私の胸騒ぎ
私の胸騒ぎ
はっきり言って、合宿に行く意味は全くなかった。もともと興味がなかったのもあるけど、途中で気がかりなことができたことでますます上の空になってしまった。
悦啓が、アルバイトを始めたという。私が合宿に行って少し経った頃、悦啓からその話を聞いた。
なんで?
それが私の感想だった。実際、訳が分からなかった。だって、今までアルバイトのアの字もなかったのに。私がそのことを口にしたこともなければ、悦啓自身がほのめかしたこともない。あまりにも急すぎる。なにもないのに、悦啓が自分でアルバイトを始めようと思い立つとは思えなかった。
なんで急にアルバイトなんて始めたの?どうやって探したの?どんな所で働いてるの?聞きたいことは沢山あって、けど殆ど答えて貰えなかった。悦啓は毎日のように「疲れている」といってすぐに寝てしまったから。
もどかしい気持ちで残りの合宿をやり過ごして、今日ようやく帰って来ることができた。合宿は一旦大学に戻ってからの解散だったけど、のろのろしていると鬱陶しい打ち上げなんかに誘われかねない。機を伺って、解散の号令が出る前にそっと抜け出した。向かうは、悦啓の部屋。
現在時刻は正午過ぎ。アルバイトは午後だろうとあたりをつけているから、まだ家にいるかは怪しい。それでもできる限り急いで家に向かう。悦啓の家はこの大学と最寄り駅の間にあるアパートで、ここからそう離れてはいない。急げば十五分くらいで着くはずだった。
予想より少し早く到着する。部屋の構造的に、ここはキッチンにでもいない限り外から人の気配を探るのは難しい。いるかどうかは、インターホンを押してみるまで分からない。
「…………」
二度、三度。何度インターホンを押してみても、中からの反応はなかった。こんなこと、今まで一度もなかったのに。なんで。どうして。なにがあったの。なにをしてるの。
「……………………」
こんなことなら、多少強引にでも合鍵を作っておくんだった。けど、今そんなことを言っても仕方がない。いつまでもここにいても不審に思われるだけだし、場所を変えよう。
このアパートの最寄駅は一つだけ。そして話を聞く限り、アルバイトはそれなりに離れた所でやっているらしい。だから、駅にいれば帰ってきた悦啓を見つけられるはずだった。念のために悦啓がいつも通る道を辿って、駅に向かう。
私たち学生は夏休みでも、世間は普通の平日で、時間が真昼なこともあって駅前とはいえ人はそんなにいない。居並ぶ店も似たような感じだ。その中でも、駅前一帯を見渡せる位置にあるファミレスに入ることにした。
「いらっしゃいませ。何名様ですか?」
客がいないせいで、すぐに私に気づいた店員がやってくる。
「一人です」
「かしこまりました。それではこちらに、」
「あの、あそこにしてもいいですか」
店員は私を店の奥に案内しようとする。けど、そこじゃ意味がない。返事も待たずに窓際の席に陣取る。
「あ、あの……こちらがメニューです……」
あとから追いついてきた店員は、おずおずとメニューを差し出すと足早に戻っていく。完全に変な人だと思われたみたいだけど、ここの店員になら何と思われようが別に構わない。どうせもう来ることはないだろうから。
時計の針は二時を指そうとしている。悦啓がアルバイトに行っていたという日は夜の七時頃まで連絡が取れなかった。七時が仕事が終わる時間として、電車を使っているなら離れた所にいるかもしれないし、ここに着くには更に一時間くらいかかるかもしれない。
本当は休んで合宿の間に意味もなく負ったストレスを解消したいし、荷物の入った大きいトランクも置いていきたいけど、私の家はここからだと少し離れているし、一旦部屋に戻るとそのまま寝落ちしてしまいそうで怖い。帰ってこれた以上、少しでも早く悦啓に会って詳しい経緯を知りたかった。店員を呼び出すためにベルを押す。
時計が八時を示す。今の所、悦啓は来ていない。帰宅ラッシュの時間帯は駅前もかなり混雑していたけど、見落としてはいないはずだ。そんなにレパートリーがあるわけでもない悦啓の服装くらい、すぐに見分けられるんだから。
「…………」
ふと、視線を感じる。目だけそちらに動かすと、店員がちらちらと私を見ていた。ここに居座ってもう六時間になるし、怪しまれているのかもしれない。仕方ないから、伝票を持ってレジに向かう。悦啓も流石にあと三十分もすれば帰って来るだろうし、それなら外にいた方がすぐに動ける。
座れそうな所がなかったから、立てたトランクの上に腰かけて悦啓の姿を探す。大きいトランクが目を引くのか通りがかる人の何人かは私とトランクを見比べながら歩いていく。もしかして、怪しまれてるのかな。職質なんてされなければいいけど。
幸い、警官が私を見つけるよりも私が悦啓を見つける方が早かった。時刻は八時半。まばらな人影に混ざって出てきた悦啓は、私がいるのとは反対側の道を真っ直ぐ家に向かって歩いていく。どうやって声を掛けようか考えながら、その後を追いかけた。
「あ、悦啓」
「え?」
私は、悦啓が駅から少し離れた住宅街に差し掛かった辺りでその肩を叩くことにした。
「愛?なんでここに?」
「言ってなかった?今日帰って来るって。駅に着いたら悦啓を見かけたから、追っかけてきたの」
「……ああ、そういえばそうだったね」
悦啓はどこかぼんやりとしながらも頷くと、再び歩き出す。本当に疲れているようにみえる。
「元気ないね。バイト、大変?」
「これでもかなり慣れてきてはいるんだけどね。今日は初めて在庫の管理をしたから、それで疲れちゃって」
「どこでやってるんだっけ?」
「喫茶店。場所はここからかなり離れてるんだけど」
そういって悦啓が口にした駅は、確かにここから離れている。片道でも小一時間はかかるだろう。じゃあ、悦啓はどうしてそんなに離れた所でバイトを始めたの?
「でも、急にアルバイトなんて、どうしたの?しかもそんなに離れた所で」
「いや……愛に合宿に行って、って言ったでしょ、僕。けど愛がいない間もの凄く暇になっちゃってさ。仕方ないからバイト始めたんだよ」
悦啓は照れ隠しのように頭を掻いて笑う。そんなことするくらいなら、私に変な気を使わなきゃよかったのに。
まあ、バイトを始めた理由は分かった。けど、もう一つの理由は分かっていない。
「けど、そんな離れた所のバイトをよく見つけられたね」
「え?ああ、それは……」
悦啓はまた頭を掻く。けど、それは照れ隠しではないように感じた。
「最近知り合った人に紹介してもらって……」
「それって、私の知らない人?」
「うん。前にも話した合コンのときにいた人なんだけど、この前たまたま会って」
「たまたま?」
「たまたま」
「…………」
そういう悦啓の目は、明らかに嘘をついているときの目だった。いや、嘘をつくっていうと言いすぎかもしれない。けど、なにか隠しているのは間違いない。
私がなにかに感づいたというのは、悦啓にも伝わったらしい。私から目を逸らすと、見えてきた自分のアパートを見て露骨に大きな声を出す。
「……あ!ごめん、今日も早く寝たいから、じゃあね」
私の目も見ずにそうまくし立てて、悦啓は逃げるように帰っていった。
………………。
悦啓は、なにかやましいことがあるとき、決まって目の動きがおかしくなる。もともと人の目を見るのが苦手なのに無理に相手の目を見ようとして、結局後ろめたくて目を逸らす、というのを繰り返す。あんな悦啓をみたのはしばらく振りだけど、高校にいたときはよくみていた。
「今日は大丈夫だった?嫌なことされなかった?」
そう聞くたびに、悦啓は口で大丈夫と言いながら目を行ったり来たりさせていた。
合コンで会ったというなら、十中八九相手は女。今の所バイトを紹介した程度のことしかしていないみたいだけど、これからどうなるかは分からない。
「……大丈夫。私が助けてあげる」
悦啓は、極端なことに毎日シフトを入れていたらしい。けど、見かねた雇い主から日数を少なくするように言われたようで、一日おきに行くことになったと言っていた。悦啓から休みの日を聞き出して、私は悦啓のシフトがない日にその喫茶店に向かうことにした。
私は喫茶店と聞いてよく見かけるようなチェーンの店を想像していたけど、その喫茶店は個人でやっているようだった。普通に歩いていたらまず見つけられないような奥まった場所にそこはあった。店もそこまで大きくなくて、外から見たところ店員らしき人は一人しかいない。
「いらっしやいませ」
店に入ると、エプロン姿の男性がカウンターの向こうから声を掛けてくる。しかし、そこから出てくる様子はない。どういうシステムなんだろう。セルフなの?
「……あ、ご自由な席にどうぞ」
私が戸惑っているのに気付いたのか、男性が教えてくれる。……こういう所はルールが分からないから苦手だ。
適当に隅の方の二人卓を選ぶと、男性がメニューを持ってこちらにやってきた。
「ご注文が決まりましたらお教え下さい」
「あ、じゃあカフェオレで」
今日はコーヒーを楽しむためにここに来たわけじゃない。メニューも見ずにどこにでもありそうなものを注文したけど、男性は気にした素振りもなく「かしこまりました」と言い残して戻っていく。
今日ここに来たのは、悦啓にここを紹介したという人を探すためだった。紹介したというなら、その人もここで働いてる可能性があるんじゃないかと考えたからだ。本当なら水仙に聞くのが一番早いんだけど、何故か昨日送ったメッセージに既読すらつかない。SNSでの動きも減っていて、学校がない以上追いようもない。だから、こんなことをする羽目になった。
けど、今日は店員はあの男性しかいないようだった。もしかしたらその人は男なのかもしれないけど、それにしたって三十代ってことはないだろう。そもそも今は働いていないのか、たまたま今日はいないだけなのか。後者だといいんだけど。
この店は、外から見た感じは普通のコンクリート造りの平屋に見えたけど、内装は暗い色合いの木目調になっていて、クラシックが静かに流れているせいもあってか落ち着いた雰囲気になっていた。多分あの男性がオーナーなんだろうけど、脱サラして趣味で細々とやっているようなイメージを持ってしまう。なぜかサラリーマンのような服装をしているのもその名残かも。
けど、そんな落ち着いた雰囲気も三十分もするとなくなった。そういう時間帯になったのか、客が次から次へとやってきて途端に賑やかになる。その全てがここには通いなれているようで、中には店長らしき男性に親しげに話しかける人もいた。その年齢層はそれなりに高めで、見た感じ一番若いのは私のようだった。多分、この辺りに住んでいる人たちなんだろう。同年代の人がいないって点では悦啓にとっては割とやりやすい環境なのかもしれない。そこは安心だけど、一番気になっている悦啓に近づく不審者についてはなにも分かっていない。
とはいえ、これ以上ここにいてもそれは分からなそうだし、今日はもう帰ろう。
そう思ったとき、ベルが鳴って、新しい客が入ってきた。
「お、蟹沢か。残念だけど、枷下くんは今日はいないぞ」




