僕の追憶
僕の追憶
男の子がいる。学校の階段の、日の当たらない場所に座って泣いている。
クラスでまたからかわれて、やるせなさに飛び出して来たんだ。けど、どれ程悔しくても先生や親に相談することはできなくて、こうして一人袖を濡らしている……いや、一人じゃない。この男の子には、一人だけ味方がいる。
パタパタと足音がして、現れた人影が階段を覗き込む。うずくまる男の子の後頭部を見つけると、その女の子も階段を降りて来て、その隣に座る。
「また、からかわれた?」
女の子の、たったそれだけの言葉で男の子の嗚咽は大きくなる。そんな男の子の頭を、女の子はなにも言わずに撫でた。
男の子が顔を上げたのは、休み時間終了のチャイムが鳴ったときだった。昼休みは二十分あったはずで、この男の子はその二十分をほぼ全て泣くことに費やしたことになる。
「大丈夫?落ち着いた?」
その間ずっと頭を撫で続けていた女の子は、今度はハンカチを取り出して涙で真っ赤になった男の子の顔を拭く。なすがままの男の子は、ついでにそのハンカチで鼻をかんだ。
「もう戻れそう?」
一通り顔を整えたあと、女の子にそう訊かれた男の子は、コクリと頷く。女の子は微かに微笑むと、立ち上がってスカートの裾を叩いた。
「じゃあ、戻ろっか。急がないと、授業が始まっちゃう」
「……あの」
ここに来てようやく男の子が発した声には、まだ涙が混ざっている。
「このことは、誰にも言わないで……」
弱々しい声。けれどその手は女の子のスカートをしっかりと掴んで、懇願するような目で女の子を見つめる。
「……うん。分かった」
そう頷いて見せた女の子の表情には、明らかに苦渋の影が差していた。そして、そのことは男の子も分かっている。けれど、これだけは譲れないことだった。
いじめられていること、傷ついて泣いていることを周りの大人に言わない。それが、同級生にからかわれて泣きじゃくっては、仲のいい女の子に慰めてもらいながら泣き寝入りするような情けない男の子に、最後に残されたプライドだった。
騒がしい教室。特に休み時間はそれが顕著だ。そんな騒ついた教室で、一人緊張した面持ちで息を潜める男の子。その目は机を向いているけれど、時々横に動いては周りの様子をうかがう。肩には力が入り過ぎて、僅かに震えている。
「ちょ、おい、やめろよっ」
喧噪の中、一際大きな声が教室に響く。その声に男の子が振り向くのと、その後ろから突っ込んできた人影が男の子にぶつかるのは同時だった。
「うわっ!」
誰かの叫び声と、重い物が床に勢いよくぶつかる音。
背後から突然追突された男の子は椅子ごと床に倒れ、その上に追突してきた男の子が倒れる。下敷きになった肺から息が漏れる。
「ちょっと、大丈夫⁉」
一瞬の静寂のあと、さっきとは違うどよめきが教室に満ちる。周りにいた数人が駆け寄って助け起こす。
「大丈夫か?」
「痛ってー……おい誰だよー、俺のこと押した奴ー」
「あー、悪い悪い、俺だわ」
「やっぱりお前か!このやろー!」
幸い、倒れた男の子の方は大したことはなかったようだ。すぐに立ち上がって、心なしか気恥ずかしそうに笑うと、彼を突き飛ばした犯人を追いかけまわす。その様子を見てみんなも安心したのか、銘々もとの位置に戻って中断された雑談を再開する。
けれど、みんなはこのトラブルにはもう一人被害者が居たことに気づいていない。気づいていないことにも気づいていない。
「…………」
追突され、椅子ごと倒れた男の子は、誰にも見られないまま一人で立ち上がり、椅子を直すと座り直した。
どうして誰も気づかなかったのか。その理由は男の子自身がよく分かっていた。見落とされたわけじゃない。影が薄すぎたわけじゃない。みんな、気まずかったのだ。何と声をかけたらよいものか分からなかった。
いつも一人でいて、誰とも話さず、目も合わせず。たまに目が合ったと思えば怯えてたようにすぐに目を逸らしてしまう男の子。誰もそんな人と関わろうとしないのは当然のことだ。
けれど、男の子は少しも怒ってはいなかった。自分の立ち位置は分かっていたし、なにより『みんな目を逸らした』という事実の方が、彼にとってはありがたかった。誰にも見向きされない。誰にも興味を持たれない。誰にも話しかけられない。誰にも絡まれない。それが、彼の望む中学校生活。
さっきまで、彼が全神経を張り巡らせて警戒していたもの。それは、ぶつかってきた男の子だった。今はクラスで一番声が大きく元気な彼は、小学校で男の子をからかって遊んでいた子の筆頭だった。中学校に上がってからはもうそんなことはなくなったとはいえ、当てにしていた女の子が別のクラスになってしまったのもあって、安心はできないでいた。
座り直して、そっと汗を拭う。ぶつかってきた相手が彼だと気づいたとき、ぶつかってきたことそのものよりもよりも驚いたし、焦った。だから、なにも言わずに去っていったときはその安心感が勝って、謝りさえしなかったことなんてどうでもよくなっていたのだった。
「あの、埃ついてるよ?」
だから、隣からそう声を掛けられたとき、彼は比喩でなく飛び上がってしまった。
声を掛けてきたのは、隣の席の女の子だった。もちろんその子とも一度も話していなかったし、なんなら名前すら知らなかった。だから、色々な理由が重なって驚いてしまった。
突然の事態に警戒する彼を他所に、その女の子は盛大に転んだ彼を心配しているようだった。
「ほら、ここに」
そういって、女の子は彼の頭に手を伸ばして埃を取る。
「取れた……うわ、でっか!」
女の子は取り除いた埃を男の子の目の前に差し出して見せると、無邪気に笑った。
高校でも男の子の生活はそれほど変わらない。休み時間、彼はいつも一人、自分の席から動くこともなく教室をぼんやり眺めていた。ただ、以前のように怯えることはなくなった。周りに人がいないという状況は変わらなくても、体感としてはずっと居心地よくなっていた。
そして、彼が教室を眺めているとき、つい目で追ってしまう人がいた。
「え、それホント⁉」
教室の前の方の席で、沢山の友達に囲まれながら大声で笑う女の子。
中学校一年生のとき、一度だけ隣の席になった女の子。埃を取って笑った女の子。
男の子と彼女が関わりを持っていたのは、あの埃事件から数週間ほど、席替えをするまでの短い間だった。けれど、その数週間の間に交わした幾つかの会話が、彼の肩から重荷を降ろしてくれていた。彼はそのことに感謝しながらも、お礼を伝えられないまま進級し、それ以来同じクラスになることはなかった。だから、高校に入学して二年目にしてまた同じクラスになったとき、彼の心は微かに踊った。
そうは言っても、彼女の周りの輪に入って話す勇気は彼にはなくて、こうしてただ遠くからそれとなく眺めることしかできなかった。
「ねえ」
放課後、教室を出ようとしたところで呼び止められる。聞きなれた、あの女の子の声。けれど、男の子が振り向く決心をするのには時間がかかった。
「ねえ!」
今度は肩を掴まれて、強引に振り向かされる。その手は力強くて、彼女の手じゃないのはすぐに分かる。
振り向いた先にいたのは、彼女と、いつもの友達たち。彼のことをニヤニヤしながら見ている。そんな視線にさらされた彼の背中からは、もう冷や汗が流れ始めている。
「今日カラオケ行こうよ」
呼び止めた理由は遊びの誘い。けれど、彼はその真意を知っている。
「いや……このあと、約束があるから……」
こんな誘いを受けるのは前にも何度もあって、それに付き合うのもそろそろ限界だった。だから断ったはいいものの、その声はどんどん尻すぼみになってしまう。
「え?なんて?」
案の定、女の子の声が鋭くなる。と同時に、その周りにいる友達たちがゆっくりと距離を詰め始めた。
このままだと囲まれる。そして、囲まれたらどうなるか、彼は分かっている。
「用事があるからっ」
咄嗟に身を翻して廊下に逃げる。話ができる相手じゃないのは分かっていて、唯一できる抵抗は逃げることだけだった。
「あっ、待て!」
後ろからは数人の足音。追いつかれたらおしまいに違いない。けれど、運動神経的にも、体力的にも分が悪いのは分かっていた。通りがかった空き教室に隠れる。
こうなったのは、二か月くらい前のことだった。彼は、ふとした拍子にあそこにいた一人に肩をぶつけてしまったことがあった。そのときはびっくりしてしまって、謝るのも早々に逃げた。呼び止められていたのは知っていたけれど、止まる余裕もなかった。それから、時々鋭い視線を感じるようになった。でも、それだけで終わると思っていた。
彼女に呼び出されたとき、彼はなんの警戒もしていなかった。それどころか、また話せるのかもしれないなんて呑気なことを考えていた。
けれど、彼女は、もう彼の知っていた彼女ではなかった。話すなんてとんでもなかった。待っていたのは彼女と、前にぶつかった人と、二人といつも一緒にいる友達たちだった。そこで彼は謝まるように強制されて、それ以来彼女らは彼に無理な要求をしてくるようになった。今日誘いに乗ってカラオケについて行けば、会計は彼の受け持ちになっていただろう。
あのときの彼女の顔を思い出す度に思う。
本当に楽しそうだった。心の底から笑っているようだった。彼の頭頂部を見下ろしながら、彼女はなにを考えていたんだろう。
埃を取ってくれたときの彼女は、なにを考えていたんだろう。
「…………!」
遠ざかっていたはずの足音が再び聞こえてきた。その数はさっきよりも多い。その音はどんどん近づいて来て──彼が隠れている教室のドアを開けた。
「お。見っけ」
先頭の一人と目が合う。その目は、心底愉快そうな笑みを浮かべていた。
「…………」
その目を見た瞬間、彼は自分の体から力が抜けていくのを感じていた。抵抗する力も、助けを呼ぶ力も。
何故なら、この後どうなるかを彼は一番よく分かっていたから。どんなことをされて、どんなことをさせられるのか。どんな風に抵抗しようとして、どんな風に屈服させられるのか。数えきれない経験の中で、もうシュミレーションしつくしてしまっていた。
本当に?
「逃げるなんていい度胸してるじゃん」
あとから教室に入ってきた彼女は、座り込んだ男の子をみて腰が抜けたのだとでも思ったのかもしれない。勝ちを確信したような笑みを浮かべると、わざとゆっくり歩み寄る。
「拒否権なんてあると思ってるの?」
男の子は、目の前に迫って来る自分のより一回りも小さい掌を不思議なほど冷静に見つめる。
その耳には、もう一つの足音が聞こえてきていた。
「あるに決まってる!」
突然飛び込んできた声に、その場にいる全員が後ろを振り返る。
そこには、一人の女の子が立っていた。小学校でハンカチを貸してくれたあの女の子。ここまでずっと走ってきたのだろう、髪は乱れて息は上がっている。
「全員、離れて。今すぐ」
飛び込んできた女の子は荒い息で短く言い渡す。
けれど、誰も動こうとはしない。
「ありゃ。彼女さんが来ちゃった。けど、悪いけど今日は私が先に約束してたの。寝取られないか心配なのは分かるけど、心配しなくてもこんなの誰も狙わないから。安心して帰っていいよ」
明らかに異常な現場を押さえられても、親の仇を見るような目で射抜かれても、睨まれた女の子は彼から離れようとはしない。その周りにいる彼女の友達たちもそれは一緒で、彼女の軽口に同調して笑い声をあげた。彼女らからしたら、乗り込んできたのが教師でさえなければどうでもよかった。
「離れろっつってんだろ!」
彼女が構わず彼の頭を掴もうとした瞬間、ハンカチの女の子は怒声を上げて、手に持っていたなにかを投げつける。それは飛沫をまき散らしながら飛んで、彼女の顔に横から激突した。
ビチャッ‼
「きゃっ!」
流石の彼女も思わず声を上げる。咄嗟に頬にあてがったその手には、薄茶色に濡れた雑巾があった。
「ほら、私の机に忘れてった雑巾、返してやるよ!」
ハンカチの女の子は雑巾を何枚も持っていた。スカートのポケットから次々に取り出しては、誰彼構わず投げつける。
「うわっ」
「汚ったね!」
ある人は雑巾を顔面で受けて、ある人はそれを避けようとしてあとずさる。雑巾が全部持ち主のもとに帰る頃には、座り込んだ男の子の近くには誰もいなくなっていた。ハンカチの女の子はその隙間を縫って彼の腕を掴んで引っ張り上げると、脱兎の勢いで教室から飛び出した。
「取り敢えず走って!」
手を引かれて走りながら、彼の口元は緩んでいる。
二人はつんのめりながら階段を下りて、上履きのまま昇降口を駆け抜けて、裏門から抜け出して、近くにあった公園の茂みの影に身を隠した。
「……ふぁ~……」
茂みから顔だけ覗かせて誰も追ってきていないことを確認すると、ハンカチの女の子は力の抜けたため息をついて地面に寝そべる。その様子からは、さっきの怒気はこれっぽっちも感じられない。これがこの女の子の素だった。
「あの……」
「あ、大丈夫?どこか怪我とかしてない?痛い所とかは?」
男の子がおずおずと声を掛けると、彼女ははじかれたように起き上がって、さっきまでのリラックスした表情から一変、今にも消えてしまいそうなものを見るような目で彼の顔色を伺う。
この表情が、彼と一緒にいるときの彼女のいつもの表情だ。
「いや、僕は大丈夫……それより、ありがとう」
また、助けられてしまった。少しだけ罪悪感が沸く。けれど女の子はそんなことは気にしなくてもいいと首を振る。
「大丈夫。私はずっと味方だから。私が守ってあげるから」
彼の頭が、そっと彼女の腕の中に抱えられる。その温かみは、彼が自分のお母さんにさえ求めることのできなかった温かさで、慣れないこの温度に包まれたるといつも思考が鈍くなってしまう。なんでもいい、ずっと全てを預けていたい、そんな気持ちになってしまう。
「……でも、」
そんな中、彼は必至の抵抗を試みようとする。
「でも、このままじゃずっと迷惑かけることになる……」
「いいの」
途端、彼の頭を包むぬくもりが締め付けを強める。
「迷惑なんかじゃない。私はなんともないから。私は大丈夫だから」
耳元でそっとそう囁かれて、頭を撫でられる。たったそれだけで、彼の抵抗心は溶けてなくなった。
………………。
本当に?
絶対に?
天地神明に誓って?
一切の疑問もなく懐疑もなく抗論もなく不思議もなく未詳もなく疑惑もなく曇りもなく疑心もなく反論もなく不審もなく疑念もなく偽称もなく弁駁もなく無視もなく虚栄もなく余地もなく疑義もなく曖昧もなく過誤もなく疑点もなく漠然もなく密事もなく猜疑もなく未知もなく反駁もなく嫌疑もなく過ちもなく過信もなく不明もなく黙殺もなく隠匿もなく反証もなく空耳もなく論駁もなく模糊もなく冥々もなく縹緲もなく虚勢もなく隠微もなく不詳もなく掩蔽もなく虚偽もなく秘密もなく秘匿もなく韜晦もなく虚飾もなく空目もなく守秘もなく偽証もなく詐称もなく建前もなく黙認もなく抹殺もなく?
嘘だ。
本当は知っていた。
待ち合わせの約束を守らなければ、それを気にした彼女が探してくれることくらい。
あの状態にあることを知れば彼女は必ず助けてくれることくらい。
彼女の机に大量の雑巾が突っ込まれていることくらい。
中学校から一緒だった友達が彼女の側から消えていることくらい。
彼女がそれを悲しんでいることくらい。
彼女の手が震えていることくらい。
彼は全部知っていた。僕はなにもかも分かっていた。
分かった上で、知らない振りをした。訳も分からないままに他人の悪意に晒され震える、哀れな少年の振りをした。
どうして?
決まっている。怖かったからだ。
彼女の本心に気づいてしまえば、今のままではいられなくなる。ただ守ってもらうだけの関係ではいられなくなる。自分の足で立たなければならなくなる。それはあまりにもしんどい。あまりにも辛い。
例え、そのために彼女が負わなくてもいい傷を負うことになったとしても?失わなくてもいいものを失うことになったとしても?
そんなことは望んでいなかった。そんなことを望めば、僕までもが彼女の敵になってしまう。
彼女は強い人なんだ。賢い人なんだ。
僕のような奴を庇いながらでも、一人でしっかりと立っていられるほどに。
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クズが。




