浅はかな私
浅はかな私
枷下くんを探している間にこの大学の構内は一通り見て回ったと思っていたけど、頭に血が上るとそんな地図はどこかに消えてしまった。おかげで私は今完全に道に迷っている。枷下くんに聞こうかとも思ったけど、自分がどこにいるのかも把握していなさそうだから止めた。それに、そのことがなかったとしても、今の枷下くんになにかをしてもらおうとは思えなかった。
そんなこんなでしばらくは当てもなく闇雲に歩く羽目になったけど、運よく中央広場にたどり着いた。私たちが待ち合わせていた、広大な芝生にいくつかのベンチと木があるだけの広場は、日も暮れると流石に人影はない。
「枷下くん。そこに座ろうか」
しばらくの間歩きっぱなしだし、そろそろ休んだ方がいいはず。枷下くんをベンチに誘導すると、そこがベンチだと分かっているのかも怪しいくらいにふらふらと腰を下ろした。
「大丈夫?」
声を掛けても、枷下くんは俯いたままで答えはない。どうしよう……。
水仙くんに連絡しようにも、さっきから何回か送っているメッセージには既読が付く気配がない。水仙くん以外の枷下くんの知り合いは知らないし、かといって枷下くんをここに置いていくわけにもいかない。
「……隣、座るね」
結局、小声で断って私も座らせてもらうことにした。
けど、座ったところでなにができるわけじゃない。なんて声を掛ければいいのか、そもそも声を掛けた方がいいのかも分からない。黙って座っていることしか思いつかなかった。
最近は毎晩のようにムシムシとした熱帯夜だけど、今日は珍しく風があった。いや、いつも窓を閉め切ってエアコンをつけているから気づかなかっただけかもしれない。なんにせよ、今の私にとってはありがたい。風に撫でられて、火照った私の体が少しずつ落ち着きを取り戻して行く。あんなにどたばたしていたのが嘘みたい。
芥原菜子を見たときの枷下くんの様子は一目見て普通じゃないと分かった。夏だからみんな多かれ少なかれ汗はかいていたけど、枷下くんのそれは私たちのとは明らかに違ったし、目はどこも見ていなくて、時々開いた口からはなんの音も出せていなかった。
唯一見せた反応といえば、気さくに肩を叩こうとした芥原菜子の手を振り払ったことと、そのあとすぐにどこかへ駆け出したことだけ。それがあの時の枷下くんにできた最大限の意思表示で、抵抗だったんだと、すぐには分からなかった。
「おい悦啓!どこ行くんだ!」
枷下くんが駆け出したとき、水仙くんはすぐにそのあとを追って走っていった。私たちは完全に置いてけぼりになって、でも私もすぐにあとを追った。『遊び』がどの程度のものだったのかはもう薄々察しがついたし、今日こうして引き合わせることに賛成した責任感みたいなものがあった。けど、今にして思えば無謀だった。全力で走る男の人に追いつくだけの走力は私にはなくて、しかも土地勘もないからすぐに見失って迷子になった。そのあとは、誰かと合流することもできず、一人で先に帰ることもできずで、ふらふらと当てもなく歩き回っていた。あそこで枷下くんを見つけられたのは、殆ど奇跡に近かったと思う。
枷下くんを見つけたとき、彼は丁度芥原菜子に見つかったところだった。私はすぐに出ていくべきだったのに最後の迷いが邪魔をして、隠れて成り行きを見ることにした。二人きりになったときの芥原菜子が私の知りたい彼女だろうと、私の推測を確信に変えるチャンスだろうと、そう考えた。
最悪の現実だった。
あの、弄ぶのが楽しくてしょうがないって表情を、私は初めて見た。芥原菜子がどうとかじゃなくて、そもそも人がそんな顔をできるなんて、想像すらしたことがなかった。
怖かった。
剥き出しの悪意。飾り気のない害意。憎悪のようなものすら感じた。それに当てられたのか、枷下くんは完全に腰が抜けてしまっていて、手を振り払うほどの気力も残っていないようだった。仕方のないことだったと思う。真っ向から対峙したわけでもない私の腰も殆ど抜けていたくらいだから。
完全に心が折れて、あまつさえ無抵抗の枷下くんに八つ当たりみたいな感情を抱き始めていた私の目が醒めたのは、枷下くんの財布が抜き取られたときだった。
止めなきゃ。
そんな考えが蘇った。足にも力が戻った。けど、なんでなのかは分からない。『芥原菜子』そのものに向けて粉々に砕かれた正義感を、『人の財布を勝手に抜き取る』という行為そのものに向け直して、辛うじて砕かれないようにしていたのかもしれない。とにかく、声を上げることができた。立ち向かうことができた。
私にも怒ったことがないではないけど、あんな風に声を荒げたことはなかったし、詰め寄るようなこともしたことがなかった。そういう風にいかにも「怒ってます」と言わんばかりの態度をとるのが気恥ずかしかった。それでもそんな態度を取ったのは、そうでもしないと気持ちが保てそうになかったから。自分で自分に「私は怒ってるんだ」と言い聞かせ続けないと、くじけてしまいそうだった。殆どやけくそに近い私の気迫であの場の空気を破れたおかげで、なんとか逃げ出すことができた。
……なんて、キレイに纏めればそれっぽいけど、結局は私が気安く水仙くんの提案に乗っからなければ、こんなことにはならなかったのに。
「…………」
隣で項垂れる枷下くんの体は僅かに震えている。これほどの恐怖に晒されていたなんて、思いもしなかった。どうせ昔のことだからと、甘く考えていた。
「昔のことだし、もう忘れていいでしょ」
今日集まった私たち三人は、みんなそんな風に考えていたはずだ。心機一転、古いしがらみは捨て去ろう。克服しよう。水仙くんはそう考えていたし、私も、それでいいと思っていた。
あの恐怖を克服?
とんでもない。
あれは、立ち向かうようなものじゃない。封印して、避けるべきものだ。
それを、私たちが不用意に掘り返すような真似をしたから、枷下くんはこんなにもショックを受けている。
本当に、悪いことをしてしまった。
枷下くんはまだ頭を上げない。彼が落ち着くまで、私は先に帰ったりはできない。
夜が深くなっていく。久し振りに見た気がする満月を眺めていると、隣で枷下くんが動く気配がした。
「枷下くん。大丈夫?」
「……蟹沢さん?なんでここに……ああ、そっか」
枷下くんは大分落ち着いてきてはいるけど、憔悴しきっている。人気のないここでもないと聞こえないくらいの小声で呟くと、また俯いてしまった。
「……さっきは、ごめんなさい。もう大丈夫だから、先に帰って下さい」
「大丈夫そうには見えないよ」
「いや、本当にもう大丈夫で……」
「いいから」
今日の私は、少しおかしい。こんな、人の言うことを無視するような、強引なことなんてしたことがないのに。けど、じゃあ置いていきたくない理由を丁寧に説明できるかと言われればできないし、こうするしかない。
まるで座り込みでもしているかのように頑なに席を立たずにいると、諦めてくれたのか枷下くんはそれ以上なにも言ってこなかった。ひとまず、ここにいることは許してくれた。
なら、話しかけることは許されるだろうか。
「枷下くん。今日はごめんね」
「…………」
返事はない。話してもいいのかは分からないけど、嫌になったらその時に止めてくれるだろうから、それまでは話したい。言っておきたいことがあるから。
「今日のセッティングをしたのは水仙くんなの。けど、あの人を呼んだのは私。私、高校のときから友達だったんだ。学校は違ったけど、同じバイトしてて……よくないことをしてる、ってことも知ってた」
「…………」
「ほら、私たち、この前あったことがあったでしょ。そのことを話したら、向こうが枷下くんに会いたいって言いだして、それを水仙くんに相談したら、今日集まろうってことになったの」
「…………」
「水仙くんは……高校のときのことが、枷下くんのトラウマになってて、そのせいで女性を苦手にしてるって言ってた。それを克服しなくちゃいけない、とも。……私も、それに賛成した」
「…………」
枷下くんはさっきからなにも言わない。その沈黙が、だんだん怖くなってくる。いつか、私の懺悔に怒り出すんじゃないか。今まさに、怒りや恨みが沸々と煮えたぎりつつあるんじゃないか。真夏なのに体が震えだす。けど、止めるわけにはいかない。
「しかも、私が賛成したのは、枷下くんのトラウマが心配だったからってだけじゃないの。そのときは、そのことはそんなに考えてなかった。私が気にしてたのは、ぼんやりとは気づいてた、あの人が高校でどんなことをしてたのかってことなの。それを確かめるのにちょうどいいチャンスだって思ったの……本当にごめんなさい」
「…………」
枷下くんはなにも言わない。顔も上げていない。
なのに、私は枷下くんの方を向くことすらできなかった。俯いて、とうとう堪え切れなくなった震えをそれでも押さえつけようとすることしかできない。涙が零れていないのがせめてもの救いだ。泣きたいのは私じゃないはずなんだから、せめてこれだけは我慢しないといけない。
「…………」
「……本当に…ごめんなさい……」
「……蟹沢さん、」
とうとう枷下くんが口を開く。
カチチッ。
歯がぶつかって音を立てる。
「……寒い?」
「……え?」
思わず枷下くんの方を向いてしまった。その枷下くんはというと、きょろきょろと辺りを見回している。
「ちょっと待ってて下さい」
「え……あ、」
なにをしているのか尋ねる間もなく立ち上ると、どこかに歩いて行ってしまう。置いて行かれたのかと思ったけど、程なくして戻ってきた。両手になにか持っている。
「やっぱり夏だから、冷たいのばっかりですね……はい、どうぞ」
そういって差し出してきたのは、湯気の立つ紙コップ。
「季節外れだからお茶しかなかったんですけど、少しはあったまるはずです」
「えっと……え?」
「?いや、震えてたので、もしかしたら寒いのかなって……ひょっとして風邪とかですかね。だとしたら、すぐに帰った方が、」
「あ、あの!」
理解の追いつかない私を他所に一人で話を進めてしまう枷下くんを止めたくて、声を上げて強引に割り込んだ。けど、怒られるのが怖くて震えていたとも言えなくて、ありがたくお茶を受け取るしかなかった。
「風邪ではないけど……ありがとう……」
枷下くんは隣に座り直すと、もう一つの紙コップに口をつける。それからも湯気が立っている。
「あちっ」
「あの……枷下くん?」
「今日」
枷下くんが紙コップに目を落としたまま話し出す。その口調は静かで、けどさっきよりずっとしっかりとしている。口元には微かに笑みさえ浮かんでいるようにみえる。
「蟹沢さんたちが来る前にも、水仙に同じような話をされたんです。『お前が女子を苦手にしてるのは、高校でのことが原因だろ』って。そのときは水仙が僕にコーラを渡してきて、なんか変だなって思ってたら、あれでした」
「……」
「確かに、僕は女性が苦手です。正確には、友達とか、そういう深い関係になるのが苦手です。なにを考えてるのか分からないから。……けど、蟹沢さん」
枷下くんは顔を上げて私を見る。その目には怒りの色はなかったし、口角も上がっている。
けど、なんでだろう。笑顔にはみえない。
「それのなにが悪いんですか?別に女性と全く話せないわけじゃなくて、親しくなるのが怖いだけです。高校生のときのことを今になっても引きずってるなんて情けないっていうのは認めますけど、だからって忘れられないし、克服もできないです。そもそも、克服ってなんですか?過去の事実をどうやって倒すんですか?みんなが忘れても、小さなことだって笑っても、僕の中には明らかにこれはあるし、さっきみたいに対面すれば体は震えるんですよ?どうしろっていうんですか?……僕はどうしても、昔のことを忘れて女性と仲良くならないといけないんですか?」
「…………」
返す言葉もない。枷下くんが言っていることを『情けない』と一蹴することは確かにできるかもしれないけど、そんなのは答えにならない。全く話せないわけじゃないなら『社会に出てから~』みたいなことも言いにくいし、そもそも誰と仲良くするかなんてその人の自由だ。
だから、「その通りですね」って言って引き下がるしか私にはできないんだけど。
何故か、それはしたくない。なにかが癪に障る。
きっと、枷下くんにとっては今日の経緯も、私の勝手な懺悔も、どうでもいいことなんだろう。唯一の疑問は、この質問に全て込められている。そして、それへの私の返事一つで、なにかが絶対的に、致命的に決まってしまう。不気味なほど穏やかな笑顔のようなものには、そう思わせるなにかがある。
なら、考えろ。見つけ出せ。私が抱くこのわだかまりの正体と、それを的確に伝える言葉を。




