プロローグ
世界は緩やかな死を迎えていた。
はじめに時の経過が少しずつ遅くなり始めた。
ほんの少しづつ、機械時計の針と日時計に差異が出始める。だがそれは一部の天文学者だけがあわてている程度の認識でしかなかった。
しかし一度遅くなり始めた”時”は加速度的にその歩みを減らしていく―― 昼間が永くなり、夜がなかなか明けなくなった。
次に水の流れが遅くなった。砂浜を行き戻る波の間隔がながくなり、氷が解けにくくなる。
風がゆるやかになった。雲は流れなくなり、地上から見上げる星は瞬きを止めた。
すべてがゆるやかに止まってゆく。
翅を振るわせる虫が、そのままの姿で空中に停止する。鳥は空を切り取ったまま落ちることなくあり続ける。獣も、魚も、星から息吹が聞こえなくなった。
人はありとあらゆる知能を合わせ、これに対応しようとした。
星が止まるのであれば宇宙に上がれば良いと、宇宙に上がった者達がいた。
いつかまた、時が動きだしたときのために生命維持装置に入った者達がいた。
時を進めるという謳い文句の怪しげな薬が販売された。
宗教がはやった。
科学が進んだ。
自身の記録を残すものが増えた。
人が止まり始めたのは、ずっと朝だった部分にいた人達からだった。元々夜にいた人間は、体の機能がゆったりとした、「休息」の状態だった。そのせいか、停止までの”時”の消費が朝の人間より少なかったのだと言われた。
それでも、人はどんどんと止まりだした。
私は夜の、一番最後の所にいた。
最大総合研究機関”アマテラス”。太陽の再来を目指すために立ち上げられたその研究機関は、人間の最後の砦として拡張され、いつしか一つの大きな研究都市になっていた。
けれど、世界中の研究者があつまり、世界中の知恵を振り絞っても、解決策は見出せなかった。
私は看護師であったために、いろいろな研究のサポートスタッフとして、数多に湧き出る非人道的な解決策に携わった。
人を機械にする研究などはやさしいもので、人を死ななくさせる研究や人の時間を一瞬だけ遅くさせる研究、心をいくつもに複製し永遠に上書きし続ける研究、極小のブラックホールに人間を送り込むようなものまで、ありとあらゆるイカレた研究を目の当たりにし、その失敗の後始末に付き合わされた。
人は慣れる物で、緑に泡立つ”人間だったもの”も高皮膜手袋でつかみ上げ、ゴミ容器にいれる。この頃には心も磨耗し、人の死も、迫り来る時の終わりもすべてどうでもよくなっていた。
逆に研究者は鬼気迫る様相で、まるで恋を知ったばかりの若人のようなテンションで赤くなったり青くなったりしていた。
その彼らが出したリミット 12月20日15時3分00.00秒 それがこの世界、すべてが止まる時刻なのだと。
その最後の時刻に向け、私は、いや、私たちはありとあらゆる方策を施された。
医療にたずさわるスタッフは研究後の余波に耐えられなければならない。そのため、研究でできた副次的な産物や、一部の成功成果を優先的に与えられたのだ。
体の一部は機械化し、過剰な再生能力を有し、水中だろうが真空だろうが短時間ではあるが無呼吸でも呼吸のようなものをすることができる。毒や薬を解析し、抗体を自動的に精製することができる。医者のもっていた医療知識なども複製譲渡され、読み込まされた。このときには一番優秀な医者が一人、取り出し用として消費されたらしく、医療スタッフで始めての死者だと話題になった。
そして12月20日。すべてが失敗に終わったとわかった研究者たちは、再びの時の再動に向け、生命維持装置に入ることになった。
いくつもの装置が並ぶ、巨大な部屋。その稼動状況と入りたがらない研究者への説得に私たちは大忙しだった。
子供のよう泣き喚きながら抱きつき、人のお尻をまさぐる禿げた研究者を、無理やりに機械へと押し込みロックをして起動のスイッチを押す。
おやすみなさいませ、偉大な研究者様。
そう一礼し、次の装置に向かう。
内心では悪態をついているが、それは表に出すことはない。
次の装置にはすでに人が横になっていた。
おや、と思いつつ、視野の端のデータリストを参照すると、私は驚きで声を上げそうになった。
「さぁ、やってくださいティアリアリスさん。でも、初めてなので痛くしないでくださいね」
見知った顔だった。
というか、つい先ほどまで自分たちの上司として、あれこれ指示を出し、手配をしていた人間である。
「・・・・・・先生、なぜそこにいるんですか?まだあと52もの研究者様が私たちの処置を待っておられるというのに、一人だけそんなところで遊んでらしたのですか」
そう言って患者服を着て、眼鏡をはずし、いつもより少し若く見える自分の上司をにらみつける。
「いや、こんな時に遊んでいられるほど、ボクは余裕のある人間にみえるのかい?おかしくないかな?もしかして今まで、君のボクに対する認識はそんな感じだったのかい?大分ショックだ。まさかここにきて、こんな最後の最後にきて初めて暴露されるショックなできごとだよ」
「そうですかお医者様。ではおやすみなさいませ」
「まってまって」
装置のフタを閉めようとする手をさえぎられ、止められる。その間に一応確認をするが、この装置の使用者は確かにこの上司となっている。直前になって命を絶った研究者が出たことで、優先順位が医療関係者に回ってきたようだ。
「先生、邪魔をしないでください」
「まって、僕はティアリアリスさんに言いたいことがあった。どうせ最後かもしれないし、言い終わるまでまってくれないかな」
そのようなことを言い出した上司に返答はぜず、目で先をうながす。上司は一息、深呼吸した後言葉を吐いた。
「もし刻が終わらなかったなら、そのときは僕と恋をしよう」
ティアリアリスは驚いた。とても驚いた。
まさかこの段になって、そんなことを考えられる余裕があることに。まだ、人としての感情を失っていない人間がいたことに。
まじまじとこの上司の顔を見つめる。
ひどくまじめな表情をしていた。嘘でも冗談でもないらしい。
ティアリアリスは何も答えることができなかった。視野の端ではタイムリミットに追われて、他の看護師からの緊急エモーションが表示されている。
それでも動けなかった。
ふいに、心臓の音が聞こえたきがした。まだ生身の心臓は残っている。しかし、今、自分の体に人間としてのモノがあったことを、ようやく思い出したかのように、ティアリアリスの心臓は鼓動した。
「・・・・・・せ、先生、時間が・・・」
ようやくそれだけの声を出すことができた。
しかし、体は動かなかった。
上司の瞳がまっすぐ自分をみている。その瞳から目がはなせないまま、彼女は立っていた。
ふいに、遠くから声がした。
「あと3分!」
ハッとして、周りを見回す。自分の受持ちだった装置は一つをのぞいて完了していた。自分と最後に残った一個を囲むように、幾人かの看護師が立っている。
ティアリアリスは急いで上司の装置のフタを閉めようとする。今度は止められなかった。
「ティア、後で答えを聞かせてください」
そう言って彼――カケル ミズハラ は永い眠りについた。
12月20日15時3分00.01秒
私の時間が止まった