side/フェリクスⅠ
リューベルンの町を望む小高い丘。東へ続く街道が、リアナの森の狭間を抜け港町ロートリアナへ至る南東方面と、北の主要街道へ合流する北東方面とに分岐する地点がすぐそこにあり、街道を封鎖するにも、いざという時に逃走するにも、とても都合のいい場所だ。傭兵隊長、“魔断”フェリクスが率いる133名の傭兵たちが野営地として居を構えているのはそんな場所だった。
「隊長。西の街道だが、やってくる旅人がいなくなった。アズレイド側に知られたようだ。大丈夫なのか?」
「ここと隣接しているのはウェセル領だ。あそこには、すぐ討伐隊として送れるような軍隊はねえ」
「へえ。流石、大将。博識だな」
フェリクスの天幕へ報告にやって来た小隊長が感嘆の声を上げる。ラーナ東部、魔族との戦争の最前線で、多くの戦果を挙げたフェリクスは、荒くれ者たちを束ねる傭兵隊長に対して多くの人間が抱くであろうイメージとは裏腹に、多くの知識に精通し教養も深い。そんなフェリクスのことを、多くの部下は純粋に尊敬しており、彼の判断を疑うことを知らない。
「人質の監視の方はどうなってる?」
「今のところは問題は起こってないな。ただまあ、若い女、しかも結構な美人だ。いつ、手を出すバカが出てもおかしくないわな。普通、俺たちみたいなのに、あんな娘を人質に出すか? どんな親なんだか」
「知るか。こっちとしてもいい迷惑だ。とにかく、きっちり管理しとけよ」
フェリクスは、心底面倒くさそうにため息をつく。人質の身を保護しなければならないから、などという殊勝な理由ではもちろんない。100人以上の血の気が多い、女に飢えた野郎の集団の中に若い娘が1人だ。誰かが手を出したが最後、奪い合いの挙句に殺し合いに発展しかねない。他の2人の人質のように、男や婆さんであれば何も問題はなかったのだが。
「りょーかい。んじゃ、戻るぜ」
そう言って出て行った部下の背中を見送ると、フェリクスは手元の紙へと視線を落とす。
「海賊どもの口車に乗せられてこんなところまで来ちまったが。この町からの収入で何とか元は取れそうか」
魔族の侵攻が始まってから早10年。戦争初期より傭兵として魔族と戦い続け、気付けば100人以上を束ねる傭兵隊長となっていたフェリクスだが、ついに雇用主である旧バルゼの亡命貴族から契約を打ち切られたのが2ヶ月ほど前になる。その後、しばらくの間は新たな雇用主を探してみたものの、防衛施設の強化による戦線の膠着は、ほぼ戦場の全域で起こっており、新たな雇用どころか次々と傭兵たちが解雇されていくばかりだった。そしてついに、フェリクスは10年来生活の糧としていた戦場を後にする決断を下したのだ。
部下たちを食わせていくために、今までの人生で培ってきたコネを総当たりしていたところに声をかけてきたのは、大陸の南、マーレン諸島を拠点とする海賊商人だった。金を出してくれるなら魔族とだって取引すると噂されるマーレンの海賊商人たちのことは、フェリクス自身信用ならないと思っていたが、すでに資金が限界に近かった彼には他の選択肢などなかった。
海賊商人から持ち掛けられた案件は、ラーナ西部、アズレイドとの国境付近に存在する空白地での略奪だった。特に、近年多くの商人が集まり急成長しているリューベルンは非常に美味しい町であると、散々力説され、引き受けることにしたのである。さらに、所属していた傭兵団が解散して行き場を失った傭兵20名を預かる条件で、ラーナの西の港町であるロートリアナまでの船賃を格安にしてもらった。
しかし、人数が人数だけに、ここまでの間になんだかんだと金が出ていき、途中の村々からちまちまと集金してはいたものの、リューベルンで十分な収入を得られなければもう部下への給料が払えなくなるほど資金が逼迫してしまった。傭兵隊長の最大の役割は給料を払うことであり、それができなくなった時の末路はたいがい悲惨だ。フェリクス自身、いざという時に身一つで逃げ出す準備を常に怠らないようにしている。
後に引けない状況に、どうしてこうなったのかと思考の海に沈んでいたフェリクスだが、外から聞こえてきた慌しく馬が駆ける音に、瞬時に意識を切り替えた。この音が聞こえる時、やってくる報告が良い内容だったためしがない。
「団長! 緊急報告だ!」
馬から飛び降りた勢いのままに天幕へと乱入してきた部下の顔を見て、今回もその経験が当てはまることを察する。
「――何があった? 落ち着いて報告しろ」
凶報であると確信しながらも、表情一つ変えることなく尋ねる。歴戦の傭兵隊長に相応しい、泰然とした態度を見せる上司に、慌てふためいていた部下も少し落ち着きを取り戻す。だが、その部下の報告が、フェリクスの余裕を持った態度を完膚なきまでに粉砕することとなる。
「インプだ――インプが出た」
「なに――?」
一瞬、目の前の部下が言った言葉が理解できない。いや、理解を拒んだのかもしれない。だが残念なことに、僅かな抵抗もむなしく、その言葉は脳に届いてしまう。
「インプが出ただと? 見間違いではないのか?」
「あの憎たらしい姿を見間違えることなどあり得ない! 間違いなくいたんだ!」
思わずバカな質問をしてしまったが、それがあり得ないことは、部下に言い返されるまでもなく、フェリクス自身が良く知っていた。インプは最下級の魔族であり、魔族軍において斥候の役割を担っている。小型で飛行できる上に、周囲から認識されなくなる能力まで保有しているという、斥候として最高の存在と言えるだろう。逆に人間側からすればこれほど厄介な相手もいない。それ故に、インプは見つけ次第即射殺しなければならないというのが、魔族相手の戦場における常識だ。自然、インプを見間違えるような間抜けは生き残れずに淘汰されていく。
フェリクスの部下は歴戦の猛者ばかりだ。だから、見間違えなどあり得ない。だが、それでもインプがこんなところに出現するなんて、到底信じられないのだ。いや、より正確に言うのなら、信じたくないのだ。
「――団長。インプを発見した以上、魔族の斥候と考えるべきだ。そして、ここにはあの鬱陶しいユストサリアの従軍神官どもはいない……」
「……」
血を吐くような部下の言葉。フェリクスも全く同じ内容を胸のうちで呟いていた。驚異的なインプの隠密能力に唯一対抗できるのが、法と正義の神ユストサリアを信奉する神官たちの魔法だ。彼らが言うところの真実の光には、魔族が用いる隠密や擬態といった厄介な能力を打ち破る力がある。堅苦しく口煩いユストサリアの従軍神官には、基本的に万事適当な傭兵たちは散々説教を受けていた。なんて鬱陶しい連中だと口を開けば罵倒したものだが、それでもその重要さは誰もが理解していたのだ。彼らがいない状況で魔族と遭遇するなど悪夢でしかない。
「どうする、団長? 襲撃に備えるべきだろうが、俺たちだけで何とかできるのか? いっそのことラーナに魔族のことを伝えて――」
「駄目だ」
何も言わないフェリクスに狼狽えて弱音を吐きだした部下を、即断して黙らせる。そんなことをすればこの町を諦めることになる。部下たちはそれでもいいかもしれないが、資金が尽きてフェリクスはおしまいだ。逃げる時には自分だけ上手く逃げなければならない。そのためにも、部下に動揺が広がるのはまずい。
「ヴァン、インプのことを知っているのは、どれだけだ?」
「遭遇したのは俺の小隊だけだが、特に口止めはしてないな……」
ということは、もうかなり広まってしまっているだろう。ならば、早急に手を打たねばならない。
「街道封鎖を行っている小隊以外の小隊長を全員集めろ」
「あ、ああ。何か方策があるのか?」
「安心しろ、ヴァン。昔はな、今ほど従軍神官の数は多くなかった。その時でも、ちゃんと魔族どもとは戦えてたんだぜ?」
不敵にニヤリと笑って見せるフェリクスに、ヴァンと呼ばれた部下は落ち着きを取り戻す。
「へへ、流石は“魔断”。了解だ。今すぐ集めてくるぜ!」
自分たちの団長が歴戦の古強者であることを思い出し、ヴァンは勢いよく天幕から飛び出していった。フェリクスはその足音が遠ざかるのを確認すると、自嘲するような笑みを浮かべながらボソリと呟く。
「――だから昔は、いとも簡単に味方がくたばっていったもんだ」
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見渡す限り一面の夜の海に浮かぶ炎の船が規則正しく並んでいる。人間は本能的に炎に憧れるというが、ならば今眼前に広がるこの光景は、まさしく人間が感じる根源的な美の景色なのではないだろうか。
一際巨大な篝火の下、フェリクスは漠然とそんなことを考えながら、着々と作り上げられていく炎の砦を眺めていた。炎は美しい。炎は人を興奮させ、同時に安らぎも与えてくれる。闇を恐れる人間にとって、それを振り払う原初の剣だ。
「大将! 町の奴らに用意させた油と松明、届いたみたいだぜ。これで一晩明かせるな!」
周囲を取り巻く炎に中てられたのか、報告に来た部下はどこか気分が高揚しているように見える。
「分かった……おい、あまり浮かれるなよ?」
「おう、悪い悪い。でも、この光景だからな。いやしかし、大将はすげえぜホントに。炎の壁を何重にも敷いておけば、魔族どもがどっちから仕掛けてきてもすぐわかるってわけか」
フェリクスの忠告も興奮している部下の耳にはあまり届いていない。それも狙いのうちではあるのだが。
部下の言葉通り、この炎の砦は魔族の襲撃の際、素早く対応するためにかつての戦争で用いられた方法だ。魔族との戦場となっている旧グランリアナ帝国領東部では亜人の数が極端に少なく、自然と戦争に駆り出される兵士は人間ばかりになる。夜目の効かない人間にとって、魔族との戦いで最も恐ろしいのは夜襲だ。暗闇をものともしない魔族に対して、圧倒的に不利な条件で戦わなければならなくなる。もちろん、夜の灯りを絶やさないことは基本中の基本だが、闇の魔法を得意とするものも多い魔族相手ではそれだけでは十分とは言えない。
中でも光源を一時的に無効化する闇の魔法は魔族の常套手段であり、それに対抗できる従軍神官の数が十分でなかった頃に、灯りを全周に配置することで敵の侵入経路を分かりやすくするという方法が編み出された。はっきり言って、やらないよりはマシ程度の効果ではあるのだが、見た目が非常に派手なので、兵士の士気高揚にもつながるという利点がある。
フェリクスとしては、どちらかといえば後者の狙いが大きい。魔族に怯える部下たちを勇気付け、同時に指揮官であるフェリクスへの信頼をより強くする。とにかく傭兵隊長というものは、どんなに不利な状況でも、こいつについていけば大丈夫と部下に思わせなくてはならないのだ。
彼らを切り捨てるその時まで。
「――大将。魔族の襲撃はあると思うか?」
「インプが単独でうろついているというのは考えにくいが、こちらの戦力を探った上で襲ってこないということは普通にあり得ることだからな」
実際のところ、フェリクス本人としては半々程度に考えていた。いくら何でも、それほど多くの魔族が、彼らの占領地から遠く離れたこの地まで来ているとは考えにくいからだ。ただ、フェリクスたちをそうしたように、あの節操なしのマーレンの海賊商人たちが魔族の部隊を海路で運んだ可能性は一応ある。
「……そういえば、マーレンの海賊どもから預かった連中は――」
ふと頭をよぎった考えを部下に確認させようとした、まさにその時。異変が始まった。
「――っ!」
「た、大将っ、あれは!?」
フェリクスたちがいる地点より前方、野営地の中央付近。そこから発生した黒い波が、瞬く間に周囲を覆っていく。いや、黒い波ではない。消えていっているのだ、炎の光が。
傍らの篝火が闇の波に飲み込まれる寸前、フェリクスは精神を集中し、己の体内のマナを活性化させる。
思い起こすは、かつての戦場。闇の眷族との死闘は、夜明けが訪れるまで終わることはない。
長い長い夜は、まだ始まったばかりだ――




