ハローアナザーワールド
例えるなら、居眠り中に姿勢を崩して目が覚める感覚。突然に重力を感じて、一気に意識が引き戻される。
「――っ!?」
一瞬倒れこみそうになるが、何とか踏みとどまった。同時に脳のあらゆる領域が、異常を感知して警鐘を鳴らす。
なんだこれ。
踏みしめた足に返ってくる、確かな感触。微かに軋む、床の音。肌と布がこすれ合う、普段は意識しない僅かな不快感。ひんやりとした空気に撫でられて、髪が頬をくすぐるむずがゆさ。窓から差し込む光に、うっすらと浮かび上がる埃。どこからか漂ってくる、仄かなカビ臭さ――
おかしい。何もかもがおかしい。
もちろん、どの感覚もゲーム中に全くないものじゃない。五感を限界まで騙すリアルな世界が、人気の1つだったゲームだ。
でも――ここまで鮮やかではなかった。
「いったい、何が――」
呟いた声に驚き、絶句する。今のはいったい誰の声だ。すでに聞き慣れたルシアの声でも、もちろんリアルの自分の声でもない、見知らぬ声。
――いや、待て。どこかで聞いたことはあるぞ。
フルダイブ型のVRゲームにおいて、キャラクターの声はプレイヤー自身の声とは全く別のものにすることができる。実際に声を出しているわけではないのだし、見た目にあった声にしたいのが普通だろう。ルシアの声もランダム生成されたサンプルの中から選んだものだ。そして、その声は電気信号として脳に直接届けられる。つまり、『自分が聞いている自分の声』と、『他人が聞いている自分の声』は全く同じになる。
現実においては、『自分が聞く自分の声』は耳から入ってくる空気の振動と頭蓋骨を伝わる振動が合わさり、他人が聞く声とは違って聞こえる。録音した自分の声が全然違って聞こえるのはこのためだ。
キャラクターが現実で声を出したら実際にはどう聞こえるのか。このゲームのランダム生成による声の美しさから、そんなシミュレートを行えるソフトが有志によって作られ、オレも試してみたことがあった。
「そ、そうだ。アップデートであの機能が追加されたってことなら――」
それなら、この声がその時の声とそっくりなのも説明がつくじゃないか。自分に言い聞かせながら顔を上げると、雲が陽の光を遮ったのか、薄汚れた窓ガラスに映る少女の顔が目に入った。
小柄な体に不釣り合いな大きな杖。見るからに怪しげなローブ姿。目深にかぶったフードからこぼれた金の髪が柔らかそうに揺れている。僅かに覗く両の瞳は澄み渡る秋空のような碧眼。全霊を込めて作り上げた、己の理想を写し取った少女の姿。見慣れたはずの自分のアバター、ルシアが見たことのない不安と戸惑いに満ちた表情でこちらを見つめてくる。
すごいな。いつの間にここまで繊細な表情の表現ができるようになったんだ。などと、心の奥底では認め始めてしまっている現実から目を背けようとして――
「いつまで、自分とにらめっこなんかしてるんだ。マスター」
ぞんざいに、横からとどめを刺された。
「なっ!? って、いっつ――」
突然のことに慌てて振り向こうとして、思いっきり壁に右手を強打する。カーンと手放してしまった杖が倒れた音が、回廊に響き渡った。
痛すぎる。あまりの痛みに涙がにじむ。だが、それ以上の衝撃に思考がオーバーヒートしそうだ。
あり得ない。こんな痛みを感じるなんてあり得ない。こればっかりは技術がどうのという問題ではない。VRゲームにおいて痛覚は法律で厳しく制限されている。剣で斬られようが、ドラゴンに踏みつぶされようが、感じるのはちょっとした衝撃だけだ。
何より一番あり得ないのは、こちらの目の前に浮かびながら心配そうにを覗き込んでくるコイツだ。
「おいおい、ガチで痛そうな音したぞ。大丈夫か?」
「――イン、プ?」
濃い褐色の体毛に覆われた中型犬くらいの大きさの人型。背中には小さな皮膜の翼。顔はキツネを思わせる尖った形だが耳はウサギのように長い。黒々とした大きな瞳を宿した目はどこか呆れたように細められている。どう見てもインプだ。さっき召喚したばかりのインプだ。だから、ここにいるのは何の不思議もない。
「いや、インプって……長い付き合いの戦友に、お前人間って聞くのって酷いと思わねー?」
肩をすくめ首を振るインプ。確かにゲームで聞いていたものと同じ声のように思える。もっとも、命令に対してのちょっとしたリアクションの時くらいしか聞く機会はなかったが。
「アドニスなんですか、あなたは?」
恐る恐る尋ねる。あり得ないことが続きすぎて、1周回って逆に落ち着いてきた気がするぞ。アドニスというのはオレがインプに付けていた名前だ。自身の召喚生物には自由に名前を付けることができた。
「そうに決まってるじゃん。ついさっき召喚したんだろ、マスターが。てか、確かめなくても分かるだろーが、契約してんだから」
何だろう、凄くバカにされている気がする。言われて気付いたが、自分と目の前のインプの間に目に見えないラインのようなものがある。意識していなければ感じ取れないような希薄な感覚だが、確かにそこに存在している。現実でもゲームでもなかった、不思議な感覚だ。
「えーと……これが契約ですか?」
なんとなく感じ取れたラインを手でなぞる。どうやら触れたりはできないようだ。
「……ホントにどうしたんだ? まず、その口調は何なのよ。いや、人見知りのマスター様が他人相手にそんな喋り方になるのは知ってるけどさ。俺相手にその態度は、正直気持ち悪いぞ?」
引くわー、と言いながら、実際にちょっとだけ離れていった。その態度にイラっとする。イラっとしたことでまた少し落ち着いた。落ち着くと共に、こいつの言葉が徐々に理解でき始める。
一気に頭が冷えた。
「ちょっと待っ――わた……オレとの記憶があるのか、お前には?」
態度が馴れ馴れしいだけじゃない。間違いなく、こいつはオレのことをよく知っている。そして、こいつが知っているオレにとって、こいつは気安く話せる相手らしい。
「はあ? 何言ってんだ。さんざん人のことを身代わりにしておいてそのボケは笑えねーぞ。特に今日は酷かったじゃねーか……あれ?」
心底呆れたという風情で文句を言っていた口が唐突に閉じる。不思議に思って見つめると、急に周囲を見回し始めた。
「あれ? 今日は何と戦ってたんだっけか。こんな何もないボロ城で」
「ボロ城?」
その言葉につられて、オレも周囲を見渡した。
「――は?」
違う。何もかもが違う。
振り返れば、さっきくぐったはずの玉座の間の扉は無残にも瓦礫に埋もれて通れなくなっている。回廊の壁にはあちらこちらに亀裂が走り、床に敷かれていた絨毯は影も形もなくなって、汚れた石のタイルがむき出しになっている。窓のガラスもほとんどがひび割れるか失われており、その向こうに蔦が這っているのが見えた。
古いながらも威厳を保っていた城の様子はどこにもない。これはだれがどう見ても、放棄されて久しい荒城だ。とてもではないが、魔族の将が居を構えていた場所には見えない。
どれもが現実としか思えない感覚。自由に喋り、気安い関係であるかのように振る舞うインプ。そして、そのインプと自分自身の記憶の齟齬。
「うーん……うーん?」
空中で器用に胡坐を組み漂いながら首を捻るアドニス。その様子を横目に転がった杖を拾う。降り積もった砂ぼこりが舞い上がった。杖も汚れてしまっている。
ゲームであれば、手から離れた装備は自動的にインベントリに格納されるし、どんなに汚い場所でも汚れたりしない。冷静になってみれば、おかしな点はいくつでも見つけられた。
ぶつけた右手を見る。手袋の下がどうなっているかは分からないが、未だに僅かな痺れが残っている。アレは本当に痛かった。なら、もっと深刻なダメージを負ったらどうなる?
「アドニス」
「――へ? どしたの、マスター」
オレの呼びかけに、アドニスはピタリと空中で静止しこちらへと視線を向けた。この短い時間でも良く分かる。コイツにはオレへの疑念などはまるでないらしい。こいつにとって、オレ――ルシアはそれほどの相手なのか。
腹を括ろう。もう、認めなければならない。これは、ここは――さっきまでのゲームの中じゃない。だから少しでも多くのことを知らなければ。
「話をしよう――お互いに」
それが、この未知なる世界での第一歩だった。