僕の悪夢
僕の悪夢
蝉の賑わう八月になった。テレビをつければレジャー施設だとか海だとか、いかにも夏休みらしいワードがしょっちゅう出てくる。愛は今頃、毎日尽きることなく紹介されるそれらのどこかに合宿として行っているはずだけど、一方で僕はしばらく外に出ていない。ただひたすら暑さにうめきながら一日を溶かしていく毎日を送っていた。確かに、僕はお世辞にもアクティブと呼べるようなタイプじゃないけど、だからってここまでなにもない夏休みは初めてだ。バイトもサークルもない大学生の夏休みっていうのは、ここまで退屈なものなのか。
「……どっか出掛けてみようかな……」
といっても、特に候補は思いつかないんだけど。
寝返りをうってシーツのまだ体温であったまっていない場所を探していると、どこかで着信音がした。動くのはだるいけど、退屈しのぎを求めて音源を探す……あった。けど、なんでスマホがベッドの下で埃を被ってるんだろう。オーパーツを発見した気分だ。
電源を入れると、まさかの水仙からのメッセージだった。この名前を見かけるのもいつぶりだろう。ここしばらく完全に音信不通だった。
『よお、元気してるか?』
そのせいか、メッセージの内容もどこか生存確認じみている。
『まあまあ。そっちは?』
『そりゃあもう、遊びまくりよ。夏は俺の天下だからな』
『……この炎天下で、よく元気でいられるね。羨ましいよ』
『なんだ、その年で隠遁生活かよ。蛇沼とどっか行ったりしないのか?』
『愛なら、今サークルの合宿に行ってるよ』
『合宿?そんなのに行ってるのか。なんか意外だな』
そうだろうか。愛は色んなサークルに入ってるし、別に珍しいことでもないような気がするけど。
『それじゃ、お前は今一人で干からびてんのか?』
『干からびてるというよりは、溶けてる』
『どっちでも一緒だそんなもん。なら丁度いいし、今度遊ぼうぜ』
『遊ぶって、どうせナンパしかしてないんでしょ』
『まあな。でも、実はお前に会いたいって人がいるんだよ』
その文字に、溶けていた脳が少し原型を取り戻す。僕に会いたがってる人?誰だろう。全く心辺りがない。
『誰?』
『蟹沢さん。ほら、この前俺がお前を連れ出したときにいた人だよ』
蟹沢。その文字だけだと誰かは分からなかった。そんな名前は聞いたことがないか、あっても忘れていたから。けど、あの合コンを思い出したときに思い当たる人は一人だけいた。完璧に空気と化したと思っていた僕に声を掛けてきたあの人か。
けど、誰だかわかっても、いや分かったからこそ、すぐには返事ができなかった。
だって蟹沢さんは女の人で、遊ぶってことは授業とは違うということで、その上その人は僕に会いたいなんて言っていて。愛がいたら楽なのに。いや愛は僕が合宿に行くように言ったんだ。僕は「大丈夫」って言ったんだ。その言葉も気持ちも、嘘ではないんだ。
……と、外の蝉の声が不意に止んだ。つられて僕の思考も止まった瞬間、一層声量を増した大合唱が轟く。アブラゼミ、ミンミンゼミ、ツクツクボウシ、新たに加わったヒグラシ。今日のラストスパートをかけているかのような熱量が、ぐるぐると回っていた僕の思考を再び溶かしてしまった。
『いつ、どこに行けばいい?』
指定されたのは、何故か僕が普段通う大学だった。蟹沢さんは他の大学だというし、この前みたいにどこかの店で合流するのかと思っていたのに。夏休みだからかいつもより少しだけ人気の減ったキャンパスを歩いて、大学中央の広場に向かう。そこで水仙が待っているはずだった。
「あ。おーい、こっちこっち」
果たして水仙はそこにいた。別に疑っていたわけじゃないけど、少し安心する。こっちに手を振る水仙は一人だけで、蟹沢さんたちはまだ来ていないらしい。
蟹沢さん「たち」といったのは、実はもう一人来る予定らしいから。これは僕が誘いに乗った途端後出しじゃんけんみたいに伝えられたことで、若干、どころかかなりせこい手口だったけど、一度承諾してしまったし、とそのままオーケーした。まあ、後出しでも出してもらっただけマシだ。
「二人はもう来るの?」
「いや、もうしばらくかかるみたいだから、座って待ってようぜ」
そう言って水仙は近くのベンチに座った。倣ってその横に座ると、缶のコーラを差し出された。
「え?」
「やるよ」
前もって買っていたのか、水仙は両手にコーラを持っていて、それをくれる、ということらしい。
「……」
「……なんだよ」
「いや、珍しいな、と思って。こんなことするタイプだったっけ?」
断言できるけど、水仙はこんなに気が利くタイプではない。彼がこういうことを出来るのは、女性を相手にしたときだけだ。
「……ふっ」
なにに対してだろう、水仙は短く鼻で笑うと、何も言わずコーラに口をつけた。
「……」
「……」
そのままお互い無言の時間が続く。なんか、変な感じだ。これから遊ぼうと、それも女性と遊ぼうとしているときのテンションじゃない。顔色が悪いようには見えないけど、もしかして具合でも悪いんだろうか。もしそうなら、僕から聞くべきか……?
突然、着信音が鳴った。僕のではない。水仙がスマホを取り出した。けど、画面をちらっと見ただけですぐに仕舞ってしまう。
「蟹沢さんたちから?」
「……悦啓さ、」
水仙は僕の言葉を遮るように口を開く。そのタイミングは明らかに意図的で、僕の話を聞くつもりはないらしい。
「悦啓ってさ、なにかと女子と遊ぶのを避けたがるけど、なにか理由があんの?」
「なにか、って……」
そうまでして話したいことはなんなのかと思ってみれば、そんなことか。それなら、前にもどこかで伝えたことがある気がするけど。
「別に、女性と話したりするのが苦手なだけだよ」
「その割には、授業とかじゃ普通に話してるだろ」
「まあ、授業のためって割り切って、ビジネスライクに徹するならできなくはないけど……」
「ならその調子であのときもやればよかったろ。なんで逃げる必要があったんだ」
水仙は前を見ていた視線を僕の方に向ける。
なんだ、急になんなんだ。今までこんなに深く突っ込まれたことはないのに。なんで今日に限ってそんな食いついてくるんだ?
しかも、水仙の言葉はそこで終わりじゃなかった。
「本当にどうしようもなく女子と話せない奴はビジネスライクでも話せない。ビジネスライクに話せるなら、ああいう場でもそれっぽく会話に参加するフリくらいできるはずなんだよ。それに悦啓、お前蛇沼とは普通に接してるだろ。ビジネスライクでもなんでもなく、友達みたいにさ」
そう追い打ちをかける水仙の目は僕を捉えて離さない。問い詰めるような口調も相まって、僕のなにかを捕まえようとしているかのような気迫を漂わせている。
「悦啓。お前が女子を避けるのは、話せないからじゃないだろ」
「……」
どうしよう。どうすればいい?今まで僕にここまで深入りしてきた人はいなかった。当たり前だ。周りに人がいなかったんだから。今まで僕の側にいてくれて、僕のことを知ってくれているのは一人だけ。
話すの?あのことを?僕のことを?
いつまでそこにいてくれるかも分からないのに?
僕の沈黙を拒否と受け取ったのか、水仙は小さくため息をついて、視線をまた前に戻した。
「……実は、悦啓を合コンに誘ったあと、蛇沼に釘を刺された。悦啓に女を近づけるなって。理由は、聞いたけど答えてくれなかった。『お前には分からない』って言ってたけど……お前と蛇沼って、同じ高校なんだったよな?」
水仙が僅かに身じろぎした。その視線はさっきよりも遠くを見つめている。向かう先を追ってみると、こちらに向かって歩いてくる二人組が見えた。向こうも僕たちに気づいたのか、急ぎ足でやって来る。
「なあ。お前たちは知らなかったんだろうけど、俺も同じ高校に通ってたんだぜ。だから知ってる。悦啓、」
二人組の片方が大きく手を振る。なにか言っているようだけど、台詞までは聞き取れない。微かにその声音が届いただけだった。
「お前が女子を避けるのは、女子に虐められてたからだろ」
「……えっ……」
もう、二人の顔形までよく見えるまで近づいた。手を振ってるのは、蟹沢さんじゃないもう一人の方。なんて言っているのかも、しっかり聞き取れる。
「あー、ホントに枷下じゃん!超なつい、元気してたー?」
目が合った。
芥原、菜子。
「はぁ……ごめんね二人共。ちょっと遅くなっちゃって」
「いや、俺たちもそんなに待ってないから……久しぶり、芥原」
「ん?……あれ、もしかして水仙?」
「そうそう」
「マジ⁈やばっ、こんな偶然ある⁈二共同じ大学通ってんの?」
「そうだよ。案外、こういうことってあるもんだよな」
「あの……枷下くん、大丈夫?」
「え?……悦啓?」
「え、なになに、どしたん?うわっ、顔真っ青じゃん!こんな青くなってるの初めて見た」
「悦啓?大丈夫か?」
「枷下くん、もしかして気分悪いんじゃ……」
「もしもーし?聞こえてますかー?」
「おい……おい!」
「水仙くん、ひとまず座らせてあげた方がいいと思う」
「いや……全く動かない……」
「もー、さっきからなんなのさー。おーい枷下?パントマイムでもやってんのー?」
「おい芥原、触るな、」
「痛っ!」
「枷下くん!」
「悦啓!」
「……痛ったー……。なにも叩くことないじゃん……あ、もしかして悦啓、ビビってんの?」
「ちょっと、菜子ちゃん」
「だって明らかそうじゃん。ってか、そもそもそんなに気にすること?高校のときのことだよ。まだ気にしてる方が可笑しくない?」
「おい、芥原……」
「それに、そんなひどいことしてないし。遊んでただけじゃん。それなのにこんなことされる方がショックなんだけど」
「……」
「あっ、枷下くん!」
「おい悦啓!どこ行くんだ!」
ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな。ふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるな。
蝉の鳴き声のように呪詛が頭の中を駆け巡る。
けど、僕にこの呪いを外に吐き出す力はなかった。昔も今も。
「──悦啓っ!」
腕がなにかに捕まった。前のめりに傾いていた勢いが強引に引き止められて逆流したせいで、姿勢が崩れた。その拍子に腕を捕まえた犯人が目に入る。
「悦啓……落ち着け」
水仙は、息も絶え絶えなのに僕の腕を強く握ったまま離そうとしない。意地でも逃がすつもりはないらしい。
なら、聞いておきたいことがある。
「……なんで……呼んだんだ」
「悦啓が、蛇沼と一緒に虐められてたのは知ってた。お前が、それが理由で女子を避けてるのも、薄々分かってた。けどな、女子ってのはあんなのが全てじゃないんだ。なのに、お前と蛇沼はすっかりお前ら二人の世界に閉じこもって、外をちらっと覗いてみようとすらしない。そんなのはどう考えたって異常だ。少しは外を見てみるべきだ。だから、まずはお前の女子コンプレックスをどうにかしようと思った」
…………。
「……ほら、芥原のあれを見たろ?あんなの、誰が見たって屑だぜ?お前が怖がってたのなんて、あの程度の人間なんだよ」
………………。
「……それに、あいつの言葉を借りるのも癪だが、あいつも言ってただろ。昔のことだって。当事者だって忘れてるんだから、お前が無理に覚えてる必要もないだろ?もう昔のことなんだ、忘れてもいいんだよ」
…………………。
さっきから、こいつはなにを言っているんだろう。
それが、一体なんの、何に対するフォローになると思っているんだろう。
芥原が僕のことなんか歯牙にもかけていないことなんてとっくの昔に分かっている。中学のときのあの優しさはただの気まぐれで、高校で真逆のことをしたからって、それは彼女にとって裏切りですらないことなんて、僕が一番よく分かってるのに。
「……っ」
さっきよりも力を込めて、煩わしい拘束を振りほどく。
もう走る気力もなかったけど、誰も追っては来なかった。
日が暮れかけてきた。夕暮れの構内を目的もなく歩く。
本当は、帰りたかった。けど、帰ってもそこには誰もいない。誰もいない部屋で一人で過ごすなんて、今の僕には耐えられそうになかった。まだこうして狂人のように歩き回っている方が気が楽だった。少なくともこうしている間は、僕の中を渦巻く不快感から目を逸らすことができる。
中央広場を避けるように構内の縁に沿って、なるべく人通りの少ない場所を縫うように闇雲に歩く。この角を右に曲がれば雑木林がある。そこなら、無心で歩いても人には出くわさないはず。
「──そうそう。でさー……」
聞き覚えのある声が聞こえて反射的に足が止まる。一瞬遅れて、理解が追いついた。
……最悪だ。こんなところに芥原がいるなんて。
この角の向こう、そう遠くない所に声の主はいる。多分、電話で誰かと話している。相手は分からないけど、いい予感はしない。
逃げなきゃ。
さっきまで勢いよく渦巻いていた激情は跡形もなく消えて、一筋汗が滴り落ちる。危機感ばかりが募って、けど足は一ミリも動かない。
「──あ、そういえば今日あいつに会ったんだよ。超懐かしいあいつ。誰だと思う?」
二回目だからか、今度は我を忘れはしなかった。息をつめて聞き耳を立てる。
「えー、分かんない?ほら、高校んときに遊んであげたじゃん……そうそう!枷下だよ枷下。ね、懐かしくない?」
電話の相手は、高校でいつも一緒にいたあのグループの内の誰かだろう。足が竦むどころか、とうとう震えだしてきた。
「けどさー、あいつ私を見た途端固まっちゃってさ。顔なんか真っ青になってんの。いやー、
みんなにも見せてあげたかったなー。凄い面白かったんだから!」
背中越しに不愉快な笑い声が聞こえてくる。けど、情けないことにさっきのような怒りは全く沸かない。恐怖が募るばかり。
「でもあいつ、しょーがないから私から声かけてあげたのに、いきなり叩いて来たんだよ、ひどくない?まだ痛むんだけど……」
ここは舗装がされていないから、地面には落ち葉や枝を踏む音で足音がよく聞こえる。そして、さっきまでは話し声しか聞こえなかったのに、それに地面を踏みしめる音が混ざり始めた。その音はどんどん近づいてきて、それと同じように声も大きくなっていく。
こっちに来る。
そうと分かった瞬間、自分の心臓の音までもが聞こえ始めた。鼓膜の裏側で鼓動を打っている。けど、逃げることははなから考えていなかった。足が動かなかったし、動いたとしてももう間に合わない。
「あーあ……ちょっと赤くなってるし……あ」
目が合う。
一瞬の間。
芥原の口角が、ゆっくりと持ち上がる。
「……は、」
とうとう腰が抜けた。背後の壁に縋りながら、ずるずるとへたり込む。
「……ねえ、凄い偶然。枷下見つけた。この電話盗み聞きしてた」
芥原は腰の抜けた僕をゆっくりと吟味するように見下ろして、逃げられないように真正面に立ち塞がる。
「ねえねえ、丁度いいし前みたいに遊んであげない?なにかしたいこととかある?」
芥原は、僕が逃げないことを分かっている。自分たちからは絶対に逃げられないと、僕にしっかりと教え込んでいるから。だから僕そっちのけで電話での作戦会議に夢中になっている。そして僕はその作戦会議が終わるのを律儀に待つ。三年間かけて馴染んだ、今まで通りの光景。違うのは、助けは来ないこと。愛は、今頃合宿を楽しんでいるはずだ。
今回は、何時間耐えればいいんだろう。
「……あー、それいいね。採用。んじゃ、集中したいから一旦切るね。今度集まるときにはみんなでやろーね!」
会議は終わったらしい。電話を切ってスマホを仕舞うと、芥原は僕のポケットをまさぐり始めた。
「そんじゃ、まずはさっき叩いた分の慰謝料貰うから。財布は……あった」
財布が抜き取られる。芥原がその中身を改める。
「おー、昔より入ってんじゃん。流石大学生。バイトとか、してんの?」
「…………」
「してるの?」
「……バイトは、」
「ちょっと!」
他に誰もいなかった、二人だけのはずだった雑木林に、鋭い声が割り込んだ。芥原は傍目にも分かるくらい大きく飛び上がって、勢いよく声のした方に振り返る。僕の体も夢から醒めたように動かせるようになって、闖入者の姿を探す。
僕が通ってきた道に、蟹沢さんが立っていた。肩で息をして、見たこともない形相でこちらを睨んでいる。僕と目が合うと、大股で距離を詰めてきた。
「なにしてるの!」
「か、花恋。……やだなー、ちょっと遊んでるだけ、」
「ふざけないで‼」
蟹沢さんは数歩で僕たちの所まで来ると、気圧されて後退った芥原に詰め寄る。
「これが遊び?人の財布を漁ることが?」
「いや、これはさっき叩かれた分を……」
「自業自得でしょ‼」
芥原にみなまで言わせずにその手から財布をひったくると、情けなくへたり込む僕の腕を有無を言わせない力で掴んで、引っ張り上げた。
「ちょ、ちょっとかれ、」
「あなたがなんて言おうと!」
僕を逃がすまいと伸ばされた芥原の手を、蟹沢さんは更に大きな声で一喝する。
「あなたがなんて言おうと、あなたが今してたことは遊びなんかじゃ絶対にないし、私はそれを許さない。もう二度と、枷下くんの友達面しないで」
「…………」
「……行くよ、枷下くん」
芥原も僕も、なにも言えなかったし、できなかった。ただ蟹沢さんに引かれるままに、そのあとについていった。