宵藍の空の下
「未知の魔女」エリカ様の無双な圧倒回。この人が動いた途端にファンタジー度が本当に上がるね。そして、劉老師がこんな立場なのに、何故アヤとリョウは結婚できたのか。
宵藍の色に空は染まりゆく。
水晶の魔女一門「歴史の魔女」マヤ系列、「詩歌の魔女」マリの、魔女として生きる最古参の直弟子「未知の魔女」エリカ。モモとマイは知らないが、光線過敏症という体質故に、日中の行動が大幅に制限されるという一点を除けば、誰にも文句のつけようのない圧倒的才能を持つ「最強の魔女」である。
アインの罠によって、消毒用高純度エタノールをぶちまけられたレイは、反射の領域で「張飛」の「血統呪術回路」が強制励起・解放状態になった。
相手は、曹文宣の結社を脱走した、いわば「裏切り者」でもある、今回の事件の主犯、紘然。青銅製呪具と死霊を操る道士だ。
彼の能力は、日本の一般人相手がならば、大いに脅威となっただろう。
だが、今回は相手の布陣との相性が悪すぎた。
もしも「ファースト・カルテット」の顔ぶれが、全員日本人であったなら、モモの防御陣に引きこもり、時々攻撃して救援を待つしかなかっただろう。
だが、現在でこそ日本国籍であるが、元は中華民国籍の張本麗佳こと張麗華。大韓民国籍の申静哲。そしてトドメに、漢族憎しを骨髄にまでインプットしている、ベトナム人の阮進英。
「黒人」という、存在を闇に葬られた存在であるが故に、居場所を得ようと血反吐を吐くほどに訓練した武術で、紘然はなんとか対抗している。
なんとか、だ。
紘然の武器である青銅剣は、その呪術機能を、青銅を最適金属とするアインの手によって、実に巧妙に破壊されている。ナマクラに変えられた武器は、変形要求魔術で、なんとか対抗可能だ。だが、戦闘系の訓練を受けた紘然は、細密な呪術機構を再構築するのに、相当の集中力を要した。やってやれないことはない。ただし、状況がそれを許すのならば、だ。
敵は最適金属を鉄とする、しかも、あの「張飛」の回路発現者。
青銅剣と鉄剣とを戦わせれば、基本的に鉄剣が勝つ。
素材の時点で分が悪いのに、こちらの呪術機構は破壊され、対して向こうは「血統回路全開」……いかに血反吐を吐くほどの苦痛に耐えて修行を重ねても、歴史に名を刻んだ英雄には勝てない。勝機を見いだせるとすれば、簡単な呪術機構を少し修復し、小手先の技術で戦闘時間を延ばす。そうすれば、発現した「張飛」の能力に、彼女の体力が食い尽くされる。
探知術を使い、向こうの布陣を確認する。
たとい戸籍に記録のない「黒人」でも、紘然自身は漢族という意識を強く持っている。韓国系術者には、成功率は低いものの、威圧系の行動制限が使えなくもない。だが、前線組ではなく、後方支援型だった。
桃の種を使った初歩的な防御陣を張っている年少の魔女は、残念ながら天才側の世界の人間だ。張られた陣は初歩的すぎて、あまりに簡易すぎて、つけいる隙がない。天円陣を完成されて以降、紘然は、彼女の力が尽きるのを待っていた。
だが、その目論見も、韓国系術者の回復支援で潰れた。そして、天才の防御陣の中にいる以上、あの後方支援回復役に、自分の「威圧」は通用しないだろう。
曹文宣の「威圧」「統制」を破り、その呪縛から逃れることは出来たが、今ここに、紘然の命運は半ば以上決していた。防御陣が、劉貴深由来の術を基礎に構築されていることからも、助けの手が「組織」の内から来るとは思われない。
(孫先生……貴方がご存命だったら!)
急死した、先代「天文の魔女」の名を心に叫びながら、紘然は剣を振るう。
曹文宣が、道士からさえ「大人」と呼ばれて一目置かれている理由は、卓越した知識量に鑑定眼、それに、近代以降には稀なほどに多彩な「血統呪術」の素質と、それらを織り交ぜて巧みに使いこなしている実力からだ。
三国時代……より正確には、魏晋南北朝時代以後、漢族は混血を繰り返した。いわゆる「漢帝国」時代の「漢民族」と、現代中華人民共和国の「漢族」には、二千年の時を超えた巨大な隔たりがある。二千年前には誰もが持っていた素養ですら、現代では失われつつある。
辛うじて全員に発現しているのが「感化」だが、それも文化大革命や一人っ子政策などから、徐々に歪さを増している。その次に発現率が高いのが「威圧」……そして、紘然には他に「催眠」「鑑定」「革命」の素質が発現していた。しかし、曹文宣の威圧を威圧と催眠とでうち消したところで、革命の担ぎ手になるべき存在が、こちらにつかなかった。
劉貴深……もはや漢族には極めて稀な「先祖返り」の「血統術師」。中華をひっくり返すとも言われる、「魅了」「洗脳」「扇動」の三つの力を、ほぼ全て最高水準で発現している。
当局に知られれば無事では済まない能力者だが、同時に、現在の中国の支配体制を破壊したい人間にとっては、これ以上ない旗頭。
現代中国の「闇」に産み落とされた、「黒人」の紘然にとって、劉貴深の能力は、もはや「希望の象徴」そのもの、ですらあった。
だが、先代「天文の魔女」だった、孫高明は、その能力の成長をよしとせず、曹文宣・劉貴深とを「義兄弟の契約」で拘束した。
その勢力均衡作用を、紘然はかつては恨んでいたものだ。
あの二人の能力が最大値まで伸びれば、中国の現政権をひっくり返し、自分たちの居場所を勝ち取ることだって出来るだろうに、と。
だが、今や、亡き孫師の方が慧眼であったことは明白だ。
長兄にあたる孫高明の死亡以後、たしかに、かつて制限されていた二人の能力の成長は、著しいものとなった。「勢力均衡」作用によって、互いが互いの能力を伸ばした。天才二人の切磋琢磨は、もはや他の誰をも寄せ付けない。
そして、圧倒的な存在感を以て君臨するようになった曹文宣は、紘然を含む「黒狼」たちに、過酷な「殺し合い」を命じた。勝ち残った者だけが「人間」としての「生きる権利」を手に入れられる、という。
それはすなわち、現在の中華人民共和国の……紘然を「闇」の中へ生み落とした元凶の……体制の中で生きる、という宣言だった。
少なくとも紘然の耳には、そう聞こえた。
だから彼は、全力で曹の能力に抗った。その代償が「革命」回路の暴走だった。
そして、劉貴深が「旗頭」になってくれなかった時点で、紘然の思惑は半狂乱状態に落ちていた。
そして決定打になったのが「姫巫女」の情報だった。
もし、曹の「鑑定」が正しく機能しているのなら、もはや大陸では失われた回路……中華の「正義」を体現する回路……それが、彼女の中には眠っている。
「革命」の旗頭に、彼女を引き込め。
それが、暴走の果てに紘然が到達した結論だった。
(……嗚呼)
自分の天命はこれまでなのだ。
(皮肉なものだ)
手に入れようとした「回路」の持ち主より、まだ強力な者が近づいている。
幼き日には、父とも仰いだ男の呪縛を振り払っても、同じ「闇」の中に生まれた「同胞」たちのためを、ひたすらに思って、今日まで歩んできたはずだった。
だが、全てはことごとく裏目に出た。
劉貴深は、あの劉備の能力を発現してはいるが、曹の「結社」から離反する気配はない。あの冷酷な男と、共に生きる道を選択したのだ。
我が子と呼んだ同じその舌で、自分たちに殺し合いを命じた男と。
そして、きっと「姫巫女」は……今、おそらく己にとどめを刺すために近づいてきているであろう圧倒的な存在感を放つこのモノはともかく……まだ幼く、そして皮肉なことに「曹」一族への抵抗能力だけは持っていない、最高の「傀儡」は……あの二人、曹文宣と劉貴深の手に渡る。
(……拡大しすぎた、のだ)
漢族は、その版図を、勢力を。
だから身内で能力が薄まり、逆に、こんな島国で、失われた能力が保存されて。
青銅剣が折れる。
銀器を使い、次の術に入る。
理解している。こんなものは無駄なあがきだ。時間稼ぎにすらならない。
大地から絶え間なく供給される鉄を、片端から鍛え上げて、大剣と強化し、もはや狂化の領域に達した速度で振るう、古の豪傑の能力発現者を相手に、勝てる気はしない。
だが、今ここで自分が散るのが運命なのだとしても、彼女に知らせなければ。
伝えなければ、教えなければ。
おそらく、この場にいる年少者ではない術師は全て、あの少女の持つ可能性と、危険性と、そして自分のような「闇」の子どもたちにとっての「希望」であり「絶望」ともなりうる、恐るべき「先祖返り」の能力とを、承知しているのだろう。
そして、きっとそれを、彼女に伝えることはしない。
曹文宣にとって、それは不利になるから。
だが、もし、今近づいてきている気配の持ち主が、彼らの異端者であるのならば……そうであるのならば、何としてでも伝えなければならない。
その存在にとっても不穏な能力ではあるけれども。
「張の、娘……」
声を振り絞って、問う。
「お前は、知っている、のだな? 姫、の正体を?」
狂化状態では、声は届かなかったようだ。
だが、逃げおおせたベトナム娘から、憎らしい声が届けられた。
「知ってますよぉ……姫氏の……つまり、中国史上最長期間の崇敬を受けた、気高き『周王朝』の王家の血統回路発現者、ってことも……同時に……曹家の魏王朝から『保護』を受けた、ヤマトの女王の『先祖返り』ってことも、全部、全部ね」
そう、だから、彼女を曹文宣に渡してはならなかった。
周朝姫氏は、中華史上で最も尊敬の念を以て讃えられる王家だ。彼女は、その血統回路を発現しながら、しかし、同時に曹家に必ず束縛される能力者。大陸では完全に消滅し、おそらく、少なくとも現在の世界には二人といないだろう、希少な存在。
曹の側近たちの能力全てで干渉されれば、彼女は容易く「人形」になるだろう。
闇に生まれた自分たちに戸籍を与える能力があるのだ。
人形一つに戸籍を用意し、担ぎ出すことなど、造作もないのだろう。
出身が日本でも、情報の改竄など、彼らにはお手の物だ。
そして何よりも、大陸では失われた、至尊の王家の血統の末裔、という事実。
万象を受容する巨大な器……正確にはその土台となる、素質。
いずれこんな存在が出現することを、孫高明は知っていたのだろうか?
知っていたとしか思えない。
だが、この未来を予見できたのならば、何一つとして対抗すべき布石を打っていなかった、と考えるのは難しい。なぜなら、彼はおそらく、己の天命をも理解していただろう。自分が先に生を終え、身を以て拘束していた二人が、揃って爆発的に素質を開花させる日が来ると。
(……生前に、後継者指名をしていた、そうだが)
彼は「水晶の魔女」として、己の「天文の魔女」の称号を、生前のうちに弟子の一人に継承させることを明言していた。ただ、孫門下生は、強力な対抗催眠で、その継承者を「結社」には明かさなかった。明かせないように、何か師から制限をかけられていたのかもしれない。
その「後継者」が、何かをしてくれるのだろうか。
ただ自分は嫌なのだ、もう。
あの男が、中華をひっくり返して、それを掌中に収める未来。
そこに己の居場所はない。用意してくれる気もなかった。
(李兄! 李兄!)
自分とは異なり、光の中に生み落とされた、幼馴染みを思い出す。
(危険だよ……その男は、李兄のことだって、碁盤の石とすら思っていない……)
思考が錯綜していくなか、歌声が聞こえてきた。
ふら、と、鉄剣を振るっていた「張」の娘が、その意識を途切れさせる。
しかし、これを好機ととどめを刺すことは、できない。
気配を隠していた越の娘……アインが、すぐにその姿を現した。万全の調子での正面対決なら勝てた。だが、ここまで消耗させられた今は、竹槍相手でも勝てまい。
そして、近づいてくる歌声。
死霊使いの適性故に、紘然はその歌の恐ろしさが解る。
強制的な「慰撫」による鎮魂。
通常は大がかりな儀式を伴わなければ実行できないことを、近づいてくる存在は、何語ともつかない不可思議な歌一つで成し遂げている。
ゆっくりと、ゆっくりと、その圧倒的な存在感が、迫ってくる。
肌にのしかかるような威圧感は、重く、熱い。
強い、と紘然は感じた。
(あの二人よりも、個人のレベルでは、圧倒的に強い……)
無論、組織での戦闘になれば、この人物は勝てないだろう。
組織戦には徹底的に向かない回路の持ち主だ。
対して曹には、絶対の忠誠を誓う部下たちの「結社」がある。そして、その中には、劉に盲目的崇拝を捧げる、狂信的な部隊も存在する。
いかにこの人物一人が強くとも、彼らに対抗することはできない。
何より、この歌を歌っている人物の中には、あの二人とは違って「姫巫女」を「器」として利用するために必要な素質は、ない。
より正確に言うならば「姫巫女」とは相性最悪の回路の持ち主、だ。
「……青銅、か」
「何?」
紘然の言葉に、アインがわずかに眉をひそめた。
彼女も、この歌声の持ち主が、勝敗を決する存在だと理解しているらしい。
だが、自分の言葉の意味までは理解できなかったようだ。
もはや死ぬ運命と決したからか、晴れやかな気分で、紘然は笑った。
「お前は言ったな、グェン・ティエン・アイン……己の最適金属は青銅だ、と」
「言ったわねぇ……まぁ、相手がエリカ様じゃ、その最弱以下だろうけど」
そうか、と、紘然は一人納得した。
「そのエリカの最適金属も……青銅、だな」
「……は?!」
アインは細い目を真ん丸に見開いて、素っ頓狂な声を上げた。
「真鍮と銀しか、使ってるのを見たことはないんだけど?」
よほど意外な真実であったらしい。
それがいっそうおかしくて、ボロボロの体なのに笑って、咳き込む。
「気づかなかったのか?」
「気づくも何も……あんな桁外れの天才相手に、推量なんかしたこともない」
「生まれる時代を決定的に間違えた、ただそれだけ、だ」
「あんた、何が解ったの? 何を知ってるの?」
エリカの最適金属が何であろうが、どれを武器にされても勝てない。だからアインは気にしなかった。
だが曹文宣は、そうは受け取らないだろう。彼の部下たちも。道教系術師も多用する青銅……その真価を発揮する知識を、彼女は持っている。
ついに威圧感が間近に迫る。エリカさん、と呼ぶ声がした。
真っ黒なマントを翻し、肌を見せないワンピースを着た、眼鏡の女。
一見、これといった特徴などないアジア人だ。
だがその姿を見た瞬間に、紘然はもう笑い出さずにはいられなかった。
自分の残る全力で「鑑定」を発動する。次の瞬間に、猛烈な反動で血を吐いた。
「ちょっ……リー、そこまで叩きのめしたの?」
自分が戦闘回路を強制励起させた旧友に、アインは問う。
もちろん、答えはない。とっくに気絶している。
「はは……これは、ただの反動だ。いくら回路を強制励起して、古の豪傑の力を解放させても……この子は人は殺せない、よ……」
血を吐きながらも、紘然は解析を続ける。
なんという、奇跡のような確率での、高純度の能力回路発現者だろう。
(いや、これは……人為操作だな……)
この女は、今でこそ「魔女」だが、ルーツは「魔術師」だ。
世界史の中のどのようなうねりの果てに、このように奇妙で精巧な能力者が組み上げられたのかは、定かではないし、確かめるすべも、時間すらもない。
だがこの女の中には、古代の叡智が、タイムカプセルのように詰まっている。
(生まれる時代を間違えた……が、現代でなければ、おそらくこのような組み合わせが成立することも、ない……そういう、奇跡のような存在、か……)
「帝」
その答えが、紘然の最後の言葉になった。
土から夥しい数の、黄色い蛙が姿を現して、紘然の体に群がっていく。
「モウドクフキヤガル……皮膚に接触するだけで人間も死に至るわ」
分厚く着込まれた道服の中へも、次々に蛙が入っていく。ぺたり、とぬめる皮膚が、紘然の肌に触れる。
「きもっ……」
アインの言葉を最後に、紘然の意識は消えた。エリカの口から、聞き取れないほどの猛烈な速度で、呪文が唱えられ、蛙たちが土塊に戻る。
「さっきのは」
「複製型のゴーレムよ」
「ゴーレム?」
意外な単語に、アインは旧友を介抱しつつ、首を傾げる。
「ユダヤ系魔術『カバラ』の術の一つ」
「いや、そのぐらいは一応、こっちも魔女で魔道士ですから……」
端的に言うならば、泥人形をロボット的に操る術だ。
しかし、特に高度で難しい術であり、著名な術者ですら、操作を誤って身の破滅を招いた記録にも事欠かない。諸刃の剣と形容するには、マイナス面があまりに大きな術でもある。
「骨格標本を素体にして、呪文の完全子音詠唱で、一分だけの起動制限」
「アレの、骨格標本……ですか?」
小指ほどの大きさがあるかないかの、薄気味悪い黄色の蛙。
アインの知る限り、ゴーレムというものは、どこまでも「泥人形」の外見を脱さないレベルのシロモノであったはずだ。だが、骨格標本を素体にしたとはいえ、あまりに生々しすぎる。まるで「本物」さながら。いや、むしろあれは「ゴーレム」ではなく「人造生命」の領域だ。
「コロンビアの固有種だから、入手はちょっと苦労したわよ。ちなみに、たえず皮膚に、アルカロイド系のバトラコトキシンを分泌しているのが特徴。人間での致死量は、およそ0.1から0.3mg……触れただけで死ぬ可能性は、まぁ十分ね」
そんなおぞましい生き物を、土から大量生産するなぞ、1分でも恐怖だ。
「ていうか、何体、骨格標本持ってるんですか?」
十体二十体では済まないだろう、と思って問うたのだが。
「一つよ。それで思念型を作って、土にコピペして増やしただけ」
さらっと、無茶苦茶に高度な術の行使を宣言された。
標本を細部にわたるまで記憶し、その全箇所の機能を完全に理解し、その姿をそらで立体に構築できるだけの空間把握能力を持ち、さらに、それを僅かの誤差もなく同時多発的に想起する。日用品の姿をぼんやりと思い描いて探す、とは、比較にならないほどに具体的で細やかな記憶能力と、脳内再現能力を必要とされるのだ。しかも、毒の分泌機能まで再現したというのなら、骨格の中に埋まっている臓器や、各種生体機能に関する全知識を、具体的に百科事典よりも細密に脳内に「有機的」に思い描ける、ということ。それも同時進行で、あれだけの数を「具体的」に、だ。
そして、さらに恐ろしいのは、それを土から実現してみせたこと。
この系統の術は、近縁種を媒体に仮託して使う方が、成功率が高くなる。
たとえるなら、眼前に白猫を用意して、毛を伸ばしたり、色を付けたりと、そういった「付加型」の「想起」によって、変化を実現する。そういう方法だ。
この術だって生半可な難易度ではない。できれば超上級者だ。
有機物の構造は複雑で、それらを細かに思い描けなければできない。
だのに、無生物である土を媒体に、エリカは脊椎動物の有毒種を、その毒の分泌機構に至るまで細密に、しかも大量に、作り出してみせたのである。
つまり彼女は「生命体」を「化学式」「物質の組成総体」として認識変換することで、制限時間付ながら、まさに「人造生命」を生み出したのだ。
まさに規格外。まさに「未知」の領域に生きる魔女。
その魔女が、今、存在しない存在だが、たしかに存在した存在、を、消した。
「アインちゃん……モモちゃんたちの陣まで撤退なさい」
「え……と……」
ギロリと、眼鏡越しにもわかる、鋭い視線を向け、エリカは詠唱した。
「『土から生まれたものは、土に還りなさい』」
紘然の死体が、服もろともに崩れ去り、一瞬にして消滅する。
残された「呪具」を回収すると、エリカは銅鏡一枚を手元に残し、残りをアインに手渡した。そして、限界を超えて肉体を酷使したレイに、治癒術を行使する。
その治癒術すら、喉一つの歌、だ。
この人の喉は、どんな精巧な呪具をすら超える性能を持つのだ。
そう感じて、アインはぞくりと背筋を震わせた。
「急ぎなさい」
わずかに「威圧」が込められた指示に、しかし、アインは反抗することもなく、はいっ、と怯え混じりの声を返して、急いで丘を下りた。
その背中を見送ってから、エリカはふう、と長いため息をついた。
「馬鹿馬鹿しい」
流暢な英語の発音とともに、紘然の姿が再び出現する。
本当に土に還したのではない。そのような幻覚を見せただけだ。
だが、圧倒的な力量差から、アインはその幻覚を真実だと錯覚したのだ。触ることすらおぞましい、猛毒の蛙の「ゴーレム」は、幻覚ではない。ただし、エリカは一点だけ再現の手を抜いた。すなわち、あの蛙をおぞましきものと認識させる根幹、猛毒を分泌する機能だ。
だが、見るからに明らかな警戒色の造形と、突如の大量出現が、全員の知覚を惑乱した。紘然は、己の皮膚に触れた「ゴーレム」の生々しい感触と、その前に囁かれた「接触するだけで人間も死ぬ」という言葉による「催眠」で、気絶したのに過ぎない。凄まじい近接戦闘の疲労蓄積もあるだろうが。
白く血の気の失せた手首を無造作につかみ、エリカは軽く検分をする。
「……ふ、ん」
軽い仮死状態、といったところか。
殺人は最大の禁忌だ。
エリカはやろうと思えばいつでも、ほぼ誰でも、殺すことが出来るが、今のところその気はない。そしてアヤの門下生たちは、全員が、エリカが人を殺めたなどとは口外しない。恐ろしくて、できまい。アヤだけが今も必死に食らいついているが、エリカは完全に、規格外の存在なのだ。
絶対的にして圧倒的な実力差の故に、エリカは孤独だ。
だが、その孤独も時には人を救う薬になる。
エリカは、激しい戦闘行為で損耗した二人に向けて、治癒の歌を再開した。
(曹文宣……孫先生が亡くなられてから、まだ幾年も経たないというのに、もうここまで苛烈な内部抗争を煽り始めたとは、ね……)
未来を覗くための「本気の占星術」は、生命を削る。
命を対価に投げ出して、僅かに垣間見られる運命の行方。
孫高明が、生命を対価に捧げた占いは、三回。
最初の一回は、後に「義兄弟」としてその能力を拘束した、曹文宣と、劉貴深の「危険性」を判定するための占い。
その結果、周王室「姫」一族の血統回路を回復し、なおかつ同時に、曹には絶対に逆らえない、特殊な先祖返りが出現する、ことが判明した。
おそらく、この一回の分だけは、曹文宣本人も占っているだろう。対価に差し出した「命」が、本人の命であるかどうかは不明だが。占術の行使者は、結果を待つ本人である必要はない。むしろ、己自身の命運を故意に自力で「透視」するのは、基本的に禁止されている。
本心では目障りに思っていたであろう、孫高明の死をもって、彼は着々と下準備をすすめていた計画を、実行に移したのだろう。孫自身が能力向上を意図的に抑える限り、契約で縛られた曹と劉の二人は、能力の向上に著しい制限がかけられる。
その枷は、外れた。
二回目の占いは、最初の占いからそれほどの間を置かずに行われた。
危険因子を抱えた時に、あの二人を止められる存在はあるか、と。
その占いの結果、示されたのが、天知小夜と……そして自分だ。だが、それも決定的な防御機構としては働かない、とも判明した。
余計な言葉が続いてしまう前に、早急にモウドクフキヤガエルの「ゴーレム」を紘然にけしかけたのは、己の隠し持つ「血統回路」の弱点を握られないためだ。
ベトナム語を使うアインの耳には、中国語の四声は十分に聞き分けられる。ベトナム語は北部方言で声調が5種類あり、南部方言に至っては6種類の声調を持つ。4種類の声調を聞き分ける程度、彼女には造作もないだろう。
だから、最後の「ディー」という音の真意を、読ませてはならない。もっとも……仮にアヤにこれが伝わったなら、すぐに看破されるだろう。
青銅を最適金属とし、なおかつ「帝」と呼ばれた……中華史上、最も青銅器の扱いに長けた、そして明確に存在が確認される最古の王朝「殷」……「帝」は、半ばその姓として扱われるものだ。
マイに宿るのは「周」の「姫」の素質。
そしてエリカに宿るのは、それに倒された「殷」の「帝」の素質だ。
エリカとマイが対戦した場合、中華系の回路では、マイに軍配が上がる。
殷王朝は、中国史でも評判の悪い王朝の一つだ。30代・約500年にわたって、中原に君臨した王朝ではあるが、最後の王となった帝辛こと紂王と、伝承にいう愛妾・妲己による「酒池肉林」その他諸々の悪逆非道な印象が大きい。
また、鬼神を召喚する生贄の儀式により、残酷な王朝というイメージも強い。
対して、周王朝は、後に漢文化の骨子を形成する儒教の中で、大いに美化されて讃えられている。何より世界四大聖人の一人にカウントされる孔子が、周の政治を理想と説いた部分が、強力なプラスイメージの後押しになっている。
しかも、その王室たる姫一族への尊崇の念は、春秋戦国の大乱世が到来しても、おいそれとないがしろにできるものではない「権威」として存続し続けた。
戦国時代も後期以降は衰退の影著しいが、かの「春秋五覇」に代表される「覇者」は、そもそも「王者」たる姫氏を補佐する存在として誕生したものであり、覇者は決して、王者を超える存在なのではない。劉邦のライバルとして有名な項羽が、自らを「西楚の覇王」と名乗った時に「『覇』が『王』の上に来るって何だソレ?」というツッコミをくらったのは、『史記』でもなかなか知られたエピソードであろう。
周王朝は、洛邑すなわち現在の洛陽への遷都に伴う、東周王朝への変遷とともに、歴史学上では区切りがつけられている。しかし「姫」一族の「中華の王」として地位は、紀元前256年の秦の始皇帝による制圧まで、形骸化しようとも維持され続けた。紀元前11世紀から紀元前256年まで、ほぼ千年にわたる「王家」だ。
さすがに、殷王朝の歴史の古さも、周王朝の歴史の長さには勝てない。単純に「王家」として尊敬を受けた期間をカウントするだけでも、姫氏に匹敵する家系は、少なくとも中国史上にはない。その上に後世の儒教による集中攻撃である。
無論エリカには、この回路の不利を補ってなお余りある、圧倒的な「血統『呪術』回路」および「血統『魔法』回路」が備わっている。だからこそ、孫高明の「占い」で「対抗術者」として挙がったのだ。
しかし、この一点だけに関しては、エリカは……少なくとも、大量の中国系術者を味方に引き入れた状態のマイを相手取っての勝負、となれば敗北は内定なのだ。
アヤが、危険性を承知でマイを弟子に引き入れたのは、自分が「闇堕ち」した時点での対抗手段を、一つでも多く講じておく、という面もあるのだろう。
だが、おそらくはその行動も含めて、孫高明の読みの内だ。
だからこそ、「天文の魔女」は複数いる。水晶の魔女としての「七大魔女」である「天文の魔女」サヤと、魔道士でもある「九術魔女」の「天文の魔女」。
ただそれだけで終わるほど、「天文」の道は容易ではない。
孫高明の行使した「占星術」は、占術特化型の「天文」だ。応用範囲も広かったが、彼はそれ以上の分野に手を広げることはしなかった。「義兄弟の契約」で拘束した、曹と劉の二人の能力が、自分の成長によって、同時に成長することを危惧した結果だろう。
だから、彼は門下生たちを、能力を分割授与する形式で育てた。
つまり自分の適性のうち、合致するものを有する門下生に対しては、己の分身として、自分の代わりに成長を促したのだ。水晶の魔女としての後継者に指名されたサヤも、孫から一部、血統回路の人工解放を施されている。
師匠の姓の組み合わせを見れば、誰とて「三国志」を連想する。だから孫高明は、その「鑑定」能力と「隠蔽」能力とを組み合わせつつ、歴史的に曹および劉と対立した系統の回路を、優先的に解放していった。曹文宣が、劉貴深の「先祖返り」の能力を用いるなら、その「先祖」と徹底的に相性の悪い回路を用意して、ぶつけられるように準備するのが最適手。
単純に「戦争」の準備期間だけでいうなら、アヤ門下の想定した、対アンリ戦より、対エリカ戦より、こちらの方がよっぽど長い。
そして、三十年以上の時を超えて、孫高明の占いは的中した。
エリカは歌を歌い続けながら、手のひらを、藍色の空へとかざした。近視ではあるが、暗視能力は高い彼女の目には、空はまだまだ、十分に「青」い。
だが、それでも、これは闇へと沈みゆく色だ。
「蒼天已死……ね」
だが、黄天は立たない。ただ、混沌の戦乱の闇が来る。
歴史の闇に埋められ、踏みつけられ、悪評にまみれてきたこの「家系」。
積み重ねられ、己の内に練り上げられた「悪夢のように奇跡的な確率での発現回路」を駆使して、エリカはきっと、目に見える悪意ある「敵」とだけではなく、身の内の孤独と、誰にも何も明かせない疎外感とも、戦い続けなければならないのだろう。
「……独りぼっちは、寂しいものね」
手袋を嵌めた手で、レイを抱え上げる。エリカの歌による治癒術は、並大抵の回復薬の効能を遙かに凌駕するので、単なる過労状態だったレイは、ほぼ治療の必要はないだろう。
紘然は、自分で死んだと思いこんで意識を切断しているので、簡易結界で「魂魄の剥離」を防ぎ、さらに人避けの作用を加える。ただし察知されないように、入念に。
(さて、一度「カルテット」に合流しないとね)
ゴーレムの真面目な研究については、チェコのユダヤ共同体に伝わる「ニフラオート・マハラール」などのヘブライ語史料を参照のこと。ファンタジーでネタにされるわりに、真面目な研究が少ないって、先生が嘆いていたな。検索かけても、ラノベばっか引っかかるとか何とか。
エリカの術は、ほぼ完全に制御機構が確立していることと、すでに軽く泥人形の領域を超えているので、もはや「ゴーレム」と思っているのは本人だけ。誰が見ても「人造生命」です。
そして古代中国史なバトル展開予想……孔明ならぬ高明の罠を見抜ける人は何人いるかな。半ば紘然の一人称状態になっているところは、真面目に受け取らぬが吉。何せ一応「暴走状態」での思考ですので。