マリア様が見惚れてる ココアの天使様
「皆さん、ごきげんよう」
「ごきげんようシスター長先生」
いつもと変わらない挨拶が、良く澄んだ冬の朝に響いて消えていく。
聖アニエスが祝福する園に集う幼子たちが、今日も天使のような無垢な笑顔を浮かべ、無邪気に校舎へと駆けていく。
穢れを知らない幼子が身を包むのは、紺地に白のラインに、純白のスカートが眩しいセーラー服。
女の子はワンピース、男の子は半ズボンで、元気に駆けまわることは許されていても、寝転がったり座り込んだりしてはいけないのが、聖アニエス園の決まり事。
聖アニエス学院。
既に100年以上の歴史を刻むこの学院は、もともとは華族の令嬢の花嫁修業の場として創立されたミッションスクールである。
幼稚舎、初等部、中学高等部、最高学部(大学)を有し、広大な敷地を有するマンモス学校であり、通う子女には資産家や著名人を親に持つ者が多い。
中学高等部は未だ女子校であり、幼稚舎から大学までをこの学院で過ごす女生徒も多い。
そして、彼女、幼稚舎第三学年に在籍する茅野心愛もまた、普通であればその道筋をたどるであろうお嬢様だった。
「心愛ちゃん、大丈夫?」
そう声を掛けられて、心愛はようやくシスター長様のお話が終わってたことに気が付きました。
今日はクリスマスミサで、いつもよりキラキラの金色の飾りがされた衣装に身を包んだシスター長様が、すごく熱心にお話をされていたのに、あろうことか、心愛はあまり聞けなかったみたいです。
その事実に呆然していると、声を掛けてくれたイチゴちゃんが、もう一度、心愛に声を掛けてくれました。
「心愛ちゃん?」
コテンと首を傾げて私を見るイチゴちゃんに、心愛は「大丈夫だよ」と答えました。
でも、イチゴちゃんの心配そうな顔は変わりません。
「全然大丈夫そうじゃないよ、心愛ちゃん顔青いよ?」
そう言われて、心愛は慌てて自分の顔に触れました。
普段と同じぷにぷに加減です。
でも、イチゴちゃんは心配そうなので、きっと顔が青いのは本当でしょう。
だって、心愛はこれからすごく大変なことをしないといけないのです。
でも、心愛はフルフルと頭を振りました。
心愛に役を譲ってくれた穂乃香ちゃんの為に、私は頑張らなくてはいけません。
だから、心愛はうまく動かない体を一生懸命動かして、これから始まる聖劇の為の着替えに向かうのです。
榊原穂乃香ちゃん。
心愛よりも2歳下の女の子です。
初めて会ったのは、穂乃香ちゃんが幼稚舎に転校してきた時でした。
でも、その転校は一日だけで、お友達になれたのにすぐにお別れしたのが悲しかったです。
そしたら、春に穂乃香ちゃんは第一学年の女の子としてまた転校してきたんです。
すっごくビックリしました。
確かに、背は皆よりも小さかったけど、一日だけ転校してきた時の穂乃香ちゃんは、誰よりもお姉ちゃんに見えたので、本当にびっくりしました。
でも、ビックリはそれだけじゃなかったんです。
皆も……男の子はわからないけど、女の子はみんな好きなプリッチって言うテレビに、穂乃香ちゃんは出たんです。
それも、精霊の姫というなんかすっごい強くて偉くて、すっごい役です。
それでびっくりしたのに、穂乃香ちゃんはそれからもずっとプリッチのテレビに出ていて、お母様が、子役という子供の俳優さんなんだって言ってました。
幼稚舎の生徒なのに、大人と同じようにお仕事をしてるんだってお母様は言ってました。
さすが、穂乃香ちゃんはすごいです。
それで幼稚舎の劇の発表会の時も凄かったです。
穂乃香ちゃんは白雪姫をやって、いろんな人がいっぱいみにきました。
えと、それから、プリッチのテレビに出てる子も、穂乃香ちゃん達のクラスにいました。
すごいです、いいなーって思いました。
それで、お母様に話したら、穂乃香ちゃんやプリッチが出てるコンサートも見に連れて行ってくれました。
魔法がキラキラしてて凄かったです!
あとあと、穂乃香ちゃんたちが運動をしてたら、そこにお星さまが降ってきたんです!
幼稚舎もお休みになって、心愛は壊れちゃった講堂を見て悲しくなりました。
でも、穂乃香ちゃん達は誰もケガをしなかったんです。
たぶん、穂乃香ちゃんは、神様や聖霊様、マリア様やアニエス様や天使様に守られてるんだと思います。
そんな穂乃香ちゃんとはクラスも学年も違うので、見掛けることはあってもお話しすることはなかったんです。
でも、ひょんなことから、また穂乃香ちゃんとお話しすることが出来たんです。
それが、クリスマスミサの後にやる『聖劇』という劇でした。
「マリア様は、心愛ちゃんがいいと思います」
先生たちが決めた各クラスの代表者が集まった場で、穂乃香ちゃんがそう言いました。
「私はまだ1学年なので、マリア様はいつも通り3年生がやった方がいいと思います」
穂乃香ちゃんがいつも通りというのは、これまで聖劇の主役である『マリア様』は第3学年の子が演じていたからです。
でも、穂乃香ちゃんは、大人と同じく演技できる人なので、心愛は反対しました。
「穂乃香ちゃんは、プリッチに出てるじょゆーさんだから、穂乃香ちゃんがやった方がいいと思います!」
心愛の言葉に、クラスの皆も、2学年の子たちも、1学年の子たちも、皆頷きました。
でも、穂乃香ちゃんは、そんな周りの頷きに首を振ったのです。
「マリア様は、3年間、幼稚舎に通って、ちゃんと毎日マリア様にお祈りしてる子がやる方がいいと思います。次の次のクリスマスで、もし私の名前が上がったらその時やろうと思うので、皆もわかってください。それに何より、私は心愛ちゃんのマリア様がみたいんです!」
心愛は穂乃香ちゃんに、そう言われてすごく体が熱くなりました。
恥ずかしくて、でも嬉しくて、頭がぼーっとする感じになって、心愛は動けなくなったのです。
でも、その間も穂乃香ちゃんは一生懸命、何度も心愛のマリア様が良い、心愛のマリア様が見たいと言い続けて、本当に私をマリア様にしちゃったんです。
それからは大変でした。
心愛が気づいた時には、マリア様のセリフを教えられ、覚えなきゃいけなくなって、そして毎日練習になったのです。
ミサが終わり、マリア様の衣装に着替えた私は出番を教会の椅子を片付けてできたステージの裏で待ちます。
お星さまが落ちてきたせいで、いつもの講堂がつかえないので、ミサをした教会で聖劇をすることになったのです。
そうして、気付くと心愛の横にはナレーションをするイチゴちゃんが立っていました。
「心愛ちゃん、頑張ろうね」
「うん、穂乃香ちゃんのためにも頑張るよ」
心愛の言葉に、イチゴちゃんは「あー、穂乃香ちゃんかぁ」と口にしました。
そう、穂乃香ちゃんはプリッチのお仕事が忙しくて、練習に参加できなかったのです。
それで、いつの間にか穂乃香ちゃんの役は先生がやるようになっていました。
「練習できなかったし、本番も先生がやるかもって言ってたね」
イチゴちゃんの言葉に、心愛はなんだか胸が痛くなりました。
プリッチもやんなきゃいけない穂乃香ちゃんが、忙しくて聖劇に出れないのは仕方ないと、先生やお母さまから聞かされていても、すごく残念だなって心愛は思います。
でも、一緒に練習は出来ないくても、ちゃんと心愛のマリアは見てくれると、穂乃香ちゃんは約束してくれました。
クリスマスミサで穂乃香ちゃんがいるのは見たので、一緒に劇は出来なくても、ちゃんと見てくれるはずです。
だから、穂乃香ちゃんが譲ってくれたマリア様を頑張ろうと、心愛はもう一度思ったのです。
神さまのお約束というお歌が終わると、イチゴちゃんがマイクに向かって話し始めました。
「いまから2せんねんほど、むかしのことです。ナザレの町にマリアさんという心のやさしい娘さんがいました。ある晩、マリアさんが、しずかにお祈りしていると、天使がやってきて、神さまのことばをつたえました」
祈りをささげている心愛の耳に、静かな足音が聞こえてきます。
先生よりも軽やかな足音が近づいてきます。
心愛は目を閉じて祈っていたので、その足音の主はわかりません。
でも、穂乃香ちゃんかもしれないという思いが、心愛をドキドキさせました。
「マリアさん、私は大天使ガブリエルです」
いつもの先生とは違う、すごく綺麗な声に、心愛はゆっくりと目を開けました。
そして、百合の花を手に持ち、白い衣装を纏い、白い翼を生やした天使様を見ました。
「……ああ、天使様」
心愛は思わずそう口にしてました。
だって、目の前に立っていたのは、穂乃香ちゃん……じゃなくて、本当に本物の大天使ガブリエルさまに思えたのです。
そうして、大天使ガブリエルさまの穂乃香ちゃんのセリフがとても心地よく、心愛は自分のセリフも忘れてただただ見てしまったのです。
それからどれくらいそうしていたのか、心愛にもわかりません。
長かったような、短かったような時をはさんで、気が付くと心愛の肩に大天使ガブリエルさまの手が置かれていました。
「ああ」
思わず心愛の口から声が出ました。
でも、お蔭で劇を思い出した心愛は、目の前の天使様に頑張って覚えたセリフを聞いてもらおうと、行動を起こすことができたのです。
そこからは心愛もよくわからないうちに、劇は進んでいきました。
心愛の感覚では、いつのまにか終わってた。
そんな感じでした。
だから、うまくできたのか、それとも失敗したのか、心愛はわかりません。
でも、皆が一生懸命拍手をしてくれたので、どうにかなったんだろうなと思います。
主役を、マリア様をやったのに、これは良くないと心愛も思うんだけど、思い出すのは本当の大天使様にしか見えない穂乃香ちゃんなのは、仕方のない事だと思います。
だから、心愛は先生に言わなきゃいけないって思いました。
「穂乃香ちゃんに大天使ガブリエルさまをやらせたら、マリアは見惚れちゃって劇にならないと思います」って。
今回はクリスマスのお遊びとして、冒頭を今野緒雪先生の『マリア様が見てる』に準えて書かせていただいています。
あくまでオマージュのつもりですが、ご不快な方がいらっしゃいましたら改定させていただきますので、遠慮なく仰っていただければと思います。