アブラプトクライシス
オレの上に降ってきたものは――鹿だ。狼たちを引き寄せるべく囮役が背負っていた獲物である。それを通り抜けざまにオレの上に落としていったのだ。覚悟はしていたものの、その衝撃に思わず息が漏れる。《シャドウバインド》のキャストを途切れさせなかった自分を褒め称えたい。
それにしても、焦っていて仕方なかったとは思うが、少々どころじゃなく乱暴だった。慌てて、自分の体が隠れているかを確認する。一応、大丈夫そうだ。
「――っ」
ホッとしたところで、今度は臭いに顔をしかめる。もともと草の搾り汁塗れだったところに鹿の死体が載せられて、いろいろと酷いことになっている。おまけに鹿には直前にたっぷり血をまぶされているのだ、悲惨というほかない。だが、この臭いがオレの存在を隠してくれるのだから、我慢しなければ。
ハッハッ、と狼たちの息遣いが聞こえてきた。ダイアウルフとの距離はも10メートルを切った。襲われた猟師の時と同じく、放り出された獲物を前に足を止めたようだ。囮役が無事に逃げられてよかった。
「……」
すでにキャストは完了し、《シャドウバインド》は待機状態になっている。ダイアウルフも射程距離内だ。他の狼たちより体格は大きいから、群れが邪魔になって見えないということもないだろう。何も問題はない、大丈夫なはずだ。だが、どこか躊躇している自分がいる。
これからオレがやることは、紛れもなく相手の命を奪うことだ。それが人を襲った敵であっても。
「――っ!」
狼の姿がチラリと隙間から見えた。マズい、うじうじ悩んでいられる状況じゃなかった。杖を握り締め、自分に言い聞かせる。覚悟を決めろ。オレが躊躇ったせいで、傷ついた人がいるんだから!
鹿を押しのけ立ち上がる。周りには狼、狼、狼――正面に一回り以上大きな体躯。頭上に、黒い靄が漂っている。一瞬目が合った。《長の威風》による重圧は、一度経験して慣れたのか、それとも覚悟を決めていたからか、ほとんど感じなくなっている。
「《シャドウバインド》!」
戦いを告げる魔法。ダイアウルフの影に何本もの黒い杭が突き立ち、動きを封じ込める。視界の隅に、少し離れて隠れていたクリスが猛然こちらへと走りだすのが見えた。
「アオォォォーン!」
逃げられないことを悟ったダイアウルフは、すぐさま配下たちへ攻撃を命じる。突然のことに硬直していた狼たちが、一斉にオレへと襲いかかった。今は《テラーイメージ》による守護がない。狼たちを逃がさないためにも、使うわけにはいかなかった。
「っつ、このっ! ――くはっ!?」
身を隠していた穴が、今度は動きを妨げる障害となる。何とか正面の1匹の攻撃を躱しながら、右から来たもう1匹を杖で叩き落す。しかし、到底捌ききれず、左から飛び掛かかってきた1匹に腕を、背後からの1匹に肩を噛みつかれた。ただの狼の牙では〈契約者のローブ〉を貫くことはできないが、それでも想像していた以上に鋭い痛みが走る。突進の勢いに耐えられず、諸共に穴の外へと転がった。痛みと衝撃でキャストが途切れる。
「――かふっ」
しまった!そう思った瞬間には、さらに2匹の狼にのしかかられていた。重さで息が詰まり、衝撃と合わさって上手く声が出ない。
完全に油断していた。一斉に飛び掛かられるのは覚悟していたが、狼に噛みつかれるくらいなら大丈夫だと高を括っていたのだ。心配や緊張はあくまで猟師たちの身を案じてのものであり、自分のことはまったく気にしていなかった。
「マスター――!」
アドニスが悲鳴染みた声を上げる。のしかかっていた狼がオレの首筋に噛みつこうとして――
「ギャン!」
飛んできた矢に射貫かれ転がった。何匹かの狼がそちらを警戒して意識を逸らし、オレへの拘束が緩む。
「こっっっのおおおっ――!」
その隙をつき、体を捻りながら無理矢理杖を振り回す。噛みつかれている肩と腕にさらなる痛みが走るが、分かっていれば十分耐えられる。運悪く直撃した狼が、景気よく吹き飛んで転がった。流石は〈縛鎖の魔杖〉。ごつい外見に見合った威力はある。
未だ噛みつき続ける2匹をそのままに上体を起こす。チラリと視界の隅に弓を構えるアルマンさんの姿が映った。《長の威風》による重圧は一般人にはかなりきついはずだ。それを振り払って援護してくれたのか。
情けない。戦うのは任せておけと言っておきながらこの体たらく。いくら痛みに慣れていないとはいえ、ただの狼相手に苦戦するなんて流石にカッコ悪すぎる。
「大丈夫だ、アドニス。《インスタントカース》」
オレの方へやってこようとするアドニスを制止し、インスタントキャストのDoTを左腕に噛みついている狼に刺す。狼はすぐに苦しみだし、腕を放してよろよろと離れていく。本来DoTは少しずつHPを削っていくものだが、遥かに格下の敵であるためか、かなりの即効性だ。
「おおおおおお!!」
アルマンさんに続いて弓で援護し始めた猟師たちと、未だ1匹に喰いつかれているオレとで狼たちの注意が別れたところに、〈クレイモア〉を構えたクリスが凄まじい勢いで突っ込んできた。狼たちを比喩でなく蹴散らしながら、拘束されているダイアウルフへ一直線に突き進む。その姿に本能的な恐怖を感じたのか、ダイアウルフの命令との板挟みになった狼たちの動きが止まった。
「《ライフドレイン》」
その隙にキャストを完了させ、肩に食いつく狼を倒す。今度はDoTではなく対象からHPを吸収する攻撃魔法。受けた狼は即死して地面に転がり、同時に体から痛みが引いていく。お陰で余裕を取り戻せた。
上半身だけ起こした状態から立ち上がりつつ、ダイアウルフの様子を確認しようとして――
「アオォ――」
ダイアウルフの更なる指令が不自然に途切れる。慌てて振り向けば、噴水のように吹き上がる赤い奔流と空を舞う狼の首が目に入った。
「――は?」
マジかよ。いくら格下とはいえ、ボスエネミーを一撃でか?
倒れ伏すダイアウルフの体の向こうに、翠のオーラを纏った相棒の姿が見えた。ダイアウルフ相手に《竜気覚醒》を使ったのか。逃がすわけにはいかないとはいえ、拘束したのだからそこまでやらなくてもと思わなくもない。
「ルシア!」
「――っと、《インスタントカース》」
クリスの声に我に返る。気付けば、リーダーを斃された狼たちは、すでに逃走を始めていた。慌てて、クールタイムの過ぎていたDoTを手近な相手に刺す。ダイアウルフを倒したとはいえ、この数の狼を逃がせばまた被害が出る。ぼけっとしている場合ではない。
「はあああああ!」
クリスの裂帛の気合が響き、薙ぎ払われた大剣で数体の狼が屍となって吹き飛ぶ。向こう側は放っておいてもいいだろう。冷静になって状況を見る。ダイアウルフが斃れ《長の威風》が消えたことで、アルマンさんたちの弓の発射速度が目に見えて上がっている。彼らの弓で届く範囲から離脱しつつある狼から狙っていこう。本当に、範囲攻撃スキルがないのがもどかしい。
「《カースボルト》――《インスタントカース》」
《インスタントカース》をばら撒きながら、合間に攻撃魔法を挟む。それでも、間に合わずに逃走を許した狼には――
「アドニス、頼む」
「りょーかい、りょーかい。魔族使いが荒いね、全く!」
猟師たちの目に入らないところでなら、アドニスに任せておけばいいだろう。
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積み上げられている狼たちの死体。戦闘による興奮はとっくに醒め、これだけの数の命を奪ったという事実と纏わりつく血の臭いに、オレは吐きそうになるのを必死に我慢していた。死体を集めて回るのはとてもきつかったが、命を無駄にしないためにも放置するわけにはいかない。
「おう、魔術師の嬢ちゃん……いや、嬢ちゃん呼びは失礼だな。大魔術師殿!」
「……その呼び方はやめてください」
嬢ちゃんは現在の体を考慮すれば仕方ないと思えるが、大魔術師殿は流石にきつい。かけられた声に振り向けば、囮役をやり遂げたデジレの姿があった。
「おっと、そうか? じゃあ――」
「ルシアで良いですよ」
「おお、そうかい。いやあ、ルシアの嬢ちゃんの魔法はホントにすげえな! 正直、最初は竜戦士殿のおまけだと思ってたんだ。今となっては、我ながらとんでもねえ失礼なことを思ってたもんだな!」
「はあ……」
結局嬢ちゃんなのかよ。そう思われてたのは薄々感づいてたけど、今になって口に出すのかよ。いろいろツッコミたいが、我慢する。
「嬢ちゃんみたいな女の子に狼たちの相手をさせて、俺たちは援護だけなんてなっさけねえ話だと思ってたんだがな……あのダイアウルフの気配を感じたらたちまちブルっちまって、逃げるだけで精いっぱいだった。なのに嬢ちゃんは臆せず立ち向かって……凄かったぜ」
今まで見せていたどちらかといえば調子のいい様子とは打って変わって、とても真剣な表情だ。そんな表情で言われると、少しだけ罪悪感すら覚えてしまう。元の、本来のオレはデジレとは比べものにならないぐらい情けないだろうから。あくまでルシアの能力を持っているからこそ、あんな真似ができるのだ。むしろ狼相手に地面に転がされるなんて、ルシアならあり得ない無様を晒している。
「ダイアウルフ相手に竦まず、囮をやり切ったのは十分凄いことですよ。貴方が自分の仕事を果たしたからこそ、仕留めることができたんですから」
嘘は全くない。心からの言葉だった。
「……そうか。はははっ。嬢ちゃんにそう言ってもらえるとは嬉しいぜ。リューベルン最速の看板に偽りはなかっただろ?」
笑顔に戻ったデジレは、自らの足をパーンと叩いた。つられて、オレも少し笑ってしまう。感じていた吐き気は、気付けばかなり軽くなっていた。
「ルシア! そっちはどうだ?」
「あ、クリス。こちらはもうこれで終わりですね」
今度は相棒の声。数匹の狼を背負っている。近づかれると、草の青臭さと返り血の臭いが合わさって、思わず口元を抑えた。再び吐き気がぶり返してきそうだ。
「クリス……凄い臭いになってますから、あまり近寄らないでもらえますか?」
「これでも拭ったんだがな。というか、言いたくはないがお前もたいして変わらないぞ」
言われなくても分かってるよ! それでも、自分の臭いには慣れてきていたところだったんだ。
「おお、竜戦士殿。お疲れ様です」
デジレは臭いを気にする様子は全くない。猟師にとっては日常的なものなのだろう。それにしても、クリスに対する尊敬の念は相変わらずというか、ダイアウルフを一刀で切り伏せたことでますます強くなっているな。
そんなことを考えている間に、残りの2人も姿を現した。
「これで全て終わったようじゃの」
「はい。お疲れ様です、アルマンさん」
「はっはっは。まだまだ疲れてなどおらん――と言いたいが、やはり歳にはかなわんものじゃな」
そうは言うものの、笑い声はまだまだ元気そうだ。ダイアウルフを倒せたことで、アルマンさんも少し浮かれているように見える。
「では、町へ凱旋と行くか! 皆、喜ぶぞ!」
「おおー!」
アルマンさんの号令に、皆で拳を上げて答えた。浮かれているのは他のメンバーも同じのようだ。その空気に、オレも気分がかなり回復してきた。
全員で分担して狼を背負う。とても全部は持ちきれないので、残りは後で人を増やして回収するそうだ。そうして歩き出そうとしたところに、念のため周辺警戒に出していたアドニスが慌てた様子で戻ってきた。
「マスター! 緊急報告!なんか武装してるっぽい集団が町へ向かってんぞ!」
「え!?」
オレ以外には姿も声も認識できないので、使い魔からの報告と言って皆を制止する。緊急報告という言葉に、魔族の言葉はどうせ分からないだろうと判断し、その場で話すことにした。
「武装してるっぽいというのはどういうことだよ」
「いや、遠目だから確信が持てねー。ただ数が数だし、騎乗してるのもいるし、ちょっとヤバそうな雰囲気なんだよ」
曖昧だな、おい。だが、必死さは伝わってくる。仕方ない、ここは我が相棒の出番だ。
「――クリス。どうも、ものものしい雰囲気の集団が町を目指しているらしいんです。《竜眼》で確かめてもらえませんか?」
「分かった。こいつを頼むぜ」
クリスは即答すると、〈クレイモア〉を放り出して近くの木に登り始めた。そのあまりの速さに、猟師たちがポカンと見上げている。
《竜眼》はドラゴンの視力を一時的に身に着けるハイランダーのスキルだ。暗視能力や動体視力の強化に加え、高倍率の望遠鏡並みに遠くを見ることもできるようになるらしい。使用中は瞳孔が爬虫類のそれに変化するため、見た目がかなり怖かったりする。
「流石、竜戦士殿。凄い速さで登ります――なあ!?」
あっという間に枝葉に隠れて見なくなる高さまで登ったと思ったら、ほとんど間を置かず飛び降りてきた。かなりの高さだったはずだが、華麗に着地して見せる。
「どうしまし――!」
尋常ではない様子に慌てて駆け寄るが、クリスの顔を見て思わず絶句した。長い付き合いだが、こんなに焦った表情を見るのは初めてだ。
「重武装の集団が東から町へ近づいてる! 数はおそらく100以上! しかも、見た目からしてあれは正規兵じゃない!」
「なんじゃと!?」
正規兵じゃない重武装の集団だって?東から流れてきた傭兵たちによる狼藉が横行している、と昨日、町の兵士から聞いた話が頭の中で蘇る。
「も、戻りましょう。急いで!」
「――っ! おう! 先導する!」
弾かれたように、全員が一斉に動き出す。先ほどの浮ついた空気は一瞬で霧散していた。背中を這いあがる嫌な感覚に追い立てられるように、ひたすら足を動かす。
ルネさんにアレット、ガストンさんや町の兵士たち。たった1日未満の付き合い。それでも、言葉を交わした人々がいる。
何事も起きないでくれ。杞憂であってくれ。そう祈りながら――




