女神の森
現れた狼たちの連携は、とても洗練されていた。
先頭の1匹が姿を見せた時点で、もう完全に包囲されていた。しかも音が聞こえたのは前方からだけ。迎え撃った場所は十分に開けた場所だったのだが、これが人間と野生動物の差ということか。上空から見下ろしているアドニスからの情報が無ければ、パニックになっていたかもしれない。やはり、ゲームでの動きとはまるで違う。改めて、これが現実なのだと突き付けられた。
狼たちはいきなり飛び掛かってきたりはせずに、じりじりと包囲の輪を狭めてくる。逃げようともしないオレを警戒しているのかもしれない。ハッハッハッ、と狼たちの息遣いが耳まで届く距離。どんなにリアルな見た目でも、所詮中身のない幻のようなものだったゲームとは違う。こいつらは、皆生きている。
凄い緊張感だ。それでも逸る心を押し殺して、狼たちを観察してみる。ぱっと見でわかるほどの見た目の差はない。ボスはいないのか。一瞬、そう思ったのだが――
「マスター!」
アドニスの警告。同時に、右手側から一回り以上大きな個体が飛び出してきた。見た目の差以上に、見る者を圧倒する威圧感を伴っている。ゲームと違って名前の表示などないため分かりにくいが、間違いない、群れの長たるダイアウルフだ。
ひしひしと感じる、呼吸がしにくくなるほどの威圧感。ゲームでダイアウルフが保有していたパッシブスキル《長の威風》の効果だろうか。群れを率いるタイプのエネミーが共通して持っているスキルで、精神に作用するほどの存在感により、周囲の味方の能力を強化すると同時に敵対者の攻撃力と敏捷を低下させる。常時効果を発揮しているパッシブスキルだけに、ステータス以上に厄介な相手だ。
それにしても、おかしいな。ダイアウルフのゲームにおけるレベルは最大でも20のはず。それに対して、オレの方はあの時点でのレベルキャップである65だ。ボスエネミーためHPや耐性こそかなり高いが、それ以外の能力はレベル相応のはず。オレが《長の威風》にレジストできないとは考えにくい。だが現に、錯覚とは思えないほど体が重く感じる。敵の強さもゲームの時とは違うのか?
「《テラーイメージ》」
まあいい、考えるのはこの場を切り抜けてからだ。嫌な予感を振り払いつつ、待機させていたスキルを発動する。術者自身を対象とした魔法で、術者を見たものに恐怖を植え付け逃げ出させる。効果時間が長く、その間に新たに術者を見た相手にも効果を発揮するため、防御魔法として使うととても強力だ。その代わり非常にレジストされやすく、かなり格下の相手にしか通用しない。基本的に数を頼みの雑魚から身を守るための魔法といえる。デバフに特化しているオレの場合、そこそこの相手にも通せたりするが。
スキルは問題なく発動し、続けざまに次のキャストを開始する。周囲の狼たちは一斉に怯えだし、逃走しようとするが――
「アオォォォーン!」
ダイアウルフの遠吠えが響き渡り、狼たちは動きを止める。逃げるでもなく、こちらに襲いかかってくるでもなく、恐怖に竦みながらもなんとか踏み止まっている。そんな様子に見える。
「は? なんだこの状態――」
今の咆哮は、ダイアウルフのアクティブスキル――《長の激励》か。味方の攻撃力を引き上げると共に、かかっている恐怖などの精神属性の状態異常を解除することができる。もっとも、オレの魔力ともろもろのデバフ強化を前には無力なはず。ダイアウルフ相手に《テラーイメージ》がレジストされる可能性はそこそこあったが、この状態は完全に想定外だ。
そもそも、恐怖の効果が完全に発揮も解除もされないという、中途半端な状態はゲームではあり得なかった。しかし、恐怖に囚われながらもボスからの叱咤により踏み止まるというのは、現実には十分あり得る話だろう。0か1かなんてゲーム的な判定よりは、よほど。
「アオォォォォォォーン!!」
そんなことを考えている間にダイアウルフが再び吠える。配下の狼たちは徐々に動けるようになりつつあるようだ。
「マスター! やるか?」
「いや、大丈夫だ」
アドニスの心配そうな声に首を振る。次の手は最初から決めてあった。狼たちが完全に立ち直るより先にキャストが完了する。
「《マインドブラスト》」
肉体ではなく精神を打ち砕く不可視の衝撃波がダイアウルフを直撃する。キャインと見た目のわりに可愛い悲鳴を上げて崩れ落ちた。対象にMPダメージを与えつつ、気絶させるスキルだ。射撃型の魔法は狙って相手に当てる必要があるが、激励のために動きが止まっているなら難しくはない
ボスの激励によってギリギリ踏み止まっていた配下たちは、そのボスが倒されたのを見るとあっという間に逃げ散ってしまう。《テラーイメージ》のせいとはいえ、置き去りにされたダイアウルフが少し哀れだ。
「お見事お見事。何も心配いらんかったな!」
パチパチと手を叩きながら、《シャドウベール》を解除したアドニスが降りてくる。
「他の狼どもは、逃がしちゃって良かったのか?」
「良かったっていうか……あれだけの数を逃がさないで倒すのは、ちょっとムリ」
なにせ、オレは範囲攻撃スキルを一切持っていない。《テラーイメージ》を使わずに1匹ずつ倒していくのは、流石にリスクが高くなるし、そもそも、ある程度倒したら相手も逃げ出すだろう。
「もともと、倒すつもりで戦ったわけじゃないしな」
気絶しているダイアウルフに歩み寄る。どうも、ゲームの時より大きく感じる。個体差がより大きいのだろうか。《長の威風》に完全にレジストできていなかったのは、強力な個体だったからなのかもしれない。《長の激励》によって拮抗状態になったことといい、ゲームとの違いがいくつも分かった戦いだった。
「十分すぎるほど収穫はあったな。これで、あいつらが襲ってくることもなくなっただろうし、先に進もう」
「って、こいつも放置すんのか?」
「え、だって……どうしろと?」
止めを刺せと?今のオレよりも重そうな巨体とはいえ、見た目は普通の狼――オレからすれば大型犬と変わらない。気絶しているところを殺すのは気が引ける。ゲームじゃない、現実の生き物なのだ。
「無駄に命を奪うのは、ちょっとな……」
「……マスターがそう思うなら、それでいいけどな。よっし! それじゃ、行こうぜ!」
何やら考えるそぶりを見せたが、すぐにいつもの調子に戻る。その様子が少しだけ気にかかったものの、結局何も訊かずにアドニスの後を追った。
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半分は過ぎたとアドニスから報告されたあたりから、森の中は明らかに平坦になってきた。あの嫌がらせのような障害物の数々は、やはり城周辺の構造物だったのだろう。狼たちも返り討ちにあった相手に再び近寄ってくることはないようだ。
「マスター。道っぽいもの、見つけたかもしれん」
「マジで!?」
突然の朗報に、テンションが一気に上がる。ここまでの森の中、道と言うものが如何に偉大なものであるのか、散々思い知らされてきたのだ。
「最初に偵察に出たときは気付かんかったけど、何か祠らしきものがあったんだよ。そこから村まで、道と言えなくもないものがあるっぽい」
なんとも微妙な表現だな。だが、ここまでの文字通りの道なき道よりは、どれほどしょぼくてもマシだろう。
「行こう。祠も気になるし」
「ちょっと上ったところだ。距離的にはすぐだぜ」
傍らの斜面を指差す。今まで越えてきた殆ど崖と言うべき代物に比べれば、どうということはない。方向的に、狼迎撃のために進路を変更しなければ見つけられなかった可能性が高そうだ。
上った先には、それほど大きくはない石の土台の上に建てられた、木造の祠があった。古びてはいるものの、手入れは行き届いていて定期的に人が訪れていることが分かる。周囲を観察してみると、確かに、僅かに踏み固められた道のような跡が続いている。草が大部分を覆い隠しており、祠が無ければ気付けなかったかもしれない。それでも――
「何もないより、全然マシだ。ちょっとでも踏み固められてるだけでありがたすぎる」
「そんなもんか? まあ、喜んでもらえたなら良かったぜ」
「――そうか。飛んでるお前には分からないか……」
草や落ち葉に隠された窪みや木の根、石なんかに何度足を取られたことか。どこを歩けばいいか、それが分かることのありがたみは、空を飛べるものには分からないのだろう。
心に余裕ができたことで、体の疲れも取れた気がする。せっかくだ、祠もよく見ておくとしよう。
「ふむ……豊穣の女神リアナを祀った祠みたいだな」
正面に設置されている簡素な装飾の施された板。麦の穂と鎌を意匠化したレリーフが彫られている。ゲームでもいろいろな場所で目にする機会があったデザイン――豊穣の女神リアナの聖印だ。その下には、作った人のものだろう幾人かの名前と、女神を讃える文言が添えられている。
ゲームでの設定を思い出す。女神リアナは、人間を中心に多くの種族から豊穣を司る神として信仰されている。『グランリアナの古城』も『リアナの森』も、元をたどれば女神の名に因んだものだ。より正確に言うと、この地域一帯をかつて支配していた女神を奉ずる多種族国家、グランリアナ帝国の名前に由来している。
女神リアナは大陸全土で信仰されているため断言はできないが、あの城の構造が『グランリアナの古城』と一致していたことも併せて考えると、やはりここは『リアナの森』である可能性が高くなった。
「でもそうすると、城は同じなのに、森の規模が全然違うのはどういうわけなんだろう」
「その辺の地理的なことは、町で現地人に訊くのが手っ取り早いんじゃねーか?」
「……それもそうだな」
ど正論である。本当にここがリアナの森なのかなんて、人がいるんだから訊けばいいだけだ。
「なんたって! 後は、この道を行くだけだし! もうゴールしたも同然だぜ!」
「おー、一気に元気なったなー」
そうだ。ちょうどよく祠があるんだし、リアナ様にお祈りをしておこう。日本人として、神様が祀られているなら無視はできない。それに、この世界の神様は実際に存在しているらしいのだから。
目を閉じて、パンパンと両手を叩く。この世界でのやり方など分からないが、大事なのは気持ちだ、多分。
どうか、元の世界に帰れますように――
「何やってんだ、マスター?」
「いや、神様にお願いをね」
不思議そうな目で見られるが、説明してもしょうがないので気にしないことにする。賽銭箱のようなものは見当たらないが、銅貨を1枚だけ供えておいた。尤も、賽銭も電子マネーで払う昨今、賽銭箱にお金を入れていたのは小学生くらいまでだったが。
「では、行こう! 未来は明るくなった! はず!」
「元気なのはいいけど、気は抜かないようにな」
アドニスの呆れたような表情も今は気にならない。浮かれた気分のまま、軽い足取りで歩き出した。




