バルドリー家の人々3 『珊瑚と真珠とフローお嬢さん』
彼女の金緑色の瞳には、怒りと悲しみと恐怖とが冴え冴えとした光を点していた。
以前から部下達の素姓を暴かれ、その似姿の情報が漏れる場所であったエドーニア領で、彼女がその原因となっていた事に気付くのにあまりにも時間がかかり過ぎていたかもしれない。
人間を外観や育ちの印象だけで見る事は危険だと、それまでの人生で重々承知していた筈なのだが、どうして自分はフローお嬢さんをリアトーマ国の諜報員だと思わなかったのか。
女だから、子供だから。
甘い見方をしていると、怪我をする。
むかし傷を負った自分を助けた女は、俺の身柄を自国の機関へ引き渡すため親切ごかしに世話を焼き、食事を作りその中へ毒を盛った。
傷口から黴菌が入り発熱したのだろうと看病までしてくれたが、それも時間稼ぎと油断を誘う為。
自分だけでなく仲間までも危険にさらす事になる事態だったあの時は、殺す事はしなかったが容赦なく女の手足の腱切ったと言うのに、何故かフローの目を潰し、手を使えなくする事が出来なかった。
それまで一度も恋をした事が無かったわけではない。
恋や愛じゃ無かったかもしれないが、情を覚えた女性もいた。
割りきった関係を何年か続けた相手もある。
どうして、フローお嬢さんだったのかと問われたならば、彼女が彼女だったからとしか答えようがない。
青い月明かりの照らす馬車の上で、彼女に暗号の書かれた紙片を拾わせる為御者台から振り向きざまに口づけを盗んだ。
それまで一度も嗅いだ事の無い甘い香りが、フローお嬢さんから香った気する。
持ち慣れないナイフを手に、怒りのままに突きかかってきた彼女からも甘い香りを感じた気がした。
香りは『鼻』ではなく、脳内で感じたものかもしれない。
あの時の自分は、彼女にはそうは見えなかっただろうが相当に動揺を覚えていた。
特に、彼女に
「目を潰しその指をへし折る」
そう言った時のあの絶望と恐怖に満ちた表情を見た瞬間、自分には絶対にそんな事は出来るわけが無いと思い知り……その事に愕然とした。
あの時に全ては決していたなどと言えば『運命』と言う言葉を嫌うお嬢さんに笑われるかも知れないが、他にどう表現するべきかが自分にはわからない。
ただ、どうあっても彼女と言う存在を手に入れようと心に決めたあの夜の後は、まるで何者かに操られているかのように事態は動き、フローと俺との距離を縮めた。
時折見る悪夢の中で、フローは毒の刃に倒れ絶命する。
白い肩に黒い毒色の血を流し、この手の中で光の無い瞳を薄く開けて力なく仰のいた。
ルルディアス・レイの広場で飛び交う白い鳩の群れにまかれたフローは、必死に駆けつけようともがく俺の前で杖だけを残し、永遠に消え失せる。
後に残るのは人一人いない広場の石畳と女神像を戴く噴水だけだ。
声にならない絶叫を放ち目覚めると、心臓は激しく鼓動し、これ以上無い程に全身の筋肉が強張っていた。
夜の闇の中、震える腕を伸ばす。
そこには温かく柔らかなフローの身体が、優しい鼓動を宿して横たわっている。
滑らかな頬に触れ、唇に呼気を確かめてようやく俺は大きく息をついた。
時にフローお嬢さんは俺が触れると、眠りから醒めかけ身じろぎする事もある。
彼女の眠りを妨げる事は本意ではないが、フローが生きて俺の傍にいる事を確かめなければこの恐怖を追い払う事が出来ない。
悪夢の度に俺は、自分の不甲斐なさと未熟さを噛みしめると同時に、焼けつく程に激しく彼女の身を貪りたい欲求を覚える。
いくら前夜、彼女を抱いていたとしてもだ。
だけど、これだけは自分に許すわけには行かないと、強く自制した。
自分の油断が招いた事態に対する代償であるこの恐怖の記憶を紛らわす為、フローの身体に安心を求めるなど許される事じゃない。
俺よりも彼女の方が遥かに恐ろしい思いをしている。
甘えた慰めを求める自分は厳しく律っされねばならない。
そうでもしなければ、恐怖の記憶に突き動かされ理性を失い彼女の事を抱き壊してしまいそうだ。
エドーニアで初めてフローの肌に触れた時、俺はそのあまりの無垢さに驚きを禁じえなかった。
元々が本当の意味での『深窓のご令嬢』であっただけでなく、酒場などに出入りはしていても彼女にはしっかりとした守り手がついており、同じ年頃の友人もなく過ごしてきた女性だ。
社交界で揉まれマセ返った貴婦人やご令嬢達とは全く違うのも当然だったかもしれない。
そう思っていた俺は、彼女に自分がこれから何をしようとしているかを『本当に』知っているのかと、尋ねずにはいられなかった。
「失礼ね……少しくらいの知識ならあるわ。雄しべや雌しべを描いた本を家庭教師が私に見せながら説明してくれたことよ。それに、目に付く場所で猫が盛りを迎えた事だってあるもの」
と、少し震えながら答える彼女にどれほど心が騒いだだろう。
誰の足跡もない新雪を思う様に踏み荒らすようにフローを蹂躙せずにこらえる事に、苦しい自制と同時に胸の踊る喜びとを一遍に味わう気持ちを覚えた。
彼女にとって俺との初めての夜の記憶が苦しくて辛いだけの物にならぬよう、俺は細心の注意を払った。
……つもりでいたのだが。
翌日、浮かれる俺に彼女は真っ赤に頬を染めながら、無精ヒゲが全身を刺すのが辛かったと苦情を言ってきた。
羞恥と緊張と戸惑いとで頑なになった彼女の身体をほぐそうと、確かに少しばかり執拗になっていたかもしれず、それは……少し申し訳ないと反省をした。
これまでの人生でそれなりに遊び、悪所にも出入りして何人もの女性と肌を重ねてきていた自分だったが、フローの甘い肌に触れた瞬間に、それらの記憶の全てが消えてしまった事には驚いた。
『消えた』という表現がおかしいなら『塗り潰された』と言う方が近いのかもしれない。
今までこの手で触れてきたはずの全ての肌の記憶は、フローお嬢さんの柔らかい肌と身体の記憶の下に埋もれ、思い出す事が出来ない。
思い出す必要も感じない。
欲しいのは彼女の事だけだ。
自分の事を多淫な性質だと思った事など一度もないが、フローのことならいつでも欲しいと思う。
もしもその欲望のままにふるまったなら、俺は自分を一生許せない結果になりそうな危機感すら感じる。
フローの膝や太腿には酷い傷跡が残っていた。
彼女の父親、エドーニア領前領主リスタス卿との遠乗り中の事故で負った傷。
事故から既に二十年近い年月が経過しているが、引き攣れ盛りあがった傷跡はフローお嬢さんの左脚を蔦のように膝から腰へとかけて這っている。
それを初めて見た時には、胸が痛んだ。
だが考えてみれば、あの怪我があったからこそフローお嬢さんは一人でエドーニアの外れに居を構え、兄である現領主エクロウザ卿の役に立とうと間諜のような仕事を始めたのだ。
もしも彼女が怪我をせず、健康な身体を持っていれば俺は彼女と出会う事のない人生を歩んだ事になる。
それを思えば俺の目には彼女の傷すらも愛おしく思える。
だが…気をつけなければならない。
忘れてもいけない。
あの怪我のせいで、フローの膝や腿は動かせる角度と保持できる時間に制限がある。
長距離の移動は馬車を使い、柔らかな敷物やクッションを使わねばならない。
それでも予定より長い時間座っていなければならなくなると、筋が攣って痛むようだ。
痛みは天候の崩れる前や寒い日にも出るようだが、フローは決してそれを口にしない。
心配をかけまいと言う気持ちもあるようだが、彼女は過ぎるほどに我慢強いからだ。
だからこそ俺は自分の欲望のままに彼女を扱うことなく、自制を保たねばならないといつでも感じていた。
ブルジリア王国のルルディアス・レイで、彼女の異変を見落としてしまった時の事をとても後悔している。
あれはお嬢さんが俺を想うあまり自分をあそこまで追い詰めたのだと思うと、つい頬が緩みそうになるが……そう言うだらし無い気持を持っていたからこそ招いてしまった事態だろう。
もう二度と、あんなに窶れ果てた彼女の姿を見たくはない。
それに……自分が邪魔になったら俺の前から姿を消すと言った彼女に対し、紳士的とは言い難い振る舞いに出た事ももう少し考えるべきだっただろう。
あんなに弱っていた彼女を好きなようにしたのだから、何日か寝室から追い出されても仕方がなかった。
それにしても……フローを前にして自制を保つ事はなんと難しい事か。
頑固で聡明で、行動力のある彼女は…時に恐ろしく素直で、可愛い。
彼女は、俺と結ばれてから随分と時が経過してもなお、どこか無垢で純粋なままでいる。
フローお嬢さんを捕まえて悪戯を仕掛ける俺に、顔を赤く染めながら、世の中の男女と言うのは本当にこんなに頻繁にこう言う事をするのかと唇を尖らせるフロー。
以前から何度か、彼女の口からこの言葉を聞く事があった。
そんな言葉を発するお嬢さんの世擦れしない様子を愛らしいと思いはしても、さほど疑問を感じた事もなかった。
ただ……ふと、自分が欲望のままに彼女に無理強いをしていないかと心配になることもあったが、どうやらそう言う事でもないらしい。
フローの柔らかい肌は、滑らせ啄む指や唇に反応し俺を迎え入れる為に甘い蜜を湛える。
嫌がっているのではなく、どうやら『不思議』がっているようだと気づいたのは後になってからだ。
ある時、レレイスから彼女宛ての手紙とたくさんの書籍が届けられた。
フローとレレイスとは実際に会った回数はそう多くないが、どうやら気が合うようで頻繁に手紙のやりとりをしている。
時々レレイスは手紙に上品とは言い難い言葉を織り交ぜているらしく、フローは不安そうな様子で俺にその言葉の意味を問う事があった。
……アグナダ公国にいた頃のレレイスは明るく頭の回る女に見えていたのだが、どうにもフローへと悪い影響を与えるのではないかとこのごろは心配になっていた。
俺はフローに届けられた手紙を覗き見するつもりはなく、その時は部屋の向こうで手紙と書籍の山に向かうお嬢さんの 事はあまり気に掛けず、ボルキナ国から届いたジェイドの報告書に目を通していたのだが……。
パサ……。
と、本の落ちる音が耳に入り、なんとなく顔を上げた。
心無し固い表情をしたフローとその足元に落ちた一冊の本。
フローは脚元の本を拾う事など念頭に無い様子で、ソファの上に積み上げられた何冊かの書籍から別の一冊を取り上げてパラパラとめくり、更に表情を固くしてその本を床の上に落とした。
読書家のフローはふだん本を粗雑に扱う事はない。
彼女は自分の横に置いたレレイスからの……一度読み終わったらしい手紙を再び手にとって目を走らせ、眉間に皺をよせながらまた本の山から何冊かをパラパラとめくると、払いのけるように本の山を向こう側に押しやった。
その顔面は血の気を失い蒼白だ。
「フロー? どうしたんだ?」
声をかけると彼女はハッとしたようにこちらを見、今まで青ざめていた顔を急に赤く染めてその瞳からポロポロと涙をこぼし始める。
慌てるなと言われても、この状態を見ては絶対に無理だ。
幸いジェイドからの報告には緊急を要する要素は見出されていない。
ソファの上のフローの前に両膝をつき、顔を覗きこむ。
お嬢さんは涙と嗚咽の合間、珊瑚色の唇を震わせながら苦しそうに言葉を紡いだ。
「グラント……私、馬鹿なの?」
……と。
初めはレレイスから何か悪い知らせでも来たのではないかと思ったが、そうじゃないらしい。
それにしてもフローはどうしたと言うんだ。
しゃくり上げるお嬢さんを腕の中に抱き込んで気持ちが落ち着くまで待つ間、彼女がつき崩した本の山へと目を走らせる。
本は立派な布張りに金の箔押しの装丁の物もあれば、安っぽい黄ばんだ紙の簡易装丁の物もあり、大きさや本としての価格や価値は様々だったが、それらには一つ共通するモノがあった。
……タイトルのいかがわしさだ。
敷物の上に開いたまま落ちた本の内容をざっと読んで、頭痛がした。
難しい文体で高尚さを装っているが、強烈な性描写がある。
レレイスは一体何を考えてこんなものを大量にフローの元へ送りつけてきたのかと、腹が立つ。
彼女と俺は長い付き合いの友人だが、場合によってはフローお嬢さんにレレイスとの付き合いを考え直してもらうべきかもしれない。
腕の中に納まり、暫くの間肩を震わせていたフローはやがて落ち着きを取り戻し、途切れ途切れに事情を話し出す。
「私、ずっと不思議に思っていたの。……その……貴方が……どうしてしょっちゅう私の事を、あの……ベッドに連れて行こうとするのかしら……って」
彼女は言う。
動物に例えるのあくまで例えなので失礼な事を言っていたら申し訳ないとの前置きをして。
「……野良猫なら冬か春か夏に発情するとモノの本で読んだわ。犬は年に二度子犬を産むのも本で読んで知識として知っているし、屋敷の厩で見ていたから馬は年に一頭の子馬を産む事も分かっていたの。生き物と言うのは妊娠期間に応じて周期的に発情するものじゃなくて? その考えでゆくならば……人間は身ごもってから子供が生まれるまで約十カ月だけれど、犬猫のようにはっきりした発情期と言う物は無いわよね? だから月のモノのある周期を基準に考えるのが妥当じゃないかと思ったの。人間の女性の場合、これは…自分には当てはまらないけれど……年間11~13回程度の月のモノがあるわ。だから、房事はこれを基準に割り出した数が人間と言う生物がもっとも無理なく行える自然な回数ではないかと……考えていたの……例えば、この数に2とか3を掛けた数」
目元を羞恥にほんのりと染めてはいるが、お嬢さんはこの話を真面目な……至極真面目な表情で語った。
「だけど他の国には一夫多妻の制度もあると気づいてから、混乱しはじめたの。それに一夫一婦制の国でも男性は浮気をするモノですもの。それを考えたら男性が……その、満足をする平均的回数について、本当に分からなくなってきて……それだけじゃないわ。……レレイスから貰った今までのお手紙には……詳しい名前は言えないけれど、貴族の女性達が浮気をしているお話もたくさんあったのよ? じゃあ女の人達も私の割り出した妥当と思える回数では足りていない事になるのかしら……」
少し悲しそうに、フローは言う。
ずっと考え、結局答えが出なかった彼女は恥を忍んでこの謎をレレイスに相談した。
その結果が、大量の性描写込みの恋愛小説。
それに
『グラントに全部話しをしなさい』
との叱責と忠告の手紙だったそうだ。
フローは真面目だ。
本当に真面目にずっとこの疑問と戦ってきたのだと思われる。
だから……絶対にここで笑うわけには行かない事は彼女の表情や雰囲気から見て間違いはない。
俺は彼女に気付かれないよう、腹筋に力を入れて深く息を吸い、吐き出した。
あまりにも予想外の事態に思考が停止してしまいそうだが、なにか彼女がはまり込んでいる『迷宮』は相当に根深い影響をフローお嬢さんの上に落としている予感がある。
俺はレレイスの送りつけてきた書籍に一瞬目を向けてから、言葉を選んでフローに問いかけた。
「……フローお嬢さん?キミは今まで……俺と出会う前、誰かに恋愛感情を抱いた事はあるかい?」
驚いた表情でフローは間髪いれずに首を振る。
「……私、そんな事は無かったわ。私の周りにはそう言う対象になるような殿方なんていなくてよ?」
「じゃあそうだな……恋愛小説の類は好きだった?」
この質問にもフローは直ぐに首を振る。
「そんなもの一度も読んだ事がないわ。だって、恋愛なんて私の人生とは全く関係ない物だったんですもの」
少し驚きながらも、この答えにチラリと何かの『答え』に近い物が見えた気がしたが、まだ確信は出来ない。
「一度も、一冊も?」
「そうよ。そう言う物に心を慰めてもらうなんて悲しい事は出来ないわ……。夢を見るだけ無駄じゃない……。でも、何故?」
不安そうにこちらを見上げるフローに、複雑に混ざり合い胸の中を突き破りそうに湧きあがる感情を制する事が出来ず、彼女の頭部と額にキスをした。
フローは可哀想な『子供』だ。
その事に気づくのに今までかかるなんて、自分の迂闊さに腹が立つ。
俺はもっと彼女がどんな環境で育ったのかを考えても良かったのに。
「キミは……俺と結婚する前に自分の身体に触れた事はあるか? ……性的な興味を持って?」
「な……に言っているのグラント。そんな事、一度もなくってよ。そんなはしたない事、考えた事もないわ……!」
フローの頬が赤く染まり、金緑色の瞳が大きく見開かれるのを見ながら『疑惑』が確信に変わってゆくのを俺は感じていた。
彼女は……女性にしてはとても理性の勝った性質をしている。
感情よりも状況を理性的に判断し、その時に合った行動をとる傾向が強い。
状況を判断する為の要素は『知識』であり『経験』だ。
だけど……そうだ、フローお嬢さんには『雌しべと雄しべ』と『犬猫馬の交尾』の知識しかなかった。
恋愛に絡む情緒的モノを知らず、自分の身体の事も理解していなかったのならば彼女はずっと手探りで俺との関係を理解しようとしていたんだろう。
あまりにも可哀想で、愛おしくて可愛いフローお嬢さん……。
「ねえグラント、私は大馬鹿なの?」
また不安気な表情に戻ったお嬢さんが俺に問う。
「いや、馬鹿じゃない。知らなかった事が幾つかあるだけだ。……それと、ちょっとした勘違い。だが、半分は俺が悪かった」
『雄しべと雌しべ』にしろ『交尾』にしろ、その末に待つモノは『新しい命』に繋がる。
情緒的情動的なモノを勘案せずそれだけが彼女の中での結論だったならば、ルルディアス・レイでフローが自分を責めてゲルダに助けを求めたのも当然だ。
フローが自分を容赦なく『欠陥品』とみなしているのだという事を前提にすれば、ゲルダが子供を成した時、自分は俺の前から消えていなくなってもいいと言ったその気持ちを、今になって本当の意味で理解できる。
シュバノ村への出発の前夜、キミから俺を求めたのは不安からだったんだね。
それすら見抜けずにいた自分はもしかしたら、フローお嬢さんの心を壊すことになったかもしれないと言う事実に今更の事ではあるが心が竦み上がる思いがした。
「どうして? グラントは何も悪くなくってよ」
「いや、キミを手に入れた事で浮かれて、強欲にお嬢さんを貪る事しか考えていなかった馬鹿者だから、俺が悪いんだ」
表情を曇らせているフローを安心させるよう笑みを浮かべ、俺は彼女の手をとって口づけをした。
フローは何かを考えている様子を見せ、生真面目な顔で俺に言う。
「……私が何か大切な事を理解していないのなら、それがなんなのか教えて? それに……レレイスは何故こんな酷い本を私に見せようとするの?」
気持ちの悪い虫でも見るような目で床やソファの上の本を見る彼女の表情に、今度はつい本当に笑いが零れた。
「レレイスは極端すぎるんだ。これじゃあフローお嬢さんには刺激が強すぎる。……そうだな……キミは、頭と心と体がバラバラなんだと思う」
彼女の眉間のしわが深くなる。
俺は彼女が嫌がる本の山を容赦なく床の上に払い落し、フローの隣に腰を下ろして手をつなぐ。
「男と女が愛し合って肌を重ねる事を『愛を交わす』と言う言い方でも表現する事を、キミも知っているだろう?
」
少し頬を染め、考えながら頷くフロー。
「その意味を考えた事があるかい? ……いや、感じた事はあるかい? お嬢さんに抜けているのはその部分なんだよ。俺がキミを抱きたいと思うのは快楽を得たいだけでも、生物として生殖行動を取ろうとする雄の本能からだけではない事をキミは本当には分かっていないんだ。勿論、その部分に負うところも大きいけれど、それだけじゃない……キミじゃなければ欲しくないのは何故か」
「わかるかい?」
と訊く俺に、フローは
「……グラントは、私の事を愛してくれているから……?」
それくらい分かっていると言う気持ちが現れた心外そうな様子で言う。
「そうだ。……でもキミはその事を実感として理解できていないんじゃないか?」
「だけど私だって……貴方以外の人に触れられるなんて想像しただけで嫌だわ。そう言う事じゃないの……?」
「……近いけど、少し違う」
否定しながら、自分の今までの行動を振り返り溜息の出る想いがした。
「……すまないフロー。どう考えても俺が悪い……」
こんな事態の予測は不可能だった。
……とは言え、つい自分自身の欲望ばかりに溺れて彼女の方から『俺が欲しい』と思う余裕すら与えなかったのは、幾らなんでも愚か過ぎる。
「……猿か……俺は……」
激しく後悔して落ち込む俺を、フローは驚いた表情で見ていた。
フローお嬢さんの中に『迷宮』が出来あがった要因は、一つではなくたくさんの要素が絡まり合った複合的なモノと思われる。
例えば子供の頃から周囲に同年代の同性の、立場の対等な友人がいなかった事や、彼女自身が恋愛や性愛と自分は無縁であるとして切り離し、これらについての知識や経験を全く持たなかった事。
勿論これらの根底には彼女が子供の頃に負った怪我や、それが原因と思われる月経数の極端な少なさがある事は間違いない。
そして……彼女の映像に関する記憶力の特異性について調べた時に知った事だが、彼女のような異能を持つ人間の多くは、対人関係を構築する能力に障害をもったり、知的能力の低さが見られるらしい。
……彼女にはそういった部分は全く見受けられなかったのだが……。
突出した能力を持つ者はその能力の分だけ何処かに歪みを抱えるのかもしれない。
「フロー、キミは自分の心と体に向き合ってみるといい。俺からキミに手を出すのを止めるから、俺が……可哀想だとか苦しそうだとかそういう理由から妥協することなく、キミ自身が俺の事を欲しいと思えたら、きっとその気持ちがキミの知りたい事を教えてくれる……」
彼女の目を真っすぐに見て、俺は言った。
フローは一瞬だけ納得しかねるような表情を浮かべたが、こちらが真剣に言っているのだと悟ると黙ったまま一つ頷いた。
『受け入れる』事と、『望む』事とは違うけれどフローは俺を愛してくれているし、俺に抱かれる事を嫌がってはいない。
彼女の心と体が俺の事を望んでくれたならば、きっとフローにも分かるだろう。
『愛しているから欲しくなる』
と言う、簡単な答えを。
続く暫くの間は元々が自業自得だとは言え、考えられないくらいに辛い日々だった。
フローと共に食事をとり、普段と同じく話し、笑い、手を取りキスをする。
流石に同じ寝台で休んで自制しきる自信はなかったから寝室は別にしたが……。
フローお嬢さんからは相変わらず、甘い匂いがする。
前よりも強くそれを感じた。
お嬢さんに俺が辛そうな顔をしているところを見られ、下手に同情や妥協をさせるわけにもゆかない。
……しかし、時々酷い不安や絶望感に襲われる。
もしもこのまま、彼女に求められる事がなかったら……。
「グラント? 貴方、何処か具合でも悪いのですか?」
とは、十日が過ぎた頃に母上に掛けられた言葉だ。
一人の寝台で眠れずにすごし、気持ちを紛らわせようと以前よりも早い時間から剣術の鍛錬を始めた俺の人相はあまりにも悪く、自分ながら鏡の中の悪相には愕然とするしかない。
変な圧力をお嬢さんに掛けないよう、髭の手入れにも気を使う。
綺麗に剃るのも妙な期待を持っているように思われるだろうし、茫々に伸ばしているのも厭味になりそうだ。
自分の髭にここまで気を使った事は無く、そんな事をしょっちゅう考えている自分に苦笑するしかない。
女性を知らなかった少年時代の自分でも、こんなにガツガツと飢えた思考は持っていなかった筈なのに、今は完全にフローお嬢さんに対して飢餓状態だ。
レレイスが送りつけてきた書籍類は、全てフローの目の届かない場所に片づけた。
……あんなものを読ませたら、お嬢さんはまたおかしな『迷宮』を作り上げ、その中で迷いかねない。
彼女なりに考えて気を使い『理屈じゃない』事を伝えようとした事は分かるが、極端過ぎる。
このままではそのうち無意識にフローを襲ってしまうのではと不安になりだした頃、仕事で数日間屋敷を離れる事が出来た。
結婚以来、彼女となるべく離れたくなかった自分がお嬢さんと離れる事にホッとする日が来るとは……。
屋敷に帰宅したその日に、俺は初めてフローお嬢さんに『誘惑』を受けた。
フローお嬢さんには最初、その自覚はなかったようだ。
仕事も一段落し、天気も良かったから遠乗りにでも……と誘いに行くと、フローはあまり元気が無い様子で俺の傍にぴったりと身体を寄せてきた。
彼女から甘い香りを今までにないほど強く感じた。
唇をぎゅっと結び、俺の胸に額を押し当てて黙りこんでいるお嬢さんに一体どうかしたのかと問いかけるが、黙ったまま首を振る。
フローはしばらく黙ってから
「……グラント、キスして」
と一言いって、また不機嫌そうな表情で唇を曲げた。
目元が少し赤い……熱でもあるんだろうか。
そっと額に唇を当てる。
……熱があると言うほどでもないようだった。
頬や耳の後ろに触れてみたが少し体温が高い程度のようだ。
フローの表情がますます不機嫌そうなモノになる。
熱は無いが体調でもすぐれないんだろうかと思っていると、フローが黙ったまま急に俺のシャツの胸のボタンを幾つかはずし、露わになった胸に頬を押し当てて目を閉じた。
少しだけ満足そうに口元が緩んでいる。
「……フローお嬢さん……?」
もしかして……と内心思いつつ声をかけると、フローがぼんやりと潤んだ瞳を向けてきた。
金緑色の瞳をじっと見つめ返す。
何秒間かぼんやりとこちらを見返していた彼女だったが、急にハッとしたように俺の胸元から頬を放し目元だけではなく顔じゅうを真っ赤に染めた。
フローお嬢さんは、可愛い。
とても、稚拙で作為のない……それだけに、逃げようもない『誘惑』を仕掛ける。
ベッドの上、隣で半分微睡みながらお嬢さんが言った。
「ごめんなさい……私、本当に馬鹿だったわ。手をつなぐとかキスするだけじゃ足りないの。もっと……近くに貴方を感じたいのよ。どうしていいかわからない程に、貴方の全部が欲しいんだわ……。ねぇグラント、貴方もそう思ってくれていたのに…そんなことも分からなくて本当にごめんなさい……」
眠りの波に飲まれたフローお嬢さんは、腕の中で静かに寝息を立てている。
まだ明るい日差しの照らすベッドの上で、疲れて眠るフローの寝顔を見ていたら、突然、彼女がエドーニアで結婚の申し込みを承諾してくれた時の言葉を思い出した。
彼女が俺に自分よりも少しでもいいから長生きをしてくれと言ったあの時の事を。
彼女が目覚めたら、もう一度フローお嬢さんの前で誓ってもいい。
俺は絶対にフローより先には死なない。
聡明で気丈で頑固で可愛いけれど、可哀想な子供のような部分も多く持つこの人を残し、どうすれば一人でこの世を離れる事が出来るだろう。
そんな事は不可能だ。
お嬢さんの瞼にそっと唇で触れると、眠っているフローの珊瑚色の唇に笑みが浮かんだ。
今度は……フローを連れて、アリアラ海を渡るのもいいかもしれない。
南の海で彼女の唇の色の珊瑚を手に入れ、綺麗な色の石でお嬢さんを飾りたい。
珊瑚色の宝石で身を飾った彼女から、珊瑚色の唇でキスをしてもらうことにしよう。
きっと真珠もフローには似合う。
もしもいつか俺より先にフローが逝ってしまった時には、フローの身を飾った宝石に囲まれて最期の時を迎えよう。
だけどそれはずっと遠い未来だ。
今は温かなフローを抱き、俺もほんの少し、この優しい微睡みの中に……。




