呂運亨②
何故、呂運亨はすんなり傀儡政権の指導者になれなかったのか。
まず考えられるのは、資金不足です。
新国家建設のためには、莫大な資金が必要です。
仮説ですが、私は最初、呂運亨はバックに日窒コンツェルンがついていたと考えています、それが途中から日窒コンツェルンが手を引いたのではないでしょうか。
ご存じのように日窒コンツェルンと朝鮮総督府は双子のような存在です。
呂運亨が朝鮮総督府の傀儡政権だとしたら、当然バックに日窒コンツェルンがつくことになる。
8/15呂運亨は朝鮮総督府から治安維持を要請され、メリットもないのに請け負った。
呂運亨は人道的な人物だと連合国に印象づけ、その後に作る朝鮮人新国家は呂運亨が指導者でもいいと、既成事実を作るためです。
そしてその計画は前々から、朝鮮総督府と一緒に計画されていた。
これこそが、日本が敗戦後に計画してた朝鮮半島における傀儡国家計画であった。黒幕は朝鮮総督府、日窒コンツェルン、朝銀、朝鮮軍、だったと思われる。
呂運亨は朝鮮民族指導者として他の独立運動家より一歩抜きん出ていた、それはバックでこのような親日派が活動していたからでしょう。
終戦時、重慶の臨時政府の指導者の面々は、誰も朝鮮に帰ってきていなかった。
李承晩もアメリカに足止めされたままであった。
この時点で、呂運亨は、たとえ朝鮮総督府に協力した傀儡だと思われようが、朝鮮独立のための有力指導者になれたわけです。
しかし、結局、呂運亨は失敗してしまった。
建国準備委員会副委員長の安在鴻と対立し、結局、内部分裂を起こしてしまう。
呂運亨は9/6朝朝鮮人民共和国を建国。
このときの閣僚名簿は、主席李承晩、副主席呂運亨、となっている。
主席に右派李承晩を据えたにも関わらず、安在鴻、宋鎮禹、といった中道右派の指導者は朝鮮人民共和国を支持しなかった。
宋鎮禹は、9/16韓国民主党を結成し朝鮮人民共和国に対抗した。
呂運亨は前もって朝鮮総督府と十分な話し合いを持っていたのに、安在鴻、宋鎮禹が欠けたということは、計画通りにはいかなかった、ということだ。
呂運亨は終戦時に朝鮮総督府と繋がっていた唯一の民族指導者だったからこそ、8/15日に朝鮮の治安維持を引き受けたし、建国準備委員会を立ち上げて、145の地域に支部を作り上げることもできた。
しかし、日本の傀儡という批判は大きく、すんなりとはかわせなかった。
建国準備委員会は朝鮮人民共和国へと大きく育ったが、僅か9/6~10/10日までの35日間しかもたなかった。
朝鮮人民共和国は日本の傀儡国家ではあったが、もし呂運亨と安在鴻が仲たがいせず、宋鎮禹が協力していたら、北朝鮮のように後々認められる国家になっていたかも知れなかった。
しかし、12年後、元朝鮮総督府政務総監遠藤柳作は、朝鮮人民共和国樹立の、きっかけとなった、朝鮮総督府から呂運亨への行政権の委譲は、あくまで治安維持の側面からの「協力要請」だったと述べている。
私は遠藤柳作のこの証言は嘘だと思っているが、戦後12年たっても遠藤柳作元朝鮮総督府政務総監が、事実を隠す理由はなんなのだろうか。
ここで、1つの仮説が成り立つ。
朝鮮総督府、朝銀、日窒コンツェルン、朝鮮軍、が中心となって、朝鮮半島傀儡国家建設の秘密計画があったからなのではないのか。
終戦時、呂運亨に朝鮮の治安要請を請け負う合理的理由は何もなかった、しかし呂運亨は引き受けた。
玉音放送が流れる4時間前まで会見すらもたなかったのに、簡単に引き受けたのは予め計画があったからではないのか。
もう話は出来上がっていたのだろう。
8/17日に共産主義者、反日主義者に扇動された朝鮮人暴動が起こった、朝鮮神宮焼き討ちである。
呂運亨が「青年治安維持隊」を組織していなかったら、安在鴻がラジオ放送をしていなかったら、反日暴動に歯止めがかからなかった可能性は十分にある。
朝鮮総督府から呂運亨への権力委譲は、綿密に前々から計画されていたからこそ、有効に機能したと言えるのではないだろうか。
朝鮮軍管区司令官上月良夫は朝鮮人暴徒に対して発砲を許さなかった。
まだ武装解除していなかった朝鮮軍の、この統率された行動は呂運亨への権力委譲が朝鮮軍上層部にまで徹底されていたからだろう。
呂運亨が治安維持を行い、安在鴻がラジオ放送で朝鮮民族に自制を求めて、
警察官への暴行はなんと朝鮮全土で10数件で収まった。
日本人警官の死者は僅か2名だった。
実に見事な政権交代だった。
しかし米軍はこの権力委譲を最後まで認めなかった。
何故米軍はこの政権交代を認めなかったのか。
米軍の責任者は第24軍ホッジ中将であった。
ソビエト軍は北部朝鮮の管理を、すぐに朝鮮人組織に任せた。
それは建国準備委員会が人民委員会で組織されており、共産色が強かったからだけではないだろう。
平安南道知事古川兼秀が行政能力の欠如をソビエト軍に表明したからだろう。
しかし、米軍は南朝鮮の管理を、絶対に呂運亨の建国準備委員会には任せようとはしなかった。
つまり、朝鮮総督府は行政能力の欠如を表明しなかった。
ここに日窒コンツェルンの誤算があった。
南朝鮮でも北朝鮮でも、人民委員会が国民に自制心を求めたがゆえ、大きな社会的混乱は起こらなかった。
ただその組織、人民委員会が、左に片寄りすぎたのは問題だった。
左傾化し過ぎた組織だったゆえ、米軍はソビエトとは違う印象を人民委員会に持った。
米軍は、一旦、朝鮮人に渡った行政権を、朝鮮総督府に再摂取させるという無茶を強行し、再び朝鮮人に委譲しようとしなかった。
そこで、一つ疑問点がある、朝鮮総督府は行政能力の欠如を理由に、行政権の再摂取を断ることも出来たはずである。
げんに北部朝鮮では平安南道知事は断っている、しかし朝鮮総督府は断らなかった。
朝鮮総督府と日窒コンツェルンは朝鮮人独立国家建設に呂運亨を担ぐことで一致していたはずなのに、何故、呂運亨を見限ってしまったのだろうか。
《続く》




