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朝銀、破綻の謎  作者: やまのしか
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金日成④

1920年10月に起こった日本軍と朝鮮人独立運動武装組織及び中国人馬賊との間で行われた戦闘がある。

「青山里戦闘」という。


池青天は参加したが、金光瑞は加わっていない。

今の韓国政府は、この戦いを韓国建国史上最重要な戦闘としているそうだ。


情けないことに、このような小競り合いでも、朝鮮独立軍が活動していた証になると思っているらしい。


確かに、資料が正確に残っているなら、それでもいいだろう。

しかし、資料がデタラメだ。

日韓によって死傷者数が全然違う。

日本側記述では、日本兵戦死11負傷者24、将校の死傷は0。

これが韓国側発表だと、日本兵死傷者3300人となる(笑)


こうした間島出兵の頃、金光瑞はウラジオストックで季東輝の元にいた。

輝東輝というのはウラジオストックで活動している朝鮮人独立運動家だ。

上海の大韓民国臨時政府に参加し、初代軍務総長、

上海での合同時では初代国務総理、副大統領などの要職を歴任している。


朝鮮人抗日パルチザンが赤軍に付いたのは、1920年当時、

李東輝がレーニンに資金援助を求めたからだ。

これにより、間島、シベリアの抗日朝鮮人集団と赤軍が合併した。

そして起きたのが尼港事件と間島出兵だ


尼港事件、1920年3月、パルチザン部隊4300名

(ロシア人3000名、朝鮮人1000名、中国人300名)、

殺された住人は総人口のおよそ半分6000名、

日本人犠牲者731名。

残虐な事件だが、知りたいのは赤軍ロシア兵のことではない。

およそ1000人いたという朝鮮人抗日パルチザンの行為だ。

本当に猟奇的行為が行われたのか、本当のところがわからない。

色々資料を探したが、抗日パルチザン朝鮮人のことは不逞鮮人と呼ぶだけで、

具体的な名前が出てこない。


穿った見方をすれば、尼港事件の悲劇は、間島出兵の口実に利用されたような気もする。


1920年代間島地域が米国西部開拓時代のようなものだと考えれば、

特段日本国民が騒ぎ立てるほどの事件でもない気がする。

つまりは治安が悪いってだけだ。


しかし尼港事件の報道で、日本社会は不逞鮮人が野蛮だと染み込まされた。

シベリア出兵の大義名分プロパガンダとして、

わざと大陸利権を狙う資本家に流布されたと見る事もできる。


いずれにせよ間島出兵の不逞鮮人による行為は、普通に見ればただの強盗だ。

朝鮮独立軍など、ただの強盗団の隠れ蓑のように思える。

当然、利権目的でなければ日本の軍隊が出ばる必用はない。


ちょっと事件を記述するが、強盗事件ばかりだ。


1920年1月4日には「大韓国民会」を称する武装組織により、朝鮮銀行会寧支店から竜井出張所へ輸送中の朝鮮銀行券15万円が掠奪された。


1920年3月15日には朝鮮人3人により平安北道宣川郡泰山面面長及び面書記が銃殺された。


1920年5月には琿春「韓民会」の金雲瑞率いる十数人により慶源西方で郵便配達員が襲われ憲兵が殺害された。


1920年6月4日には、午前5時に穏城郡南陽対岸の三屯里から朝鮮人武装組織50人が豆満江を渡河して日本の警察憲兵及び守備隊と銃撃戦となり、武装組織は三屯里の民家に退却した。


事件の背後に有力な一団があるとみた日本陸軍の第19師団は、安川少佐率いる歩兵2個中隊による追撃隊を派遣、同年6月7日に汪清県鳳梧洞で家屋内から射撃する独立軍と4時間にわたり衝突し、日本軍の戦死者は1人、武装組織は遺棄死体33人以上を残し、捕虜8人を捕らえた。

(鳳梧洞の戦い)


この戦いを見るや上海の大韓民国臨時政府は「我が軍の大勝利」と、

図們江軽便鉄道占領説など、誇大な宣伝発表を行ったらしい。

21世紀においても韓国政府はこの戦いを重要視しているらしいが、

果たしてどこまで本当か。


1920年9月12日、10月2日の二度にわたり琿春が馬賊等に襲撃され、

日本領事館が焼失し、女性や子供を含む13人が殺害される事件が発生した。

(琿春事件)


このようにあらゆる事件を、韓国独立闘争に加えねばならないところに、

韓国建国神話の幼稚性が見てとれる。


すなわち、朝鮮独立軍というのは無かったと切り捨てる方が歴史的にはスッキリする。


しかし切り捨てなかったのは、これ即ち日本の事情だ。


黒龍会の大陸進出の大義名分に利用されたとクールに見る方が正しいだろう。

もちろん黒龍会の背景には財閥がいて、帝国陸軍がいて、朝鮮総督府がいた。


1920年10月7日、この琿春事件を「不逞鮮人」による襲撃とした原内閣は、

居留民保護を名目に間島出兵を閣議決定し、中国側との折衝を開始し、それぞれの範囲を決め討伐を開始した。


その後、追い詰められた池青天の朝鮮人部隊は、さらに内紛で分裂し、

1921年6月の黒河事変の際に赤軍によって武装解除させられ、

あげくのはては、赤軍の捕虜になり満洲に追い出された。

国際情勢の変化は早いと言わざるを得ない。


日本政府とソビエト連邦とが仲良くなると、

ソビエト政府は急に朝鮮人抗日パルチザンに冷たくなる。


抗日パルチザンは1923年8月末、ソ連政府の庇護を期待してウラジオストクで、大韓民国臨時政府は独立宣言を発してコミンテルンの承認を待った。

しかし1924年コミンテルンは大韓民国臨時政府承認せず組織は四散した。


金光瑞は李東輝と別れ、日本軍を避けて、スーチャンに入った。

スーチャンとはナホトカの北に位置する街で、現在名パルチザンスクという。




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