第六話 『聖都の未亡人』
ルルディアス・レイと言う街はサリフォー信仰の聖都としても知られるが、ブルジリア王国にとって古代フディバル帝国時代に整備された街道が東西南北から交差する、経済と商業の拠点としても重要な意味を持っている。
……とは、まるきりグラントからの受け売りなのだけど、彼にとってもそれはかつて自分を護衛として隊商に雇い入れれくれた、とある商人からの受け売りであるらしい。
街は大きな歪んだ卵の形をしていて、街の周囲はレンガの上から珪藻土を塗った堅固な壁にグルリと取り囲まれていた。
街を守る壁には四つの門がある。
北部から続く街道の入り口には「北風Boreas」の名を冠した北の大門。
南部から続く街道の入り口には「南風Notos」の名を冠した南の大門。
東部から続く街道の入り口には「東風Euros」の名を冠した東の大門。
西部から続く街道の入り口には「西風Zephyros」の名を冠した西の大門。
四本の道は、街の中を反時計回りに緩やかな曲線を描きながら中央の広場へと続き、東西南北四つの風は、女神サリフォー像をいただく噴水の上で溶け合い混ざり合う。
古い時代に建造されたこの街のサリフォー像には一見の価値有りと言われていたけれど、それは想像を超えて力強く美しい……本当に素晴らしい彫像だった。
伝承によると、女神サリフォーはその身に5対の翼を持つと言う。
一対は貌の横に。
三対は背に。
最後の一対は足首に。
それら10枚の翼が、四方から渦を巻いて吹き込む風をはらんだ躍動的な造形。
しなやかな女性らしい曲線を描く四肢にまとう衣装は渦巻き踊る風にまき上げられ、肌に纏わり、今にもはためき動きそうな柔らかな表現だ。
翼も衣服も、中央広場で交わる東西南北の街道同様に反時計回りの螺旋を描いている事は少し観察すれば分かることなのだけど、『計算しつくされた造形美』……なんて言葉では、この像を見た時の感動を伝える役に立たないんじゃないかと思う。
「素晴らしいわ……」
私は溜息とともに一言、そう呟いた。
最後の宿場を出て、このルルディアス・レイに到着したのはお昼を少しまわった時刻の事。
ブルジリア王国経済の要と言うだけあり規模はそれほど大きくないけれど、とても活気に溢れた街だった。
街を大きく四つに分ける通りが交差する中央広場は、それらの道が反時計周りに緩やかな曲線を描く為、自然に人の流れも広場内周の外側に沿い円を描く。
人波の動きに一定の法則が生まれ、酷い混雑が生まれにくい計算がなされているのだ。
広場の周りは大小の店舗が並ぶ市場になっていて、各地から集まってきた衣料や食料、動植物に雑貨。様々な品物が売られていて面白い。
私はグラントが西大通りのはずれにある厩舎に一端馬車を返却し、明日からまた新規で借り受ける為の予約を入れに行っているその間、噴水近くのベンチに腰を下ろし、この素晴らしい広場を飽きる事なく眺めて過ごしていた。
小柄な老婆が噴水前にたむろする鳩へ与える為の餌を商っている。
私はその穀物入りの小袋をひとつ買い、クルクルと鳴く白い鳩達に餌づけしながらもただぼんやり、惹きつけられるようにサリフォー像に見入っていた。
「待たせたね。宿に手荷物を預けに行ったら思いの他時間を食ったよ」
鳩の群れを踏みつけぬよう、脚元を気にするグラント。
「……全然待った気がしないわ。貴方が言っていた通り、本当に素晴らしい像で魂が何処かへ行ってしまってたようだわ……」
ふ~っと大きく息を吐く私に、グラントが少し苦笑いを浮かべて肩をすくめた。
「まさか神像に嫉妬する事があるとは思わなかったよ。でもキミが喜んでくれているようで良かった」
「全く想像以上だったわ……。ね、この近くに古いサリフォー教会もあるのでしょう?」
「ダダイからの受け売りだとエルテカ中期建造と言っていたかな。街の外周西側にその一軒と、中期以降の物がもう一軒外周東にある」
建物があると思しき方向に指を差しながら説明をするグラント。
でも、ダダイという名前は初めて耳にしたと思う。
一体誰の事だろう……?
私はよっぽど物問いた気な表情をしていたのだろう。
グラントが私の隣に腰を下ろすと、直ぐに言葉を継いで説明してくれた。
「ダダイは俺の……師匠……だ。前に言ったろ、シェトワで俺を雇い入れてくれた商人の話しを。彼には商売のイロハだけじゃなく、人間として大事な色々な事を教わったよ。……広い視野を持ち、先の状況を読む能力に長けた、本当に頭のいい男だったな」
どこかしんみりとしたその口調に、過去形で語られるダダイと言う人物が、今はもうこの世には存在しないのだろうことを悟った……。
「趣味も広くてね……俺は未だに門外漢だが、古い建築にも精通してた。教会建築の蘊蓄を聞かされた記憶があるけど、この街では当時使い走りにこき使われたから実のところ外観しか見た事が無いんだ」
「まぁ……貴方が使い走り扱いされていた頃があるなんて、今では想像もつかないわ。うふふ、それじゃあグラントがルルディアス・レイに帰ってくるまで、私も教会巡りは遠慮しておくわ。一緒に見に行きましょうよ」
予定ではグラントは明日、単身、琥珀の産地であるシュバノ村へ向けて出発する事になっている。
シュバノ村はルルディアアス・レイの街の西大門を出て、西街道を三日。そこにあるトゥピタナと言う小さな町から、更に北へ一日の場所にあるそうだ。
私は彼がシュバノの村で商用を済ませて戻るまでの間、このルルディアス・レイでお留守番する事になっている。
本当は私も一緒にシュバノへ行きたいトコロなのだけど、トゥピタナからシュバノ村へ至る道は険しい山道。馬車は使えず、移動は馬。
婦人用の横座りの鞍なら少しくらいの時間座っていられるけれど、私のこの脚では、普通の鞍に一日跨っているのは無理な話だ……。
「シュバノ周辺は琥珀の産地として有名なんだが、いかんせん一攫千金を狙う山師のような連中の巣窟だからね。ご婦人が行って楽しい場所ではないよ。トゥピタナは小さな町で宿は一軒しか無いし……これが汚い宿なんだ。……シュバノの宿はそれよりももっと酷い。あんなところにキミを泊らせるなんて考えられないよ」
そう言うグラントの嫌そうな様子からみて、ちょっと想像がつかないくらいのお宿であるらしい。
この後、中央広場近くの市場で彼の荷物に補充する為の買い物をしたのだけど、その中に虱取りの梳き櫛と蚤よけのハーブオイルを見つけた時、私は心底ゾッとした……。
「美しい宝石を身につけるのは素敵だけど、それを採掘する環境が素敵じゃないなんて……考えた事も無かったわ」
「花園で宝石が摘めるとでも思ったのか? 過酷な採掘条件だからこその希少価値だろう」
「……そうなんでしょうけど……薔薇についた朝露がダイアモンドなんだと言われた方が、夢があっていいわ。昔は虫入りの琥珀に神秘やロマンを感じていたけれど、今は別の感慨を抱くことよ。ねえグラント、虱取りは梳き櫛だけじゃなくティーツリーのオイルも持って行った方が良くない? 髪につけて洗えば退治出来るって説明書きに書いてあるわ。それにこの季節ならまだ蚊は出ていないでしょうけど、虫に効く物が色々とあっちのお店にあったみたいよ」
洗髪用のティーツリーのオイルを一本手に入れた。
店主の話しではこれはとても効果があるらしい。
蚊には商品価値の無い琥珀クズを燃やした煙が効くのだそうで、現地で調達が可能だ。その他の物はグラントに断られる。
なんだかんだと足りない物を買いそろえるうちに、結構な荷物になっていた。
そろそろ午後の日も傾き始めてきている。
この後、私達は暫く前からこの国に入っていたジェイドと合流し、一緒に食事をする事になっていた。
ジェイドとは去年の夏にユーシズの屋敷で顔を合わせたのが最後、本当に暫くぶりだ。
グラントの話しによると、彼はつい最近までレシタルさんと一緒に周辺の国家の動向を探っていたそうだ。
「一端宿に戻って荷物を置いて来よう。フロー、貸し馬車を頼んで来るからここで荷物の番をしていてもらえるかい?」
私が頷くと、グラントが大きな歩幅で歩き出す。白い鳩が数羽その動きに驚いて、バサバサと飛んですぐにまた地面に戻って来た。
ルルディアス・レイでは、サリフォーの使いと言われいる白い鳩が街を上げて保護されているそうだ。
広場は白い鳩に溢れている。
鳥達がトコロ構わず排泄するフンを、街に雇われた子供達が綺麗に掃除していた。
報酬は多くないが、子供らには良いお小遣い稼ぎになるのだろう。
一人になり、見慣れぬ街並みを眺め、自分とは違う髪の色や顔立ちの人々が歩く様を見ていると、なんだか不思議な気持ちが湧いてくる……。
『孤独』とか『不安』と言う気持ちに近い。
でも……負の感情だけではない何か……『自由さ』だとか『未知の世界への興味』も多分に含まれている気がする。
かつていつも味わっていた、あの……先の見えない不安や孤独を知っているからこそ、グラントと言う温かい胸の中への帰還を約束された今の、この、緩い自由さを私は愛おしく思うのかもしれない。
私は我知らず微笑みを口元に浮かべながら、行き交う人々へと目線を彷徨わせた。
ブルジリア王国の北へくるにつれ、土地人間の髪の色と目の色はエキゾチックな暗色が多く見受けられるようになっている。
男性は眼窩が深くくぼみ鼻梁が高く細長い顔立ちが目立つ。
女性は眉が濃く、魅惑的な暗い栗色の眼差しを持つ。
リアトーマ国では私のような藁色の髪は珍しくないけれど、ここでは私の方が少数派だ。
着ているドレスの形も違う。
ルルディアス・レイには、袖のたっぷりした鮮やかな刺繍の上衣に黒や赤、緑などのベストを重ね、大きく バルーン型に膨らませたスカートを組み合わせた女性が多い。
スカートは黒や暗い色の物が多いようだが、祝祭日ともなれば豪華で鮮やかな色糸が刺繍された華やかな物を着るのだそうだ。
寒い時に彼女たちは、繊細で複雑な模様編みの大きなショールを上から羽織る。
私はあの素敵なショールを帰国する前にぜひ手に入れたいと思っている。
グラントが留守にしている間、時間はたっぷりあるもの、市場を巡って何枚か見つけておこう。
一枚は自分用に。もう一枚はサラ夫人。それにメイリー・ミーの分も明るい色合いのものを一枚。
場所が変われば当然文化や習俗にも違いが表れるものだけれど、ここでは女性が頭に被る物も違っている。
若いお嬢さん達は大抵の場合、帽子やボンネットは被らずに髪にリボンや花や髪飾りをつけているのだ。
既婚女性は白いフリルや同色の小さなリボン飾りのついたスカーフ。形状は少しボンネットに似ているかもしれない。形や飾りにバリエーションが豊富で、これは見ていて面白い。
そして……愛する人を喪った未亡人は、黒いレース編みのスカーフを被る。
白髪混じりの中老の女性や白髪の老婆がこの黒のスカーフを被る様には、一種独特の威厳と、しんとした……神聖な哀しみのような物を感じさせられる……。
私はふと何の気なしに、さっきグラントが歩いて行った方向に目線を向けた。
黒いレースのスカーフを被った一人の女性の姿が私の目に飛び込んでくる……。
まだ十分に若く、そしてはっとするほどに美しい人だった。
スカーフの下に覗く暗い栗色の艶やかに波打つ髪。長い睫毛に縁取られた湿ったような色の瞳の先に、とうに人ごみに消えたと思っていたグラントが立っていた。
誰かに道でも尋ねられているんだろうか?
とか
それとも逆にグラントが誰かに何かを尋ねてでもいるんだろうか
……と言う考えは、一瞬のうちに私の中で否定された。
何処か婀娜っぽい雰囲気を漂わせるあの女性とグラントとが既知の仲である事は、2人の表情を見れば明らかに分かる。
思わぬところで思わぬ相手に出会った時の驚きと、喜びが彼女の目に見えていた。
赤い唇が親密さを漂わす笑みの形を刻み、繊手がグラントの頬に向けて伸ばされる。
何故だか……私の視界からは急に、周囲の明るさと温かさが消えてしまった気がする。
ベンチの上に座っているというのに脚元が危うくなったように感じ、私は手にした杖の柄をぎゅっと強く握りしめていた……。