第七話 『聖都の未亡人2』
ルルディアス・レイの空の下で『彼』の姿を見るのはいつ以来の事か、ゲルダにはとっさに思い出す事が出来ずにいた。
街はうっすらと暮色を帯びている。
仕事を終えた人々が帰宅するにはまだ早く、夕餉の買い物をするには遅く、また食事に出かけるには早すぎる時刻。
ポツポツと街の外から来た観光客もいない訳ではないが、そう人の多い時間でもなかった。
自分の『店』へと向かう途中、何の気なしに目を向けるとそこに、大股に中央広場をよぎる背の高い……懐かしいグラントの姿があった。
多分、彼の方は数歩前からゲルダに気付いていたのだろう、彼女が立ち止まると彼も進行方向を微妙に変えて自然な距離を保って2人は対峙した。
「……久しぶりね」
そう声をかけてからやっと、グラントに最後に会ってからの年数を数えるのは、最愛の人を喪ってからの年数を数える事と同じだと彼女は気づく。
「やあ。 ここでキミに会うとは思わなかったよ」
一瞬、彼女の背後に目線を送ってから、グラントは懐かしさに和んだ顔で笑いかけた。
ダダイがこの世を去ってから、七年の年月が経過していた。
「本当は……この街を出るつもりだったんだけどね」
ゲルダが口元に笑みを浮かべる。
「色々あって、今じゃすっかりシガラミに捉われしまったようよ。 好きで選んだ道だから、嘆くつもりはないんだけど……」
自分の背後に控える2人の屈強な護衛を目顔で示し、彼女は深い栗色の瞳を彼の暗色の瞳に向けた。
哀しみに打ちひしがれ、何かに縋らねば生きていなかっただろうあの時の彼女を支えたのは、間違いなく彼だった。
「キミは変わらないな。……でも、元気そうで何よりだ」
そう言って笑うグラントの目元には、当時無かった皺がうっすらと浮かんでいる。
あれが『愛』だったとはゲルダも思っていない。
でも、彼女を生きながらえさせたのは、確かにグラントの優しさとぬくもりだった。
「ねえ、グラント、もし良かったらアタシのトコロに泊ってお行きなさいな。 積もる話もあるしね。こんなところで立ち話もなんでしょう?」
現実に今そこに存在するグラントの上に、過去の……もう少し若く青い表情をしたグラントを重ね、ゲルダは無精髭に覆われた彼の頬に手を伸ばした。
あの頃よりも少し髭が濃くなり、額や目の周りには見慣れない何本かの皺が入り、以前よりもずっと男らしい良い面構えになっている。
もう少しで彼に触れようという時、ゲルダは彼が微かに眉根を寄せ困った様子をしているように感じて手を止めた。
「連れがいるんだ」
温かい笑みを浮かべたままではあるが、グラントからははっきりとした拒絶の意志が伝わってくる。
背後を振り返る彼の視線を追うとそこに、広場の噴水近くのベンチに座る一人の女性の姿。
藁色の髪に茶がかった緑の瞳。たぶん20代の半ばくらいなのだろうが、何処か置き去りにされた子供のような不安そうな表情が胸を突く。
「去年、彼女と結婚した」
見たこともないくらい優しい目をその女性に向けて、グラントは言った。
ああ……そうだわ……と、ゲルダは心の中にほろ苦く笑い、伸ばしかけた手を下ろす。
「……そうよね。もう、七年も経つんだものね」
生きる気力を失った女が立ち直り、生きがいを持って歩き始めるのに充分な時が経過していた。
まだ少し青臭さを残していた青年が大人の男になり、本当に大切な人と巡り合い結ばれたとしても当然の年月だ。
「おめでとう、グラント。幸せそうでなによりだわ」
微かな苦みと切なさを心の底に覚えつつも、ゲルダはそれを面に現す事なく笑みを浮かべた。
私は、時々グラントの話しに出てくる『商人』である彼の師匠ダダイ氏を、割と年配の方として勝手に想像していた。
だからグラントに彼女、ゲルダ・ミルジエットさんをダダイ氏の奥様として紹介された時は、内心とても驚いていた。
間近で向かい合ったゲルダさんは、遠くから見た印象よりほんの少しだけ年カサだと思いはしたけれど、それでもきっと私より何歳か上と言うに過ぎない年齢だろう。
グラントより若いと思う。
驚きを表情に表わしたつもりはなかったのだけど、ダダイ氏とゲルダさんとはかなり年齢が離れた夫婦だったと事を、すぐにグラントが説明してくれた。
「スケベ心で若い奥方をもらった癖にあっけなくあの世に逝くなんて、ダダイらしからぬ無責任さだと未だに信じられないよ」
珍しく悪態をつくグラントだけれど、言葉の苦々しさと辛辣さを彼の表情が裏切っていた。
『朗らかな苦笑』などと言う言葉は存在しないかもしれないが、ゲルダさんはそんな言葉で形容したくなるような表情を浮かべ、どこか陰のある栗色の瞳を私に向ける。
「はやり病でね、ダダイも生まれたばかりだった小さなダダイ坊やも、あっけないものだったわ。アタシみたいな、生まれも育ちも碌でもない無教養な女を拾ってくれてねぇ……。本当に優しい人だったわ。グラントはダダイのお気に入りだったのよ。頭は回るし骨もあるって」
「……そんな褒め言葉、本人の口から聞いた事がないな」
グラントが苦笑を浮かべて肩を竦める。
「商売相手のお大尽相手ならともかく、ダダイが野郎を目の前にそんな事言う筈がないじゃないのさ」
ゲルダさんは口元に手を当てて、可笑しそうにウフフと笑った。
表情や笑い声、しぐさに艶のある人だけれど、話し口調や態度はとてもさばさばして厭味が無い女性だ。
「きっとダダイもあの世でグラントの幸せを喜んでいるよ。良い家の生まれのちゃんとしたお嬢さんだね。可愛いし綺麗なお嬢さんじゃないのさ。グラント、あんたもしっかりした家の出なんだろ? お似合で良い縁に巡り合ったね」
もしかすると、さっきグラントとゲルダさんの間にあった…一種独特の、胸がザワザワするようなあの雰囲気は私の気のせいだったんだろうか?
何かの気の迷いだったのかしら……?
そう思いかけていた私に向かい、ゲルダさんは屈託無い様子で握手の手を差し出してきた。
「ねえ、フローティアさん、貴女みたいな素敵な人に来てもらって、グラントは本当に幸せだと思うよ。……いつまでも、幸せでいておくれよ」
そう言って私の手を握る。
サラリと乾いた、柔らかな手だった。
彼女が少し力を込め、私がそれを握り返す、ごく普通の握手。
でもその時、言葉に出来ない何かが彼女から私の手を通じて流れ込んで来るのが感じられた。
理屈じゃ説明できない『何か』としか言いようのないモノ。
『想い』や形にならない『感情』のようなもの……。
刺々しさなどは無く、微かな温かさや切なさの混ざり合った優しいなにか。
とうに終わった事だろうと思う。
私とグラントとが出会う前にあった、何か。
グラントは大人で、今は私の事だけを愛していてくれている事を私は知っている。
決して楽しい気持ちではなかったけれど、私だってもう10代の小娘なわけではないのだ……。
「何か困った事にでも巻き込まれているんじゃないのか?」
とは
「辻に自分の馬車を止めているから宿まで送って行こう」
そう仰って下さったゲルダさんの申し出を、ありがたく受けた私達が馬車に乗り込んで直ぐ、グラントが言った言葉だった。
実は……私もずっと気になっていた。
ゲルダさんの連れていた、2人の護衛の事。
ダダイ氏と言う人は生前わりと手広く商売をされていた方なのだそうだけれど、いくら大手商家の未亡人だからといって、街を歩くのに2人も護衛をつけねばならないなんて話しを私は聞いた事がない。
しかもこのルルディアアス・レイと言う街は、グラントが私を一人で待たせていても大丈夫と判断したほど治安の良い街であるというのに。
「気にしないで……って言っても無理なんだろうけど、まあ……ちょっとばかり事情があるのよ。それも近いうちに解決する筈だから、大丈夫よ。心配しないで」
笑みを浮かべつつそう言ったゲルダさんが、それ以上説明する気は無いだろう事は彼女の目を見れば明らかだった。
以前からの知己であるグラントも彼女の意志の固さは承知しているようで、しつこく聞き出すことはしない。
一瞬、妙な沈黙が馬車の中の私達を押し包む。
……ふ、と、溜息をつくグラント。
「分かったゲルダ。キミが大丈夫だと言うのなら、それを信じる事にしよう。だけどもしキミに何かあったならダダイがどれほど哀しむか、その事を忘れないで欲しい」
「……分かってる」
と、彼女は深く頷いた。
「……グラントとフローティアさんは、しばらくこの街にいるのかい?」
「俺は商用でシュバノ村へ向かうけど、暫く彼女はこの街に残る予定だ。……本当ならダダイの墓に彼女と一緒に行きたいトコロだけど……」
そう言って、言葉を途切れさせたグラント。
どうしたんだろう?
グラントがお世話になり、未だに師匠と慕う方の墓前にご挨拶に行くのなら、当然私も一緒に行きたいと思うのだけど……。
「……あの……どうしたの? 私もダダイさんの墓ならご挨拶に行きたいわ」
おずおずとグラントの顔を見上げる私に、彼の代わりにゲルダさんが答えてくれた。
「墓は、無いんだよ……」
……と。
私は知らなかった事だけれど、はやり病で亡くなったこの街の住民に『個人の墓』というものは存在しないのだそうだ。
人から人へと伝播する病で死んだ人間は、一般的な土葬ではなく荼毘に付す習慣があるのだ。
しかもその頃は同時期に多くの人が亡くなり、個人個人の葬儀など行えるような状態ではなかったと言う。
死体は街の外へ運び出され、何体かまとめて火葬にされては共同墓地へと葬られる。
病の伝播を最小限に留める為には必要な措置であったのだろうが、兎にも角にも迅速な処分をと急ぐあまり、街の外に何箇所かあるどの共同墓地にダダイと子供が葬られたか、正確な記録が残されていないのだそうだ。
「……だから、お墓は無いのよ。しかも、あの状況下で禁じられていたから……髪の毛のひと房も手元に残す事が出来なくてねぇ。後々、中身の入っていない空の墓石だけ建てて葬儀を上げる人も多かったけど、アタシはそんな事をする気持ちにはならなかったんだよ。……だってそんな事したって、喜ぶのは墓石屋と高い値段で墓地を売る教会だけじゃないか。サリフォー教会に甘い汁を吸わす為だけに葬儀をしたり墓を作ったりなんて、アタシだけじゃなくダダイやダダイの坊やだって喜びはしないさ」
悲しそうな表情で、最後の下りを吐き捨てるようにゲルダさんは言う。
「……ああ、ごめんよ。アンタ達にぼやいても仕方ないのにね、アタシったら……。ほら、宿は直ぐそこだよ。 グラント、随分と張り込んでいい宿をとったもんだね。仕事がうまくいっているようで何よりだわ」
ゲルダさんが窓から辻の向こうにある大きな石造りの大きな建物を指差した。
グラントは一人で街に残る私を気遣ってくれたに違いない。確かに立派な建物だった。
「送ってくれてありがとうゲルダ、助かったよ。ところで、さっきキミは『店』に行く途中だと言っていたけど、ミルジエット商会は畳んで処分したんじゃなかったのか……?」
「ああ、あれはもう無いよ。聞かれたからまあ答えるけど、アタシは今『百花楼』に出戻ってるのよ。ウフフ。もちろん店に出てるわけじゃなくて、経営者としてだけどね。あの強突く張りのオーナーも、はやり病であの世に行っちまってね、アタシがダダイの残してくれた遺産で買い取ったのさ。……これも何かの縁と思ってね。今のアタシは経営者兼、遣り手ババァってわけ。大丈夫。間違ってもアンタに遊びにおいでなんて言わないから、安心しておくれよ。フローティアさんは……。アハハ、まっとうなご婦人が出入りするような店じゃないから、やっぱり呼ぶわけには行かないわね」
にっこりと私に微笑みかけ
「じゃあまた縁があったら」
と、手を振りながら、ゲルダさんと彼女を乗せた馬車はカラカラと車輪を鳴らして去って行った……。
両手に荷物を抱えたグラントが宿のドアをくぐるのについて行きながら、私はゲルダさんが昔勤めていて、今はその所有者になったらしい『百花楼』と言うお店について考えていた。
どんなお店なんだろう。
それに……。
「ねぇグラント、さっきの話ぶりを聞いていて思ったのだけど、ゲルダさんはサリフォー教会をとても嫌っている様子だったわね。この国の人間の殆どが、女神サリフォーの信者だと思っていたんだけれど……」
シェトワの港を出てから街道沿いに私達は、サリフォー教会の信仰厚い地域をずっと通ってきた。
信仰は生活に密接して人々の中に息づいている様に見受けられたのだが、ブルジリア王国におけるサリフォー信仰の中心地ルルディアス・レイへと近づくにつれ、何故か……教会に対して一歩距離を置いているような人間が多くなり、気になってはいたのだ……。
「王弟グラヴィヴィスの話をした時に、教会が失策を犯した話しをしただろう……?」
僅かに声を潜めてグラントが私に話してくれたのは、ゲルダさんの夫でありグラントの恩人でもある商人、ダダイ氏を始め、ルルディアス・レイの多くの人の命を奪ったはやり病の時、サリフォー教会が取った対応についてだった。
シュスティーヴァ王の時代から100年、未だに病院や薬局としての機能の一端を担っている教会だが、病が街を席巻していた当時、信じがたい事に、この街のサリフォー教会の多くが助けを求める人々の面前でその門を閉ざしたと言うのだ。
「だって……弱い人を救う女神を布教する教会なのに、そんな馬鹿な事……」
思わず絶句する私。
「ここはサリフォー教会組織の本拠地でもあるんだ。そして、それは教会権力の本拠地でもある」
その言葉に私はグラントに教えてもらったこの国におけるサリフォー教会組織の歴史を思い出す。
そうだ……教会権力の中枢には貴族の眷属が……!
「……自分たちの命が惜しくて、信者たちを見殺しにしたのね……」
呟く私の声は、怒りのあまり微かな震えを帯びた。
もし本当にそうならば、ゲルダさんがサリフォー教会を嫌悪しているのも当たり前だ。
「ちょうどこの時のはやり病が原因で、当時のブルジリア王が亡くなったんだ。その喪に服す事を名目を使ったそうだよ。王弟グラヴィヴィス他、教会の外に出て薬剤の輸送や病人介護の指揮をとった少数の人間以外、病の勢いが沈静化するまで安全な修道院施設に建て籠りきりだったと言う話しだ」
私は……暫くの間、胸がムカムカとして言葉を発する事が出来ずにいた。
本当にこの街の教会組織は腐敗しきっていたのだと、話しを聞いて心底納得した。
「王弟グラヴィヴィスと言う方……まだお若いのにすばらしい人格者のようね」
大きく深呼吸をして、一端心を落ち着けてからそう言って感心する私に、グラントは少し表情を曇らせた。
「人格も才覚も突出すると、叩きつぶそうと言う人間が現れるのが常だろう……」
王弟グラヴィヴィスの教会権力内での台頭を面白く思っていない人間が、これを機に増えて行った。
今回、グラントがこの国に来たがったのも、何か不穏な空気を読み取っての事だろうか……?
ただ、グラントに先行してブルジリア王国へと入国していたレシタルさんとジェイドの調べた限りでは、今のところ直ぐに何かが起きる先触れはないようだった。
私達が道中聞き及んだトコロにも、今直ぐ何らかの武力行動が起きる気配は見えなかった。
私はグラントとの道中彼に聞いた話の中で初めて知ったのだけれど、戦が起きる前には『軍』や『傭兵』の前に『商人』が動くそうだ。
酒保商人と呼ばれる彼らは、指揮官に代わり馬や糧食、軍装、軍備、傭兵の手配、彼らの世話をする娘子軍を組織し、戦に入った後は、戦利品を買い取り売りさばく役目を担う。
以前この国で起きかけた内乱も、彼らの動く気配にダダイ氏が気付いたところから発覚に至ったと言う。
しかし、今のところ、直ぐに何かが起きると言う事は無いようだ。
グラントがシュバノ村へ出立するのに障る事は、何もない。
ジェイドと久々に会い、食事がてらの情報と意見の交換を済ませた私達は、部屋へと戻った。
広いエントランスを抜けて螺旋を描く大きな階段を上った先の廊下を照らすのは、きらびやかなシャンデリアと壁から等間隔に突き出した蜜蝋燭の灯が揺れる銀色の燭台。
これまでの道中に泊っていたのとは格が違う、立派なお宿だ。
そう言えば、以前のグラントは私を抱き上げて運びたがったけれど、この頃はあまりそうしない事に私は気がついていた。
私を抱き上げて運ぶのは、私が本当に疲れ果てている時と、人ごみなどの混雑した空間でこの脚での歩行が困難な時と限られている。
グラントは力持ちだし優しい人だから、私の身体を気遣う気持ちから抱き上げて運んでくれていたと言う事は分かっているけれど、私は彼に運ばれる自分が嫌いだった。
言葉の通り、私は人の負担にばかりなる『お荷物』そのもののようだから。
そのことをはっきり言葉にして彼に伝えた事など無かった筈だけれど、いつの間にかグラントは私の気持ちを察してくれていた。
杖を突き脚を引いて歩く私の歩みは遅いけれど、決して嫌な顔などせず、歩調を合わせる彼。
無造作に上着を脱いで、明日からの荷物を調べるグラントの姿を見ていたら、なんだかとても……切ない気持になってきて、私は黙ったまま彼の背に額を付けてその胴に腕をまわした。
シャツ越しにも引き締まって筋肉質な事が分かる彼の体の、しっかりした存在感。
「明日は……気をつけて行って来てね……」
彼の背に顔を伏せたまま言う私。
グラントが微かに笑う気配が、彼の背中を通じて感じられた。
もしかしたら随分と前から分かっていた彼のシュバノへの出発を、急に淋しがるそぶりを見せた私の事を可笑しく思ったかも知れない。
十日にも満たないだろう短い期間だと言うのに、私は彼の不在をとても不安に思っている。
ルルディアス・レイにはジェイドもいるし、数日後には、レシタルさんも到着する事になっている。
淋しさからの不安じゃないのだ。
いいえ、淋しさが全く無いと言えば嘘になってしまうけれど、この不安の元は、そこではない。
「フロー、危険な事はないから大丈夫だよ」
言いながらグラントは胴に回していた腕を取り、私を胸の中に抱き込んでくれる。
目を閉じると規則正しく鼓動を刻む心臓が、彼の身体に命と熱を運ぶ愛おしい響きが伝わってくる。
いつもならこの胸は私に愛されている幸せと、安心感を与えてくれるのだけれど……。
身もがくようにしてグラントの腕の温かな腕の檻を緩め、彼の首の後ろへと両手を伸ばす。
脚元に手から離れた杖が、パタリと倒れる音。
腕の内側に、伸びかけた髭がザラザラと触れた。
仰のいて見上げた先には意志の強さを表す眉と顎、真っすぐな鼻梁。理知的な額には砂色の髪が脱いだ帽子に乱されて掛る。
微かに笑みを含んだ暗色の瞳が、優しく私を見下ろしていた。
「早く帰ってきてね?」
「キミにそんな事を言われると、この街を離れがたくなるな……」
苦笑するグラントの唇に、私は自分の唇を重ねた。
片脚の背伸びはバランスが取りづらかったけど、グラントが背を屈めてくれて楽になった。
けっして言葉にする事はないけれど、私は今、グラントに私の傍を……このルルディアス・レイを離れないでいて欲しいと思っている。
遊びや物見遊山で彼がここに来たわけじゃない事は分かっているから、絶対、口が裂けても言えないけど、ただ、その気持ちをぶつける様に私はグラントとのキスに没頭した。
いささかはしたないほど彼を求めて深く口づける私の事を、グラントはどう思っただろうか。
彼は勘の鈍い人じゃないから、私が彼とゲルダさんの間に何かを感じた事くらい察していると思う。
嫉妬心や独占欲、それとも暫く彼が傍を離れるてしまう事への淋しさからの、甘えと受け取っているかもしれない。
そのどちらも完全には間違いじゃないから、どう取られても別に構わない。
でも……。
私は、自分の頭が『おかしなこと』を考えてしまうのが、怖かった。
ゲルダさんに出会った事によって、ぼんやりと浮かんできた愚かしい考えを、形にするのが恐ろしかった。
彼の腕の中口づけに溺れ、熱に浮かされたような顔で崩れそうになっている私を、グラントが見下ろす。
彼の頬にも赤味がさし、眉根が少し苦しそうに困ったように寄せられている。
「参ったな……まだ、髭も剃って無いのに」
吐息交じりの呟きを耳に、私は彼の胸に顔を伏せる。
「お髭はいいの……だから……」
私の頭が愚かしい考えを形にしてしまわないように、隙間なくグラントと言う存在で埋めて欲しい……。