霊の呪いと祀りこめ
その交通事故の話を僕が知ったのは、僕が大学の新聞サークルに所属しているからだった。新聞ネタの一つとして、その交通事故の話を僕は知る事になったのだ。と言っても、世間で数多く起こっている交通事故の話を、僕が全て知っている訳ではもちろんない。その交通事故は、ただの普通の交通事故として終わりはせず、そこから別のある奇妙な問題へと繋がってしまったのだ。しかもその奇妙な問題は、僕の大学のある生徒と深い関わりがあったのだった。
その生徒の名前は、“黒宮咲”といった。女生徒だ。僕はその交通事故の話を聞いて、初めてその生徒の存在を知ったのだけど、いかにもな怪しい名前だと、その名を聞いた時、そう思ってしまった。そして僕はその時に、その顔も知らないし実際に会った事もない女生徒に悪い印象を持ってしまったのだった。ただそれは、その黒宮さんに纏わる噂を聞けば、当然の事だったのかもしれない。
呪い。
その黒宮さんは、何でも“呪い”を使えるらしいのだ。信じられないけど。ただし、その交通事故が、黒宮さんの呪いの所為だとか、これはそんな話ではまったくない。何しろ、その黒宮さんは一方的に相談された立場で、話を聞く限りではそれほど乗り気でないにも拘らず、善意から手助けをしたらしい。
黒宮さんに相談をしたのは、交通事故を起こした張本人で、詳細は分からないけど、社会人で女性だという話だ。仮にその人をA子さんと呼ぼうか。交通事故について彼女自身に落ち度はまったくなかった。車でバイクをはねてしまったそうなのだけど、そのバイクは信号無視で突っ込んで来た上に、乗っていた男性は無免許だった。目撃者も多くいて、彼女に罪はないと一様に証言をしてくれているらしい。だから遺族だってただの一人も彼女を責めはしなかった。むしろ、運が悪かったのは彼女の方だと言えるだろう。
しかし、それでもA子さんは、その男性を死に追いやってしまった事を気に病んでしまっていた。そして、ある日に、彼女は知人にこんな相談をしたのだ。
「私がはねた男の人が、私を恨んでいるようなの。幽霊になって、私の前に現れるのよ」
つまり、交通事故の被害者である男性が、怨霊になって彼女に祟りをなしていると、そう主張するようになってしまったのだ。その幽霊の姿を、彼女は時折見かけるのだという。男の幽霊は、部屋の隅などから、彼女をじっと見つめているのだとか。
もちろん、僕は真実がどうかなんて分からないけど、A子さんは繊細な人で、罪悪感から幻を見ているだけだろうと思う。怨霊なんて存在するはずがない。もし、そんなものがこの世の中にいるのなら、とっくに死んでいそうな人が、もっと他にたくさんいるじゃないか。
A子さんの友人も幽霊などいないと考えたらしく、「気の所為だから、大丈夫よ」とか、そんな事を言ったらしい。ところが、A子さんはその言葉を受け入れはしなかった。それどころか、否定された事で却って“自分の悩みが理解されていない”という思いを強く抱えるようになり、逆効果になってしまったらしい。
それでA子さんの知人は、偶然、知っていた黒宮さんの事を彼女に伝えたのだ。黒宮さんは、呪いを使えるだけあって、霊の扱いにも精通していると言われていて、だから相談すれば何とかしてくれるだろうと、そう持ちかけたらしい。A子さんの知人にしてみれば、藁にもすがる思いだったのだろう。
そして相談を受けた黒宮さんは、A子さんに対して、こんなような事を言った。
「その男性の霊が、あなたを恨んでいるというのは、あなたの思い違いね」
その言葉に、A子さんは不思議そうな表情を見せたらしい。それに構わずに、黒宮さんはこう続けた。
「むしろ、自分を心から心配してくれたあなたを好きになってしまっているのよ。それで、あなたの周りをうろついている。だから、感謝をしつつその男性を受け入れなさい。そうすれば、その男性の霊は、あなたを護ってくれるようになるから」
A子さんはその言葉に、驚きつつもゆっくりと頷いたのだそうだ。そして、男性の霊を部屋の中で祀り始めた。その為の、神棚も用意して、毎日、謝罪と感謝の言葉を述べているのだという。
ところが、それでもA子さんには、不充分であったらしい。男性の霊を祀りこめる事自体には、反対してはいないが、心から黒宮さんの言葉を信頼できてはいない。
祀り方は、これで正しいのか? 自分に好意を持っているというのは、本当なのか? 仮に本当に自分に好意を持ってくれているとしても、祀り方によっては、機嫌を損ねてしまうのではないか?
そんな不安を思ってしまう。以前よりは、随分とマシになったが、それでもA子さんの悩みは、完全には解決をしなかったのだ。
「――そりゃまた、胡散臭そうな話だな」
と、そう言ったのは同じ新聞サークルに所属している火田修平という名の男生徒だった。それは小牧なみだという女生徒が、その話を語り終えた直後の事で、ほぼ間髪入れずに、火田はそんな事を言ったのだ。小牧はその言葉を聞くと、不思議そうに「どうしてぇ?」とそんな声を上げた。
「まるで、霊感商法みたいじゃないか。その黒宮って女は、そのうち、何か商品を売りつけてくるんじゃないか?」
そう火田が答えると、文句を言うように小牧はこう返した。
「黒宮さんが、そんな事をやっているって噂は聞かないわよ?」
「お前が知らないだけかもしれない」
「このわたしが、そんな面白そうな話を聞き漏らすはずがないでしょう? 黒宮さんは、有名人なんだし」
小牧は噂話に精通しているという、新聞サークルとしては非常に役に立つ特技を持っていて、それをプライドにしているようなところがあるのだ。その小牧の文句を聞くと、煩わしそうにしながら火田はこう返した。
「そういう意味じゃねぇよ。そもそも、その黒宮って女が、その事を隠していたら、お前だって知りようがないだろう? 見つからないように上手くやっているのかもしれない」
火田は基本的な顔の作りが攻撃的に見えるから、こういう時の顔は、本当に凶悪そうに見える。まるで小牧を威嚇しているようだ。しかし、実を言うのなら、滅多に本気になって怒らないし、乱暴もしない。それを知っている小牧は、平気な顔で反論をした。
「でも、黒宮さんは頼まれた立場なんだよ? しかも、迷惑そうにしていたって」
「噂を流しておいて、そうやって勝手にやって来る人間を騙すやり口なのかもしれないだろう? それに、迷惑そうにしていたってのは、演技かもしれないし。警戒くらいはするべきだと俺は思うぞ」
火田は多少は過激な事を言う奴だが、実はその裏には、それなりの理由があったりもする。今回の言葉だって、A子さんを心配しているからこそなのかもしれない。確かに、火田の言う通り、警戒くらいはするべきだ。僕はそう思った。ところがそれから火田は、僕の心中を察した訳でもないのだろうに、僕を見るとこんな事を続けて言って来たのだった。
「そんな訳だから、佐野。お前、その黒宮って女を取材してみろよ。突っつけば、何か出てくるかもしれないぞ」
因みに、佐野というのは、僕の名だ。フルネームは佐野隆。人畜無害な男です。突然に話を振られて、僕は慌ててこう返した。
「どうして、僕がそんな事をやらないといけないだよ? 火田が言いだしっぺなんだから、お前がやれよ」
すると呆れた顔で、火田はこう言った。
「何を言っているんだ? 俺はお前が喜ぶと思って、この話を振ったんだよ」
その言葉に小牧が「ああ」と声を上げた。こう続ける。
「そうか。これを口実にすれば、鈴谷さんに会いに行けるかもしれないって事ね。相談したいとか、そんな事を言って」
僕はそれを聞くと、思わず立ち上がった。
「なるほど! それは、思い付かなかった。早速、行ってみるか!」
鈴谷さん…… というのは、僕らと同じ大学のサークル、民俗文化研究会に所属している一見地味だけど、綺麗で可愛く可憐な女の子で、僕は、まぁ、彼女に思いっきり惚れていたりする。それで、いつも彼女に会う切っ掛けを探し求めているのだ。彼女は民俗学について詳しいから、この手の話題なら相談に乗ってくれるかもしれない。
「待て、馬鹿」
ところが、僕の言葉を聞くと、火田がそう僕を止めたのだった。
「なんだよ?」
「いきなり行って、そんな話をされたら鈴谷だって困るぞ? 充分な材料を集めてまとめて、それから相談しに行けよ」
小牧がその言葉に頷く。
「うん。このまま行ったって、呆れた口調で鈴谷さんに追い返されるだけだと思う」
そう言われて、僕はこのまま相談に行った場合の鈴谷さんの反応をイメージしてみた。いつもの彼女の淡白な口調。軽く僕を馬鹿にする感じで、
「佐野君。たったそれだけの話、しかも噂話なんて不確かな情報からじゃ、何も言えないわよ。お願いだから、もう少しくらい深く考えてから来て」
と彼女は言い、冷たい視線で僕を威圧する。そして僕はその視線に怯える訳だ。彼女は実は多少、きつい性格をしている。それくらいの事は余裕で言う。ま、それも含めて僕は彼女に惹かれているのだけど……
「……何を、にやにや笑っているんだよ?」
そこで火田がそんな事を言って来た。僕はそれにこう返す。
「いや、少し、このまま鈴谷さんに会いにいったらどうなるのかをイメージしてみてさ。なるほど、確かに失敗しそうだなって」
それを聞いて小牧が言う。
「にやにや笑ったその表情で、失敗をイメージしていたんだ。佐野君って、やっぱりただ者じゃないわね」
その後で僕は言った。
「取り敢えず、火田の言う通り、その“黒宮さん”って女生徒の方から当たってみるよ。小牧、何処に行けば会えるか、教えてくれよ……」
そうして、僕はその黒宮さんという呪いを使うという女生徒を取材する事になったのだった。
「わたしだって、黒宮さんが何処にいるかなんて知らないわよ」などと文句を言いながらも、小牧は結局は黒宮さんの居場所を突き止めてくれた。交際範囲の広い彼女は、その友人網に「黒宮さんを見た人いる?」という質問を携帯メールで流し、瞬く間に情報を集めてくれたのだ。
……今更だけど、良くも悪くも凄い時代になったものだと思う。インターネットを介すれば、こんな事だってできてしまう。いや、小牧の力があればこそできたのだ、とは分かっているけど。
その小牧の友人達からの情報に依ると、黒宮咲は大学の図書館にいるらしかった。そこで彼女は課題に取り組んでいるのだとか。僕は早速、会いに行ってみた。早く行かないと、黒宮さんが何処か別の所に移動してしまうかもしれないし。
図書館はそれなりに広くて、しかも生徒がたくさん入っていた。雑談していたり、何かの調べものをやっていたり。そこで僕は少しばかり困ってしまった。簡単な外見的特徴を聞いてはいたけど、実は黒宮さんの姿を見た事が僕は一度もなかったからだ。
小牧に連絡を入れて、写真か何かを添付画像で送ってもらおうかとも思ったけど、その前に僕は図書館の中を散策してみた。もしかしたら、直感的に分かるかもしれない。ま、無謀な試みだとは思っていたけど。
しかし、ところが、その予想に反して、僕は黒宮さんらしき女性を、直ぐに見つけてしまったのだった。
その女性は図書館の奥の方の席、棚で囲まれた薄暗い場所に一人でいて、黙々と作業をしていた。軽量タイプの眼鏡。黒く長いストレートの髪。スレンダーな体型。凛とした表情の真剣な眼差し。地味だけど、よく観ると綺麗な顔立ちをしているように見えなくもない。聞いていた黒宮さんの特徴と一致する。
そしてそこまでを考えて、僕はある点に気が付いたのだった。
“あれ? これって、鈴谷さんの特徴とよく似ているな……”
それからよく考えてみて、一人きりで黙々と作業をしている姿も、鈴谷さんと被るような気がしてきた。そしてその所為で、僕はそれまで彼女に抱いていた悪印象とのギャップもあってか、一気に彼女に対して好印象を持ってしまったのだった。鈴谷さんと似た雰囲気のある女性を、この僕が嫌いになれるはずがない。もちろん、彼女が僕の予想通り、“黒宮咲”だと仮定した場合だけど。
それから僕は恐る恐る彼女に近付いて行った。人の滅多に入らないスペースだから、僕を見て黒宮さんらしき女性は、少しだけ警戒心を込めた表情になった。そして、何も本を取らないまま、彼女の目の前の席に僕が腰を下ろすと、明らかに不審人物を見る目つきで僕をじっと見つめて来た。僕もそんな彼女をじっと見つめ返す。なんだか、鈴谷さんと見つめ合っているような気がして、少しばかり緊張をしてしまった。
「何か用?」
恐らく、二十秒も経過していなかっただろうと思う。二人きりの状況下で、突然目の前の席に座るという不審な行動を執る僕に向けて、彼女は訝しそうにそう尋ねて来た。
「いや、君、黒宮咲さん… だよね?」
僕がそう返すと、黒宮さんはますます訝しげな表情になった。眉をひん曲げながら、こう応えた。
「そうだけど。あなたは、何者なの?」
「あ、僕は新聞サークルに所属している佐野っていうのだけど」
その僕の答えを聞くなり、黒宮さんは「新聞サークル?」と少しだけ、その言葉に反応をした。表情を変える。そして何故か、その表情からは嫌悪感はあまり感じられなかったのだった。嬉しそうにしているようにすら見える。敢えて言うのなら、悪巧みを思い付いたような感じだろうか。
「なるほど。それで、その新聞サークルのなんとかさんが、私に何の用なの? 私は事件の犯人でも被害者でもないし、有名人でも重要人物でも何でもないわ。ただの、大学の地味な女生徒よ。新聞のネタになるような人間じゃない。人付き合いが苦手だから、こうして今も一人きりで課題をやっている。あまり、邪魔をして欲しくはないわ。さっさと終わらせたいの」
人付き合いが苦手と言っている割には、良いテンポで滑舌良く彼女はそれだけの事を一気に語った。もっとも人付き合いが苦手な人でも、喋りの上手い人はいるだろうけど。
「いや、邪魔をするつもりはないのだけどさ」
少しばかり気圧されながら、僕はそう返した。その僕の様子を、黒宮さんはじっくりと観察しているようだった。きっと、“この男、気が弱そう”とか、そんな事を思っているのじゃないかと思う。
「なら、早く用件を言って」
そう訊いて来た彼女に、僕はこう答えた。
「実は君が、交通事故死した霊に悩まされている人の相談を受けて、祀りこめるよう助言をしたって話を聞いてさ。その話を詳しく聞きたいと思って」
その僕の言葉を受けると、黒宮さんは課題に取り組み始めた。一瞬、僕を無視するつもりでいるのかと思ったけど、
「なるほど。その件か」
と、一呼吸の間の後で、課題に取り組みながら、そう彼女は呟くように僕の言葉に返したのだった。戸惑いながらも、僕はこう続ける。
「君の助言のお蔭で、相談をした人は随分と助かったようだけど、まだ不安定らしいんだよ。霊が自分に障るのじゃないかって不安でいるのだとか」
相変わらず課題に取り組みながら、黒宮さんはこう言った。
「そこまで知っているのなら、私に聞く事は何もないのじゃない? 正直に言うと、私だって相談された時の事を、そんなによくは覚えていないのよ」
どうやら課題をやりながら、僕の相手をする気でいるらしい。器用な頭の持ち主のようだ。それを受けて僕は“やっぱり、鈴谷さんとは違う”と、そう思った。彼女でも、これくらいはできるだろうけど、恐らくこんな真似を彼女はしない。僕への失礼になるからだ。そう考えて気が付く。
この彼女の行動は、作業の進捗がどうこうといった問題よりも、僕を軽視している事を僕に示すのが目的なのじゃないだろうか。上下関係を作っているというか。彼女は優位に立とうとしているのだ。
しかし、それに気が付いても、僕は彼女に何も文句を言わないどころから、怒りすらほとんど覚えなかった。何を隠そう、僕はかなりのヘタレだからだ。
「いや、どうして君が、霊を祀りこめるべきだって提案したのかとか、そんな事が聞きたいのだけど」
その僕の言葉に、黒宮さんは軽く笑った。
「あ、ごめんなさい。つい笑っちゃったわ」
と、謝ってからこう続ける。
「もしかして、あなたも呪いとかを信じているクチ? 本気で私が、呪いに精通していて、霊と会話できるとかって思っているの?」
それを受けて、僕は口ごもる。正直、信じてはいないのだけど、この場合、それを口にしたもんだかどうだか。
「いや、実は信じていないのだけどね」
少し逡巡した後で、僕はそう正直に言った。嘘をついてもばれそうだったので、どうせなら正直に言った方が良いと思ったのだ。
「あ、そう。なら、私が霊感商法か何かをしようとしているとでも思ったの? 呪いを信じていないのだったら、普通はそういうのを疑うわよね?」
鋭い。
それを聞いて僕はそう思う。しかし、今度は正直に“その通り”と認める訳にはいかないのは当たり前。それで僕はこう言った。
「いや、そんな事はないよ。でも、あれだな。ならどうして、君は霊を祀りこめるべきだとかって助言をしたの?」
「だって、あの人、頭から霊の存在を信じているようだったのだもの。それに、知り合いの人が“霊は気の所為だ”って言って、失敗をしているのよ? 同じ事をしても同じ結果になるのは目に見えているじゃない」
そこで黒宮さんは、課題の手を止め、顔を上げて僕を見た。
「だから、ああ言ったのだけど、効きが弱かったみたいね。残念だわ」
それを聞いて僕は不思議に思う。
「“効き”って何の?」
それを受けると、黒宮さんは静かに笑う。そして、「そうね」と呟き。こう続けたのだった。
「……“呪い”の、かしらね?」
僕はその言葉に顔を青くする。
「いや、さっき、黒宮さんは、呪い何て信じていないような事を言っていたじゃない」
「そりゃそうよ。呪いなんて存在しないわよ。でも、効果があるのだから、仕方ないじゃない。もっとも、鈴谷さんなら、私の今回の言葉を“呪い”だとは認めてくれないだろうけど」
そこで僕は思わず「えっ!」と声を上げた。どうして黒宮さんが、鈴谷さんの事を知っているんだ?
僕の反応を受けて、黒宮さんは満足そうな顔を浮かべた。
「やっぱり、あなた、鈴谷さんと知り合いだったんだ」
そして、そう言う。
「どうして、彼女の事を……」
僕が慌ててそう言いかけると、それを制して黒宮さんは言った。
「落ち着いて。単に私と鈴谷さんは同じ高校だったってだけの話よ。だから私は、彼女を知っているの。そして、彼女と新聞サークルは仲が良いって事も聞いていた。特に一部の男性サークル員から、とても好かれているらしいってね」
そう言いながら、黒宮さんは面白そうに笑った。もちろん、その男性サークル員は僕の事だろう。戸惑っている僕に向けて、黒宮さんは更に続けた。
「私の立場、やり方では、もうあの怨霊に悩まされている人に対して何もしてあげられないわ。
――でも、」
でも?
僕を睨みつけるような、誘うような視線で黒宮さんは続けた。
「――鈴谷さんなら、何とかできるかもしれないわね」
「どういう事?」
「そのままの意味よ。私をオカルトみたいな変な目で見た罰として、あなたが鈴谷さんにそれを頼みなさいな。助けられるのなら、助けた方が良いでしょうし。
それに、彼女も、案外こういうのは、放っておけない性質でしょう?」
僕はその言葉に頭を抱えた。どうも、口車に乗せられているような気がする。
「いや、どうして僕が? 鈴谷さんと同じ高校だったのなら、君が頼めば良いじゃないか」
「駄目よ。私、あの人の事が、苦手なのだもの」
僕はそれを聞いて、戸惑った。もしかして、黒宮さんと鈴谷さんは仲が悪いのだろうか? しかし、黒宮さんはそこに言葉を重ねてくる。
「断っておくけど、“苦手”とは言ったけど、“嫌い”だとは言ってないわよ」
いや、それって、普通、同じ意味で使わないだろうか?
「とにかく、怨霊に悩まされている女の人とのコンタクトは、私が取ってあげるから、あなたは鈴谷さんに事の経緯を説明して、何とかして説得しなさいな。それが、あなたの新聞ネタにもなりそうじゃない」
そう威圧的に言って来る黒宮さんに、僕は思わず頷いてしまったのだけど、何で僕の方が彼女に仕事を頼んだみたいになっているのだろう?と疑問に思ってはいたのだった。
民俗文化研究会のサークル室に、相談者の女性が入って来た。本当は何処か外で会っても良かったのだけど、無料で頼んでいる立場だからと、相手の方から、サークル室にお邪魔すると言って来たのだ。その女の人は元気がなさそうで、少しばかり緊張しているようでもあった。年齢は僕らよりも上のはずだけど、鈴谷さんの方が落ち着いていて、大人びて見える。
もっとも、それはここがその相談者にとって、慣れない場所だからだろう。大学のサークル棟は、独特の文化を持っているのが普通だろうから、ここは彼女にとって異界と言っても良いはずだ。
ただし、鈴谷さんが大人びて見えるのは、サークル室の所為じゃない。やや厚い眼鏡の下に隠された強い瞳。スレンダーな体型によく似合っているスーツ姿。彼女はいかにも確りしていそうな外見をしているのだ。きっと、彼女なら就職試験の面接だってかなりの高評価を得られるだろう。
サークル室の中は、殺風景で本棚と机以外はほとんど何もない。狭いし、空気だって悪そうだ。そんな場所に、綺麗で可憐な鈴谷さんがいる。不釣り合いに思えるけど、少なくともその時の僕にはよく馴染んでいるように感じられた。
「――なるほど。それで、霊を祀りこめる事になったのですか?」
その相談者の女性から、今までの経緯についての説明を聞き終えると、鈴谷さんはそう言った。
軽く息を吐き出す。
それを見て、僕はやはり彼女も少しは緊張しているのかもしれない、とそう思った。人付き合いに積極的ではない割には、確りとした応対をする彼女だけど、だからといって人に慣れているという訳でもないのだろう。多分、だからだ。彼女が僕からの依頼を聞いた時、少しだけ嫌な顔をしたのは。
……恐らく、ため息を漏らされるだろうな、と思いながら僕が黒宮さんからの話を鈴谷さん伝え終えると、やはり鈴谷さんはため息を漏らした。多少呆れたような表情で、僕を眺めながらこう言う。
「つまり、佐野君は黒宮さんの口車に上手く乗せられちゃったってこと? それで、その怨霊に悩まされている人を助けてあげるよう私を説得しに来たと」
僕は困った顔を浮かべつつ、それにこう返す。
「うん。ま、そうなんだけど、だたさ……」
そこまで僕が言いかけると、それを止めて鈴谷さんはこう言った。
「黒宮さんが、私にこの件を押し付けて来たからには、黒宮さんが霊感商法をやっている線はなさそうだと、そう安心もした訳ね、佐野君は」
「うん。その通りだよ。だから、そのまま乗ってもいいかな?って」
もっとも、僕が黒宮さんの提案にほとんど抵抗しなかったのは、それだけじゃなく、その相談者の人を助けてあげられればという思いと、それを口実にして鈴谷さんとまた交流できるって下心があったのだけど。
「だけど、黒宮さんの“呪い”の噂については少し気になっているな。どうして、彼女にはそんな噂があるのだろう?」
そう僕が続けると、彼女は少しだけ困ったようにしながら、「私もそれほど詳しくはないのだけど」と言い、それからこう言った。
「その“呪い”の件に関して、多分、ある程度は彼女自身に非があるにしても、基本的には彼女自身も被害者だと思うわよ」
「被害者?」
「そう。呪いって、実際に効果がある。ただし、その人達が呪いの効果を信じていた場合だけど。で、その呪いを信じる文化の犠牲者だと思うのよ、黒宮さんは」
僕はそれを聞くと少し考えてから、こう言った。
「ああ、つまり、呪いはマイナスのプラシーボ効果。思い込みって事か」
その僕の言葉に鈴谷さんは頷きながら、こう返した。
「そうね。それもあると思う。けど、単純にそれだけとも言い切れない。“呪い”をその共同体が信じている場合、それは社会的装置として機能し、システムに組み込まれている事すらもある。
だから、呪いを使える人ってのは、その“立場”が重要なの。仮に呪術のやり方を知っていても、周囲の人達がそれを信じていなければ効果はない。逆を言えば、呪いのやり方を知らなくても、周囲の人達がそれを信じていれば、呪いは勝手に効いてしまう……」
僕は鈴谷さんの説明に、素直に関心していた。
「へぇ、面白そうな話だね」
だけど、同時に疑問を覚えてもいた。鈴谷さんは、普段は閉じこもっているけど、興味がある事を見つけると、いきなり凄い行動力を発揮するのだ。黒宮さん本人に、その辺りの詳しい事情を訊きに行っても不思議じゃない。どうして、訊きに行かないのだろう?
「黒宮さん本人に、詳しい話を訊きに行けば良いのじゃないの?」
だから僕は、そう問いかけてみた。すると、鈴谷さんは少し笑ってからこう返す。
「それができないの。だって私、彼女の事が苦手だから」
僕はその言葉に、少しだけ反応した。もちろん、黒宮さんも鈴谷さんについて同じ事を言っていたからだ。
「まさか、“苦手”だけど、“嫌い”じゃないとか?」
それで僕がそう尋ねると、鈴谷さんは「あら? よく分かるわね」と、そう言ってから、こう続けた。
「多分、私は彼女の立場に嫉妬しているのだと思うの。私の立場じゃ、絶対になれないから」
僕はその彼女の言葉を意外に感じていた。彼女が自身の心情を吐露する事は、実は珍しい。それから、鈴谷さんはこう続けた。
「ね、佐野君は、今回の話を新聞のネタにするつもりでいるの?」
僕は首を横に振る。
「いや、止めておくつもりでいるよ。個人のデリケートな部分に関わる話だし、それに相談を受ける立場でネタにしたら、なんか無理強いしたみたいになるし」
その僕の言葉に、鈴谷さんは少しだけ嬉しそうにした。
「なるほど。分かったわ。それなら、この話を引き受けても良い。安心できるよう、その人を説得してみる。私の立場だからこそ、できる事もあるものね。もっとも、失敗するかもしれないから、そこはよく分かってもらわなくちゃ困るけど」
そして、そう言い終えると、微笑みを浮かべたのだった。黒宮さんの言った通り、案外こういうのは放っておけない性質なのだ、彼女は。
「――御霊信仰。
というものが、日本にはあります」
鈴谷さんがそう言うと、相談者の女性は、その言葉に不思議そうにする。恐らくは、初めて聞いた言葉だったのだろう。
「御霊信仰ですか?」
「はい。これは、怨霊となった霊を鎮め、畏怖の対象とし祀りこめるなどして、味方につけるようなことをいいます。元は怨霊であった菅原道真が、天神として祀られている話が有名でしょうか。主には、政治家などの有力者である場合が多いですが、この発想の流れは民間にも受け入れられているでしょう。荒神信仰とも結びつき、各地の信仰に変異していったと私は思っています」
そう言い終えると、鈴谷さんは少しだけ間を作った。相談者は次の言葉を待っている。真剣な表情だ。異質なサークル棟の部屋の中。つまり、彼女にとっての非日常空間というシチュエーション。毅然として、いかにも頼りになりそうな鈴谷さんから発せられるペダントに富んだ言葉の数々。恐らく、そういった様々な効果が、この相談者の女性に大きな影響を与えているのだろう。
「流行神として、瞬く間に消えていった霊々も含めるのなら、この日本には数多くの泥棒や強盗、謀反人といった犯罪者の霊が祀られているといいます。そして、その多くで祀りこめに成功している。
私は霊能者でも何でもありません。だから霊の声も聞こえないし、姿を見る事もできません。しかし、こういった数多の例を見る限り、祀りこめることで怨霊が守護霊に変わるという話は、信じても良いように思います。あなたのケースでも、きっと上手くいくと思いますよ」
そう鈴谷さんが言い終えると、真摯な表情で相談者の女性はゆっくりと頷いた。それから、こう訴える。
「なるほど。分かりました。しかし、私は霊の正式な祀り方を知りません。はっきり言って素人です。そんな私の祀り方で、果たして良いものでしょうか?」
それに鈴谷さんはにっこりと大きく笑った。彼女にしては珍しい、優しそうな母親のような笑顔だった。
「それは、心配ありません。結局のところをいえば、あなたの思いが、霊に伝わりさえすれば良いのですから。
実際、霊の祀り方は、地域や信仰によって変わってきます。仮に、その人が生前、特別な信仰を持っていたと言うのであれば、その信仰に合わせるのが良いでしょうが、無宗教であったのなら、気にする必要はありませんよ」
それから鈴谷さんは、棚から本を持ち出して、御霊信仰や犯罪者が祀られている話を相談者の女性に見せていった。儀式の方法が異なるという事も実例を挙げて説明をする。その学術的な説得力のお蔭で、どうやらその女性は、自分の方法に安心をしたようだった。祀りこめさえすれば、霊は自分に障らないようになる。むしろ、味方になってくれる。そう信じているようだ。そうしてその女性は、鈴谷さんの話が終わると、すっかり緊張感が解けた様子で、安心した表情で帰って行ったのだった。
「――上手くいったみたいだね」
相談者の女性が帰った後で、僕は鈴谷さんにそう言ってみた。
「まぁ、取り敢えずはね。私にはあんなやり方しかできないから、もしこれで駄目だったら、もう、カウンセラーとかに相談するしかないって思うわ」
「霊能者じゃないんだ?」
その僕の質問を聞くと、鈴谷さんは笑ってこう返した。
「信用できる人がいたら紹介するけど、流石に霊能者に知り合いはいないもの。私はただの民俗学好きの大学生だから」
「ただの民俗学好きの大学生は、霊障に悩んでいる人を助けたりできないと思うけど?」
「佐野君が、それを言う?」
とそれを聞いて、鈴谷さんは少しだけふざけた感じで怒った。しかし、それからこう続ける。
「でも、真面目に話すと、今回の件は、私だけじゃどうにもならなかったと思うわよ。半分以上、黒宮さんのお蔭。私は彼女の言葉に説得力を持たせただけだもの」
そう言った鈴谷さんは、何か複雑そうな顔をしていた。
「未だに分からないのだけど、黒宮さんって何者なの?」
「だから私だって詳しくは知らないって。ただ確かなのは、“呪いを使える立場にいる人”ってだけ。その立場で、今回はあの女性を助けてあげたのね」
僕はそれを聞きながら、鈴谷さんの様子に妙なものを感じていた。どうも彼女達は、距離を置きつつ、お互いを特別視し合っているように思える。
過去、彼女達の間に、一体、何があったのだろう?
僕は釈然としない思いを抱えたけど、取り敢えず、今回はこれ以上、何も分からなそうだとそれを諦めたのだった。