せめて警察に突き出しておきたい。
俺が糊を撒いたところには綺麗にスニーカーが一つくっついていた。
殺人鬼の姿はない。
あ、今度こそ死んだな。と思ったが、よく見ると糊が撒いてある一メートル下、建物の側面に血が付着している。
俺はまさかと思って建物の上から地面を見下ろした。
殺人鬼はそこにいた。
殺人鬼は俺が撒いた糊に片足を取られて、そのまま次の建物に飛ぼうとした勢いで自分の足を軸にして身体が縦に半回転。
身体能力の高さが裏目に出たのか凄まじい勢いだったんだろう。
靴が脱げて足元の建物の壁に勢いよく頭を打ち付け落下。
地面に激突して死亡。
俺の推理通りかはわからないが、大方この通りだ。
あれは身代わりで実は生きているって線もある。
油断はならない。
そういうスプラッター映画は大量に見てきたんだ。
俺は近くの非常用階段を使って下まで降りた。
そして、殺人鬼の傍まで行ってソイツの生死を確認する。
頭から血を流してはいるが呼吸をしている。
瞳孔も開いていない。
生きている。ただ、気を失ってはいるみたいだが。
巷で噂の殺人鬼も、最後は俺みたいな一般市民の手によってあっけなく御用か。
俺はそんなことを想いながら、カスタムホンを使って警察を呼ぼうと番号を入力し始めた。
だが、通話開始のボタンを押す前で指が止まった。
ふと、要らぬ考えがよぎってしまった。
コイツを警察に突き出したところで、確実にコイツが逃げ出さない保証はどこにある?
何かと物騒なこのご時世、脱獄だの賄賂を使って釈放だのの行為が当たり前に起きている。
逃げだしたらどうする?
自分をこんなふざけた形で捕まえた奴のことが憎いだろうさ。
仕返しに来るんじゃないか?
俺の手は勝手にカスタムホンの電源を切った。
じゃあどうする?
コイツを何食わぬ顔で病院に連れていくか?
いやいや、公的機関を通したら何らかの形でコイツの罪が発覚する可能性がある。
逆恨みされたらたまったもんじゃない。
じゃあ放置か?
いやいや、それこそ翌日この現場を見た人々に通報されてコイツは刑務所行きだ。
脱獄だ。俺が殺される。
俺は悩んだ。自分の保身のために悩み漁った。散々悩み漁った。
散々悩んだ挙句、俺は殺人鬼を背負い、自宅へと向かった。
何をやっているんだって、一番俺が思っている。
深夜というだけあって、人通りの無い場所を通って帰るのは楽だったが、それ以前の問題だ。
俺は殺人鬼をお持ち帰りした。
監視カメラも無いオンボロアパートの三階、三〇五号室。
俺は部屋に入るとすぐに鍵を閉めて殺人鬼をソファに寝かせ、適当に毛布やらガムテープやらでぐるぐる巻きにした。
日頃片付けているとこんな時にすぐに物が見つかって助かる。
こんな時はもう二度と訪れないでほしいが。
殺人鬼を頑丈に縛り上げると一息ついて、俺はこの男をよくよく観察してみた。
目元には改造インプラントがいくつか取り付けられている。
形状からは何のインプラントかはわからない。
知りたくもない。
それ以外の見た目は普通の男だ。
身長は百八十くらいか、俺と同じだ。
体重はかなり重めだったな。
目元の改造インプラントの件もあるし身体能力もかなり高いし、人体改造を飽きなく好んでやっているのかもしれない。
じんわりとソファの殺人鬼の頭付近が赤く滲む。
まだ出血が止まってないのか。
俺はガーゼや包帯を持ってくると、適当に応急処置をしておいた。
できればこのまま死んでほしい。
だけど何もせずに死なせるだとか、俺がトドメを刺すのは嫌だ。
気分が悪い。
頼む、死んでくれ。そしたら心置きなく通報できる。
俺はようやく落ち着くと、キッチンにチキンの入った袋を置き、風呂を沸かすボタンを押して、自室へ行くと疲れた体をベッドに倒した。
さっきまでの疲れがドッと押し寄せてくる。
このまま眠ってしまいそうだ。少しくらいいいか。
殺人鬼はきっつきつに縛り上げている。俺は平気。殺されない。
俺は目を閉じるとそのまま眠りの世界へと落ちていった。
まだ辺りが薄暗い時間帯。
俺はゆっくりと目が覚めた。
かけていた布団をどけて、背伸びをする。
今日は昼からの業務だ。
まだゆっくり寝ていてもいいが、昨日キッチンにつまみ用のチキンを置きっぱなしだ。
それを朝飯代わりに食べよう。
俺は適当にパジャマを脱ぎながら私服を選ぶ。
ああ、いつものパーカーでいいな。楽だし。
俺はパーカーと義足の影響で種類を選べない半ズボンに着替える。
なんか忘れている気がする。とても大事な何かを。
俺、パジャマなんか着てたっけ。
布団かけて眠ってたっけ。
冷静になって俺は昨日の出来事を思い出す。
昨日の晩、俺を襲った殺人鬼のことを。
俺が疲れきっていて冷静な判断力を失い、愚かな選択をしてこの家まで帰ってきたことを。
俺の全身から血の気が引いていく。
ここはあの世か?
それにしては鮮明で、普段と何も変わらない風景で、静かな時間が過ぎている。
もしや、あれは夢だったのではないか?
かなりリアリティのある、感覚が強い夢だったが、確かに非現実的な光景の連続だった。
そうだ、あれは夢だ。夢に違いない。
そうでなければ、殺人鬼と邂逅して今無事であるはずがない。
俺は一安心すると深く深呼吸をした。そして、リビングの扉を開ける。
なあ、俺には恋人が居たか?
少なくとも、朝食を作っておいてくれるような恋人が。
扉を開けた俺の鼻には、肉が焼けるうまそうな匂いが舞い込んでくる。
ジュージューと何かを炒める音が、キッチンの方から聞こえてくる。
俺はゆっくりと、ゆっくりと音を立てないようにキッチンに歩み寄る。
そこには、昨日夢に見た殺人鬼が、頭に包帯を巻いたまま料理をしていた。