僕の清算
僕の清算
──ピーンポーン。
──ピーンポーンピーンポーンピーンポーンピーンポーンピーンポーンピーンポーンピーンポーンピーンポーンピーンポーンピーンポーンピーンポーンピーンポーンピーンポーン。
……なんの音だ。五月蠅い。まだ寝ていたいのに。
しばらく我慢していても、その音は止む気配がない。僕が眠り続けたいと思っているのを分かっているかのように、そんな僕の怠慢を叱るようになり続ける。煩い。
耐えきれなくなって、いっそ自分で止めるかと寝返りしようとしたとき、僕の近くを誰かが通り過ぎていく気配がした。
……?誰だろう?
少し気になったけど、その疑問が解決するよりも早く、煩い音が止んだ。僕を叱咤する存在の消滅の前には、あの人影の正体なんてどうでもいい。これでもう一度眠れ、
「────‼」
突然の怒号。
その音は、小うるさい鳥の鳴き声のようだったさっきまでの音よりも遥かに強い力が籠っていて、僕の怠惰は一瞬で消え去った。
……僕はなにをしているんだ。なにがあったんだ。
一番初めに感覚が戻った瞼を動かして、周りの景色を目に映してみる。けど、視界はぼやけていてまともに見えない。唯一分かったのは、僕が一番見慣れた天井の色ではないことだけ。
次に、耳を側立ててみる。さっき程の大きさではないけど、誰かの話声は聞こえた。でも、その内容は分からない。ただ、穏やかな雑談ではない。なぜかそれだけは感じ取れる。
僕の五感はまともに機能していない。とにもかくにも体を動かしてみないことにはなにも分からなそうだ。そう思って手探りで体を起こしてみる。
「──っ!」
柔らかい地面に両腕を立てて、それを支点に上半身を起こす。僕がしようとしたのは、たったそれだけの簡単な動作だったはずだ。なのに、僕の両腕は途中で折れて、ほとんど体を起こせなかった。
なんで?地面が柔らかったから?
もう一度、今度はもっと慎重に体を起こしてみる。結果は同じで、僕の背中は再び柔らかい地面に叩きつけられた。
駄目だ。体に力が入らない。理由は分からないけど、今の僕には致命的に体力が足りない。起き上がるのは諦めて、せめて寝返りを打とうとしたけど、それだけでもかなりの時間がかかってしまった。
ただ、これまでの時間で五感は少しづつ戻ってきた。目は相変わらずぼんやりとした影しか捉えられないけど、耳が拾う音はかなり鮮明になってきた。
「────!──‼」
「──────‼」
二人分の声が聞こえる多分女の人の声。そのどちらもどこか聞き覚えのある声だけど、誰のだろう。なにをあんなに大声で言い合っているんだろう。
「────入れて!」
なおも耳を澄ましていると、そんな言葉が聞こえた。僕が聞き取れた最初の単語は、誰がどこに入れてと言っているんだろう?ここ?
「お前には関係ない‼」
もう一人は、その言葉をかき消すような大声で言う。
関係ない。拒んでいるようだけど、この部屋の人だろうか。少なくともここは僕の部屋じゃない。この部屋の主は誰で、どうしてそこに僕がいるんだろう。
「あなたには言ってません!」
二人の声がどんどん大きくなっているのか、それとも僕の耳が感度を増してきているのか、何と言っているのかがはっきりと分かるようになってきた。それにしても、あなたには言ってません。じゃあ、誰に言っている?
「ここは私の家だ!」
「今はあなた以外の人がそこにいるでしょう!私はその人に会いに来たんです!」
「だから、そんな人はいない!」
「あんな反応をされたら、誰もそんなこと信じません!いないなら、そうと見せて下さい!」
そこで言い合いは一瞬途切れて、なにやらもみ合っているようなもの音がする。どうしよう、止めた方がいいんだろうか。体はまだまともに動きそうにないけど……。
「そこにいるんでしょう!枷下くん‼」
──ドタンッ。
僕の視界がガクンと落ちて、全身に衝撃が走る。けど、痛みはない。
蟹沢さん。この声は、蟹沢さんだ。ならここは…いや、あの喫茶店じゃない。ここは。
愛の部屋だ。
そうだ、このベッドは愛のものだ。僕は一度だけこれに座ったことがある。愛の部屋に来たのはそのときが初めてだった。いつだ。雨の降る夏の日だ。なぜだ。愛に呼ばれた。なぜだ。……なぜだ?なんで覚えていない?
僕が覚えているのは、雨に濡れて、そのまま愛の部屋に上がって、体が冷えるといけないと言われて、出されたお茶を飲んで。それで?そこからの記憶がまるでない。
じゃあ、なんで蟹沢さんはここにいる?蟹沢さんとなんて、あの喫茶店くらいしか接点がない。それなのになぜ愛の部屋に……待って。今日はいつだ?最後にアルバイトに行ってから何日経った?記憶はないけど、その間喫茶店とは連絡を取っていたっけか?
そういえば、喫茶店で蟹沢さんから一度だけ愛の名前を聞いたことがあった。確か……接点がないはずなのに愛が蟹沢さん話をしていたから。どうして?心当たりがあったはずだ。愛にアルバイトを始めたと事後報告したときの、あの疑いの眼差し。あれが関係していると、愛が突然僕の周りにできた人間関係を警戒していると、僕は分かっていた。
でも、そのあと特に変わったことはなにも……いや、あった。
そうだ、僕が愛に呼び出された前の日、僕はおかしな様子の愛を部屋に上げた。そのときの様子が明らかに異常で、でも僕にはそれを解決するだけの力はなくて、結局有耶無耶にして終わったんじゃなかったか。それが気がかりだったから、雨に濡れるほど慌てて呼び出しに応じたんじゃなかったのか?
でも、やっぱり分からない。どうしてそれで、僕の記憶がなくなるのか。
今、なにが起こっているのか。
本当に?
本当は、薄々察しがついているだろう?
愛の覚悟と用意。
蟹沢さんたちとの交流。
それに対する愛の懐疑。
蟹沢さんを、知らない愛の家に来る程に不審がらせた音信不通。
「いい加減にして!」
僕が落ちた音を不審に思ったのかもしれない。またもみ合う音がして、愛が叫ぶ。
その声は、僕の耳でも分かる程に震えている。
考えろ。
どうして愛は、こんなにも頑なに蟹沢さんを部屋に上げようとしない?なにを守ろうとしている?なにから守ろうとしている?
どうして愛は、声を震わせている?なにを恐れている?なにに怯えている?なにに抵抗しようとしている?
答えろ?
お前には、なんの心当たりもないか?頭がふらついてよく思い出せないか?
本当に?
絶対に?
天地神明に誓って?
一切の疑問もなく懐疑もなく抗論もなく不思議もなく未詳もなく疑惑もなく曇りもなく疑心もなく反論もなく不審もなく疑念もなく偽称もなく弁駁もなく無視もなく虚栄もなく余地もなく疑義もなく曖昧もなく過誤もなく疑点もなく漠然もなく密事もなく猜疑もなく未知もなく反駁もなく嫌疑もなく過ちもなく過信もなく不明もなく黙殺もなく隠匿もなく反証もなく空耳もなく論駁もなく模糊もなく冥々もなく縹緲もなく虚勢もなく隠微もなく不詳もなく掩蔽もなく虚偽もなく秘密もなく秘匿もなく韜晦もなく虚飾もなく空目もなく守秘もなく偽証もなく詐称もなく建前もなく黙認もなく抹殺もなく?
嘘だ。
いつまで惚けるつもりだ?
本当は分かっているよな?
今の彼女がどんな気持ちか。
今までの彼女がどんな気持ちだったか。
今の彼女がなにをしようとしているか。
今までの彼女がなにをしてきたか。
今の彼女がなにに対峙しているか。
今までの彼女がなにから逃げてきたか。
今の彼女がなにを必要としているか。
今までの彼女がなにに飢えてきたか。
なあ、もういいだろう?
そろそろ、お前も分かっていい頃だ。
この世に、誰からも守られる必要のない人なんていないことを。
誰もが、誰かの助けを求めていることを。
僕が今、なにをするべきなのかを。
「痛った……」
立ち上がろうとして、さっきぶつけた腰が痛みだす。足にもまだ力は戻らない。けれど、待っている余裕はない。
壁際まで這うように進んで、そこに立てかけてある机を支えにして立ち上がる。なんとか立つことには成功したけれど、その拍子に机が倒れて音を立てる。
「!」
二人のもみ合いが止んだ。その隙に、僕は歩を進める。
まずは一歩。
急に眩暈がして、視界になにも映らなくなる。平衡感覚も失って倒れかけたけれど、音がする程強く壁に手を突き立ててなんとか防いだ。今ここで倒れたら、きっと二度と立ち上がれない。そんな予感がした。
次に二歩。
歩き方が分からない。さっき踏み出した足がどっちで、次に踏み出すのはどっちなのか。それを考えることすら出来ず、闇雲に足を運んでいく。この部屋の間取りからして、二人は玄関の近くにいるはずで、ベッドのある居間の入り口はそのまま玄関に繋がっている。だから、その入り口にさえ辿り着くことができればいい。
続いて三歩。
頭が、視界がぐるぐると回る。まるで僕の足元まで回っているようで、今にも吐きそうだ。そして、足が痛い。筋力不足か、どこかにぶつけたか、理由は分からないけどじくじくと痛む。
「……ぐ…………ぎ……」
自分の口から、聞いたこともないような唸り声が漏れた。
ようやく四歩。
目標地点が近づいてきた。あと数歩で、二人の視界に入れるはずだ。あと数歩、ほんの数歩で、
「────‼」
闇雲に足を動かしたつけが回ってきたのかもしれない。急に足元が崩れた。ただでさえ崩壊寸前な僕のバランスは簡単に崩れて、前につんのめるように転ぶ。
──ドゴンッ‼
一瞬で、僕の視界は真っ白に染め上がる。
これが、星が舞うってことか。
そう理解したことで、ようやく自分が転んで頭を壁にぶつけたことが分かった。
「悦啓⁉」
「枷下くん‼」
二人の声がする。なんとか二人の視界に入ることはできたみたいだ。ここまで来れば、やることはあと一つだけ。
「……ごめんなさい」
回り続ける白色に支配された脳の、僅かな空きスペースでなんとか紡いだ言葉を声にする。
今までの僕の人生で初めての。
これまでの僕の人生で最大の。
僕にしかできない。
僕にしか許されない。
僕でなければならない。
僕だけの為ではない。
乾坤一擲、全身全霊の言い訳を。
「……見ての通り、今は体調を崩してて。それを、一人暮らしは心配だからって愛が看病しててくれたんです。連絡ができなかったのはごめんなさい。でも、僕は……」
そこまで言ったところで、さっきとは比べ物にならない眩暈が僕を取り込む。壁に打ち付けたまま支点にしていた頭がずり落ちるのが分かった。
まだだ。まだ終われない。これだけは、絶対に言っておかないといけない。
蟹沢さんの為だけじゃなく、今まで僕を守ってくれた全てに、僕は宣言しないといけない。
今までごめんなさい。
沢山迷惑を掛けました。心配を掛けました。
そのおかげで、なんとかここまで来れました。
でも、もう。
「……僕は…………もう、大丈夫…だから……」
少しずつ落ちていった頭が、限界を迎えて一気に落下する。
「危ない‼」
崩れ落ちそうになった僕を、誰かが受け止めてくれた。けれど、それが誰なのか、もう区別すらつかない。
でも……もう大丈夫。
もう、一方的に守ってもらう必要はない。
今度は、僕が守る番なのだから。
この章が完結編になります。今までありがとうございました。
これが、誰かのなにかの助けにならんことを。




