眠り姫の目覚め
仄かないい香りが鼻をくすぐる。同時に体の奥底から湧き上がる活力を感じて、重りが切り離されたように意識が急速に浮上していった。
「――ん」
目を開く。見慣れない、しかしどこかで見たような木の天井。どこだここ。ゆっくりと動き始めた頭でぼんやりと記憶を辿ろうと――
「ルシア!」
「どうぇああ――!?」
突然のガタンと大きな音と横からかけられたクリスの声に、奇声を発しながら飛び起きる。そして気付いた。
「って、ここ母兎亭……?」
オレとクリスが泊った部屋だ。昨日……じゃなくて一昨日か。そこまで考えたところで、意識を失う直前の状況を思い出す。
「クリス! 無事――みたいだな」
「それはこっちのセリフなんだが……いや、元気そうで何よりだ」
少しだけ呆れたような口調で、心底ほっとした表情を浮かべながら、相棒は立ち上がった椅子へと腰を戻す。
「いつまで目を覚まさないのか、気が気じゃなかったんだぜ。これが効いてくれるかも半信半疑だったしな」
「これ……?」
指差された先の机の上には蓋のついた壺のような陶器が置かれていて、そこから薄っすらと煙が立ち昇っている。さっきから感じている仄かな匂いは、どうやらこれが原因らしい。
「ブレソールさんが貸してくれた香炉だ。良い匂いだろ?」
「香炉……ってことはこれ、〈マナハーブ〉を焚いているのか?」
魔力切れで意識を失ったことを思い出し、匂いの正体にも思い至る。
「ああ。本当はハーブティーの要領で飲む方が効率は良いらしいんだが、眠ってる相手にはこうするしかないからな」
「そりゃそうだ」
無駄に大量にあって邪魔とすら思っていたけど、捨てずにとっておいて良かった。しかしこの香炉、よくよく観察してみると、とても精緻で美しい模様が描かれておりいかにも高級品という風情だ。ブレソールさんも、よくこんなものを貸してくれたな。間違っても割らないように注意しなければ。
まだはっきりとしない頭でそんなことを考えているうちにも、〈マナハーブ〉の効果なのか徐々に体に活力が満ちてくる。そのお陰で、何よりも重大なことを思い出せた。
「――って、そういえば! 町は? 傭兵たちはどうなってるんだ?」
オレがここでこうしている時点で最悪の事態は免れているのは確かだが、あの後結局どうなったのか。慌てて相棒の方を振り向くと、何故か椅子から立ち上がって扉へと歩き出している。
「落ち着け、ちゃんと話す。だがその前に、お前には早いとこ完全回復してもらう必要があるからな、ハーブティーを淹れてもらって来る。その間に――」
言葉を切ると、クリスはオレの寝ているベッドの足下の方を指し示した。
「――ソイツから話を聞いてやれよ。ずっとそうしてたんだぜ」
そう言い残し、相棒は部屋から出ていった。オレはベッドの上へと視線を移し――
「……そんなとこで何やってるんだ、アドニス?」
――何故かオレに向かって土下座しているインプに声をかける。
「――マジですまんかった、マスター。俺のせいであんなことになっちまって……」
「は……何が?」
何がアドニスのせいなんだ? 何故土下座までして謝られているのかさっぱり分からず、間抜けな声で訊き返した。
「魔力切れを自覚してから急にぶっ倒れだろ? 多分それ俺のせいなんだわ」
「そうなのか? 確かに、異常を感じてから立ってられなくなるまでかなり短かったけど、無理に魔法を使い続けたせいなのかと思ってたんだが」
あの状況では使い続けるしかなかったからな。
「マスターの魔力量なら、それだけで短時間でぶっ倒れるまではいかねーよ……あの時、俺が別行動しながら派手に魔法使いまくってただろ? その分の負担が合わさってああなっちまったんだ」
「派手に使いまくってたのか……あれ? 何、お前が使う魔法の分までオレがMP――魔力を負担してたの?」
「……知らなかったのか……っていうか気付いてなかったのか。うーん……魔力量が多すぎて、俺が一度に借りる程度だと気付かねーのかもな」
ぶつぶつと呟きながら考え込むアドニス。というか、またまたゲームとの大きな違いが判明したな。
ゲームにおいて、サモナー系クラスによる召喚生物の使役コストは『召喚している間、コスト分最大MPが減る』というものだった。召喚コスト100の召喚生物を呼び出した場合、現在MPと最大MPが両方100減ることになる。これが結構重くのしかかるため、最下級の召喚生物以外を常時連れ歩くことは普通しなかった。一方で、召喚生物がどれだけスキルを使おうとも、それによって主人のMPが減ったりはしない。
「俺がマスターから借りるのはあくまで一部だけどな。あの時俺は、マスターが気絶してパスが消えかかるまで異常に気付かなかったんだ……ただの言い訳になるけど、何でかマスターが魔力切れでぶっ倒れたりなんてしないと思いこんでたんだよな」
「あー……それは、うん、仕方ないことだから気にするな」
ゲームではMPが0になっても気絶したりしなかったからな。それ以前に手軽なMP回復アイテムがあったから、まず枯渇することもなかったし。ゲームでの漠然とした記憶を植え付けられているらしいアドニスが勘違いするのも無理はない。
「しかしまあ、これからは自分の魔力量を把握しつつ魔法を使うように注意しないとな」
オレ自身の魔力量やそれぞれの魔法の消費量がゲームのMPの数字と同程度であればいいんだが、魔力切れを起こすまでに自分で使った魔法のゲームにおける消費MPを計算してみると、ざっと概算しただけでも枯渇するのには程遠い気がする。何か根本的な違いがあるのだろうか。
そこまで考えたところで、ふと外がとっくに明るくなっていることに気付く。
「――なあ、アドニス。今って何時くらい?」
「ん? もう日が昇ってから結構立つけど……10時くらいじゃないか?」
もうそんな時間か。ということはぶっ倒れてから7、8時間は経っていることになる。眠気も全然感じないのはそのせいか。オレが目覚めるのを待っていたみたいだけど、クリスはちゃんと寝たのか少し心配だな……ん?
「……そうか、そういうことか。アドニス、消費した魔力って自然に回復するのってどのくらいかかるんだ?」
それだけの時間が経っているのに〈マナハーブ〉を使わなければならないほど魔力が回復していないということは、魔力の自然回復がすごく遅いということではないか。
「一部の特殊な連中を除けば、枯渇状態から自然に回復するのに丸一日ってとこだな。完全に回復するにはさらに2、3日はかかる。マスターはそれよりはだいぶ早いと思うけど」
「結構かかるんだな……」
ゲームでのMPは時間経過と共にそれなりの速度で回復していた。それと比べると、現在の魔力の回復速度はナメクジの如き遅さのようだ。オレが早めに回復できるというのは、《魔力回復》のパッシブスキルの恩恵だろうか。それでも、ゲームの時の感覚で魔法を使い続けていたらいずれ枯渇するのは当たり前だ。昨日1日を振り返ってみると、ダイアウルフ討伐の時から魔法を使いまくっている。《シェイドスフィア》なんて消費の重い魔法も使用したし、積もり積もってついにぶっ倒れてしまったというわけか。
「オレの魔法の無駄使いを控えるのは良いとして、お前の方の消費ってどのくらいなんだ? 《シャドウベール》を常時展開してるのって、あまり良くないのかな?」
「いや、《シャドウベール》の消費は大したことねーな。昨日は攻撃魔法を景気よく使いすぎたのが原因だ……ほら、久しぶりだったからさ」
「おい……まあ、分からなくもないけど」
こっちに来てからはもちろん、ゲームでもインプに攻撃してもらうことはほとんどなかったからな。下手にヘイトを上げて《スケープゴート》発動前に退場されたら本末転倒だったし。それを思うと、アドニスの気持ちもちょっと理解できるので、それに関しては不問とするか。
「とにかく結局助かったんだから、これ以上責めるのはお互いなしとしよう。これから気を付けていけばいいさ」
「……ああ。りょーかいだ、マスター」
頷き合ったところで、ドタタタと慌しく階段を駆け上がる音が聞こえてきた。その音だけで誰か分かる。
「おっと。んじゃ、俺は隠れとくぜ」
《シャドウベール》を使いながら、部屋の隅へ移動するアドニス。直後、バーンと音を立てて勢いよく扉が開かれた。
「ルシアさん!」
「アレットさん。無事で良か――うぇっ!?」
言い切る前に、飛び込んできたアレットに抱き着かれる。
「良かった……ホントに良かった――!」
「ち、ちょっと、アレットさん――!?」
うおおお、感触が、いろいろな感触がヤバい! 今更気付いたけど、今のオレは例のクソださインナーしか身に着けていない。お陰でアレットの体の感触が全身にダイレクトに伝わってくる。特に、お互いの胸の膨らみが押し合って形を変える感覚が――
「お、落ち着きましょう! ほら、私は大丈夫ですから!」
「う……ひっく……うん、ご、ごめんね……」
一瞬で蹂躙されかけた理性を全力で振り絞り、アレットの肩を宥めるようにさすりながら体を引き剥がす。正直、その細い肩の感触もオレにはかなりの攻撃力だが、そこは気合で乗り越える。何より、泣きじゃくるアレットの声が、膨らみかけた煩悩を叩きのめしてくれた。それでもわりと元気なのが厄介だが。
「――落ち着きました?」
「ぐす……うん、もう大丈夫。ごめん、迷惑かけたね」
「いえいえ、こちらこそ心配させてしまったみたいですね」
しばらく宥めていると、ようやくアレットは泣き止んでくれた。その間に、最初に感じた性的興奮は薄らいでいき、どこか心が温かくなるような別の感情が芽生えてきていた。
「あ……その、えーと――」
落ち着きを取り戻したアレットは、真剣な表情でオレの顔を正面から見つめてくる。気恥ずかしさから目を逸らしたくなる衝動を覚えたが、彼女の真剣な眼差しに必死で堪える。
「ありがとう、ルシアさん。助けに来てくれて」
「はい。助け出せて本当に良かった。貴女に何かあったらと――」
正面からの感謝の言葉に、オレも素直な気持ちを返そうとして、途中で言葉に詰まる。男だらけの傭兵たちの下へ人質として引き渡されて、彼女は何もされなかったのか。そんな思いが顔に出たのか、アレットは殊更の笑顔を浮かべながら手を振った。
「私はホントに大丈夫。何もされてないから――よくよく考えれば失礼な話だよね。こんな可愛い女の子を前にしてさ」
「あ、あはは……」
そんな冗談を言えるくらいなら、本当に大丈夫だったのか。ホッと胸を撫でおろした。それと同時に、彼女が人質となった経緯について思い出してしまう。この場で訊くべきか否か逡巡している間に、アレットは何でもないような口振りで言葉を続けた。
「父親のことも全然気にしてない――って言ったら流石にウソだけど、でも大丈夫。だって実質赤の他人だもん。赤の他人に何言われたってショックなんか受けないでしょ?」
アレットの表情には無理をしている様子はなった。彼女の中では割り切りが住んでいるのだろうか。
「私は赤の他人の言葉でも、わりと気になってしまうたちなので」
「へー、ちょっと意外かも。ルシアさんほどの人でもそうなんだね」
ルシアはともかく、中のオレはほどなんて言われるような人間じゃ全くないからな。特にGMの仕事をやっていた時は、ネット上の赤の他人の言葉に震えまくっていたものだ。
「とにかく私は大丈夫。それに、今はそんなこと気にしている場合じゃないしね」
「アレットさん……」
彼女を、彼女の笑顔を守ることができて本当に良かった。心からそう思う。そんな感慨に浸っていたオレを無粋なノックが現実へ引き戻す。
「あー……入っていいか?」
「あ、クリスさん! ――と、大丈夫です」
クリスの声に、アレットはオレの体をシーツで隠してから返事をした。さっき思いっきりこの格好を見られていたので今更なのだが、わざわざそれを伝える必要はないか。
ポットとカップを載せたトレーを持って、相棒が部屋に入ってくる。
「ごめんなさい、クリスさん。運ばせちゃって」
「気にしなくていい。そっちも2人で話したいことがあっただろうしな」
相変わらずのイケメン対応をしおって。クリスが差し出したカップを受け取りながら、そんな悪態が思い浮かんだ。我ながら心が狭すぎる。
「んじゃ、何があって今どうなっているのか、それを飲みながら聞いてくれ」
そう言って、クリスは話し出す。まだ去っていない、この町の危機を――




