第十二話 『混乱と困惑と不安』
私は揺れる馬車の中で倒れそうになった自分を支えて助けてくれた手を、とても不思議な気持ちで見ていた。
頭の中は未だに混乱していたけれど、ふつう、何かよからぬ目的のために浚った相手がよろけて倒れそうになったくらいで、犯人はこんな風に慌てて助けてくれるものだろうか?
営利目的での誘拐の場合、人質を無傷で還すつもりがあるのなら多少その身体を大切に扱うかもしれないけれど、私が馬車の中で転んでも大怪我をするとは思えない。
その事に気付いてから少しだけ冷静さが戻って来たようだ。
まだ心臓は激しく打ってはいるけれど、ほんの少し、自分と自分の周囲に気持ちを配る事が出来る様になってきた。
自分は今、どこにも怪我をしていないし馬車に連れてこられた時に杖を落としただけで、乱暴な事はされていない。
目の前の重厚な体躯の男性の胸元に光るのは、女神サリフォーの象徴である翼をモチーフにしたペンダント……。
これを肌身離さず身につける事は、一般の人間には不敬な事として許されていない。
本当にとても限られた人間だけに許される、ある意味特権である。
彼は……『聖職者』なのだ。
大きな身体は威圧的で恐ろしい印象を抱かせはした。
だが『拉致』と言う暴力的行為とはかけ離れた場所にいる人間だからこそ、さっきは倒れそうになった私に手を貸してくれたのだろう。
……そして、馬車の中の暗さに目が慣れてきた私は改めて、車内のもう一人の人物へと目を向けた。
見覚えのある口元。
そう……毎日会っている人間の顔だもの、見間違える筈がない……。
「……ディダ、これは……どういう事なの……?」
私の声はいまだに恐怖に震えてか細かったけど、扉の直ぐ横にいた細いフードのシルエットは、それを聞いてビクりと激しく身体を震わせたようだった。
元々細い体を更に縮こませるように竦ませ、おどおどとした様子でフードをめくり上げて出てきたのは、いつも見慣れた少年の顔……。
酷く血の気の引いたディダの唇は震え、いつもは明るい栗色の瞳が今は苦しそうに悲しそうに揺れている。
「申し訳、ありません」
そう声を発したのはディダではなく私の直ぐ横に立つ男性の方だった。
彼は私を支えながら座席に座るように促すと、向かいの席に腰をおろしてフードを背中側へ下ろした。
身体の厳つさに似合う四角いしっかりとした顔立ち。
短く刈られた髪は褐色で瞳の色も茶褐色。
一見してこの国の人間である事が分かるが、初めて会う人物だ。
「このように恐ろしい目に会わせてしまいまして、お詫びの言葉もありません……」
年齢は三十代半ばか後半くらいだろうか。
立派な体躯や醸し出す雰囲気からすると、聖職者と言うよりは武人と言った方が似つかわしい。
「到底お許しいただけないような失礼な振る舞いをしておきながら、厚かましいと申される事を承知の上で、どうか、わたしどもの話をお聞きいただきたいのです」
しゃがれ声。ゆっくりとした重々しい口調で彼、バルテスと名乗る人物は話しだした。
「鳩を、捕まえるのを手伝って欲しい……?」
私は最初、彼らが一体何を言っているのか理解する事が出来なかった。
場所はサリフォー教会本拠地内部。
ルルディアス・レイの街で最も歴史あるサリフォー教会の後ろに広がる広大な修道院地区の、その外れに別館のようにひっそりと建てられた孤児院舎の応接室での事だった。
孤児院舎の管理は主管枢機卿グラヴィヴィスが行っている。
教会内での地位が高いグラヴィヴィスが『管理者』として、名前だけを貸しているのだろうと私は考えていたのだが、さにあらず。
どうやら本当に彼の指揮下でこの孤児院舎は運営されているらしい。
私は応接室に通され、初めてこのブルジリア王国のフォンティウス王の弟でありグラントがずっと気にかけてきた『主管枢機卿グラヴィヴィス』と言う人物と対面を果たした。
グラントの話から考えると、私とそう変わらぬ年齢である筈のグラヴィヴィスは、年相応の若い顔立ちにどこか老成した光を明るい茶色の瞳に宿す青年の姿で、目の前にいる。
バルテスやグラントに比べれば一回り小柄かもしれないが、それでも十分に長身の男性だ。
彼の顔が何処かで見た誰かに似ている気がした私は、自分の中の記憶を探る。
そうだ……アグナダ公国の次期大公、フェスタンディ公に顔立ちが似ているのだ。
そう言えば……グラヴィヴィスとフェスタンディ公はいとこ同士にあたるのだから、似ていても当然だろう。
グラヴィヴィス枢機卿は私に、バルテスと同じく今回の無礼な行為について丁寧に謝罪してくれた。
バルテスの説明によれば今現在、主管枢機卿グラヴィヴィスと接触する人間は教皇及びにサリフォー教会旧勢力によって監視を受けており、彼に協力しようとする人間は恫喝され、最悪の場合『排除』される危険があるのだと言う。
ただ接触するだけで人知れず『排除』されるなんて、穏やかな話じゃない。
中央広場の噴水前から私を浚うように連れてきたのは、前もって何らかの接触を取る事が私にとって危険だったことと、その危険を避ける為の工作を行うには時間が無かった事とが主な理由らしい。
ここ数日耳にしていたディダの話では、どうやら何日か前から水面下で何かが起きている様子だったけれど、一体何が起きているんだろう……?
不思議に思っていた私に彼らが話し出したのは、思いもよらぬ形での旧勢力…教皇派の抵抗だった。
「シュスティーヴァ王の行った鳩と金貨の神事の事はご存じでしょうか?」
バルテスが言う。
教皇を中心とする旧勢力は、王室と連携して教会勢力削減の為の公示を出したグラヴィヴィスに対して、それが女神サリフォーの神意にかなう行動であった事を示せと迫ったそうだ。
その為に、シュスティーヴァ王と同じ神事を執り行い己の正義を証明するべきだ…と言うのが彼らの主張。
なんてバカバカしい事を言うのかと、私は心底呆れる思いがした。
だけど直ぐにそれが、実は非常に狡猾な手段である事に気付く。
……グラヴィヴィスには相手の要求を断る事は出来ないのだ……。
だって、彼はシュスティーヴァ建国王の子孫なのだもの、ここで彼がこの挑戦を断っては、王家の威信にかかわる事なんだわ……。
いくら王位継承権を返上したと言え、彼は王家の正統な血を引く王子。
彼がその神事を恐れて逃げた事を、教会側が対外的に発表したらどうなることか。
ここ数日教皇と旧勢力に属する人達は、これを取引材料としてグラヴィヴィスが握る何らかの情報の破棄を要求してきたのではないだろうか……?
だけどグラヴィヴィスはそれを拒否した。
「ここにいるディダ・シンクが申しますには、貴女には鳩の姿一羽一羽を識別する事ができるそうですね。昨日、わたしも貴女が羽に印をつけた鳩を見せてもらいました。本来ならこのような事をお願い出来る立場にない事は重々承知しております……ですが……」
バルテスは言い辛そうに、そこで言葉を止めた。
正直なところ、私は考えがまとまらずこの事態をどう判断していいのか、わからなかった。
部屋の隅に縮こまるようにして立っているディダに視線を向けると、彼は泣きそうな表情で私に頭を下げる……。
ディダはこの数日考えに沈んだグラヴィヴィス枢機卿の様子に何かを感じたらしく、バルテスやグラヴィヴィス枢機卿派の人々の話し合いを盗み聞いてしまったのだそうだ。
……そして……盗み聞きを叱られるのを承知の上で、私の存在を彼らに話した……そう言う事らしい。
ディダの行為は褒められた事ではないが、グラヴィヴィスを思う心情は理解出来ない訳ではない。
私だって……彼の事をある意味利用していたのだもの、責められる道理がないのだ。
バルテスさんとディダは、私に五羽の鳩を探し出す『神事』の手伝いをさせたい。
そう言う事だろう……。
「……バルテス、ディダ…。これはブルジリア王国の問題です。やはり他国からいらした方を巻き込む訳には行きません……」
静かな響きを持つグラヴィヴィスの声が、その場の…私にとっては圧力を感じるほど絡みついていたディダやバルテス期待や願いを含んだ空気を払うように、そう言った。
ディダがハッとしたようにグラヴィヴィスに顔を向ける。
「……だけど、グラヴィヴィス様……っ!」
縋るようにグラヴィヴィスを見つけるディダに、主管枢機卿は静かに、しかし有無を言わせぬ意志を込めて首を横に振ってみせる。
「このような事態に巻き込み本当に申し訳ありませんでした。斯様な無作法なご招待をしましたが、幸いにその為、向こうに貴女の姿や素姓、滞在先は知れていない筈です。なんとかここから人目につかず帰れるよう手配しますから、どうぞこの件については忘れてください」
グラヴィヴィスと言う人は見た目の線は細い人物だけれど、その姿に似合わぬ意志の強さを持っていると思う。
ただ静かに言った言葉には、逆らう事が出来ぬ重みがあるのだ。
だけど……。
……と、私は内心煩悶する。
このまま帰ってもいいのだろうか?
彼や王室の権威の失墜が今後の政局や教会のあり方に大きな影響を与える事は確実だろう。
それが分かっていながらこの場を去る事は、はたして許される事なのかしら?
こんな時、グラントがいればどんな判断を下しただろう……。
私は急に不安が膨らむのを感じた。
応接室のソファの上、私がドレスのスカート飾りを指の色が変わるくらいに握りしめていると、室外から俄かに人が動く気配が伝わってきた。
グラヴィヴィスが無言でバルテスを見る。
黙ったまま一つ頷きを返した彼はその体つきからは考えられぬほど機敏に出入り口まで移動して、応接室の扉を開けて廊下の様子を窺った。
「……グラヴィヴィス様……」
外の様子を確かめたバルテスが主管枢機卿に何事かを耳打ちしている。
どうやら誰か来客があったようだ。
「バルテス、この方を安全な場所までお送りして差しあげなさい」
グラヴィヴィスが自分よりも年かさで身体の大きなバルテスに、有無を言わさぬ厳しい表情で指示を出す。
バルテスは私の手を取り立ちあがるのを助けてくれた。
「本当に貴女には申し訳ないと思っております。これはわたしとディダが独断で動いた事で…グラヴィヴィス様にはやめる様にと申されていた事でした。どうか、お責めになるならこのバルテスをお責めください」
杖を落とし、歩くのにも人の手やつかまる物が無ければ動く事もままならない私に、中央広場で馬車に押し込んだ時の事をもう一度すまなそうに詫びるバルテス。
彼の手を借りて私は隣室へと続く扉へと歩く。
廊下側から来る人間と顔を合わさぬよう、私を別の出口から出してくれるつもりなのだろう。
本当にこのままここを立ち去っていいんだろうか?
不安な気持ちに支配され、胃の辺りがもやもやと苦しくなった。
神事の手伝いと言われても、自分には鳩の姿を見分ける以外に出来るとは思えない。
でも、グラントはこの王弟、グラヴィヴィスの事をずっと気にかけていたのに……。
扉が開かれ私は隣室へと促されたけど、でも……やっぱり何もせずこのまま立ち去る事は間違っているような気がしてその場に立ち止まり、私はグラヴィヴィスの顔を見る。
「あの、私、お役に立てる事があるのなら、お手伝いをさせていただきますわ……」
その言葉を聞いて、グラヴィヴィスは少し驚いた表情をして私を見た。
彼らにとって私はこの国の人間じゃないただの観光客だ。本当ならばサリフォー教会内にグラヴィヴィスを中心とする改革派と、教会権力を恣にする旧勢力派とが分かれて抗争を起こしている事すら知らなくて当然だ。
そしてこの神事に失敗する事によってこの国の政局に今後、何らかの波紋が残るだろうことも想像の範囲外であり、関係の無い事でもあるのだ。
私にはこの話を引き受ける事で生じる利益など、無い。
いいえ、本当は無いわけじゃないけれど、『無い筈』と思われているのだもの。
彼が驚くのも当然だろう。
グラヴィヴィスは金色がかった茶色の瞳を真っすぐにこちらに向けて、何か言いたそうに口を開けたままハッとしたように固まった。
彼の向こうで応接室の扉が弾けるように開き、何者かが部屋の中へと制止の手を振り切って入ってきたのだ。
とっさの事にグラヴィヴィスとバルテスさんは緊張した面持ちで身構えた。
……私がグラヴィヴィスの向こうに見たのは、翼のモチーフのペンダントを下げた聖職者と揉み合うように部屋の中へと入って来るグラントの姿だった。
「……フロー!」
彼が私の名前を呼ぶ。
どうしてグラントがここにいるのか、状況が全く掴めない。
だけど……そうだ、サリフォー神像の佇む中央広場で馬車に乗せられた時、私は彼の声を聞いたような気がした。
もしかして、グラントは連れ去られる私の姿を見てここまで助けに来てくれたんだろうか?
さっきまで不安で押しつぶされそうになっていた胸が、グラントの顔を見た瞬間に別の鼓動を宿して高鳴った。
嬉しくて、涙が出そうになる。
グラントは部屋に入る事を制止しようとしていた聖職者を、少しばかり手荒な動作で床に転がし、彼とグラヴィヴィスの間に割って入ったバルテスを鋭く一瞥しながら、私に
「無事か?」
と聞いてきた。
彼に自分の無事を知らせようと口を開きかけたその時、扉の向こうからゲルダさんが現れるのが目に入り、私は突然喉が詰まったように声を出す事が出来なくなってしまう。
「……こんにちは失礼しますよ。相すみませんねグラヴィヴィス様。そちらはアタシらの知り合いなんですよ。ちょうど広場でそのお嬢さんをバルテスの旦那が馬車に乗せるところを見たもんでね……」
そう言いながら間に割って入るゲルダさんの声が、やけに遠くに感じる。
なにか悪い夢でも見ているような不思議な感覚だ。
グラントとゲルダさんは、やっぱり一緒に行動していたのね……と。
何処か遠いところに切り離されたように、妙に他人事な声が自分の頭の中で聞こえた。
扉の建具につかまって自分を支える私を、駆け寄ってきたグラントは息が出来ないくらい強い力で抱きしめてくれた。
「怪我は、無いか?」
彼の胸が強く早いリズムを刻んでいるのを感じた。
私は彼の腕の中で頷く事しかできなかったが、どうやらその返事にグラントは安心してくれたらしく、ほんの少し彼の腕から力が抜けたようだ。
緩められた腕の中から、彼の顔と部屋の中を見渡す。
相変わらずバルテスはグラントを警戒しているらしい。
いつでも動けるように体勢を低くとって身構えている。
さっきは気づかなかったが、入口付近に立つゲルダさんの腕の辺りにはグルリと白い包帯が巻かれている。
グラントが一緒にいながら彼女が怪我をしているなんて、一体どうしたんだろう?
それにさっき彼女はバルテスさんの名前を知っていた。
ゲルダさんはグラヴィヴィスやバルテスと顔見知りなんだろうか?
私の頭には疑問符で溢れそうになっている。
私だけじゃない、その場にいた誰一人としてこの状況の全体を把握している人間はいなかったと思う。
グラントが私を左腕に抱きしめたまま、グラヴィヴィスに険しい目を向けて口を開いた。
「なぜ彼女を浚ったんだ?これはどういう事なのか、説明してもらいたいんだが……」
腕の中から見上げたグラントはとても怖い表情をし、今まで一度も聞いた事が無いくらいに怖い声で言った。
その右手は剣帯に吊った長剣の柄に掛けられている。
返答次第では、いつでも攻撃しようと言う体勢だ。
「……バルテス、やめ給え」
不法侵入者からグラヴィヴィスを守ろうと身がまえるバルテスを、主管枢機卿は静かだが威厳に溢れた声で止めた。
それを聞いてやっと私はボンヤリとしている場合じゃない事に気付き、剣の柄のグラントの手に自分の手を重ね、彼を止めようとした。
「やめてグラント。違うの」
さっきから一言も言葉を発する事が出来ずにいた私は、なんとかそれだけ言ったのだが、とっさの事で今何をどう説明していいのかが分からない……。
グラヴィヴィスには悪気は無く、バルテスやディダはむしろ私の身の安全を考えてあんな手段を取ったのだと言う事を、一言で説明出来る筈が無い。
中央広場から浚われるようにここに連れてこられた理由を説明するには、まずシュスティーヴァ王がかつて行った『神事』の事を説明する必要があり、更には、私がうっかりディダに鳩の見分けがつく事を教えた経緯を彼に言わねばならず、そう言えばグラントはディダと言う少年の事を知らない。
グラントは勘の良い人だから、たぶん、シュスティーヴァ王の神事をグラヴィヴィスが強要されていると説明しさえすれば、その背後のサリフォー教会旧勢力の目論見を察してくれるだろうけれど……。
でも今、この場所で私達が他国の政治と宗教の事情に明るい事を明かしても良いものだろうか?
ああ……だけど、昔グラントはグラヴィヴィスと関わりを持ったはずだから、彼とは顔見知りなのかしら?
だったら彼に対して私達は身分を隠す必要は無いと言う事かしら……。
だけど、ゲルダさんは……?
グラントと行動を共にしていたとしても、彼女は一体どこまで事情を知っているのかが分からない。
それに彼女がグラヴィヴィス枢機卿やバルテスさんとはどういう知り合いなのかも全然見えてこなかった。
私の頭の中は混乱しきっていた。
ここで下手な事を言っては、きっと大変な事になってしまうに違いない。
焦れば焦るほどに頭の中からは言葉が消えてしまい、ただグラントの手の上に自分の手を置いて彼の顔を見上げる事しか出来なかった。
泣きそうな顔で彼を見上げていた私を片手で抱きしめたまま、グラントが大きく深く、そしてゆっくりと息を吐き出し、剣の柄に掛けていた手を離した。
小さく肩を竦め怒りの色を消した暗色の瞳を私に向ける。
「……キミが無事と言う事は分かった、説明を聞かせてもらうよ……」
彼の言葉を聞いて、その場の誰もがホッと力を抜を抜いたようだった……。




