初めてと初めてと初めてを
もう、どのくらいたったのだろうか。ふと立ち止まり、周囲を見渡してみる。木、木、木。前後左右、どの方向もひたすら木が並んでいる。なるほど、これは簡単に遭難できる。ナビゲーターがいなければ、すぐに進んでいた向きすら怪しくなりそうだ。
「今、どの程度進んでるんだ?」
方向を修正しに上空から戻ってきたアドニスに、もう何度目か分からない質問をする。
「そろそろ3分の1くらいかなー。まだ大丈夫だろ?」
確かに、体力的にはまだ余裕がある。リアルの自分ならとっくの昔に動けなくなっていただろうが、幸いにもこの体のスタミナは引き篭もりの現代人とは比較にならない。
「体はね……だけど、精神的にきついんだよ」
ついつい、泣き言を言ってしまった。森の中は想像していた以上に起伏に富んでいる。中には人工的に作られたとしか思えない大きな穴や、ちょっとした崖のような場所もあった。城の周囲に作られていた堀や壁の跡なのかもしれない。間違いなく、ゲームでの森とはまるで地形が違う。そもそも、森の大きさからして遥かに大きいが。
迂回しようにも大きすぎて難しい障害物が多く、へばりつくようにして何とか乗り越えてきた。結果、新品のように綺麗だった装備はあっという間に土まみれだ。ところどころぬかるんでいる場所もあり、特にブーツは悲惨なことになっていた。防水性が高く中に染み込んではきていないのが唯一の救いだろうか。
「なんでローブなんか着てるんだ、オレは……」
汚れていくごとに精神がすり減って行く。愚痴もこぼしたくなるのもしょうがないだろう。特に丈の長いローブは厄介で、少し姿勢を低くすると裾を引き摺ってしまうの。何かの罰ゲームか、この格好は。
「いや、マスターの趣味じゃなかったっけ、それ?」
「……」
そうだよ、オレの趣味だよ。ズバリ指摘され、ぐうの音も出ない。
「ああでも、鬱陶しいからって脱いだりすんなよー。身を守る方が大事だからな」
そう釘を刺してから樹上へと飛んでいく。言われなくても脱ぐつもりはない。飛び出た枝などから肌を守る重要性は、ここまでの間に十分理解させられていた。
「――まずいな。というかヤバいな」
姿が見えなくなったのを確認してから呟いた。アドニスには言わなかったが、1つ重大な問題が発生しつつある。
――尿意である。
少し前に感じ始めたものの、当分は大丈夫だろうと高を括っていたら、今になって急に酷くなってきた。そういえば林檎って利尿作用があるんだっけ。などと原因に思い当たったところで何の解決にもならない。早めに覚悟を決めた方がいいか。切羽詰まってから慌て始めては、どんな事態を引き起こすか分かったものではない。間に合わずに漏らしてしまうとか、最悪である。
ローブの前を開ける。下に身に着けている物のうち、革製なのはコルセットくらいで、さらに下の服は上下とも布製だ。厚手でかなり頑丈そうだが、ベルトを外せば普通に脱げるだろう。
服を確認したら、次は拭くものの確保だ。男と違って、女性は致した後に拭かなければならないはず。そんな聞きかじった知識を基に、葉っぱならいけるかと周囲を見渡すが――
「見事に、硬そうなやつしかねー」
細く尖って硬そうな葉の木ばかりだ。針葉樹林と言うやつか。木の種類や植生などは全く分からないが、探しても無駄そうなのは何となく察せた。地面に生えている草も検討してみるが、良さそうなものは見当たらない。やはり、あの包み紙を使うしかないのか。口の周りは舐めればよかったが、こっちはそうはいかないわけで。
あ、ヤバい。マジでヤバい。ぐだぐだ考えている間に、一気に限界が近づいてきた。身体の構造上、男と比べて堪えが効かないと聞いたことがあるが、本当なのだろうか。もう悩んでいる暇はない。ポーチを開けて包みを取り出す。中身だけ戻すが、焦って少しこぼれた。
人目はないとは思うが一応周囲を見回し、適当な木の陰を選ぶ。緊急時だが、アドニスの位置確認も怠らない。ベルトを緩め、ズボンを降ろす。
「……そういえば、デフォのインナーはこんな感じだったな」
その下から姿を見せた、色気の欠片もない下着。キャラメイク時に数種類から選べるインナーの1つだが、目にするのはそれ以来だ。などとどうでもいいことを考えて、そこから伸びる白い脚から意識を逸らす。今から、さらにその先へ進まなければならないのだが。
「余計なことは考えるな。これはただの生理現象。生物として当たり前のことをするだけ――」
そう、自分に言い聞かせながら下着に手をかける。女の身体でする初めての行為。しかも、よりにもよって野外でだ。緊張と僅かな興奮に手が震え、羞恥心に負けそうになる。だが――
「はぅっ。もう、無理――」
圧倒的な尿意の前には無意味だった。慌てて下着を降ろしてしゃがみこんだ。
シャアアアア。思ったよりも激しい勢いで、尿が地面をたたく。飛沫が少しだけブーツにかかった。
「――ふぅ……」
排泄の快感には、男女そこまで差がないな。ぼんやりした頭でそんなことを考えた。全身が弛緩する感覚と共に、尿意の前に敗走していた興奮と羞恥心が徐々に戻ってくる。嫌でも、今の自分を、ルシアの姿を頭の中で想像してしまう。しかも、この後拭かなければならないのだ。
「ああもう……」
考えるな。考えるんじゃない。鏡に映せば全身真っ赤になってるんじゃないだろうか。そんな茹で上がった頭で必死に念じながら、出し終わったソコに恐る恐る紙を当てた。
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「マスター、どしたの?」
「な、なんでもないっ!ちょっと休憩してただけだ」
オレの歩みが止まっていたことに気付いたのだろう。アドニスが戻ってきたのは、服装を直し終わった直後だった。思わず声を荒げてしまう。上気した顔を悟られないように、フードをいつも以上に深く被った。
未だ右手には拭った時の感触が強く残っている。未知の感触に夢中になり、うっかり時間をかけすぎてしまった。アドニスがこちらに向かっていることに気付き、我に返って何とか体裁を整えられたのは、本当にギリギリのタイミングだったのだ。
「ふーん。まあ、無理すんのもよくねーしな」
詮索はしないでおいてくれるようだ。先ほど泣き言を言ったことで、心配してくれているのかもしれない。
「もう、バッチリ回復したからな! 行こう!」
「あ、ちょっと待って。戻る途中でチラッと見ただけだけど、何かいるわ」
「へ?何かって?」
思わぬ情報に、ちょっと間抜けな返事をしてしまった。モンスターでもいたのだろうか。その軽い言い方からすると、それほど危険な相手ではなさそうだが。
「野犬か狼か、そんな感じのが数匹かな。正確な数は分からねーけど、20匹はいないと思うぜ」
「犬か狼ね」
ゲームでのエネミーを思い出す。ただの野犬なら何の問題もない。狼の場合はダイアウルフに率いられた群れだと少々面倒か。もっと悪く、狼に似た幻獣だったりすると一気に天井が高くなるが、群れだというならそこまで強い相手ではないはずだ。
「大きさは? 人間の倍以上あるとか言わないよな?」
「ないない。遠目だったとはいえ、そこまでデカかったら分かるって」
なら心配するような相手ではないか。ただ、不意打ちのリスクを考えると、念のため、こちらから仕掛けた方がいいかもしれない。
「どうするよ。俺が適当に追い散らしてもいいけど」
「いや、物体相手じゃ試せなかったスキルを試してみたい。上手くいかなくても、狼相手なら危険は少ないだろ」
ルシアの習得している魔法スキルのうち、呪い属性と精神属性はその大半を占める。そしてこの2種類の属性は物体には効果を及ぼせないため、リスクの低い相手で試せる機会を逃したくはない。今までに試せたスキルの中には、ゲーム時とはやや効果が違うものも結構あった。いざ強敵相手に使用した時に想定していた効果が得られない、なんてことになったらシャレにならない。
散々な道行きで溜まったストレスを発散したい、という気持ちも無きにしも非ずだが……
「おっけー。んじゃ、こっちだぜ」
どのスキルを試してみようか。アドニスの後を追いながら、そればかりを考えていた。
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今までの進行方向からは大きく向きを変え、比較的視界が開けた場所を進んでいく。群れの方へまっすぐ向かわないのは不意打ちを避けるためか。アドニスはこまめに群れとの位置関係を確認しながら、迎撃ポイントへと誘導してくれる。
「向こうはもう、こっちには気付いてるのかな?」
「バッチリ気付かれてるな。やっぱ臭いでバレたんじゃねーか?」
臭いという言葉に反応しかけてしまった。大丈夫、さっき出したもののことではないはず。もっとも、犬だか狼だかにはその臭いもしっかり嗅ぎ取られていそうではある。
「まあ、犬や狼相手に気付かれないなんて、素人には無理だよな」
当然ながら、魔術師系のクラスであるデーモンコントラクターには隠密系のスキルなどない。一応、《マインドブランク》というかけた相手から術者が認識できなくなる魔法スキルならあるのだが、まだ見えてもいない相手に使えるはずもないし、1回の魔法で1体の対象にしかかけることができないので、この状況だと役に立たない。
「その点、俺ってば超優秀だけどな!」
偉そうに自身を指し示すアドニス。今のコイツは黒い靄に包まれている。《シャドウベール》というインプの持つ隠密スキルだ。その性能は極めて優秀で、声や姿、臭いといった五感全てに対して完璧なステルス性を備えている。もちろん、主人であるオレはこうして見ることができるが。ゲームでは、敵に狙われなくなるため確実に《スケープゴート》による身代わりにできる点がとても有用だった。現実と化したこの状況では、今のような偵察役としてこの上なく便利な能力になっている。
ただ、隠密性能は最高峰ではあるものの、他のスキルを使おうとしたり、誰かを攻撃しようとすると即座に解除されてしまうので不意打ちには使えなかった。もっとも、解除された時点で自動的に敵に発見されたゲームと違い、相手の死角から攻撃すれば初撃だけならいけるかもしれない。
「来たぜ来たぜ。向こうからすりゃマスター1人だし、完全に獲物だと思ってるみてーだな」
アドニスの報告に無言で頷く。今更ながら緊張してきた。大したことのない相手だと、頭では分かっているのだが、なにせ、ゲームではなくなってしまってからの初の実戦だ。
スキルのキャストを開始する。
ほどなくして、ソレは草をかき分ける僅かな音ともに現れた――




