表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/26

能天気な私

能天気な私

 私が蟹満さんの喫茶店で働き始めたのは高校一年生の夏。そのときの私は部活とは名ばかりのおしゃべりの会みたいなものに参加していて、夏休みは当然のように遊び惚けようということになっていた。けど、それを全て自分のお小遣いで賄うなんて当然無理で、困った私はお母さんがよく通っていた喫茶店でアルバイトをさせてもらうことにしたのだ。

 枷下くんが暇でしょうがないというのを聞いてここを紹介したのは、単に知り合いが経営するお店だからという理由だけじゃなかった。ここはお客さんも殆ど常連さんで、話しかけられるというのも珍しいことじゃない。そういう環境が枷下くんにはいいんじゃないかという思いがあった。話しかけてくるのは大体私たちより一回りも二回りも年配の人だから枷下くんの刺激にはなりにくいだろうし、なによりこちらは仕事として割り切って応対することもできる。実際に私はそうしていたし、親しくもビジネスライクにも自由に距離感を調整できるなら枷下くんの苦手意識を徐々に和らげられるんじゃないか。更に言えば、私が意味もなく避けられることもないだろう。

 今のところ、そんな私の目論見は上手くいっているように見える。紹介した動機が動悸だから、様子が気になってほぼ毎日通い詰めているけど、お客さんたちにも馴染めているようだし、なにより枷下くん本人もここでの仕事を楽しんでいるみたいだった。私が悦に入るようなことじゃないのは分かっているけど、それでも嬉しい。今日も行ってみようかな。

 私が顔を出すときはいつも、客足が落ち着いた時間に行くんだけど、今日は生憎これから予定があるせいで、早い時間に行くことにした。人が多いから落ち着いて話はできないだろうけど、様子を見るくらいはできるはずだ。

 店についてみると、案の定二十人分くらいある席の大半が埋まっていた。

「お、蟹沢か。残念だけど、枷下くんは今日はいないぞ」

 私がドアを開けるなり、それに気づいた蟹満さんはそういった。見ると、確かに枷下くんの姿は見当たらない。

「ほんとだ。今日は休みですか?」

「そうだよ。いつものでいいか?」

 空いているのはカウンター席くらいしかなかった。ここに来る人たちは、大体いつも数人で来てここでおしゃべりをする。だからテーブル席の方がすぐに埋まる。今日もそんな感じ……あ、違う。一人の人がいる。

 店の隅にある二人席に一人で座っている人がいた。俯いているけど、ここには珍しい若い女の人だ。私と同年代に見える。

「はい。レモンティー」

 蟹満さんがレモンティーを持ってきてくれた。いつまでもじろじろ見ていても失礼だし、カウンターに向き直る。

「枷下くんが休みなんて珍しいですね。ここのところ殆ど毎日来てたのに」

「だからだよ。いくら暇だからって、毎日ってのは来過ぎだろ。もう二週間近くになるぞ」

 蟹満さんはコーヒー豆を挽きながら苦笑を浮かべる。この人はよく『ブラック企業』だとか『過労』という言葉に反応する。なんでも、この喫茶店を始める前に勤めていた会社が典型的なブラック企業だったそうだ。それに嫌気が差して会社を辞めたという経緯があるから、自分の経営するお店がブラックのなるのを酷く嫌っている。

「でも、急に一人になっちゃって、ちゃんと回せるんですか」

「別に、いないならいないで構わないよ。そもそもバイトを入れたのだって、お前のお母さんに頼まれたからなんだし」

「じゃあ、なんで私にはあんなにしつこくメールしてくるんですか」

「そりゃあ、どうせなら楽したいからに決まってるだろ……あ、お会計ですか?」

「…………」

 蟹満さんは、私にはわざとらしくおどけた顔をして肩をすくめて見せたかと思うと、一瞬で営業スマイルに切り替えて私の後ろに声をかけた。つられて私も後ろを振り返ると、さっきの女の人がいつの間にかすぐ後ろに立っていた。

「……びっくりした」

 思わずそう言ってしまう。いくら周りが騒がしいからって、こんな近くにいて気づかないなんて。そして、その呟きが聞こえてしまったのか、女の人が私を見た。


「お前か」


 そう聞こえた気がした。本当にそう聞こえたのかもしれないし、私の勝手な想像かもしれない。けど、目が合った瞬間、この人から私に向けられた確かな敵意を感じた。そんな目をしていた。

「あ、お会計はこちらです」

 それは一瞬のことだった。蟹満さんが声を掛けると、女の人はなにごともなかったかのようにそちらに歩いて行く。私も、何も言わずに向き直るしかない。それでも、なにもなかったことにはならない。レモンティーを口にする余裕もなく、その人が会計を終えてお店を出ていくのを背中で追っていた。

「……蟹沢?どうした?」

「……あ。いえ……」

 きっと、今の私は凄い顔をしているんだろう。蟹満さんがこんなに心配そうな表情になってしまうくらい。けど、そう声を掛けられても表情を取り繕う余裕すらない。ベルがもう一度鳴って、あの人がここに戻って来ないか、全身を耳にして注意するのに手一杯だ。

 最後にベルが鳴って何分かして、ようやく私は全身の力を抜くことができるようになった。

「……本当にどうしたんだ?どこか具合でも悪いのか?」

「いや、もう大丈夫です。大丈夫ですから」

 しばらく固まっていたから、いよいよ普通じゃないと思わせてしまった。わざわざカウンターから出てこようとする蟹満さんをなんとか止めた。

 けど、落ち着いてお茶を飲んでいる気分ではなくなってしまった。予定までにはまだ時間があるけど、ここにいても体が冷える一方だ。ちょっと早いけどもう出よう。

「すいません、この後予定があるので帰りますね」

「ああ……本当に大丈夫なんだな?」

 そう念を押す蟹満さんには、しっかりと笑って答えられたはずだ。お金をカウンターに置いて外に出た。

 外に出た瞬間、蝉の鳴き声が質量をもっているかのような迫力で迫って来る。日差しも強くて、しばらく屋内にいたせいでまともに前も見えなくなってしまう程だった。歩き出せばすぐに汗が滲んできて、冷えすぎた体を温めてくれた。

 けど、いくら温めてくれるといっても温まり過ぎると熱中症になってしまう。駅までは少し距離があるしと、少し歩くペースを上げた途端、

「あの」

 後ろから声を掛けられた。

「はい?……あ、」

 突然のことで、つい普通に応じてしまう。そして、振り向いた瞬間後悔した。女の人の声がした時点で疑ってかかるべきだったのに。

 そこには、さっきの女の人がいた。さっきは薄暗い上に少ししか見ていなかったけど、この人で間違いない。直感的に、そう感じた。

 けど、笑顔を浮かべているというのはさっきと違っていた。

「突然すみません。実は、道に迷ってしまって……ここにはどうやって行けばいいんでしょう?」

 そう言ってスマホの地図を見せてくる。その表情は申し訳ないと言わんばかりで、言葉遣いも丁寧。さっき私が抱いた印象とは正反対だ。

 ……もしかしたら、私のイメージが間違っていたのかもしれない。そもそも、見ず知らずの人に突然敵意を抱くことなんてあり得ないし、びっくりした私がその驚きを悪い方に転嫁しただけだと考える方が自然な気もする。そうなら、ここで断るのもおかしな話だ。

「えっと……ああ、ここですか」

 見てみると、目的地というのは駅に通じる大通りだった。多分この辺りの入り組んだ道で迷ってしまったんだろうけど、時間で言ったら十五分もかからない。駅に向かう私と方向は同じだし、案内するのも難しくない。

「分かりました。私も行く方向は同じなので、一緒に行きましょう」

「本当ですか?ありがとうございます」

 そう言って頭を下げる様子は大人びては見えるけど、やっぱり私の印象とはかけ離れている。私の勘違いだったんだろう。

「じゃあ、行きましょうか。こっちです」

 私が歩き出すと、女の人も横に並んでついてくる。道に迷うくらいだからここへ来るのは初めてなんだろうけど、入り組んだ道をきょろきょろと見回していた。

「それにしても、ここって本当にややこしいですね。来た道を辿れば大丈夫だと思っていたんですけど、似たような場所が多くて。GPSを使っても分からなくなっちゃって、本当に助かりました」

 女の人はそういうと、照れ隠しのように笑う。そうなってしまうのも無理はない。

「この辺、最近土地開発が始まってるんです。だから地図がずれてるのかもしれないです」

「そうなんですか……全く、ここの喫茶店がお勧めだと言われて来てみたら、酷い目に遭いました。まあ、いい所ではありましたけど。……あ!」

 隣で突然大きな声を出されたものだから、少し飛び上がってしまう。けどそんなことには構いもせずに、女の人は私を見つめる。

「そういえば、さっきあのお店にいらっしゃいましたよね?」

「……ええ」

 どうやら、今になって気づいたらしい。その話になるとどうしてもあれを思い出してしまうけど、頑張ってその記憶を振り落とす。勘違い。あれは勘違いだから。

「やっぱり!同じくらいの歳の人が一人いるなって思って、ちょっと気になってたんですよ。あそこにはいつも来られるんですか?店員さんと仲良く話していたようですけど」

「最近は時々来てますけど、常連という程じゃないです。もともとは、あそこでアルバイトをしてたんです」

「へえ」

 なぜか、その相槌だけぶつ切りにされているように聞こえた。

「今はなされていないんですか?」

「はい。他の人を紹介して、今は客として行ってる感じです」

「それって、枷下くん、という方のことですか?」

「え?」

 なんでそれを知ってるの?思わず振り向くと、女の人も私の疑問を察したらしい。

「……すみません、話が少し聞こえてしまって」

「ああ……」

 そういえば、蟹満さんが開口一番枷下くんの名前を出していたっけか。あんな大声で言ったら聞こえていてもおかしくない。

「そうです。バイトを探していたので、紹介したんです」

「随分仲がよろしいんですね?」

「いや……」

 多分、仲は良くない。まだ。

 けど、詳しい経緯を初対面のこの人に全部説明するのも変だし、適当に返しておくことにした。

「まあ、悪くはないんじゃないかなと思います」

「……成程。あ、」

 私たちはもう入り組んだ路地を抜けていた。ここまでくれば大通りは目前だ。女の人もそれに気づいたのか、足を止めた。

「ここですよね。あの、私はもうここで大丈夫です」

「そうですか?まだ少しありますけど」

「いえ、これ以上ご迷惑をおかけするわけにもいきませんから。本当にありがとうございました」

 女の人はそう言って深々と頭を下げる。たかが道案内でそこまでされてしまうと、私としてはなんだかむず痒い。

「お役に立てたのならよかったです」

 とはいえ、ああいう丁寧な人相手にこちらまで謙遜してしまうと鼬ごっこになってしまう。素直にお礼を受け取って、私は駅へ向かう道を進んだ。

 思わぬ同伴者がいたからいつもより時間はかかったけど、あの恐怖が錯覚だと分かったおかげで、私の気分は軽かった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ