第四話 『王弟グラヴィヴィス』
「人身御供……って、どういうこと?」
言葉の持つ剣呑さに、私は思わず眉をしかめた。
神話や伝説の世界じゃないのだからまさか白装束で神に命を捧げたなんてことは無いだろうけれど、王子グラヴィヴィスが内乱の沈静化に一体どんな役割を果たしたんだろう?
「言葉の通りさ。第二王子グラヴィヴィスは、女神サリフォーに命を捧げたんだ。サリフォー信仰に身を捧げるべく正式に入信したと言う意味だけどね。二代目国王エブシルの為に作られたサリフォー教会内での役職、主管枢機卿位についたんだよ……。ま……『主管』とは名ばかりで実際、主管枢機卿は名誉職のようなものだが、グラヴィヴィス王子は王宮を出て、サリフォー教会の修道院へ入った。元々王族がサリフォー信仰をないがしろにしているという理由から起きかけた騒動だ。王位継承権第二位の王子が入信したともなれば、もう戦の名目が立たなくなってしまう……」
むしろ、そこでそれ以上騒ぎ立ててしまえば、教会勢力側は政治権力を狙って騒動を起こそうとしたのではないかと疑われてしまう危険もある……。
その話を聞いて、私は思わずふ~……っ……と大きく息を吐いた。
「そういう事なのね……。それにしても……王子には物凄い覚悟が必要だったでしょうね。敵対勢力の中枢に身を投じる……だなんて、私にはとても考えられない事よ」
感心しきりの私と相反して、グラントがなんとなく曇った表情を見せている事に気付く。
「どうかして?」
「いいや……。グラヴィヴィス王子がそんな犠牲にならずとも、何か他にも方策があったんじゃないかとね……。いまだに思わずにいられないんだよ……」
……と、進行方向に目を向けてはいるけれど、どこか……ここにはない物を睨むような目をしたグラント言う。
当時の彼が一体この事件をどんな位置からどんな立場で見ていたのかを私は知らない。
彼の横顔に浮かんだ悔悟の表情を見れば、それだけ王室に近い位置にいたのだろうことは想像出来るけれど。
でも……発生直前の内乱を平和裏に、そして速やかに鎮圧、もしくは沈静化する方法など……そうあるとは思えない。
十年と少し前……。
今の彼と違って、まだ若くて経験の浅い青年だったグラントに出来ることなど、そう多く無かった事だろう。
「ね、今は? 今のサリフォー教会はどうなっているの? 未だに当時のような勢力を保ち続けているの?
貴方がこの国に来たがったのは訳があるんでしょう? でも、私を連れてくると言う事はさほど緊迫した状態ではない……ってことよね?」
私は、若く未熟だった頃の自分の無力さの記憶へと沈み込んでいるようなグラントへ、ことさらに明るく矢継ぎ早に問いかけた。
少しわざとらし過ぎたかもしれない……との、頬がひきつるような恥ずかしい気持ちを表情に表わさずに済んだかどうか、自信は無い。
けれど、ふぅっと力を抜くようにこわばって見えていたグラントの顎の辺りの固さが少しだけ緩んだようだった。
「そう。その後、サリフォー教会の勢力は弱体化しつつある。グラヴィヴィス王子……いや、現在は兄フォンティウスが王位を継承しているから、王弟グラヴィヴィスと呼ぶべきだな。彼はとても良くやっている。サリフォー教会の内部からの揺さぶりも見事なものだよ。……少しばかり有能に過ぎるくらいにね。それに、ある事態への対応の失策が大きく響いて、サリフォー教会への国民の不信感も強まった……」
一瞬だけ、またグラントの瞳に暗い影が落ちたように見えた。
でもそれは私の気のせいだったかも知れない。
言葉を切って数秒。
こちらを向いたグラントの目には、少しだけれど笑みが浮かんでいた。
目尻に薄く皺の寄る彼のこの笑い方が、私はとても好きだ。
サリフォー教会がどんな事態に対してどんな『失策』をしたのか、現在の王弟グラヴィヴィスは何をしているのか、気になるところはたくさんあったけれど、まだルルディアス・レイまでは何日もかかる。
慌てずとも大丈夫だと、私はそう思った。
ルルディアス・レイへの旅程は順調に進んでいた。
出発前に彼が言っていた通り、街道沿いには、朝出発すると調度夕刻に到着できるくらいの間隔で宿場が存在している。
隊商は荷物も多く、何台もの馬や馬車を連ねての移動だから進行速度も遅い。
それで時折、野営と言う事にもなるのだろうが、単独で動く私達はそんな目に遭わずに済んでいた。
毎回、きちんきちんと宿に休み、夕食と朝食を摂る。
昼食は宿で簡単な物を用意してもらって出発することもあるし、途中に村や町がある場合にはそこで食べたり食料を買ったりする。
エドーニアの『翡翠亭』もそうだったけれど、街道沿いの宿場では宿泊施設と食事やお酒のお店は兼業しているのが当たり前のようで、宿で食事を取ることが多かった。
楽と言えば楽なのだけれど、私は……ほんの少しがっかりしてしまう。
だって、もしかしたら野外で煮炊きすることもあるかもしれないと、実は密かに屋敷のコックや狩猟で野営をすることもあるサラ夫人に、簡単な竈の作り方や火の熾し方を教えてもらっていたのに……。
レリルと言う小さな町の宿兼食堂でこの話をした時、グラントは急に顔を強張らせた。
どうしたのかと驚き不思議に思っていると、突然、耐えられないといった風情で横を向いて笑いだす。
……失礼だわ。
私も可笑しいと思うけど。
でもやっぱり失礼だと思うの。
いつまで笑い続けるつもりかしらグラントは!?
火の熾し方や竈の作り方は無駄になってしまった。
でも、この一年、社交界で鍛えられた作り笑いや愛想笑いの方は役に立っている。
『作り笑い』と言いはしたけど、そんなに無理はしていない。
グラントはどうすれば『商人の妻』らしく振舞えるのかを気にする私に、普段通りにしていればいいと言ってくれた。
「キミは商人に貰われた良家のお嬢さんでいるのが自然だろ? 無理に取り繕っても嘘くさいじゃないか」
そうかもしれない……。
試しに鏡の前で『私のイメージする商人の妻』らしく、愛想よく笑って揉み手をしてみた。
だめ……あまりにも胡散臭い。
これじゃあグラントがやらない方がいいと言うのも頷ける……。
だから、私は彼の勧めに従って小奇麗な……流石に絹や宝石は付けないけど、それなりの装いをして馬車に乗った。
グラントは以前エドーニアで出会った時からの古い皮の鍔付き帽子に、仕立ては上等だけど皮の肘当てのついた実用的な上着姿。
更には腰に2本の長短の剣を帯剣しているものだから、彼は時々私の護衛か従者と勘違いされる事がある。
これは初めて彼に出会った時の私同様、グラントが元々は隊商の護衛をしていた事を知ると皆、ああそうかと納得するようだ。
それにしても、私達は少し……目立ちすぎるんじゃないかと心配だ。
護衛上がりの商人と、彼に嫁いだ元上流階級のお嬢さんと言うのは人の興味を悪戯に引くようで、時に2人の結婚に至るいきさつなど、聞きたがる人もいて辟易とした。
だって……そんな事……どうやって説明できるというのか……。
困って言葉を濁すと、そこがまた想像を刺激するようで、どうにも勝手にロマンチックないきさつを脳裏に描かれているのだと思う。
これじゃあ変に人の記憶に残ってしまうと嘆く私に、グラントは、別にかまわないじゃないかと笑った。
また来た時に覚えていてもらえると、何かと楽だという理屈らしい。
まあ……そう……よね?
別に今の私達は以前のグラントのように、敵対していた国へ諜報活動の為に『潜入』したわけじゃないんだもの。
そう思うと肩から不必要な力が抜けるような気がする。
それはそれとして……慣れるまでのあいだ多少時間を要した事が一つある。
人の目線と感情の変化にさらされることだ。
想定していなかったわけじゃないけれど、変に小奇麗な身なりをした商人の妻。
……これが、まず一見で反感を買う事が多いのだ。
特に、女性には私の姿は嫌な意味で目につく筈だ。
変わったモノを見るような目でこちらを見る人や、正面だって凝視しないまでも、チラチラと窺う視線を嫌でも感じてしまう。
ただ……。
こういうことを面白がってはいけないような気もするけれど、大抵の場合、そんな嫌な視線も私の不自由な歩きを目にした途端に、棘を失う。
おおむね皆親切に接してくれるけれど、特に女性達が私に優しくしてくれるというのは自分の事ながら面白いものだ。
その代わり私達の経緯を知りたがるのも、圧倒的に女性が多いのだけれど……。
グラントはこの国の現在の情勢を量る材料を得る為に、商館で同業者と、酒場ではその場に来合せている人々と積極的に話しをする。
商館で商人達と話しをしている時には何の問題もないのだけれど、酒場で彼が席を離れていると、なんだかやたらと私は酔客に絡まれてしまう。
エドーニアにいた頃、街の人は大抵私の事を胡散臭い素姓の分からないお嬢さんだと認識していたし、シェムスが厳つい顔の番犬のように私を守ってくれていた。
グラントが同席している時には、長身でシッカリした体躯の彼の連れにわざわざ近づいてくる男性なんていないのは分かるんだけれど。
どうにも、この頃絡まれる頻度が上がっている気がする……。
最初の頃はただ周囲の誰かかグラントが助けてくれるまでオロオロする事しかできなかった私だけど、今は割とすんなりと酔客をかわす事が出来るようになった。
……そうでもしないと、グラントが怖いのだ。
いいえ、私にとってのグラントじゃなくて、私に絡んだ人にとってのグラントが。
対外的交渉術には長けている筈なんだから、そんな、微笑みを浮かべたまま恫喝するなんて器用なまねしなくてもいいじゃないのと思う。
ちょっと手を握られただけで何もされていないんだから……。
その日も酔いのまわった若い男性が、私に一緒に踊ろうとしつこく話しかけてきていた。
三つ向こうのテーブルで地元の人たちと話をしていたグラントが目ざとくこちらに気付いたけれど、私は目顔で彼を制して立ち上がる。
「ごめんなさい、私は脚が悪いので踊れないわ。……その代わりと言ってはなんですけど……」
杖にすがって歩く姿を目にしてなお、しつこくする人は殆どいない。
いたとしても周囲の人間が気づいて制止してくれるが、それでは場を白けさせてしまって申し訳ない。
だから、私は店内にシェンバルか鍵盤楽器がある場合、店の人に断り何曲か弾かせてもらう事にしている。
違う土地の音楽を喜んでくれる人間は存外に多いのだ。
曲を奏でれば踊りたい人は踊ってくれるし、演奏が終われば話も弾む。
芸は身を助けると言うが、こんなところで自分のシェンバルが役に立つ事があるなんて考えもしなかった。
きっと昔の自分では、自ら進んで楽器を弾こうなんて思いもよらなかった事だろう。
人に同情される事で事態が良い方向へ向くならば、私は脚を引きずって歩くのを厭わない。
変な意地とかプライドだとかを守るより、私は少しでもグラントの役に立ちたい……。
本当は彼と同じ歩幅で歩いて行きたいと言いたいが、それが無理ならばせめて彼の足手まといにならないように、いくら無様に見えても構わないからついて行きたいと思うのは、おこがましい願いだろうか?