幕間/マリア・リンデル
とある神殿内の一室。部屋の中央に置かれた長机を十に満たない人影が囲んでいる。窓は全て分厚いカーテンで遮られ、まだ日中であるというのに薄暗い。壁には、偉大なる一柱の神によって導かれた人々が国を築き上げるまでの物語が、美しくも荘厳に描かれているのだが、この暗さでは夜目の効く亜人たちでもなければまともに鑑賞することはできないだろう。もっとも、この部屋に集っている者たちとっては、すでに見飽きたものにすぎないのだが。
誰も言葉を発することはない。静寂の中、微かな息遣いと椅子の軋む音だけが、かろうじてそこにいる人間たちがよくできた彫刻ではないことを教えてくれる。
イェスタ・レイグラーフは苛立っていた。人を待たせるならせめてもっと快適な部屋を用意しろ、と文句を言ってやりたかった。普段であればそんな小言を言うような男ではないのだが、自らが反対し続けていた計画、その結果をこんな場所で待たなければならないのだから、仕方のないことともいえる。
トントンと小さな音が静寂を乱す。続いて僅かな音と共に扉が開き、簡素な神官服に身を包んだ青年が姿を見せた。
「神官長猊下がお見えになりました」
青年の言葉に、皆が一斉に椅子から立ち上がり頭を垂れる。イェスタも苦々しく思う内心を隠し、それに倣った。
コッコッとあまり体重を感じさせない足音と共に、小柄な老年の女性が部屋に入ってくる。身に纏う服は青年の神官服と基本的なデザインこそ同一なものの、金糸による豪奢な刺繍が施されており、加えて見るものが見れば使われている布の材質から全くの別物であると分かるだろう。国家神官長、マリア・リンデル。この国において、おそらくは国王以上に知らぬものなき女性である。
「楽にしてください」
マリアの言葉に全員が頭を上げる。そのまま彼女が席に着くのを待ち、それを見届けてから椅子に腰を下ろした。
再び訪れる沈黙。皆が彼女の言葉を待つ。
「――儀式は完了しました」
淡々とした感情を感じさせない声でのシンプルな報告。だが、その内容にどよめきがさざ波のように部屋に広がる。喜び、安堵、興奮。様々な、しかし全体としては良い反応が大勢を占める中、イェスタは一人唇を歪め神官長へと疑問を投げかける。
「それはそれは、結構なことです。しかし猊下、私の記憶が確かならば、此度の儀式によって我らが神に導かれた数百もの英雄たちが聖堂へ集うはずなのでは? それにしては随分と――静かなようですね」
「……」
隠そうともしない慇懃無礼さだが、マリアは気に留めた様子もなくチラリと一瞥をくれただけだった。
「レイグラーフ卿! 猊下に対し何という無礼な態度だ!」
もっとも、苛立ちを抑えきれない人間が他にいるようだが。イェスタが計画に反対し続けていたことは、ここにいるメンバーの誰もが知っていることだ。当然のことながら、彼を敵視する者は多い。
「――いえ、待ってください。こ、これは……猊下、これはどういうことなのですか?」
イェスタ以外にも気付く人間が出始めた。
英雄と呼ばれるような超人的な強さを持つ者は、普通の人よりも遥かに多くの魔力を体に宿している。というよりも、魔力を宿しているからこそ超人的な力を発揮できるのだ。これは本人が魔法を使えるかどうかとは関係がない。
もちろん、あくまで多くの魔力を保有しているというだけで外に向けて放出しているわけではないため、魔法が使われた時のようにはっきりとその魔力を感知することは難しい。しかし、何百という人数が一か所に集まったとなれば話は別だ。ある程度の素養を持っている者であれば、近くにいて何も感じないなどということはあり得ない。そして、儀式が行われた聖堂は目と鼻の先にある。
「猊下。僭越ながら確認をさせて頂きたい。儀式は成功したのですか?」
少しだけ言葉を変えの問い。イェスタの言わんとするところを理解したのか、誰もが息をのんで再びマリアの言葉を待っている。
彼女は目を瞑り、静かに息を吸った。
「――儀式は完了しました。ですが……完全には成功しませんでした」
その言葉に部屋の中が騒然となる中、イェスタは笑いを堪えるのに必死だった。少し前まで自分が苛立っていたことなど、すでに忘却の彼方だ。胸の内の歓喜を周囲に悟られないよう、平静の仮面をかぶり口を開く。
「儀式は不完全であったと、そういうことですね。それでは、どのような結果となったのか、説明はしていただけるのでしょうか?」
口ではそう言いつつも、まともな説明などされるはずはないと内心では確信していた。この国に置いて彼の神を奉じる神殿は絶対的な権力を保持している。王権ですら容易には干渉できないほどだ。自分たちに都合の悪い事実はいくらでも隠蔽することができる。少なくとも、彼はそう信じている。
「彼方の地より英雄に相応しい勇士たちをこの世界へ招くことには成功しました」
「……」
微妙な言い回しの違い。しかし、先ほどまでとは違う威厳を感じさせる声色に、イェスタも黙って続きを待つ。
「皆様もご存知の通り、本来の計画であれば英雄たちは儀式を行った聖堂へと集められるはずでしたが――」
いったん言葉を切り、僅かな時間顔を伏せる。再び上げられた彼女の顔には、はっきりとした怒りが浮かんでいた。老いてなお美しいと感じさせる彼女だが、滅多に見せないその鬼気迫る表情には、イェスタも含めその場の誰もが圧倒され背筋を伸ばした。
「――魔族側の妨害により術式の一部が正常に機能せず、彼らの大部分はどこに出現したのか分からない状況です」
「魔族――!」
漏れ聞こえた声は誰のものか。だが、抱いた思いは全員同じものだろう。
魔族。人の住むこの世界の裏側に存在するという魔界の住人。もとよりこの計画は、魔族たちへの対抗手段として進められてきたものだ。彼らが妨害してくるというのは自然なことではある。しかし――
「では、我々の計画が魔族どもに漏れていたと? そんな馬鹿なことが――」
「よもや、スパイがいるのでは――」
一斉に騒ぎ立てる他のメンバーを無視し、イェスタは己にとって最も重要な部分を尋ねる。
「猊下。魔族に向こう側の協力者についての情報が渡った可能性はどれほどでしょうか?」
計画にとって最も重要と言える要素、異世界の協力者。それはイェスタにとっても、この計画の中で唯一評価している点である。この世界とは全く異なる別世界に我々の協力者がいる。これがどれほど有益なことか。彼は、それを最も理解しているのは自分であると信じてやまない。
「儀式を行う以前に知られていた可能性はないでしょう。それならばもっと直接的な妨害を行ってきたはずですから」
答えるマリアの表情は、先ほどとは打って変わって硬い。
「儀式中に世界間のパスを辿られた恐れは少なからずありますが、干渉を感知した時点で強制的にパスを切断しましたので、座標の特定にまで至った可能性はほぼないと考えています」
「そうですか。パスの切断はご英断でした。協力者たちの居場所が魔族に知られるようなことは、絶対に避けなければなりませんからね」
異世界はそれこそ無数に存在することが分かっている。世界と世界を繋ぐパスを頼りにしなければ、無数の世界の中から特定の1つを探し出すことは不可能だ。パスの強制切断に踏み切ったという彼女の説明に、イェスタもひとまず胸を撫でおろす。
「今後、魔族側がどうやって儀式について知り得たのか、また、どうやって妨害を行ったのかが判明するまではパスの再構築は行いません。向こう側からの情報が得られないのは痛手ですが、背に腹は代えられないのですから」
「賢明なご判断です。では、それらの捜査に関しては、国の方に任せて頂きましょう」
「レイグラーフ卿!」
イェスタの発言に、即座に非難が飛んでくる。だが、彼に気にする様子は全くない。どう言い繕おうと神殿が失敗したのは動かしようのない事実。主導権を国に取り戻すには絶好の機会なのだから。
「猊下。今までのお話を陛下にご報告させていただきますが、構いませんね?」
「貴様っ――!」
話はここで終わりだと言わんばかりの態度で、形ばかりの確認を取る。周囲はますますいきり立つが、マリアは苛立つ者たちを手で制止すると、ニッコリと初めて笑顔を見せた。ざわりと、イェスタは鳥肌が立つのを感じた。これまで見せていたどの表情でもなく、今の笑顔こそがこの老獪な女神官の本意なのではないか。そんな考えが脳裏をよぎる。
「ええ、もちろんです。ですが、しばしお待ちを――お連れしてください」
彼女の言葉に従い、再び扉が開かれる。先ほどと同じ青年神官に促され、3人の若者が部屋に入ってきた。
「な――!」
彼らを目にした全員が驚愕のあまり言葉を失う。イェスタすらも例外ではない。いや、魔法についての造詣が深い分、彼が受けた衝撃が最も大きかった。
3人はいずれも戸惑った様子で硬い警戒の表情を浮かべているものの、それを補って余りあるほどの美しい容姿をしていた。だが、そんなことに驚いたわけではもちろんない。彼らが身に纏う武具、程度の差はあれど、この場にいる誰もがその価値に気付いたのだ。
ミスリルをはじめとする希少な魔法金属。糸のうちから魔力を籠めて織り上げられた布地。生息地すら突き止められていない幻獣の皮。生物の王、竜種の末裔たる飛竜の甲殻。あまりにも貴重で高価な素材が、惜しげもなく使われ、そして見事に鍛え上げられている。
さらに、イェスタを含む何人かは、武具に刻まれた精緻な魔紋の詳細を見て取ることができた。そのどれもが、これらの武具が美術品めいた見た目だけの代物ではなく、英雄が担うに相応しい力を秘めていることを証明している。
もちろん、武具だけで彼らが英雄というに相応しい実力を持っていると判断することはできない。だが、この小さな国の宝物庫をひっくり返しても見つけられない武具を見せつけられた時点で、そんなことを指摘する輩はでてこないだろう。自分が物の価値の分からない愚か者だと、宣言するようなものだ。
「紹介しましょう――」
じっくりと皆の反応を確かめた後、マリアは満足げに口を開いた。
「――我らが神の導きによって招かれた英雄たちです」
イェスタは己の敗北を悟った。たった3人。本来招かれるはずであった数百人からすれば、ほんのわずかでしかない。だがそれでも、実際にその姿を目にすることによる衝撃がここまで大きいとは、彼は想像していなかったのだ。事実、すでに儀式が上手くいかなかったと落胆していた空気はもうどこにもない。おそらく、この3人の英雄を宣伝することで計画の失敗は覆い隠されるだろう。国が主導権を握るという彼の目論見は潰えた。
皆が神と神殿を讃える中、イェスタはマリアと3人の若者を睨み続けていた。