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僕の違和感

僕の違和感

 最近、愛の顔をまともに見ていない気がする。いつからだろう。思い返してみると、もしかしたらかれこれ数週間はこんな調子かもしれない。僕がバイトに出かけている日はまず会わないし、そうでない日も顔は会わせていない。連絡は毎日のように取っているけど、愛が僕の部屋をふらっと訪ねてくることもなくなった。

 違和感は他にもあった。喫茶店に行けば毎日のように蟹沢さんは来てくれているけど、なんだかそわそわしているというか、落ち着かない様子だ。誰もいない窓の外を何度も見たりして、なにかを気にしているようだった。なにを気にしているのかは僕には分からない。訊いてみてもはっきりとは答えてくれなかった。

「枷下くん、お疲れ様ー」

「お疲れ様でした」

 今日も一日の大半はバイトで終わった。お店の片付けまで済ませてから、僕は喫茶店を出た。

 時刻は八時に差し掛かろうとしている。今日はいつもより遅くなってしまった。街灯の明かりしかない道を急いで歩いた。

 途中で寄り道をしたせいで、僕の家の最寄駅に着いた頃には九時になってしまっていた。こんな時間にもなると駅前でも人は殆どいない。こういう光景を見る度、微かな興奮と焦りが入り混じったような変な気分になってしまう。

「……あ」

 家路を急いでいると、その途中で数メートル先を歩く見知った背中を見つけた。顔は見えないけど、それが誰なのかは一瞬で分かる。まさかこんな所で出くわすなんて。

「愛。どうしたの、こんな時間に」

 声を掛けると、その人は果たして愛だった。

「…………」

 けど、なにかおかしい。いつもの愛とは様子が違う。僕を見てもなにも言わずに、ただじっと僕を見つめている。

「愛?どうしたの?体調でも悪いの?」

「……悦啓」

 僕の質問にも、愛は答えなかった。その代わりに、へらっと笑って僕に呼びかける。

「私、どうしたらいいと思う?」

 その表情は、声音は、僕が今までにいたことがないものだった。

「……ついてきて」

 僕の知らないところで愛になにかがあったのは間違いない。それも、よくないことが。


 駅からだと、愛の家よりも僕の家の方が圧倒的に近い。だから、僕は愛を自分の部屋に連れて行った。とにかく、落ち着いて話ができる場所が欲しかった。

「ついた。どうぞ、上がって」

 部屋の前まで来て扉を開けて見せても、愛はすぐには入ろうとしなかった。ここがどこなのかさえはっきりとは分かっていない様子で、ただぼんやりと前を見つめている。仕方がないから、その背中を押して強引に中に入れた。靴を整えることもせず、とにかく部屋まで入れて、座らせる。ここまでしても、愛はなんの反応もしなかった。

「ちょっと待ってて」

 愛は甘いものが好きだから、ココアを用意する。けど、手に嫌な汗が滲んで、いつもより余計に時間がかかってしまった。こんなことは初めてで、どうしたらいいかもわからなくて、ただ嫌な予感ばかりが募る。

 いつもの倍近くの時間をかけて、ようやく一杯のココアが出来上がる。自分の分は作らずに、それだけを愛に差し出す。

「…………」

 これを見て、愛がなんの反応もしないなんてことは今までなかった。それなのに、今日の愛は一瞬カップに目をやっただけで、手を伸ばそうともしない。

「どうしたの?なんか様子が変だよ。なにかあったの?」

 もう一度、今度はさっきよりもゆっくりと尋ねる。

「…………」

 今回も、返事はない。その代わり、愛は顔を上げて僕を見た。口を微かに動かして、なにかを呟こうとしている。

「これから、どうしよっか」

 まただ。さっきも、こんなことを言っていた。けど、僕にはこれがなにに関する問なのかが全く分からない。

「どうしようって、なんのこと?なにか悩んでるの?」

 愛は、これにも答えない。

「どうしたらよかったのかな」

「なにも間違ったことをしたつもりはないんだけどな」

「やっぱりおかしいのかな」

「私が駄目なのかな」

 愛は、立て続けにそんなことを呟き続ける。ただでさえその真意を掴めないでいるのに、立て板に水で尋ねられた僕は口を挟むことも出来ないでいたけど、愛はそもそも僕を見ていなかった。なにもない虚空を見つめながら、口元には仄かな笑みを湛えて、憑かれたように譫言を繰り返す。

 そんな愛を見て、背筋に虫唾が走るのが自分でも分かった。

 今の愛は間違いなく憔悴しきっている。けど、僕にはその原因も分からなければ、どう対応するのが正しいのかも分からない。こんな愛は見たことがなかった。愛は、いつも元気で、強かな人だった。こんな姿、一度も見せたことはなかった。

「…………」

 なにも言えない。励ますべき?慰めるべき?いたわるべき?笑わせるべき?落ち着かせるべき?

 原因も方法も分からないのに、どうやって?

「……………………」

 情けない。本当に情けない。ただおろおろするしかできないなんて。

「…………」

 愛も、すっかり黙り込んでしまった。焦点が合っているのかも定かじゃない虚ろな目で、僕をじっと見つめている。その目は、僕は愛の為になにを出来るのかを見定めているような感じがした。

「……ごめんね」

 結局、口を開いたのは愛の方だった。僕の顔を包みこむように、頬に両手を添える。

「悦啓は優しいから。困らせちゃったね。ごめんね。もう、大丈夫だから」

 その口調は優しくて、さっきよりは生気を取り戻したように聞こえる。それでも、僕はなにもしていない。なにも解決していない。

「……本当に、大丈夫なの?」

「うん。平気」

 愛は、笑ってそう答える。なにも出来なかった僕に、それに食い下がる権利はなかった。

「……あ、それより、ごめんね。こんなに遅くに上がり込んで。バイトもあったんだし、疲れてるでしょ。すぐ帰るから、悦啓はゆっくり休むんだよ」

 もう十時を指している時計を見た愛は、そう言うなり慌ただしく部屋を出ていってしまった。声を掛ける暇もなかった。

 冷めたココアは、手付かずのまま残されていた。


 次の日。今日はバイトの日ではなくて、僕は一日中部屋に籠っていた。外は土砂降りの雨で、例えどこかに行く意思があったとしても、今日外にでるのは厳しいだろう。そんな鬱屈した一日を、僕はずっとベッドに寝転んで過ごす。

 暇つぶしのためにバイトを始めてから、もう半月が経とうとしている。流石に半月もやれば新しい活動に体の方も慣れてきて、それ程疲れを感じることはなくなった。少し前までは、バイトがあった次の日なんかは一日中寝ていたけど、今日はそんなこともなく目は冴えわたっている。ただ、時間を潰すことを考えるなら、いっそ寝られれば楽だったろうと思わなくもない。

 ずっと寝ていると、お腹も空かない。朝に軽く食べてからずっと、僕はベッドの上で考え事をしていた。

 考え事というのは勿論、昨日のことだった。

 僕が知らない間に、なにがあったんだろうか。

 愛は僕よりも遥かに友達が多いし、色んなサークルにも入っている。だからそういった僕には知りえないところでトラブルを抱えたというのも考えられるけど、それは違う気がしていた。もし僕に関係ないことで悩んでいたのなら、あんな思わせぶりな質問を僕にしてきたりはしないだろう。

 一つ心辺りがあるとすれば、この前蟹沢さんが愛の名前を出してきたとき。接点がないはずの蟹沢さんが、愛について尋ねてきたことがあった。そのとき、僕はなにを考えたか。

 なんとなく、愛が蟹沢さんを気にしてるんじゃないかと思った。

 愛が僕のバイトを知ったとき、僕ははっきりとその経緯を説明しなかった。それを説明しようとすれば、必然的に芥原との一件を話さないといけなくなる。それが嫌だった。情けない話だったし、芥原の名前を出せば間違いなく愛の顔色が変わる。もう、あんなことで愛を振り回したくなかった。ただ、そのせいで愛が不審に思ったのは間違いない。それで、蟹沢さんのことを警戒してるんじゃないかと考えた。

 ただ、愛からはそんな話は出ていないし、蟹沢さんもあれ以来愛の話はしていない。それだけで愛があんな風になってしまうものだろうか。

 高校のときですら、愛は元気だった。いや、元気ではなかったけど、あんな風になったことはなかった。

 あのときよりも辛い、僕に関係のあること……。

 …………………………………………………………………………………………………………。

「……ん」

 目を開けると、枕元でなにかが振動している。雨の音は相変わらずだけど、部屋全体が暗くなっていた。寝てたのか。

 振動の元は置いてあった携帯だった。誰かから着信が来ていた。誰かを確認するのも面倒で、そのままボタンを押す。

「もしもし……」

「…………」

 応答はない。ただ、激しい雨の音が聞こえてくる。その異質さに目が覚めた。

「もしもし?」

「……悦啓」

 ようやく聞こえた声は、愛のものだった。その声は雨音にかき消されそうなほど弱々しくて、状況はなにも分からないのに思わず立ち上がっていた。

「愛?どうしたの?どこにいるの?」

「今、時間ある?あったら、私の部屋まで来て。ちょっと……話したいことがあるの」

 愛は一方的にそういうと、電話を切ってしまった。それからは、僕が何度掛け直そうとしても繋がる気配もない。

「……っ!」

 外にいるかのような雨音と、今にも消えそうな微かな声とが、嫌な想像ばかりを駆り立てる。

 部屋着のジャージのまま、外に出た。


 最近のアルバイトのおかげで、体力がついていたのかもしれない。歩いて二十分はかかる道のりを、十分で行くことができた。傘を差すと時間がかかるから、傘は差さずに走って向かった。

 愛の部屋があるアパートに着くと、道路に面したアパートの入り口に愛が立っていた。屋根もない所に手ぶらで立っているせいで、ずぶ濡れになっていた。

「愛!」

「……悦啓。来てくれたんだ、早かったね」

「なんでこんな所に、ずぶ濡れじゃんか!」

「それは悦啓も同じでしょ?とりあえず、部屋に入ろうか」

 内心穏やかじゃない上に、走って息も上がっているせいで前のめりぎみな僕とは対照的に、愛は穏やかな様子で僕を部屋へと案内してくれた。

 実を言うと、僕が愛の部屋に入るのはこれが初めてだった。場所は知っていても、大学からは僕の家の方が近いせいで愛が僕の部屋に来るというのがいつものことだった。

 初めて入った愛の部屋は、僕の部屋よりは少し大きいけど間取りとかは殆ど同じだった。

「ここ座ってて」

 愛は僕をベッドに座らせると、他の部屋に消えていく。戻ってきた愛は、マグカップとタオルを手に持っていた。

「今お風呂沸かしてるから、先に体を拭いて、これでも飲んでて。体を冷やすとよくないから」

 確かに、走っていたときの熱がなくなると、濡れたことがじわじわと効いてくる。有難くその二つを受け取ると、愛も僕の隣に腰かけて髪を拭き始めた。

「今日はごめんね。急に呼び出したりして」

「なにがあったの?昨日もそうだけど、なんか様子がおかしいよ」

「うん……まずは、それ飲んじゃって。落ち着いてから話すから」

 愛は直ぐには話そうとせずに、マグカップを差し出してくる。けど僕はそんな気分じゃない。一気に中の紅茶を喉に流し込んで、愛に向き直る。

「それで、どうしたの。なにか悩んでることとかがあるなら、僕に言って欲しい」

「……私ね、なんだかよく分からなくなっちゃって。私はなにをしたいのか、なにをするのが正しいのか。なにも分からなくなっちゃった」

「愛?」

「ねえ、悦啓。悦啓は、今楽しい?」

 愛は、突然にそんなことを訊いてくる。その質問の意図は分からなかったけど、答えは直ぐに出た。

 楽しい。

 けど、それを口にすることはできなかった。

 がくっと、体から急に力が抜けて、倒れる。それはあまりに突然で、僕はなんの抵抗も出来ずに愛の膝に顔を埋めた。

「⁇」

「……悦啓。私、もうどうしたらいいのか分からないよ」

 起き上がろうとした僕の頭を愛の手がそっと撫でる。それだけで僕の意識は薄闇の中に溶けていった。


 ごめんね。



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