第二話 『amber line』
テーブルの上を5つの素焼きのカップが右に左にと滑るのを見ていた。
カップは素早い動きで目まぐるしく位置を変える。
あの中の一つには、あらかじめ小さく折りたたまれた紙片が入れられている。
5つのカップを素早く、そして器用に操る『胴元』の男が手を止めて、周囲の人々を一渡り眺めてどのカップに当たりがあるかを『賭ける』ように参加を促していた。
「キミはどれが当りだと思う?」
グラントが私の耳元で囁く。
カップの動きはあまりにも早すぎて目で追うことが出来なかったけれど、私の、人とは少し違う映像に関する記憶力を辿れば、どのカップが紙片を入れられた物であるかを見つけ出す事ができた。
「……たぶん、左から2番目だと思うわ。右端の物も糸底の辺りが少しだけザラザラと粗くなっているんだけど、その範囲とゆがみ方がちょっと違っていたのよ」
「俺には……全部同じにしか見えないな。フロー……そんなモノまでキミは覚えているのか?」
……と。
小さなテーブルの上のカップをじっと見つめながら答えた私に、グラントが感心しているのか呆れているのか判断のつかない様子で言う。
「きっと100頭の真っ黒い牛を一頭ずつ見分けることも出来るわよ? どう考えても大変そうだから、絶対にしたくないけど……」
「そんな事を頼まれる事は恐らくないだろうから安心していいよ。凄い記憶力だな。……ただ、ギャンブルをするにはキミはちょっと甘過ぎる」
グラントは目尻に皺の寄る笑みをこちらに一瞬だけ向け、数枚の銀貨を握った手を一番左端のカップの前へと伸ばした。
私には紙片を入れたカップがそれではない確信があった。
最初に紙片を放り込まれたのは、左から2番目に間違いない。
私のようにカップ本体の違いを見分けて賭けた人間はたぶんいないだろうけれど、あの早い動きを目で追うことに成功した人もいるらしく、半分近い人が私と同じ場所にコインを賭けている。
そこに賭けるのが順当だと思うし、正直ほんの少しだけどグラントの選択に不満を感じない事もなかった。
でも、皆に中が見えるよう、カップが次々と持ち上げられ、紙片がグラントの賭けたカップの下から出てくるのを目の当たりにして、私はただ、驚いてしまう。
……どうして?
確かに左から2番目が当たりの筈なのに。
胴元の男がいくばくかの寺銭を差し引き、何人かの人間に分配金を手渡した。
グラントは手の中に枚数を増やした銀貨を鳴らしながら、少し得意そうに片唇を上げてニヤリと笑った。
それは、ホルツホルテ海を越えてブルジリア王国唯一の港、シェトワへと向かう船の中での事だった。
船の名前は『amberline』
この船に乗って初めて、私は一般の客室と言うのがどういう物なのか知った。
一般の二等船室には4人部屋と2人部屋とがあるようだが、私達がamber lineで使用したのは2人部屋。『部屋』と言うよりはクロゼットか物入れのようなその狭さ……。
中は二段ベッドでほぼ一杯で、ベッドと言うよりも物置きの中が2段に仕切られているだけのように見える。
何しろ今までそんなモノは見た事が無かったのだから驚くのは当然だし、確かに衝撃を受けはしたけれど、意外と耐えられない程でもない事を知った。
狭いのが嫌なら甲板に出れば良いし、そうじゃなきゃ一般客用の談話室にでもいればいいのだ。
ベッドは固くて寝具も粗末だけれど、疲れていれば人間はどこでも眠れるようだ。
談話室にはいつも狭い部屋から逃げてきた人達が大勢いて、夜はお酒を飲みながら歌を歌ったり踊ったりしているし、今日のように胡散臭い賭けごとやカードを楽しんでいたりと、とても賑やかだ。
少しガラの悪さを感じないでもないけれど、エドーニアで私が出入りしていた宿兼酒場の『翡翠亭』も、夜が更けてくると酔客で似たような雰囲気になっていたことを思い出す。
最初は海を渡るまでは一等船室で……と言ってくれたグラントも、私が存外平気そうにしているに安心してくれたようだ。
……彼の事だから、もしも私が辛そうならばと一等船室も内緒で抑えているような気はするけれど。
「どうなっているの、グラント? 私……確かにあのカップに紙片を入れるのを見たのよ。それとも見間違えたのかしら……!?」
納得行かず疑問を口にした私を、グラントが部屋の隅へと連れて行く。
談話室の隅、破れた背もたれから詰めものがはみ出す長椅子に、2人は並んで腰かけた。
「……いや、キミの目や記憶が鈍ったわけじゃない。ただ紙片はカップをテーブルの上に滑らせる間に一度、あの男の手に戻っているんだ。……テーブルの端から少しだけカップをはみ出させる事が出来れば中の物は下に落ちるだろう? 素早くやれば気づかれることはない。同じように再び紙片を別のカップに移動させることも、手際さえ良ければ比較的容易なんだ」
「まあ……じゃあ……これ、インチキなのね?」
声を潜めて言う私にグラントが少し笑った。
「入れるふりだけをして、最初から何も入れない場合もある。カップを開ける時に素早く紙片を戻す手口を使われると、さすがに俺にも当たりは読めないが、今回はなんとか動きが見れたからね。確かにインチキではあるけど、ああいう商売もあるんだよ。……胴元は寺銭の他に、仲間を使って『当たり』に賭けさせれば、更に旨味が増すというわけだ」
グラントの説明を受けて、私は妙に感心してしまう。
世の中には色々な人がいて、色々な商売がある。
エドーニアの街をうろついて大衆的な酒場で食事したり、一人で買い物をしたりと、おおよそ上流貴族のお 嬢さんらしからぬ事をしていた私だから、ある程度は一般の人達の生活や感覚も理解出来ている積りだったけれど、どうやら世界と言うのは思っていたよりも広くて深い場所らしい。
「面白いわね」
私は心から感心してそう、呟いた。
グラントが苦笑いを浮かべ、無精ヒゲに覆われた頬をこすった。
「知っていて自慢になるような話でもないな」
「うふふ。確かにこんな話、上品なお茶の席で話したところで誰にも感心してはもらえないわ」
私はグラントと顔を見合わせて笑う。
今度の旅では
『もしもキミが一番辛いと感じるとしたら、それは船の中だろう』
と、初めからグラントに告げられていた。
ベッドは寝がえりも打てない程に狭いし固い。寝具は粗末。談話室は天井が低く、いつでも薄暗い場所だったけど、私はこの船旅をそれなりに楽しむことが出来て心底ほっとしている。
無知と不慣れさでこの先苦労することがあるかもしれないけれど、どうやら私はお嬢さん育ちの割にさほど軟弱ではなかったようだ。
本当のところ全く辛く無いと言えば嘘になる。
でも、グラントと一緒に旅が出来るなら多少の事は耐えられると思う。
そんなこと……絶対口にだして言うつもりはないけれど……。
セ・セペンテスから出航した船はこの季節の追い風を受けて、出発から4日でシェトワの港へと入港した。
ブルジリア王国は南北に細長い地形をしており、海に面した土地はごくわずか有していない。
港は水深があまり無い為、大型の船はある程度沖合に停泊して、小型、中型船によって人や荷物を陸揚げする。
荷を下ろすのに暫く時間がかかるようで、グラントはその間に明日からの移動に使う馬や荷馬車の手配をした。
どうやら彼は以前にも何度かこのシェトワの港に来た事があるらしい。
アグナダ公国内の商業組合から貰った紹介状を携えてはいるけれど、そんなものは幾らでも偽造できる。
だから、私は彼がどうやって馬や荷馬車を借り受けるのか、気になっていたのだ。
いくらグラントが本当は懐具合の心配の要らない人間であるとは言え、わざわざ馬と荷馬車を購入するのがいかにバカバカしい事かくらい、私にだってわかる。
だけど身分証と紹介状だけで、見も知らぬ人間に簡単に馬や馬車を貸してくれる物なのかと疑問だった。
身元のあやしい人間が馬と荷馬車を借り受けるには、相当に高額な保証金でも積まねばならないだろうと思っていたのだが、グラントには港口にある馬車と馬の貸出場に知り合いがいるのだそうだ。
「この国も貴方の守備範囲だったのね」
借り受けてきた馬車に乗り込み、今日の宿を目指す道すがら感心しきりの私に、グラントは遠くを見るような目で考えながら小さく呟いた。
「……初めてここに来たのはもう、10年以上前の事だ。ここで俺は初めて商隊の護衛として雇われて『働く』と言う事を知ったし、商売について色々と教えてもらいもした……」
グラントと過ごした一年の間に、何度か彼の旅した国の話を聞いた事はあったけど、それはただ、他国の風土や景観や……風俗だとか習俗についてばかりで、直接彼自身に関わる話しはほとんど出てこなかったように思う。
私は彼が好きだから、現在のグラントと言う人間を形作った『過去』と言う時間に興味を抱かない訳が無い。
だけれどそれは無理やり聞き出すような話しではないし、この先の人生を共に生きて行くのなら、いつかは彼の口から聞く事も出来るだろうと思っていたのだ。
「貴方も私のようにあの狭い寝台に横たわったの? ねぇ最初から固いベッドで眠る事はできて?」
彼の顔を覗き込むようにしての問いかけに、グラントは俄かに眉間に皺を寄せてチラリとこちらに目線をよこす。
思い出すのも嫌なくらい辛かったのかしら?
そうだとしても無理はないわ。彼だって貴族の家に生まれて世間知らずに育っていた筈だもの。
そんな事を思っていた私にグラントが間の悪そうな表情で
「……ここに来る船では特等船室だったから……」
……と言う。
私は口をパクパクと開閉させた。何か言いたくとも、言葉がなかなか出て来てくれなかったのだ。
「……それでよく、私に二等船室はキツイとか言う気になったものね……」
「帰路は二等に乗ったんだよ。その方が乗船客から色々な話も聞けたから」
「どうかしら? たった今思い出したけど、フィフリシスに向かう『レディ・ダイアモンド』だって貴方もジェイドも一等船室を予約していたんだったわ。本当は普段、二等船室なんて使わないんじゃないの? 私、貴方と一緒にいたいから、自分の緩んだ気持ちを鍛えなきゃいけないと思って頑張っていたのよ? なのに酷いじゃない」
寝台が狭くて固いだけじゃない。
二等船室ではお風呂に入る事さえ出来ないのだ。
髪の毛を洗うのだって上陸するまで我慢しようと、ずっと気持ち悪さに耐えていたのに。
「あれはジェイドに手配を任せたからああなっただけだ。嘘じゃない本当だ」
怒りを堪える為に象牙の柄の杖を固く握りしめる私に、グラントが言う。
彼が『嘘じゃない』と言うならば、きっと嘘ではないんだろう。
……でも、なんだか気にいらない……。
「……分かったわ、でもそんな風にニヤニヤしているのはどういうつもりなの?」
本当は『ニヤニヤ』なんてしていなかったけれど、隠そうとして真面目な表情をしても、口元に笑みの気配が漂っている事を見逃す事は出来なかった。
「……いや……その……」
「なによ!?」
「今、キミから熱烈な愛の告白を聞いたような気がしたんでね」
数秒間、何の事かを理解するのに時間を要したのち、私は慌てて彼から目を逸らしそっぽを向いた。
頬が俄かに熱を帯びて熱くなる。
一緒にいたいから頑張っていたなんてこと、本当は言うつもりはなかったのに……!
「美味い酒と料理を出す店に連れて行くから、怒らないでくれよフローお嬢さん」
とりなすような口調でそんな事を言うグラント。
食べ物とお酒で釣ろうなんてそんな単純な事を……。
だけど確かに船での食事は御馳走だったとは言えないシロモノだった……。
「……先にお風呂に入りたいわ……。髪の毛も洗いたいし、着替えもしたいの」
「荷物を商館の倉庫に預けたらすぐに宿へ向かうよ。今日は風呂に入って美味い物を食べて、身体を起こしても頭をぶつけないベッドで休むんだ」
……そうだった。
グラントは脚が悪くて梯子段を登れない私の為に、下段よりも狭い二段ベッドの上段で休んでくれた。
そのせいで、何度も天井に頭を打っていたんだ。
申し訳なさを覚えた私が彼の方を窺うと、グラントは私の手を捕まえて、そっと握った。
「どうも忍耐力を試されたのはキミじゃなく俺の方だったような気がするよ。自分一人ならまだしも、キミとあれほど近くにいながら上下に隔てられているというのは、辛くてたまったもんじゃない……」
「あ……あんな安普請の薄い壁しかないところで、そんなことを言われても困るわ」
怒りと羞恥に赤くなり、握られた手を振りほどこうとするも、彼の手の中から逃げられず……。
「宿選びの基準に壁の厚さも考慮する事にするよ。とりあえず俺の覚えている限りじゃ今日の宿はしっかりした造りだったから、大丈夫」
腹立たしい程に魅力的に見える笑みを浮かべながら顔を近づけて、そんな言葉を私の耳元に吹き込むグラント。
なにが『大丈夫』なのかと思いはしたけれど、往来を走る馬車の上でこんなはしたない内容の言い合いを続けるわけにも行かない。
私は耳まで真っ赤に染めながら俯く事しか出来なかった。
振り返ると本当に私とグラントはこんな馬鹿らしいじゃれあいをするくらいに仲良く、そして幸せにこの国に足を踏み入れたのだ。
幸せに……そう。
少なくともこの『ルルディアス・レイ』の街に来るまでは……確かに幸せだったのに……。