ドクターKの帰還
第十四章までお読みいただいているとわかりやすいと思います。
カランコロンカラン。
ドアベルがいつも通りの音色を奏でる。
僕の現在の城である喫茶店への客の来店を告げる合図だ。
僕は読んでいた医学雑誌を傍らに置いて、カウンター裏の指定席から立ち上がった。
「お久しぶりね」
カウンター越しに入店してきた女が、僕と目を合わせるなりそう言った。
数年ぶりに見る顔に、一瞬戸惑ったが、僕は軽く頭を振って気持ちを改めてから、皮肉を口にする。
「何の御用かな? しがない喫茶店のマスターに君のような才媛が用があるとは思えんがね」
僕の皮肉をたっぷり込めた一言にも、女は昔のように動じた素振り一つ見せずに笑って見せた。
「もちろん、準備が整ったので、声を掛けさせていただきに来ました」
女……市川マナの言葉に、無意識に右手が反応した。
久しぶりに顔を出したマナの冗談めいた一言にも過敏に反応してしまう、そんな捨てきれない自分の未練がひどく滑稽に思える。
僕は一つ大きく溜息をついてから、マナに尋ねた。
「それで……どこまで黒だったね? 教授昇進を争っていた准教授隅田かな? それとも柿崎外科部長かね? それとも浜野教授?」
当時、外科医としてそれなりの評価を受けていた僕を失脚させようと、あの手この手で嫌がらせをしてきた連中がいた。
最終的には、交通事故で僕は右腕の機能を著しく損傷して、メスの握れない体になったのだが、その時、疑わしかったのが今の三人だ。
そして、僕には彼女、マナに戯れに言った言葉がある。
「もしも、僕をはめた奴等の尻尾を掴んだらまた会いに来てくれて構わない。もちろん、僕が修めた医術を振るえる現場の提供でも構わないがね」
どちらも叶わないことはわかり切っていた。
正直に言えば、マナに僕のような終わった人間とかかわるのをやめさせるための口実だった。
奴等は狡猾なうえに、医療技術よりも、政治やら陰謀やらが得意な連中だ。
いかに才媛にして、稀代の精神科医と呼ばれた彼女であろうとも、探偵や警察の真似事はできないだろう。
もう一つの僕の働ける職場も、ありえないことだ。
僕は症例研究は今現在でも続けているし、それなりの知識は持っているが、僕の一番はやはり外科手術の手技だと自負している。
国内でも世代トップと、天才と言われた腕前は、伊達ではない。
多少自惚れを含んでいるとしても、僕は交通事故に遭うまでは失敗した手術はなかったし、これでも世界初症例に対する根治術をいくつか発表してもいるのだ。
そして、その実績が邪魔になる。
かつて優秀な外科医であったとしても、今僕の腕はガラクタのゴミ同然だ。
つまり、看板だけは立派な、役立たずというわけで、それが雇われた現場がうまく機能するはずはない。
まともな実演指導もできない僕が、仮に外科部長などに収まれば、損害を被るのは部下になる医者はもちろん、看護師や患者にも及ぶだろう。
席を用意してくれたとて、僕はそもそもそこに座る気がないのだ。
つまるところ、マナには二度と僕に会いに来てほしくなくて突きつけた課題だったのだが、どうも片付けてしまったらしい。
僕はそんなことを考えながら、マナの答えを待った。
「貴方の勤務していた大学病院はもちろん、本店の教授陣まで噛んでいたわ。隅田センセはとても素敵な血縁関係を御持ちみたいね」
マナの言葉に、僕は思いの外驚いた。
「ははは……まさか、そんなにか……」
思わず乾いた笑いが出た。
本店とは、系列大学のトップ、東京にある本校、国内でも五本の指に入る名門医学部、そこの方々も動いていたとなれば、これはもう、僕の運は底値だったというしかない。
「でも、まあ、そっちはすぐに綺麗になるわ。私の雇い主は、とっても嫌いなのよ。そういうの」
ニヤリと笑ったマナの笑みに背中がゾクリと震えた。
と、同時に、忘れて……いや、忘れようとしていた彼女への慕情がじわりと僕の中に蘇ってくる。
僕はこの思いを捨て去るために、彼女に相応しくなくなった僕を見せないために逃げ出したのに、何をしているのだと自分の心を叱責した。
そうして、無理やりにも話題を変える。
「キミの雇い主はそんなに凄いのかい?」
「ええ……特に今おそばにいる方は、最高ね」
うっすらと頬を染めてマナが囁くように答えて微笑を浮かべる。
初めて見るようなマナの蕩けた表情に、僕は思わず顔を伏せてしまった。
「報告ありがとう……さあ、報告が終わったなら、帰りたまえよ」
「何を勘違いしてるの?」
僕の耳に先ほどよりも大きくなったマナの声が響く。
「え?」
「私が来たのは、そっちじゃないわ。神子君」
顔を上げた僕の目に、まっすぐに僕に向けられたマナの瞳が映る。
「貴方の為に席を用意したから迎えに来たの」
マナに言葉を足されて、僕はハッとして首を振った。
「や、やめてくれ! 僕は医学界に未練はある……けど、お飾りの椅子になんて座るつもりはない!」
「本当に思い込みの激しい人ね」
「へ?」
「貴方には一人の外科医としてカムバックしてもらうんだけど?」
「キミこそ何を言ってるんだ、僕のこの腕は使い物にならないんだぞ!」
ずっと抱え込んでいた鬱積が堰を切った。
もう止められない。
僕はマナに向かって、自分のふがいなさを悔しさを愚かさを、呪いと言ってもいい負の感情の全てを込めてぶつけた。
けど、彼女はそのすべてを柳のように平然と受け止めて、笑いながらとんでもないことを言い放ったんだ。
「最初に言っておくわ。貴方は一人の医者としてカムバックすることができる。でも、それはかつてのように症例報告やら、論文提出やらができる環境じゃいわ。でも、貴方はかつて以上に難解な病状の人だって救えるようになる。私が貴方に尋ねるのは、私達の用意した席に座る気があるかどうか。日陰の身になることを受け入れて、医術で人を救う道に戻るか、否か、二つに一つよ」
とんでもないことを言われた。
僕の未練が暴れ出すのを感じる。
もし叶うなら、別に日陰だろうと何だろうとかまわない。
けど、僕の医者としての知識が、僕の腕がどうにもならないことを訴え続けていた。
手を取りたい気持ちと、そんなことはありえないという否定の気持ちが僕の中でひしめき合う。
そんな身動きの取れなくなった僕の目の前で、あろうことかマナがナイフを取り出して、自分の腕を切った。
「なっ」
僕が声を失ったのはマナの奇行ゆえにではない。
瞬く間につけた傷が消えたのを見たからだ。
救急救命でも腕を振るってきた僕には、マナが自分でつけた傷が手品などではなく、間違いなく本当につけたものだと断言できた。
だというのに、もうそれがなくなってしまったのだ。
ありえない。
そんなことはありえないのに、僕の心は歓喜に打ち震えていた。
「文字通り魔法。この力を使えば、貴方はかつて以上に医者として力を振るえるわ……もちろん、人知れずだけどね」
マナがそう言って僕にウィンクをして見せる。
「じゃあ、もう一度聞くわね」
「……その必要はない。早く魔法を覚えなきゃいけないからね」
僕がそう告げると、マナは珍しく嬉しそうに笑った。
「お帰りなさい。ドクターK」
「……まだ、魔法を覚えてないから、それには早いね」
「そうね。じゃあ、行きましょう」
いてもたってもいられなかった。
僕は、ただただ子供のように歓喜していたし、心の中は無邪気な好奇心で一杯だった。
心が動き出したのがわかる。
だから、僕は片付けなんて些事は後にして、この店を飛び出す。
今はただ、舞い込んできた幸運と、再度燃え上がった情熱を握りしめて、前に進むことしか、僕の中にはなかった。
カランコロンカラン。
今までとまるで違う軽く澄んだ明るい音で、いつもの合図が僕の耳に響く。
僕はただ笑っていた。