僕の新体験
僕の新体験
目が醒めた。視界も定まらないうちに、口が先に動いた。
「……暑い」
手探りでエアコンのリモコンを取ってスイッチを入れる。冷たい風が部屋を循環しだすまで、起き上がる気にもならない。とはいっても、目が醒めて意識もはっきりしてきてしまうと、空腹感が気になって仕方ない。しょうがないな……。
……ブブッ。
足元に絡まった毛布を蹴り上げて、上半身を起こしたところで微かに着信音がした。出所を探してみると、ズボンのポケットに入っていた。……そもそもなんで僕は、余所行きの服のまま寝てるんだろう。
電源をつけるとメッセージが来ていた。愛からかな……いや、違う。
『おはよう。調子はどう?』
「……ああ」
その短いメッセージを前にしばらく考え込んで、ようやく色々と思い出した。昨日の痴態の数々を。
昨日、芥原に引き合わされた僕は、情けなくも茫然自失状態になって、その場から逃げ出した。しかも、そのままとっとと逃げればいいものを構内をうろうろしたために芥原に出くわして、腰を抜かしてなすがままになっていたところを蟹沢さんに助けてもらったんだった。そのあと話をして、開き直りのような、それでも間違いない僕の本心を話した。
今にして思えば、なんであんなことを言ったのか。多分、純粋に疑問だったからだと思う。水仙、蟹沢さん、みんなこぞって僕の苦手を矯正しようとして、どうしてそんなに干渉されなくちゃいけないのかが分からなかった。だから、あんな質問をぶつけて牽制しようとした。
けど、その牽制は、思いもよらない変化球で躱された。
「……気に入らない」
あのとき、蟹沢さんはそう言った。
「え?」
思わず聞き返してしまった。
「枷下くんのいうことはもっともだと思う。私は、それにはなにも言い返せない。けど、それは枷下くんの都合で、私には関係ない。そんな、昔枷下くんの周りにたまたま性格の悪い女がいて、私もその人と同じく女だからってだけの理由で、仲良くなるかどうかの判断すらしてもらえずに拒絶されるのは私が気に入らないよ」
予想外の返しに戸惑っていた僕に、蟹沢さんは追い打ちのようにこう続けた。
「枷下くん。最終的に、枷下くんが私を嫌うのならそれでもいい。けど、付き合っていけそうかどうかの判断は、ちゃんと話して、関係を持ってから決めてほしい。それすらしないで、私の性別だけで私を避けないでほしい」
あっけにとられてしまった。そして次に、やられたと思った。
ただ、それだけならまだよかった。それなのに僕は、その敗北感と納得を、表情に出してしまった。そして、蟹沢さんはそんな隙を逃しはしなかった。
結局、僕は無闇に蟹沢さんを避けないことを約束させられて、連絡先も交換することになった。だからこうして蟹沢さんがメッセージを送ってきている。
『あれ、もしかして寝ちゃった?』
既読だけつけたのに一向に返信しないのが気になったのか、こんなことまで言われてしまった。
『今起きました。でも、少ししたらまた寝るかも』
『え?起きたなら起きてようよ。二度寝はよくないらしいよ』
『そうはいっても、なにもすることがないので……』
『サークルはないの?』
『どこにも入ってないんです』
『じゃあ、遊びに行ったりは?夏休みだよ?』
『しないですね。特にしたいこともないし、暑いし』
『バイトは?』
『バイトもしてないです。そもそもやったこともないですね』
『え、ないの?今まで一度も?』
『一度もないですよ』
『よく金欠にならないね……。遊びには行かないにしても、なにか趣味みたいなのはないの?』
『あったら二度寝なんかしないです』
『そっかー……そうだよね……』
しかし、改めて考えてみると、僕は今まで一体どうやって暇な時間を過ごしてたんだろう。
趣味は、ない。間違いなく。アウトドアなものは勿論、インドアなものさえない。運動とか、体を動かしてなにかするのは面倒だと思ってしまう。映画は数か月に一度観るかどうかだし、本も読まないではないけど別に読まなくても苦にはならない。料理は生活に必要な程度しかしない。ゲームもここ数年やっていない。音楽は聴かないし、ネットサーフィンみたいなこともしない。だからスマホも偶にする連絡用でしかない。買い物をしようにもなにを買えばいいのかすら思いつかない。
うーん、こうしてみると重症だ。本当に、今までなにをしていたのか……あ、愛か。
愛は時々僕をどこかに連れ出すことがある。それは僕というより愛が買い物をしたり遊んだりするためだったけど、思い返せば観た映画も買ってきた本も今着ている服もそのときに買ったものだ。僕の部屋にある家具のいくつかも愛のチョイスだったはず。
そういうことか。道理で、最近ことさらに虚無な毎日を送っていたわけだ。
愛は今所属しているサークルの合宿に行っている。いくつも入っているサークルのどれかまでは分からないけど、きっとそのサークルにいる友達と楽しくやっているはずだ。愛の交友関係はとにかく広くて、どのサークル、どのコミュニティにも必ず何人かは友達がいたから。
愛からきいた話だと、その合宿はサークルが唯一行う合宿らしくて、県外を転々としながら長い間行うんだとか。その期間はおよそ三週間。愛がその合宿に行ってから四日経っているからあと二週間半はこの調子ということになる。マジか……。
余りの虚無に流石に少し慄いていると、手の中のスマホがまた揺れる。さっきのメッセージから蟹沢さんはしばらくなんの反応もしなかったけど、またなにか送ってきたらしい。
『なら、バイトしてみない?いくらなんでも、これからずっとなにもしないで過ごすのは虚しいでしょ』
『バイトですか……履歴書送ったり面接したり、色々やることがあるんですよね……』
『あるにはあるけど、バイトならそこまで仰々しいことはしないよ。それに、面接とかはしないで済むと思う。私が紹介するから』
『紹介?』
『うん。私が前にバイトしてたところを紹介してあげる。そこなら仕事の雰囲気とかも教えられるし、知らない所でやるよりやりやすいと思うんだけど……どう?』
この提案は、つい今しがたやることのなさに戦慄した身からするととてもありがたい。どうせ趣味なんて一朝一夕で作れるものじゃないし、ならバイトをするのが手っ取り早くスケジュールを埋める方法だ。
けど、どうしても未経験故の不安が気になってしまう。
『そこって、どんな所なんですか?』
『個人経営の喫茶店だよ。いつもはそんなに人は雇ってないんだけど、夏休みの間とかはバイトを頼んでるの。仕事は接客がメインになると思うけど、学生が沢山入って来るような所じゃないから、お客さんは殆ど大人かな。かなり落ち着いた所だよ』
接客か……。けど、仕事としてならそこまで困ることはない。オーダーとか会計とかが殆どだろうし。学生客が少ないなら、万が一にも顔見知りとばったり、なんてこともなさそうだ。
なかなかの好条件だ。これを断ったら、次の候補はもっと不安要素の強いものになるだろう。
あとは、僕の気持ち次第か……。
『……少し考えさせて下さい』
そのあと、しばらくこのことで悩むはめになったけど、おかげで余り退屈はしなかった。
次の日、今度は僕の方から蟹沢さんに連絡した。昼頃に送ったから気づくまでしばらく時間がかかるかと思っていたけど、三十分もしないうちに既読がついた。
『こんにちは。昨日のバイトの件ですけど、紹介してもらってもいいですか?』
『あ、その気になってくれた?』
『流石になにかしたいなって思って……』
『私もそれがいいと思うよ。それで紹介のことなんだけど、聞いてみたらさっきちょうど連絡がきて、枷下くんさえよければすぐにも来てほしいってことだったんだけど、どうかな?』
おお、なんという好都合。神に興味はないけど、こういうことがあるとなにかしらの巡り合わせのようなものを感じてしまう。善は急げというし、気が変わらないうちに話をまとめてしまった方がいいだろう。
『僕はいつからでも構わないです』
『なら、明日からでどう?』
それからとんとん拍子で段取りが決まって、明日からの仕事に先駆けて今日の内に喫茶店の店長と顔合わせをしようということになった。蟹沢さんから伝えられた時刻は、営業が終わった夕方。その時刻に喫茶店に来てほしい、ということだった。
そして、その時刻の三十分前。僕は喫茶店の最寄駅に降り立った。教えてもらった店名をネットで調べると、駅からかなり離れているらしい。方向音痴とかではないけど、道に迷って時間に遅れないように慎重に地図をなぞっていく。
そこから更に二十分後、目的の喫茶店の到着した。人通りのある大通りから外れた店よりも民家の方が目立つ区画の、細々とした路地が入り組む場所にそれはあったせいで危うく道に迷いかけたけど、なんとか遅刻せずにたどり着くことができた。よかった……。
時間には少し早いけど、店のドアには既に『closed』の看板がかかっているし、人の姿もない。入っても問題はないだろう。
「失礼しまーす……あの、ご紹介頂いた、枷下というものなんですが……」
問題ないと頭では分かっていても、閉じられていたのを勝手に開けるのは罪悪感が凄い。なるべく音を立てないように細くドアを開けてお伺いを立ててみる。と、
「あ、来た!」
店のどこからか男性の声がした。と思うと次の瞬間、正面のカウンターが鈍い音を立てて揺れた。
「った!」
続く悲鳴。声の主がどこかぶつけたということだけは分かったけど、僕は突然の急展開にすっかり委縮してしまって、店に足を踏み入れることはできないまま声の主が姿を現すのを待った。
「……痛ったー……あ、ごめんごめん。驚かせたね。君が枷下悦啓くん?」
やがてカウンターの下から、一人の男性が頭をさすりながら姿を現した。見た感じ三十歳くらいの、かなり高身長な男性。この人がこの喫茶店の店長だろう。半袖のシャツに黒のスラックスと、夏場のサラリーマンのような服装の上にエプロンを着ているのが印象的だ。
「あ、はい。そうです」
「オッケー。蟹沢から話は聞いてるよ。こんな時間にわざわざ来てもらって悪いね。そんなにかしこまる必要はないから、まあその辺に座ってよ」
そういって男性は近くの二人用のテーブル席を指し示す。僕が座ると、男性は僕の正面に座った。
「初めまして。俺は蟹満。この喫茶店のオーナーだ。それっぽくいうなら、マスターってところかな」
「初めまして。枷下悦啓です。蟹沢花恋さんにここを紹介してもらって、」
「うんうん、聞いてるよ。バイトに入ってくれるんでしょ?しかも明日から。いやー助かるよ」
蟹満さんは笑顔で手を振って僕の言葉を遮ると、席を立ってカウンターに向かった。飲み物を用意してくれるらしい。
「枷下くんはコーヒーならブラック派?それともミルクと砂糖いれる?あ、他のでもいいよ」
「あっと、ブラックで大丈夫です」
「りょーかい」
蟹満さんはてきぱきと、それでいて落ち着いた手つきでコーヒーを準備していく。けど、そんな手つきとは対照的に賑やかに話しかけてくる。
「枷下くんは、蟹沢とは友達なの?」
「あ……いえ、知り合ったのは最近なんですけど、僕が暇を持て余してるって知ってここを紹介してくれて」
「あー、成程、そういうことね。蟹沢もあれでなかなか頭が回るね。さしずめ、人身御供ってところか」
「人身御供?」
こんなところでそんな不穏なワードが飛び出してくるとは思わなかった。
「いやね、いつもこのシーズンは蟹沢にバイトを頼んでたんだけど、今年は大学生になって忙しいからって断わられてたんだよ。それでも俺が食い下がるから、君を生贄に捧げたんでしょ。あんないかにも無害そうな顔して、あくどいことするねえ」
「生贄……」
メッセージをやり取りしてたときは気づかなかったけど、そんな思惑があったんだろうか。しかも、さっきから人身御供とか生贄とか言われるから、どんなバイトなのかも不安になってきてしまう。そんなにハードなのかな……。
僕の顔色が曇ったのに気付いたのか、蟹満さんは慌てたように手を振って見せる。
「あ、いやいや、そんなに無理なことはさせないよ。そもそもそんなことができるほどの職場でもないし。お客さんが来たら注文を取って、俺にそれを伝えて、できたら席まで届けてもらう。そのくらいだから。忙しい時間はそれなりに人も来るけど、一日中そんなペースってわけでもないし」
「そんな感じなんですか?」
その通りなら、蟹沢さんが言っていた通りだし、僕の想定の範疇でもある。
「うん。そんなもんだよ。枷下くんは、こういうアルバイトは初めてなんだよね?」
「はい……なので、上手くできるかどうか……」
「ああ、それなら心配ないよ」
出来上がったコーヒーを持って蟹満さんが席に戻って来る。ありがたくコーヒーを飲ませてもらう。ブラックではあるけど、苦いだけじゃなくてどこか甘さのようなものがある。そんな味がする。
「ここに来るまでで分かったかもしれないけど、この辺は駅からも離れてるし目立たない所にあるしで、来てくれる人は殆ど常連さんばっかりなんだ。俺からバイトに入ってもらってるんですって言えば、多少ぎこちなくなっても気にしないでいてくれる人ばっかりだし、クレーマーみたいな変な人も来ない。安心していいよ」
「そうなんですか……」
そう言ってもらえると、少しだけ気が楽になった気がした。雰囲気も気まずい感じではないし、一切の不安がなくなったとまでは言えないけど、少なくとも不安が増すことはなかった。
それから、コーヒー二杯分くらい話をした。緊張している僕を気遣ってくれたのか、仕事とは関係ない雑談のような話の方が多いくらいだったけど、取り敢えずは明日の昼前から閉店まで働くということで、話が纏まった。
いよいよバイト初日。二度目なのにまた道に迷いかけながら、喫茶店に向かう。店では既に蟹満さんが開店の準備をしていた。
「おはようございます」
「あ、おはよう」
蟹満さんは僕を認めるとにっこりと笑ってカウンターを指さす。そこには、今蟹満さんがつけているのとおなじ深緑色のエプロンが畳まれて置いてあった。ここには制服のようなものはないらしくて、私服の上にこれを着ればいいと昨日聞いていた。その通りにエプロンを身に付ける。
「お、様になってるね。それじゃ、あと三十分くらいで開けるから、それまでに今日やってもらうことをおさらいしておこうか」
とは言っても、昨日伝えられたことはそう多くない。
仕事内容は、接客全般。ここは来た人が自分で好きな席に座るシステムだから、人が入ってきたら挨拶をして、席を決めるのを待つ。決まったようならお冷を持って行って、そこからまた注文が決まるまで待機。オーダーは伝票にメモして、それをカウンターまで運ぶ。商品ができたらそれと伝票を届ける。会計は、人によって二タイプに分かれるらしい。一つは、自分で勝手に伝票を持って会計にやって来る人。こまめに店全体を見回して、その動きを察知する必要があるらしい。もう一つは、こちらに声を掛けてくれる人。このタイプの人は予め伝票を見て代金を用意してくれていることが多いらしいから、会計に案内したりする必要はないとのことだった。そして、店を出ていくお客さんにも挨拶を。これが接客の流れで、僕がこのあと数時間こなす仕事内容の全てだった。
「ああ、もしかしたら、珍しがって君に話しかけてくる人もいるかもしれないけど、そうなったら適度に付き合ってあげて」
こんな注釈もあったけど、これは今ここで確認できることじゃないし、まずは基本の接客パターンを覚えるのが肝要だ。因みに、これらの接客に特別な作法はないらしくて、曰く
「今まで見てきた世の店員さんの接客を参考にする感じでいいから」
とのことだった。常識でなんとかしろということらしい。
今日は蟹満さんに言われるがままに開店の直前に来てしまったけど、もう少し早めに来ればよかった。三十分という時間は初体験の緊張をほぐすにはあまりにも短い。
「じゃあ、開けるよ」
「あ、はい!」
「別に、開けてすぐに人が来るってわけじゃないから、そこまで硬くならなくても大丈夫だよ」
そう言ってくれてはいるけど、やはり看板が『open』になった瞬間人が来るのではないかと身構えてしまって、開店してからは全身に力を入れて店の外の道路を見守っていた。
…………。
……………………。
……………………………………。
しかし、一向に人が来る様子はない。店の前を通り過ぎる人すらいなかった。
「だから言ったのに。いつもは、一時間くらいしたらお客さんが来始めるよ」
「そうなんですね……」
一時間ともなると、それまでずっと張りつめているわけにもいかない。手近な椅子に座らせてもらって、イメージトレーニングに励むことにした。
──カランッ。
ドアが開いたことを示すベルの音で、僕のイメージトレーニングは中断された。見ると、スーツ姿の男性が一人入ってきている。男性は見慣れない存在が気にかかったのか、僕を見て一瞬足を止めたけど、なにも言わずに慣れた足取りで窓際の席に向かっていく。
「……行ってあげて」
「はい」
蟹満さんに目配せされて、お冷をトレーに載せて男性の座る席に向かう。
「ご注文が決まりましたらお知らせ下さい」
事前になんども心の中で復唱した口上とともにコップを机に置く。けど、緊張したせいで必要以上に早口になってしまった。もしかしたらなにか言われるんじゃないかと身構えたけど、男性は特になにも言わずにコップに口をつけるだけだった。
「……もしかして、アルバイト?」
「あ、はい。今日からここで働かせてもらってます」
「ふぅん……頑張って」
「……はい。ありがとうございます」
一礼して、カウンターに戻る。蟹満さんがそっと耳打ちしてきた。
「どう?」
「……頑張って、って言ってもらいました」
「そっか。まあ、あの人ならいいそうなことだね。でも、悪くないでしょ?」
「はい……嬉しかったです」
手を当ててみなくても分かるくらいに、僕の心臓は脈打っている。ついさっきもこんな感じではあったけど、これはさっきまでのとはまるで違う。そんな気がする。これはきっと、不安や緊張からの動悸ではなくて……人には見られていないと分かっていながら、それでも勇気を出してした行動を、思わぬ人から褒められたときのような、驚きと、嬉しさと、認められた興奮とから来るものだと思う。
注文が決まったのか、男性がすっと手を挙げる。オーダーを取らなくては。
「はい!お伺いします!」
必要以上に大きな声が出てしまったけど、何故かあまり気にならなかった。
この人に、嫌な思いをさせないようにしよう。
そのときは、それだけを考えていた。
最初にやってきたその男性を皮切りに、お客さんが断続的に来るようになった。みんなこの店の常連客のようで、一様に僕を見て軽く驚いていたし、僕はお冷を届ける度に自己紹介をすることになった。特に午後二時から三時は席が満席になるくらいに盛況で、あまりの忙しなさに自分は今水を届けているのか自己紹介をしているのか、それともオーダーを取っているのかはたまた会計の案内をしているのかすら分からなくなってしまう程だった。それでも、そういうときは蟹満さんがフォローしてくれて、お客さんも大目に見てくれたのでなんとか乗り切ることはできた……いや、乗り切れてはいなかったかも。とにかく、大きなミスを犯すことなく無事に閉店時刻を迎えることができた。
「枷下くん、大変だろうけど頑張ってね」
初老の男性が、人当たりのいい笑顔でそう言い残して店を出る。彼が、本日最後のお客さんだった。その姿が見えなくなったのを確認して、蟹満さんが『open』の看板を外す。これで今日の営業は終了ということになる。
「お疲れ様。疲れたろうし、座ってていいよ」
「ありがとうございます……」
座ると、それまでどこに隠れていたのか、さっきまでは全く感じなかった疲れがどっと脚に溜まる。これは、しばらく立ち上がれそうにない。
蟹満さんは乱れた椅子などを軽く整えて残された食器を回収すると、昨日のように僕の正面に腰を下ろす。
「やっぱり、慣れないことだから疲れたでしょ」
「そうですね、疲れました……」
ここまで忙しなく動き回ったのなんて、人生で初めてかもしれない。そして、疲れたはずなのに同時に達成感を感じているのも、初めてのことだ。
「本当は後片付けとか倉庫の管理とかもあるんだけど、接客に慣れるまではそれだけをしてくれればいいから。今日も、体力が戻ったら帰っていいよ。あ、それで、これが今日の分のバイト代ね」
そう言って、蟹満さんは封筒を差し出してくる。バイト代……もともと時間つぶしのために始めたようなものだし、忙殺されていたせいですっかり忘れていた。
「本当は、一か月とかで纏めて渡すのがいいんだけど、しばらくはお試し期間ってことで、一日毎に渡すようにするから」
「……ありがとう、ございます」
受け取ると、薄いながらもしっかりと中に入っているものの質感が感じられる。これが今日のドタバタの分だと思うと、なんだか不思議な感覚だった。
と、蟹満さんが壁に掛けられた時計を見上げる。
「あれ、枷下くんの住んでる所って、ここから近いんだっけ?」
「いや、電車で四十分くらいです」
「なら、そろそろ出た方がいいかもよ。電車も込み始める時間だし」
言われてみると、もう七時になろうとしている。門限があるわけじゃないけど、帰るのにかかる時間と今の体力を考えると、確かになるべく早く帰った方がいいのかもしれない。
「そうですね、じゃあ、そろそろ帰ります」
「うん、気を付けてね。エプロンはここで預かっておくから、置いて行ってくれて大丈夫だよ」
言われた通りエプロンを返して立ち上がると、蟹満さんも席を立った。見送ってくれるらしい。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ、助かったよ。また明日ね」
笑顔で手を振る蟹満さんにお辞儀をして、駅に向かう。
人生初のバイト。恐れていたような失敗はしなかったけど、とにかく疲れた。けど、決して辛いだけの一日ではなかった、と思う。蟹沢さんに紹介してもらって正解だったかもしれない。
「……あとでお礼言っておかないとな」
蟹沢さんが生贄として僕を差し出したのかどうか、その真偽は分からないけど、そう思った。
毎日が日曜日な僕は、蟹満さんに「毎日来れる」と言ってしまっていた。確かに予定はないけど、一日の負担をもう少し考えるべきだったと思わなくはない。ここ数日、昼前に喫茶店に向かい、夜に帰ってきてはそのまま寝てしまうという日が続いていた。
とはいえ、その負担も日に日に少なくなってきている。もう手順を頭の中で反芻しなくても次になにをするべきかわかってきたし、緊張もほどけてきてずっと張りつめているなんてこともなくなった。一日のなかでも人入りが多い時間と少ない時間とがあって、そうした時間には少しだけど体を休めることができる。こうやって緩急をつけることでバテずに一日を乗り切る術も身についてきた。
時計の針がもうすぐ四時を指そうとしている。このくらいになると、開店後に来た人は殆ど帰ってしまって、二、三人いるかどうかという状態になる。今日は特に人が少なくて、ついさっき帰った人を最後にお客さんはいなくなっていた。
「今日はいつもより人が少ないですね」
「いや、寧ろ今までがちょっと多かったよ。枷下くん効果だろうね。ほら、今日もちょくちょく話しかけられてたでしょ?」
「ああ……」
確かに、接客をしたお客さんに雑談を振られることがこれまでに何回かあった。話しかけてくるのは大体年上の女性で、通っている大学はどこだとか趣味はあるのかとか彼女はいるのかとか、数人がかりで質問攻めにあってしまう。しかも、僕は真面目に答えているのになぜか相手は笑ったり歓声を上げたりで、とにかくペースが掴めないでいる。
「でも、どういう風に答えればいいのかよく分からなくて……もっとフランクにいった方がいいんですか?」
「いや、君は真面目で初々しい感じがウケてるから、そのままでお願い」
「そうなんですか……?」
そんなことを真面目そうにいわれても、素直に受け取りにくい。
なんて話をしていると、ドアの開く音がした。
「あ、いらっしゃいま……」
「あ!蟹沢じゃん!」
僕がやってきたお客さんが誰なのか気づくのと、蟹満さんが大声を上げたのは殆ど同時だった。
「蟹満さん。お久しぶりです。枷下くん……は一週間ぶりくらい?元気そうだね」
蟹沢さんはカウンターまでやって来ると、さっきまで僕が座っていた席に腰掛けた。
「レモンティー下さい。ミルクとかは要らないです」
「……それくらいなら自分で淹れられるでしょ」
「やだなー、今日の私は店員じゃなくてお客さんですよ?淹れてくださいよ」
蟹満さんは渋々といった感じで準備に取り掛かる。僕も急いでコップに水を注いで差し出した。
「どうぞ」
「ありがと。枷下くんは、もうここには慣れた?」
「あー、うん、まあそれなりには……」
「そっか、でも初めてだと大変じゃない?混むときは混むし」
「いや、逆に慣れなくてあたふたしてるところがママさんたちにはウケてる。俺とも蟹沢とも違うキャラで馴染んできてるよ。な?」
「あー、なんか想像つくなぁ。蟹満さんにも私にも、そういう要素皆無だから……」
「それ、自分で言うことか?」
「……はは……」
どうしよう。自分の顔が引きつっているのが鏡を見なくても分かる。
全く面識のない人なら、まだ良かった。けど、蟹沢さんはそうじゃない。つい一週間前にはあんな醜態を晒しているし、ここを紹介してくれたのも彼女。どんな距離感で接すればいい?
「……枷下くん」
一人で葛藤していると、蟹満さんがこちらに背を向けたタイミングで、蟹沢さんが不意に顔を寄せて耳打ちしてきた。
「私のことは、ただのおしゃべりな客だと思って。ほら、時々話しかけてくる人っているじゃん。あの人たちと同じだよ。そうすれば、少しはやりやすいでしょ?」
「……っ」
どうして、僕の考えていることが分かったんだろう。けど、蟹沢さんはウインクをして見せるとカウンターに向き直ってしまって、これ以上その話はできなくなってしまった。
「……お待ち遠さま。レモンティーだよ」
「わーい。やっぱりこれが一番すっきりしてて飲みやすいんだよね」
ストローを咥えるや否や一気に三分の一を飲み干す蟹沢さんを、蟹満さんは腕を組んで眺める。
「しっかし、なんで急に来たんだ?今までバイト以外でここに来たことないだろ」
「枷下くんにここを紹介したのは私ですし、ちょっと覗いてみようかなって」
「紹介、ねえ……。身代わりを差し出した、の間違いじゃないか?あんまりにも連絡がしつこいから鬱陶しくなったんだろ」
「鬱陶しいって自覚があるならもう少し控えて下さいよ……」
「あの、」
蟹沢さんはお客さん。蟹沢さんはお客さん。何度もそう唱えて、今日話しかけてきた人たちの影を蟹沢さんに重ねる。そこまでしてなんとか、口を挟むことができそうだった。
「蟹沢さんって、結構長い間ここで働いてたんですか?かなり仲がいいようにみえますけど……」
「そうだね、そんなに短くはないかも。毎年夏休みの間だけここでバイトしてたんだけど……三年くらいでしたっけ?」
「今年もやってたら、な。高校一年から始めて、三年のときは受験だからやってなかっただろ。だから二年だ。けど、夏休みの間はかなりの頻度で来てたから、日数はそれなりだよな」
「そうなんですか」
「そうそう、私も全く遊ばなかったわけじゃなかったけど、暇を持て余すことの方が多かったから、たまたま見つけたここのバイトに申し込んだんだったっけ。懐かしいなぁ。しかも、面接に行ったら、殆ど蟹の話しかしなくって」
「蟹?」
「違う違う、苗字に蟹が入ってるなんて珍しいなって話をしてただけだよ。ほら、蟹が苗字になってる人なんてそうそう見かけないだろ?だから、履歴書みたときに偶然だなって思っただけなんだよ」
「だからって、北海道の蟹と築地の蟹の違いの話なんて普通しないと思うんですけど」
それからは、主に蟹満さんと蟹沢さんの昔話で盛り上がった。結局蟹沢さんは閉店間際まで店にいたけど、西日が強くなって店内が橙に染まり始めた頃に帰っていった。
「じゃあ、今日はこの辺で帰ろうかな。また来るね、枷下くん」
と言い残して。
それから、本当に蟹沢さんは店にやって来るようになった。




