side/フェリクスⅡ
炎が1つまた1つと姿を消していき、闇と共に混乱が広がりつつあった。いきなり野営地の中心部が闇に飲み込まれるのは想定外だったのだ、無理もない。事前に心構えができていた分パニックには至っていないが、この状況下で被害が出始めればそれも時間の問題になる。
一方、フェリクスのすぐ近くにいた部下たちは、まだ比較的落ち着いていた。彼らは頼もしき傭兵隊長へ指示を仰ごうとしたところで、小さな、しかしはっきりとした呪文の詠唱に気付き口をつぐむ。その声が、他ならぬ傭兵隊長のものだったからだ。
「――操呪の弐。知覚の壱。我が瞳に映りたるは、万物の影――」
実践では久しく使っていなかった魔法だが、最低限の修練は欠かさなかったお陰もあって、詠唱は澱みなく完了した。かつて、従軍神官のいない戦場で生き延びるために身に着けた、隠し芸のようなものだ。
闇に包まれ、ほぼ完全に喪失していた視界が、形を変えて戻ってくる。今や、フェリクスの目は光ではなくマナの波長を捉える器官に変化していた。生物、無生物の区別なく、この世に存在するあらゆるもの――大気すら含めて――はマナを内包しているが、内包するマナの性質は生命活動の有無や構成材質によって大きく異なる。それらマナの性質の違いを色の違いとして認識できるようになれば、普段見ている視界と同等以上の情報を得られるわけだ。ただの暗視能力を得る魔法と比べると習得難易度は遥かに高いが、長年魔族と戦い続けてきたフェリクスの経験と合わされば、魔族の擬態や隠密すら見破れる――こともある。
真っ当な魔術師からすれば、ちんけな小細工みたいなもんだろうがな。
素早く新たな視界から得た情報を分析しながら、心のうちでそう自嘲した。一定以上の技量を持つ魔術師であれば、マナの波長を感じ取るのに五感を使ったりはしない。わざわざ視覚情報に変換するという手順を踏まなければ認識できないのは、単純に才能がないからに他ならない。もっとも、そんな才能があれば傭兵になどなっているわけがないのだが。
「――大将、どうすればいい?」
「いいか手前ら、絶対に狼狽えるんじゃねえ。後方を見てみろ」
詠唱を終えたフェリクスにかけられた部下の声は、若干震えてはいたものの、冷静さを感じさせるものだった。内容は分からずとも、フェリクスが何らかの魔法を使用したことを察して落ち着きを取り戻しつつあるようだ。
「――あ! 外側は火が消えてねえ!」
部下の声に希望が戻る。まさしく、闇の中の光を見つけた心持だ。闇に飲まれていった炎も別に消えたわけではなく、一時的に光が遮られているだけなのだが、いちいち訂正はしない。
「ここら一帯を覆うほどの広さはなかったわけだ。いいか、小隊ごとに纏まって魔法の範囲から離脱しろ。闇の中でも必要以上に怯えるな。合言葉の確認を怠らずに同士討ちを避けるんだ――」
矢継ぎ早に指示を飛ばしている最中、破砕音が響く。音がしたのは、闇が広がり始めた中心部の方向だ。目を凝らせば、直前に何らかの魔法が発動したと思われるマナの残滓と、特殊な色を持ったナニかが、立ち上がって動き出すのが見えた。この視界下では距離の感覚が曖昧になりがちなので、大きさは判然としない。
「――今の音は!?」
「気にしてる場合じゃねえ! とにかく手前らは脱出を優先しろ!」
「大将はどうするんだ?」
「俺は大丈夫だ。他の連中の面倒も見ないとだしな」
そう言いながら、傍に立てられていた槍を掴む。部下たちが慎重に走り出した音を背中に聞きながら、自分はどうするべきかを考え始めていた。
まず、この闇を作り出した相手についての漠然とした違和感を分析する。作り出された闇の範囲はかなり広い。中央付近から広がったそれは、前方の灯りを完全に飲み込み、かろうじて後方の僅かな火だけが残されている。後少しでも広かったなら、魔法の範囲を知るすべすら失われて、動揺はより酷かっただろう。範囲の広さは術者の魔力の高さと直結している。魔族の中でもかなりの使い手と判断できた。
だが、さっき動いていたアレは、少なくとも高位の魔族には見えなかった。
発生の起点から移動していったアレが術者である可能性は高いが、目に映ったマナの色は魔族とは思えないものだった。もちろん、マナの波長を偽装する魔法も存在しているが、今この状況でそれを使っている意味が分からない。
それに、あの位置はひょっとして、町の連中が持ってきた物資が置いてあった場所か?
まさかという思いがフェリクスの頭をよぎる。魔族にばかり意識を取られて、町に関しては完全にノーマークだった。追加の要求にあっさりと応じたことにも疑問を抱かなかったのだ。魔族との戦いに備えているうちに、町の人間が物資を提供するのは当然のことだと、そんな錯覚に囚われていたのかもしれない。10年もの時間を過ごした魔族との戦争における常識は、思いのほか深くフェリクスに根を張っていた。
クソ。俺としたことが、何という失態だ。ここはあの戦場じゃねえんだぞ!
自分の間抜けさを呪いながら、必死に思考をめぐらす。アレが町側が送り込んだナニかだとして、その狙いは何なのか。考えるまでもない、人質の奪還だろう。未だ目立った戦闘が発生していないのが何よりの証拠だ。そしてそれは、相手が魔族ではないということをも示している。
状況からそこまで判断を下したものの、それでもフェリクスは動くことを躊躇していた。闇の魔法は人間にも使い手はいる。だが、ここまでの規模の魔法を展開できるとなると、並みの使い手ではありえない。高位の魔族と比べて人間の魔術師は肉体的には遥かに脆弱なため、フェリクス1人でも勝ち目は十分にあるが、だからと言って1人でしか戦えない状況で対峙したいわけがない。
こんな田舎にそれほどの魔術師が何故いるのか。そんな戦力がいながら何故あっさりと退去料の要求を飲み、人質まで差し出したのか。腑に落ちない点はいくつもあるが、今はそんなことはどうでもいい。こんな手を打ってきた以上、町側はフェリクスたちへ抵抗する意思を固めたということだ。反抗させないための人質である以上、すでに決意を固められてしまったのなら、その価値はもうほとんどなくなっているとも言える。だが、むざむざと奪還されては部下の士気に関わる以上、やはり阻止できるなら阻止するべきだ。
腹を括るか――!
すでに敵対している厄介な相手がいるのなら、人質という足手まといを抱えている状況はまたとない好機とも言える。決断を下したフェリクスは、腰に下げた愛剣を確かめてから、人質のいる天幕へと走り出した。
######
「ヴァン!」
「その声は――団長!」
闇に飲まれた直後の混乱状態から回復した部下たちは、残っている灯りの下を自主的に目指しているようだった。何度目か分からない、部下との遭遇。フェリクスはこれまた何度目か分からない指示を飛ばす。
「ヴァン、魔法の範囲外へ脱出できたら、外周を通って町への街道まで迂回しろ。可能な限り速やかに街道を封鎖するんだ。それと、俺がいない間は全体の指揮はギーに執らせる。他の奴にも徹底させておけ。いいな?」
「分かった、了解だ……団長には誰もついていかなくて大丈夫なのか?」
「アホか。この状況で誰か連れてっても足手まといになるだけだろうが」
「だが、1人じゃ――」
「ごちゃごちゃ言ってないでさっさと行け!」
なおも食い下がる部下を放置し、移動を再開する。多くの傭兵は、自分たちの傭兵隊長の身の安全に非常に気を遣う。傭兵を雇用する側が契約しているのは傭兵団ではなく傭兵隊長個人であり、傭兵隊長が死ねば誰も給料を払ってくれなくなるからだ。給料を支払い続ける限り、部下は時に命を賭してでもフェリクスを守ってくれる。普段ならそれでいいのだが、この状況ではその忠誠心が厄介だった。ほとんど盲目に近い状態の人間が武器を持ってついてくるなど、何の役にも立たないどころか同士討ちの恐怖でマイナスにしかならない。
移動を再開してから少しして、地面に倒れている部下を遠目に発見した。その色から生きていることだけはすぐに分かったが、外傷の有無などは現在の視覚では知ることができない。一応、四肢の欠損や大量出血はしていないこと程度は見て取れた。部下が倒れているのは天幕の入り口のすぐそばだ。
よし、あれが人質の天幕か。
これまでに倒されている部下はいなかった。敵の目的と現在状況を考えれば、倒す必要があるのはどうしても邪魔な相手だけのはずだ。そう当たりをつけて、可能な限り足音を殺して天幕へと近づいていく。当たりをつける必要があったのは、天幕の数が多く、だいたいの位置しか把握していなかったからだ。もともと番号で区別していたのだが、残念ながらフェリクスの今の視覚では、魔力を混ぜたインクでも使っていない限り文字の判別などできない。そのことに思い至った時、内心かなり焦ったのは秘密だ。
何とか間に合ったか。すでにもぬけの殻だったら、どうしようかと思っていたが。
近づくと、天幕内から人の気配がした。おそらく3人。内2人は人質だ。よって、敵は1人。そう判断し、槍を持ち直したところで――
――バサリと天幕の入り口が跳ね除けられ、中から人影が姿を現した。
「――っ!」
「――っ!?」
敵も瞬時にこちらに気付き、互いに息を飲む。距離は15、6パース。槍の間合いにはまだまだ遠い。だが、フェリクス側は中に敵がいることを知っていたのに対し、敵はこちらの接近に気付いていなかったのか反応が遅れている。
敵はローブに杖というあからさまに魔術師な外見をしていた。どちらも材質から魔力を帯びているらしく、精緻に刻まれた魔紋とも異なる色をしている。それだけで分かる。アレは、手練れの魔術師だと。体格こそ小柄だが、魔術師相手にそんなものは何の判断基準にもならない。だが――
即座に詠唱を始められねえとはな。実戦は未熟と見える!
地面を蹴り、一気に距離を詰める。敵は未だに硬直しているのか、呪文を唱え始める様子はない。もらったと、そう確信した瞬間、敵が杖をこちらへ向け――
「――っ! はああっ!」
背筋を走り抜ける直感の命ずるままに、左手で愛剣を引き抜き、一息に目の前の空間を薙ぎ払う。
バジュンッ――そんな耳障りな音と共に、確かに何かを切り払った手応えがあった。一瞬遅れて、魔法としての形を失い大気へ還っていくマナの残滓が目に映る。
「――は?」
敵がそんな間抜けな声を漏らした。物騒な場面に似合わぬ、若い女の声だ。どうやら驚いている様子だが、それはフェリクスとて同じことだ。
今、こいつは何をした!?
間違いなく、呪文の詠唱はなかった。杖を向けられた直後に、微かな声が聞こえただけだ。
「――無詠唱魔法だと……!」
「破魔の魔紋!?」
奇しくも、2人の驚愕の叫びが重なる。夜の闇の下、フェリクスと魔術師は対峙する。
未だ、夜明けは遠い――




