俺の絶望
俺の絶望
夏は開けないまま、夏休みが明けた。大学も始まった。
だが、悦啓と蛇沼は大学に来なかった。
俺が二人を避けているからではない。明らかに来ていない。蛇沼と関わりのある人たちも気づいているようだった。
蟹沢さんも当然そのことは知っていて、俺に連絡を取って来ていた。直接会って話すことになっていて、今待ち合わせ場所に向かっていた。
「あ!水仙さん、こっちです」
待ち合わせ場所の公園に着くと、先に声を掛けられる。会うのは久しぶりだが、再会を喜ぶ余裕はなさそうだった。蟹沢さんの表情は、これまでに見たことのない程緊張していた。
「あの、何日から前から枷下くんと連絡が取れなくて、」
「知ってるから。まずは落ち着いて」
息まいて詰め寄る蟹沢さん。その様子から、どれ程焦っているのかが分かる。
けれど、この調子では話すらまともにできない。その肩をそっと押し戻して、近くの椅子に座らせる。俺もその隣に座った。
「落ち着いて、もう一度最初から話してくれる?」
「うん……」
それから蟹沢さんは、たどたどしいながらも知っている限りのことを話してくれた。
今から約一週間前、夏休みが終わる五日前、悦啓は今まで忘れずに来ていたアルバイトに来なかったらしい。それも無断で。アルバイト先の店長が電話をしたそうだが、それにも出なかったらしい。だが、その時点では具合が悪いのかと思いそれ以上気にしなかったという。
不穏な影が広がり始めたのは、その次の出勤日で、最初の無断欠勤から二日後のこと。この日も悦啓は来なかった。連絡はなく、つきもしなかった。この日から、店長も蟹沢さんも悦啓になにかあったのかと心配し始めた。特に蟹沢さんには思い当たる節があった。
なんでも、蟹沢さんは蛇沼と接触したのだとか。それも、蟹沢さんを尾行していた蛇沼に蟹沢さんの方から声を掛ける形で。そこで蟹沢さんは、蛇沼に対して悦啓から離れることはないと啖呵を切った。その直後は警戒していたが、次の出勤日に悦啓がいつも通り来たことから安心していたという。そこに、悦啓が消息不明になるという事態が起きた。胸騒ぎを覚えた蟹沢さんは、店長に頼み込んで悦啓の家に行った。
そこには誰の気配もなく、郵便受けにはチラシが溜まっていた。
「水仙くん、なにか知りませんか⁉」
そう言う蟹沢さんの目には、悲壮感さえ漂っている。なにか、責任のようなものを感じているのかもしれない。そんな姿を見ると罪悪感が芽生えてくるが、果たして俺は俺の責任を全うするためになにをすべきなのか。
蟹沢さんから蛇沼の名前を初めて聞いたときに打った俺の『最善手』は、着実に実を結びつつあった。特にここ最近は、蛇沼の姿が見えないこともあって沢山の情報が行き交っている。蛇沼が今どの辺りにいるのか、目撃情報からおおよその推測はついている。それを教え、蛇沼と直接話すことができれば悦啓の居場所も分かるだろう。
だが、ここでそれを蟹沢さんに教えることが、本当に罪滅ぼしになるのか?
今の蛇沼は、まず間違いなく正常な精神状態にはないだろう。そんな蛇沼に、こんな血気盛んな蟹沢さんを引き合わせたらどうなるか。取返しのつかないことになりはしないか。
「……水仙さん?なにか知ってるんですか?」
そんな葛藤を見透かされたのかもしれない。蟹沢さんは血相を変えて詰め寄って来る。
「なにか知ってるのなら、教えて下さい!」
半ば叫ぶような声量でそう懇願する蟹沢さんを見ると、ますます俺の不安は増していく。冷静さを失っているようにしかみえない。
「……もし本当に悦啓がなにかのトラブルに巻き込まれてるのなら、警察に相談するのがいいんじゃないか」
にじり寄るプレッシャーの中で辛うじてひねり出したのは、そんな台詞だった。だか、苦し紛れにしてはいい返しだろう。これが正論というやつだ。
それは蟹沢さんも分かっているのだろう。面食らったように目を泳がせた後、前のめりになっていた体をもとに戻し、俯いた。
俺は、そんな蟹沢さんにすかさず畳みかける。
「俺の所にもそういう噂は入って来てる。けど、そんな憶測で動くのは危険だ。本当に悦啓を助けるなら、俺たちが下手に動くべきじゃないんじゃないか?」
「…………」
蟹沢さんは押し黙ったままなにも言わない。なにも言わないが、納得はしてくれているだろう。そう思って俺がどうやって慰めるかを考え始めた矢先、蟹沢さんがなにかにはじかれたように顔を上げた。
その目は、諦めた目ではない。
「駄目なんです。それじゃ」
「……え?」
「警察とか、常識とか、正論とか、そういうものであの二人に割り込んだら駄目なんです。そんなことをしても、二人にとってはなんの解決にもならない。私たちがあのときしたことと同じような……いや、今度はもっと酷いことになるかもしれないんです」
「…………」
蟹沢さんがなんのことを言っているのかはすぐに分かった。今度は、俺が俯いて押し黙る番だった。
俺たちがあのときしたこと。俺があのときしたこと。
短絡的な正攻法を取った俺に悦啓が見せた、あの目。
俺はまたあれと同じことをしようとしているのか?
二人のことを考えているつもりで、その実二人のことなんて毛ほども考えていない、考えることすらできない俺に、果たして本当に最善手など思いつくのか?
「…………………」
「教えて下さい。お願いします」
結局、俺は知っている限りの蛇沼に関する噂を蟹沢さんに教えてしまった。
その日の夜、俺はいつもの駅に向かう道とは違う、全く逆方向に進む道を歩いていた。
なにか遊べる場所があるわけでもない。友達の家があって、そこに遊びに行くわけでもない。もちろん、散歩でもない。
ここが、最近蛇沼が目撃されている場所だった。
俺が蟹沢さんに伝えた噂というのは、噂というだけあって迷走しているものも多い。見知らぬ男と居ただとか、誰かに追いかけられていたとか、逆に追いかけていたとか。挙句の果てには、水商売を始めたなんてものもあった。だが、共通点はそんなに多くない。
一つは、蛇沼を見かけた者はいても、直接話しかけることができた者は誰もいないということ。もう一つは、傍目に見ても尋常ならざる雰囲気を纏っているということ。
だから、俺はこれから、直接蛇沼に会って話をしてみようとしている。
情報を蟹沢さんに伝えてしまったこと、然るべき機関に頼らないこと、これが本当に正しいのか、どちらが二人の為になるのか、俺はまだ結論を出せないでいる。が、蟹沢さんが一人で今の蛇沼と対峙するのが危険であることには変わりはない。だから、蟹沢さんよりも先に俺が蛇沼に会って、ことを丸く収められないか。そんな期待があった。
とはいえ、噂はあくまでこの辺りで蛇沼を見かけるというだけで、具体的な場所までは特定できていない。一縷の希望を掛けてあてもなく彷徨うことしかできないでいた。
この辺りは初めて来たが、住宅やアパートの他は本当になにもない。コンビニならちらほら見かけるが、それだけだ。当然すれ違うのも帰宅途中のサラリーマンぐらいのもので、大学生の俺は明らかに浮いている。何度も同じところを歩き回っていると悪目立ちしそうだ。できることだけ早く蛇沼を見つけたいところだが、果たしてそう上手くいくものか……。
俺には土地勘は全くないが、何度も歩いているうちに少しずつ道が分かるようになってきた。ここの角を曲がるとコンビニがある。ずっと歩き回っているしそこでなにか飲み物でも買っていこうか。そう思って、見えてきたコンビニに目をやる。
すると、丁度コンビニから人が出てきた。俺と同じ私服姿で、背格好を見る限り女性のようだ。その女性は、どこか覚束ない足取りで、俺のいる方向に向かってこようとする。
もしかしかしたら。
そんな考えが脳裏をよぎって、足取りが早くなる。二人の距離が近づくにつれて、最初は逆光のせいでよく見えなかったその人の顔が見えるようになる。
「──!」
間違いない。蛇沼だ。かなりやつれているように見える。俺のことにも気づいていないようだが、俺が見間違えるはずがない。
「おい!」
お互いの顔がはっきりと見えるくらいに近づいたところで、声を掛ける。が、蛇沼は気づかないのかとぼけているのか、俺を素通りしようとする。
「おい、蛇沼!」
ここで逃がすわけにはいかない。その腕を掴んで、もう一度呼びかける。そこまでしてようやく、蛇沼は俺を見た。
「…………」
だが、俺と目が合ってもなにも言わないし、表情も変わらない。虚ろな目で俺を見、掴まれた自分の腕を見、振りほどこうとする。だが、放すつもりはない。訊きたいことを訊き終えるまで、俺は引かない。
「最近、大学に来てないよな。どうしたんだ?」
「…………」
反応はない。ただ俺の手を振りほどこうとする。
「他の奴らも、連絡が取れないからって心配してたぞ」
やはり反応はない。だが、俺もこれで蛇沼が釣れるとは思っていなかった。こいつの中での位置づけからして、今となってはゴミほどの価値もないだろう。
「悦啓はどうしてるのかは知ってるか?あいつも連絡が取れないんだ」
「…………っ」
やっぱりだ。悦啓の名前を出した途端、蛇沼の顔色が変わる。じっと俺を見て、なにかを探ろうとしてくる。
「訊いたところによると、バイトもここしばらく無断欠勤してるらしい。夏休みが終わる少し前から連絡が取れないらしいんだ。なにか知らないか?」
「……知らない」
「けど、お前は悦啓と仲いいだろ。連絡を取ってたりはしないのか?」
「……知らないよ」
「そんなことは、」
「知らないって言ってるでしょ!」
俺の言葉をかき消すように蛇沼は叫ぶ。その様子からして、なにかを知っているのは間違いない。が、それを言ってくれるかどうか。
「蛇沼。お前が思っている以上にことは大ごとになっているんだぞ。だから俺が来ているし、この辺りではっきりさせておかないと取返しがつかなくなる」
「……取返し?」
「そうだ、取返しがつかなくなるんだ」
蛇沼が初めて見せた積極的な反応に、思わず声が大きくなる。多少唾が飛んだが、気にしている余裕はない。
「例えば、大学はどう思うと思う?生徒が二人もいなくなれば気にするに決まってる。それに、お前は色々なサークルに入ってるよな。今、お前のサークル仲間だとかはこぞってお前の噂をしてる。お前を見かけたという噂も出回り始めてる。俺がここに来れていることがなによりの証拠だ。いつまでも音信不通じゃいられないんだよ、お前は」
急いで、思いつく限りの説得材料を列挙する。きっかけはなんでもいい、とにかく蛇沼をこんな危なっかしい状況から引き抜くことができれば。
「…………」
だが、そんな俺を見る蛇沼の目はさっきまでの虚ろな目に戻っていた。
「……蛇沼?」
「……なにかと思えば」
再び俺の手を振りほどこうとする。
「なにかと思えば、そんなこと。どうでもいい」
「どうでもいいって……」
そんなはずはない。これだけことが大きくなっているのに。これだけ沢山の人が関心を向けているのに。
「どうしても付きまとうつもりなら、大学は休学届けを出す。サークルには適当なことを言っておけばいいし、外に出なければ問題ないでしょ」
だから手を放せ、とでも言うつもりなのか、この目は。
休学届けなんて、お前一人の一存で出せると本気で思っているのか?両親がそれをなにも言わずに許すのか?
サークルにしたってそうだ。お前が幾つのサークルに入っているのか、俺には把握することすら出来ない。それだけの数のサークルを一気に止めるとでも?その行為で、どれだけの人が振り回されて、どれだけの迷惑を被るのか、きちんと考えたことがあるのか?
極めつけは、外に出ないだと?そんな調子で、どうやって生きていくつもりだ?一歩も外に出ず、誰も寄せ付けず、そんなことをしてまともな生活が送れると本気で思っているのか?それとも、まさか心中でもするつもりなのか?
あいつのためには、お前の命でさえもその程度の扱いなのか?
二人の世界のためには、お前ら自身の命でさえもその程度の扱いなのか?
「分かったら、もう放して、二度と私たちに関わらないで」
「……ふざけるな。ふざけるな!」
掴んだ手が小さく跳ねる。近くの家の明かりがつく。
知ったことか。
「いい加減にしろ!お前は悦啓の為にどこまでしてやるつもりだ!お前は一体悦啓のなんなんだ?お前は一体、誰のなんなんだ⁉お前の全ては悦啓の為の道具になるのか?周りの全ての人は、全てのものは悦啓の為の道具になるのか?ふざけるのもいい加減にしろ‼」
掴んでいた手を放して蛇沼の両肩を掴む。鼻先が触れ合う程顔を近づけて、一言一句を蛇沼の奥に押し込むように、言葉をたたきつける。こうでもしないと、伝わる気がしなかった。
「この世界はお前ら二人で出来てるわけじゃない!お前らの我儘に、何人巻き込むつもりだ!何人の気持ちを踏みにじるつもりだ!」
「…………」
蛇沼の目は相変わらず、俺のことを見ているのかも定かではない。そんな蛇沼を見ればみるほど、俺の苛立ちは募る。今も、昔も。
「お前が俺に打算で近づいて、打算で悦啓を紹介したことなんて分かってたさ!それでもそんな茶番に付き合ってやってた俺の気持ちを、お前は分かってるのか!俺がどんな気持ちでお前らに接してきたのか、どうせ知らないんだろうな。いい機会だから教えてやる!」
幾ら興奮していても、この次の句を続けるのにはためらった。だが、ここで言わなくてどうする。ここで言わなければ、もう言う機会はない。
「俺は、お前のことが好きなんだよ!高校のときからずっと!お前は俺のことなんか眼中に入ってなかったろうが、俺はずっとお前のことを見てた!あんな茶番にわざわざ付き合ったのも、悦啓のことしか見えてないようなお前が俺に声を掛けてくれたのが嬉しかったからだ!あってるのかすら怪しい噂をたよりにこんな所まで来たのも、お前が心配だからだ!はっきり言って今のお前は異常だ、なんで悦啓のためにそこまでするのか分からない!お前はもう悦啓から離れるべきだ!だから俺は悦啓に女の子を紹介したし、芥原に引き合わせた。それが上手くいったとは言わない。それについては謝る。けど知ってるか?悦啓はもう高校のときのあいつとは違う、確実に変わってるんだ!もう、お前がそこまで身を削る必要はないんだよ!お前がそこまで傷つく必要はないんだ!俺は、そんなお前をこれ以上見たくないんだよ‼」
言い切った。俺がこれまでため込んできたこと、隠してきたこと。流れでとはいえ告白までしてしまった。そのせいで蛇沼の反応をよく見れていない。改めて、蛇沼の反応を伺う。
一目でわかった。
一瞬で悟った。
一拍で夢が醒めた。
全くの虚無だった。
全くの無表情だった。
全くの無関心だった。
全くの無反応だった。
「…………あ、そう」
蛇沼は、俺の虚脱感だけは感じ取ったのか、今度こそ俺の手を振りほどくと速足で去っていった。
……え?
え???????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????
????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????
????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????
理解できない。
理解しようがない。
「あのー、」
肩が誰かに叩かれる。取り敢えず振り向くと、コンビニの店員が不審者を見る目で俺を見ていた。退けということらしい。それだけはなんとなく分かって、自動的に足が動き出した。
どこに行くのかも分からない。
今の自分がなにを考えているのかも分からない。
いやいや。いくらなんでも。そんなことは。あんなことは。あり得ない。
あり得ない?
あり得ない?
「……はははははははははははははは、」
ははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは。
変な音が喉から漏れ出す。そうして肺の中の酸素が全て吐き出される頃には、頭のどこかが冷静に回転し始めていた。
理解なんてしたくないが。
理解なんてしようとも思わないが。
分かっていたことだろう?
それとも、本当に分からないか?もしそうだというなら、とんだお花畑野郎だな。
考えてもみろよ。思い出してもみろよ。
俺は、高校でなにをしていた?なにをしなかった?
二人が辛い状況に追い込まれていたとき、俺はなにをしていた?
そうだ。よく覚えているだろう。俺は、なにもしなかった。二人が虐められているのを、ただ指を咥えて見ていることしかしなかった。
なに、恐れる必要はない。後悔する必要はない。
何故なら、周りの奴らもそうしていたから。そうだろう?
それは正しい判断だったよ。おかげで、平穏な高校生活を送れたのだし、きっとあの二人も俺なんかの助けははなから求めていなかっただろうし、期待もしていなかった。
でもな、その判断をした時点で、そっちの側に回った時点で、俺やその周りの奴らとあの二人との間には、絶対的な溝ができたんだよ。俺と二人は別世界の人間になって、別種の人種になって、別次元の存在になったんだよ。
俺が悦啓のためといってしてきたことが悉く裏目に出たのも、それが理由に他ならない。
俺だって、いくらゴキブリが意味有りげに動き回っていても、その意味を考えることもなしに潰すだろう?そういうことさ。
俺の言葉は二人の世界の縁にも届かない。
俺の思考は二人の関係の足元にも及ばない。
俺の常識は二人の心に掠りもしない。
俺の感情は二人の行動の肥やしにもならない。
全部無駄。全ては骨折り損だ。俺には一度だってあの二人に近づく資格を持っていたことはなかった。一度だってあの二人の視界に入る立場を持っていたことはなかった。
今の蛇沼の態度が、今までの俺の空回りが、なによりの証拠だろう?
もう諦めようぜ。そのための準備だって、俺は周到にしてきたはずだ。明日の予定を思い出してみろよ。
ずっと、分かってはいたんだ。あとは、それを認めるだけ。たったそれだけで、俺は解放される。身軽になれるんだ。
ようやく、自分がどこに向けて足を運んでいて、どこに向かうべきなのかが分かってきた。
帰ろう。俺の居場所に。
「あーあ。明後日の合コン、いい娘来ねえかなあ」
願わくば、この虚しさを埋めてくれるような、目も覚めるような人が現れんことを。




