四話:闇夜の窓ガラスに張り付く謎の手
今日の夕飯はカレーである。
慣れたもので、炊事をしていると自然と鼻歌なんぞ歌ってしまう。途中で奴がやってきて、「やーい、下手くそ!」などと野次ってきたので予備の包丁を投げつけて黙らせておいた。どうせ当たっても幽霊だから、霊力を篭めない限り無傷なので遠慮はしない。音痴で悪かったな。
目を離した隙に奴が後ろから投げ返してきた包丁を、ちょうど出そうとしていた鍋で受け止める。
私は幽霊じゃないので、さすがに防がないと無事では済まない。下手したら死ぬ。
「危ないわね。私に当たったらどーすんのよ」
内容とは裏腹に、大して言葉に怒りは込めない。何故なら、幽霊がいる生活ではこの程度のことは日常茶飯事だからである。何せ私の家では幽霊たちが気まぐれに起こすポルターガイスト現象によって、飛ぶような小物は何であろうと容赦なく飛ぶ。飛ばされたくなければ飛ばないようにあらかじめ固定しておくしかない。固定していないということは、飛ばされてもどうとでもできるということでもある。地味に反射神経も鍛えられるので中々助かっている。よってスルースルー。こら小童、私の反応がつまらないからって舌打ちすんな。
カレーが出来上がって、火を止めてこちらを見上げる視線に気がつきふと顔を向ければ、私の横で鍋の横でふわふわと浮き、指をくわえて物欲しそうな顔で鍋を見つめる女の子。
「美味しそう……。匂いは分からないけど、きっといい匂いなんだろうなぁ。食べたいなぁ……」
何だか聞いているこっちがいたたましくなってくる声である。
だけど、物を擦り抜けられるからといってカレーの鍋に直接頭突っ込むのは怖いのでやめてください。幽霊だから熱さなんて感じないし何の影響もないとは分かってはいても、幼女が自分の頭を煮てだしを取っているようにしか見えないから。
幼女から取った出汁が隠し味。どんなカレーだ。
「うー、やっぱり匂いも味も分からないや……。こういう時、幽霊って不便だなぁ」
どうやら味見をしようと頑張っていたらしい。
「でもどうして今日はたくさん作ったの? こんなにあっても私たちは食べられないから余っちゃうだけなのに」
鍋の中のカレーの量の多さを不思議に思ったのか、女の子はそんなことを聞いてきた。
来た来たとほくそ笑みつつ、満面の笑顔で女の子に告げてやる。
「今日から食べられるようになるわよ。たぶんだけどね」
「え、ホント? わーい!」
こういう時幼児の反応は純真で癒される。女の子は理由を聞く前に信じてくれたようで無邪気にはしゃぎ出した。
テンションが上がった女の子はキッチン中をアクロバットさながらに縦横無尽に飛び回り、余勢を駆ってその勢いのまま居間がある方向へかっとんでいく。おそらくは喜びのあまり興奮して奴に突撃を敢行しにいったのだろう。生前の顛末からも片鱗が窺えるが、あの子は感情が高ぶるとちょっと予想外な行動に出る。
ジェットコースターばりに飛んでいった女の子の後姿を微笑ましい思いで見送ると、煙に撒かれたまま放置されていた、陰気な目つきの元ホステスお姉さんが私のすぐ傍でカレー鍋を凝視していた。目が怖い。
お姉さんは顔を上げ、幼女が消えていった居間を睨んでせせら笑った。
「死んでいるのにご飯が食べられるわけないじゃない……疑いもせずに信じ込んじゃって、馬鹿な子」
「何言ってるんですか。食べられるようになるのは本当ですよ。あの子だけじゃなくて、もちろんお姉さんもです」
「え」
そんなこと思っても見なかった、とでもいうような呆然とした顔のお姉さんに、私はぴんと人差し指を立てた。
「作り始める前に言ったでしょう? 生き返ればご飯なんていくらでも食べられるじゃないですか」
「……すぐに教えてくれないから冗談かと思ってた。いくらなんでも荒唐無稽過ぎるもの」
「別に冗談でぬか喜びさせるようなことは言いませんよ。それほど性格悪くはないつもりです」
「……本当にあたし、生き返れるの?」
「私があなたたちに対して、今まで意味もなく嘘をついたことがありましたか?」
得心したお姉さんの行動は早かった。
首を吊っているというのに空中で器用に正座し、私に向かってふかぶかと頭を下げる。
「ふつつかものですが、これからも末永く宜しくお願いします」
何を宜しくする気だ、何を。
というか私を追い出すつもりじゃなかったんですか、お姉さん。
女の子に轢かれたのか、遠くから潰れたカエルのような奴の悲鳴が聞こえた。
「うぉおおお、マジか! 俺たち生き返れるのか!?」
その後女の子から話を聞いたのだろう、居間から奴まですっ飛んできた。女の子も後を追いかけてきて、幽霊たちは私を中心に狭いキッチンで賑やかに騒ぎ出す。
私は喧騒を他所にマイペースに人数分の食器を棚から出し、居間のテーブルに運んだ。
いやー、1LDKはやっぱり開放感があっていいな。誰かと一緒に住むにはちょっと手狭だけど、一人暮らしなら広すぎるくらいだ。幽霊は障害物を無視して三次元的な動きをするし、空中に浮かんでいることも多いから、部屋にいてもあまり気にならない。幽霊たちに質量があるわけでもないので、実質一人で使っているようなものだ。
普段は一人分の食器しか置かないテーブルに食器を複数並べていくと、幽霊たちの期待に満ちた視線が背中に刺さるのを感じる。
振り向けば女の子のみがキラキラした目を私に向けていて、あとの二人は今頃になって態度に出すのが恥ずかしくなったのか、私が振り向いた途端そっぽを向いていかにも「気にしてませんよ」といったすまし顔になった。それでも期待を押さえきれないのかちらちら視線だけ飛ばしてくる。
「おい、もういいだろ? ささっと生き返らせてくれよ。早く飯食おうぜ。待ちきれねーよ俺。おばさんもそう思うだろ!?」
もう我慢できなくなったらしい。
まだまだ子どもな奴はあっさりと意地を投げ捨て、すぐに女の子と同じようなキラキラした目になった。
「あ、あたしは別に待ってなんか……。というかおばさんっていうな。まだ二十三なのに!」
もう死んでるから、比喩でも何でもなく永遠の二十三歳だね。十年前の新聞記事に死亡記事が載ってたけど、二十三歳であることに間違いはないね。
そこのところを突付いていじってみたい気がしないでもないが、彼女がまた拗ねるといけないので我慢する。たとえ死んでいようと年齢の話を女性にするのはタブーだ。
「もうちょっと待ちなさい。一番大事な人がまだ来てないでしょ」
調理に使ったまな板やら何やらを洗いながら言うと、幽霊たちはぴたりと押し黙った。
「あ、そうか……。本当に生き返れるんなら、一番喜ぶのはアニキだよな……」
「そーだよ。私たちはまだ曲がりなりにも人の姿保ってるけど、お兄さんはアレだし」
「あたしも結構大概だけど、アレだけは文句なしに同情するわ……」
三人固まってひそひそと言葉を交わし始める。
話題に上がっているお兄さんは彼ら幽霊の中でもかなり古株の人物である。
生前は第二次世界大戦を戦った兵隊さんだったらしく、善良な人柄の人物だ。
何を隠そう、私が初めて出会った霊でもある。なので付き合いはそれなりに長い。年月に換算すると、かれこれ八年くらいにはなるだろうか。
時間的にそろそろ現れてもおかしくないし、このまま待つことにする。
お姉さんは若干不安そうな顔で、子どもふたりはワクワクした顔で、今か今かと待ちきれない様子で待っている。
数分後。
部屋の温度が数度下がった。体感でも分かるほどの変化で、身体に寒気が走る。
そろそろかな? と思い身構えると、突然開いていた居間のドアがガタンと音を立てて閉まった。
「おっ?」
「わっ」
「ヒィッ!?」
幽霊たちは三者三様の反応をしている。
唯一無言だった私がドアに視線を向けると、今度は反対側の窓からガラスが割れるような甲高く大きな破砕音がする。
「今日は凝ってるなー」
「気合入ってるねー」
「か、勘弁してよぉ……!」
暢気な幼児二人とは対照的に、お姉さんはもう死んでいるというのに、元々血色の悪い顔をさらに青白くさせて、もう一度死にそうな顔をしている。
振り向いて見ても特に窓には異常はない。昼間の名残を残す外の夕暮れを映し出しているだけだ。
ただ、一つ、出し抜けに。
青白い手が二つ、赤黒い肉片や大量の血と共に大きな音を立てて窓ガラスに張り付いたことを除けば。