ソーダ色の春
ソーダ色の春 薫谷 風子
また面倒臭い場所に来てしまった。
まだ少し肌寒い春の気温を助長するリノリウムの床。霞のような雲がかかった水色の空を四角く区切ってゆく銀の窓枠たちの行列。色とりどりの体操服袋が掛かった壁。その向こうから連絡事項を伝える男性教諭の声が聞こえる。
(また男かよ)
将平は今年の担任も男と知ってうんざりした。もう高校なんて面倒臭いところへは行かないと心に誓っていたのに、結局暇つぶしに来てしまった自己嫌悪とで、彼は大きなため息をついた。
しかし来てしまったものは仕方がないので、二年三組の後ろのドアを開ける。
「こら! 間宮! お前はどうして新学期早々遅刻するんだ! 初日くらいちゃんとできないのか!」
ヒステリックに声を荒げる典型的高校教師(まさに天然記念物)をちら、と見やり、将平は再びため息を漏らした。
「しかも寺田かよ…ついてねぇな」
少し伸びすぎた黒髪をかきあげながらついた悪態は、しっかりと教壇に届いている。
「私が担任だと何か不満か。早く席に着きなさい」
「俺の席どこ? 地獄耳センセー」
寺田は咳払いを一つして眼鏡を直し、
「入り口から四列目の前から三番目だ」
渋い顔をして言った。
「はぁ? ど真ん中じゃん。めんどくせー」
この席では寝ることはおろか、早弁すら出来ない。それどころか、一番教師の目に付きやすく、よく当てられるのだ。
将平は自席にたどり着き、舌打ちをして、ほとんど教科書の入っていないぺしゃんこのリュックを床に放り、乱暴に横座りした。はぁとうなだれ、ボロボロのズボンの裾を見下ろす。その際学ランの詰襟が息苦しいので、ボタンを二つ開ける。
(ゲーセン行って補導されてた方がマシだったかな)
ぼんやりそんなことを考える。
やがてチャイムが鳴って、寺田が引き続き一限の物理をすると宣言する。
「おい、間宮、早く教科書と筆記用具を出しなさい」
教師の注意に、何人かの視線が将平に注がれる。
「……」
(うぜぇな)
将平は結論づけた。
「…忘れました」
歌うように言い、すっくと立ち上がる。そしてそのまま後ろのドアに向かう。
「おい! どこへ行く! 戻ってきなさ…」
バンッ!
非常にも怒声は勢いよく閉められたドアに断ち切られてしまった。
(ちょっとすっきりしたかな)
将平は自分の行動に幾分満足し、吸殻だらけの非常階段を駆け上がり、屋上に向かった。
上がりきって正面の住宅街を見下ろし、
「んーっ」
と伸びをすると、すぐ近くで声が掛かる。
「よう、将平センパイ、お早い出勤で」
茶髪にピアスとお決まりのダサい格好は、啓太だった。センパイ、なんて言うくらいだから、多分留年したのだろう。
「お前、何組?」
啓太の後ろから声が掛かる。金髪を逆立て、やはりピアスをしたくわえタバコの祐樹だ。よく見ると他にも数人、地べた族がいる。
「三組」
答えると、
「マジで? 一緒じゃん」
嬉しそうな声が返ってきた。
「おー」
将平は適当に返して輪の中に入る。
別に好き好んでダサい奴らとつるんでいるわけではないが、付き合いを断るのも面倒なのでとりあえず一緒にいる、そんな感じだった。
非行少年というのは概して喧嘩が好きだ。相手は教師であったり、仲の悪いグループだったり、暴走族だったり、警察だったり、或いは現実だったり。だが将平は違う。キレるどころか、感情を表に出すことが少ない。面倒臭い、だるい、疲れる、などが主な理由だった。冒険やスリルを諦めたわけではない。それよりも「疲れることはしたくない」という思いが勝っているだけだ。現状にうんざりはしているが満足していなくもない。よく言えば無為自然で平和主義者、悪く言えば流されるがままの事なかれ主義者、それが間宮将平、十七歳だ。
「あー、うぜー」
伸びすぎた前髪をかき上げる。
「だったら切りゃいいじゃん」
「めぇんどくせー」
仲間の突っ込みに、将平はわざと大きな声で宣言し、寝そべった。
空に一番近い場所だ。だが、青い空は将平にとって何の意味も持たない。空なんて、毎日同じことの繰り返しだ。夜が来て、朝が来て、昼になってまた夜になってゆく。それに支配されるかのように将平の家では、父が会社に行き、母がスーパーのパートに行き、妹が化粧をして中学に行き、将平も仕方なく高校へ行き、そしてまた帰ってくる。単調の日常に、色なんて意味の無いものは要らない。どうしても必要なら、さしずめ灰色がお似合いなのだ。
「将平、そうつまらなそうな顔すんなよ。吸うか?」
啓太が胸ポケットからタバコを差し出す。
「もらう」
断る理由も無いので、将平は寝そべったままタバコを受け取り、火をつけてもらう。ふぅ、と煙を空に吹きかける。そう、こんな灰色が。
「横着モン」
祐樹が悪態をつくが、それが将平なのだと皆分かっている。
「平和だねぇ」
缶コーラを飲みながら晃久が満足げに呟く。
「楽園だねぇ」
女の声がした。
「お、絵里、いたのか」
「楽しそうだったから来ちゃった」
茶髪のコギャル少女は、斜め下、西側にある新館の音楽室の窓を指差した。
「おう、来い来い。遊ぼうぜ」
絵里の彼氏、祐樹が彼女の肩を組む。
と、その時だった。
「お前ら! こんな所で何をしている! 早く授業に戻りなさい!」
教師の怒鳴り声が響いた。
「やっべ、ばれちったよ」
啓太が将平を起こしながら気まずそうな表情をする。
「どうするよおい」
コーラを置いた晃久がかったるそうに立ち上がる。
「逃げるしか、ないんじゃない?」
「だな」
絵里の提案に将平が応じた。
彼らは早かった。通常の校舎内へ続く階段ではなく、非常階段を駆け下りる。
「こら! 待ちなさい! 間宮、大原、北山、手に持っているものを見せなさい!」
遠ざかっていく怒鳴り声を嬉しそうに聞きながら、啓太が祐樹に聞く。
「どこ逃げんだよ。やっぱ、俺ん家のサテン?」
「ったりめーじゃん」
階段を下りきった不良たちは、体育館の裏に止めてあるバイクに二人乗りをして裏門から公道に飛び出る。
「あれ? 将平いねーじゃん」
大分走ってから、いつもの位置、啓太の後ろに将平がいないことに気付く。
「あぁ、あいつ、パスだってよ」
「まためんどくせーってか?」
「みてぇだな」
「ったく。あーあ、新しいヘヴン、見つけねーとなぁ」
新しい溜まり場を思案しながら風をきる彼らだ。
* * *
その頃、将平はくわえタバコで体育館の外壁にもたれ、彼らと同じことを考えていた。
何気なく、あたりを見渡す。
「あ、あれって…」
体育館倉庫の奥に、木造の古めかしい建物を見つける。間違いなく、立ち入り禁止になっている旧校舎だった。
使えるかもしれない、そんな動機で将平は、タバコを吐き捨て、旧校舎の入り口へと向かっていった。
立ち入り禁止の柵を飛び越え中に入ると、廊下は薄暗く、埃っぽいにおいが鼻をついた。
土足で歩くと床がぎしぎし悲鳴を上げた。手洗い場は完全に干上がっており、忘れ去られた雑巾と壁に掛かった書道道具が日に焼けていて、使われなくなってから随分と時間が経っていることを示唆していた。
「昔って、こんなだったのか」
たいして興味なさげに呟き、将平は二階に上がる。
「お、二の三発見」
将平のクラスだ。
別の空間に同じ空間があるというのは、少し不思議な気がした。
「ま、当たり前なんだけど」
自分が感じた四次元的な空間論は、展開するのが億劫だったので早めに終止符を打ってしまう。もともとは頭のいい将平だが、究極の面倒臭がりが災いして、いつも彼のテストは赤点連発なのだった。
教室に入ると、当然だが閑散としていた。誰もいないという現実。昔は授業中だったという事実。
将平は窓辺に歩み寄った。
きゅるきゅると音を立てて窓を開ければ、真下に遅咲きの枝垂桜が咲いていた。
「へぇ」
(いい場所じゃん)
そう思い、僅かに笑むと、
「あなたも好き? そこからの桜」
背中から声をかけられた。
「え?」
振り返ると、少女が立っていた。
「私も好き」
そう言って歩み寄る少女の黒髪はショートボブで、綺麗な顔立ちをしているが少し古くさい印象があった。だが青いリボンのセーラー服を着ているということは、明倫高校、つまりうちの学校の生徒と見て間違いない。
(こんな奴いたかな?)
地味だが、その地味さが逆に目立つような彼女を少し不審に思いながら、将平は聞いた。
「お前もサボり?」
少女は微笑んで答えた。
「似たようなものよ」
「ふぅん。どこのクラス?」
「ここ」
少女は表情一つ変えずに言った。
「おい、冗談よせよ」
まわりくどい謎掛けは嫌いだ。
だが少女はおもむろに片手を上げ、
「席は、あそこ」
入り口から四列目、前から三番目の席を指差した。見ると机の上にサイダーのビンが置かれている。その周りに散らばっているのは枯れた花だろうか。ずいぶんと風化している。
将平は自分と同じ席なだけに、さすがに少し嫌な気分になった。
「あのなぁ…」
彼が少しいらだった口調で言いかけると、
「ふふ。ホントよ。私、死んだの」
少女はそう言ってまた笑った。
「いつ」
「一九七二年、三月二十一日」
(どうやらコイツ、イカれてるらしい)
将平はどっと疲れた。
(早いとこサヨナラしたほうがよさそうだな)
面倒くさがりな少年は、さっと踵を返し、
「悪ぃけど俺、ユーレイとかそういうの、信じないから。じゃ」
教室を出ようとした。が、
「待ってよ。久しぶりに同い年の人に会えたんだから」
膨れっ面の少女に通せんぼされてしまった。
「享年十七歳、藤崎知子。好きな教科は理科。あなたは?ね、友達になろうよ」
「は〜〜〜〜……」
将平は長いため息をついた。こっちの魂が抜けてしまいそうだ。
仕方なく将平は名乗った。
「間宮将平。十七歳、二の三。好きな教科なんてねぇよ。てか、学校ってくだらなくね? 毎日同じこと機械みてぇに繰り返してよ。だからお前もサボってんだろ? いいからどけよ」
そう言って将平は、通せんぼの少女を払いのけようとした。
「れ?」
だがそれは失敗し、接触の感触なく少女の後ろへ出てしまった。
(よけてくれたのか?)
と、振り返る。しかし少女は両手を開いた通せんぼのまま、首だけ振り返り、
「ね? 死んでるでしょ?」
得意満面の笑顔を見せた。
「…藤崎、だっけ?握手していい?」
半信半疑で将平は再び彼女へ歩み寄った。
「いいよ。友達の握手」
「いや、確認の…まぁ、なんでもいいけどよ」
将平は真っ直ぐに差し出された知子の右手に、恐るおそる触れ…られなかった。すり抜けてしまったのだ。
「うそだろ…?」
普段居眠りしっぱなしの将平の左脳がフル回転し始める。
(夢か? 幻か? いや、幻覚か? そもそも幽霊なんて非科学的なものは…)
もう一度知子を見る。彼女は机に自分の手をすり抜けさせていた。
(ま、いっか。実際いるんだし)
究極的に無為自然を愛する少年は、考えることを止めた。あるものはある。流れに逆らってもいいことはない。疲れるだけだ。
「これで信じてくれた?」
知子は将平を上目遣いで見る。
「まぁな」
将平は投げやりな返事を返した。
「じゃ、友達になってくれる?」
「暇つぶしくらいにはなってやるよ」
どうして自分がそんなことを口走ってしまったのかは分からない。ただ、久々の好奇心かもしれない、とは思った。
どれくらい話していただろう。知子が「それ、何?」とMDウォークマンを指差し、そこから音楽の話をしていて、随分時間が経ったように思う。開け放した桜の窓(知子が命名)から、何回目かのチャイムの音が聞こえた。こんなに誰かと喋ったのは、お互い、久しぶりだった気がする。
「そろそろ行かなくていいの?」
それも何度目かの台詞だったが、今度は受け止め、
「そだな、昼休みかも。腹減ったし」
言って携帯を取り出す。ディスプレイは十二時半を示していた。
「あ、これ、携帯電話。今度説明してやるよ。えっと、藤崎、ブルーライトヨコハマだっけ?今度レンタルして録音しとくな」
「ありがと。ね、もういっこ、お願いしていい?」
知子はこの教室から出られないのだと言った。
「いいよ。何?」
「サイダー、まだ売ってるかな?」
枯れた花の入った、ビンを指差す。
「あぁ、ビンは売ってねぇかも。でもペットボトルならあるよ。藤崎、好きなの?」
「うん」
桜色の笑みを浮べて知子は頷いた。
「買って来いって?いいけど、飲めるの?」
幽霊なのに。
知子は笑ったまま首を振った。
「飲むんじゃないの。色が好きなの」
「透明なのに?」
「透明だけど」
「可笑しなヤツ」
二人は笑った。心が満たされる。久しぶりの感覚だった。
「じゃ、またな」
将平は後ろのドアへ向かった。
「うん。授業はちゃんと出なきゃ駄目だよ。生きてんだから」
「へいへい」
「それから、知子って呼んでいいよ」
「おぅ、じゃ、俺も将平で」
「またね、将平くん」
将平は片手を挙げて応じた。
体育館裏に戻ると、バイクが五台止まっていた。携帯で連絡を取ると、屋上にいるから来いと言われた。
啓太の喫茶店のメニューをタッパーに入れた弁当を皆で食べている途中、どこに行っていたか聞かれたが、将平は「教室」と曖昧に答えた。ヘヴン見つかったかと聞かれたが、知子のことは内緒にしておいた。
* * *
それからほぼ毎日、将平は知子のもとを訪れた。
昭和四十七年で時を止めた少女に、将平はたくさんのことを教えた。携帯電話、MD、ペットボトル、流行のファッション、最近のニュース、将平の仲間。音楽雑誌を持ち込んで、将平の好きなバンドの話もした。知子は目をきらきらさせて将平の話を聞いた。将平は、自分の中で何かが変わっていくのを実感していた。
知子は不思議だった。死んでいるのに、生き生きとしていた。どこまでも純で、透き通っていて、まるでソーダ水のような少女だった。炭酸のように小さく幾つもはじけ飛ぶ笑い、白い肌、ソーダのビンのようにぴかぴか光る瞳。好奇心旺盛なそれは、映し出す全ての物の色で笑った。ソーダ色の少女。
机に飾られていたビンをきれいに洗ってサイダーを入れ、陽にかざしてやったときの知子のはじけるような笑顔は、将平に歯がゆさを覚えさせた。
(なんで死んじまったんだよ)
神様は意地悪だ。こんな夢も希望も持っているような少女を死なせて、なぜ死んだような俺は生きているのか。知子の笑顔は、将平の心にぬくもりを与えたが、同時に罪悪感も植えつけた。
見下ろす桜が緑色にかわった頃。
「なぁ、知子、お前なんで死んだの?」
桜の窓に腰掛けて、蜘蛛の巣だらけの蛍光灯を見ながら、将平は訊いた。ぶしつけな言い方かと思ったが、いい気の回し方が思い浮かばなかった。将平は怠け者の自分の脳みそを恨んだ。
しかし、知子はそれには答えず、試すような眼で逆に質問してきた。
「将平くんはさ、どうして学校嫌いなの?」
触れられたくない質問だったのかもしれないと思い、将平は知子に話題を譲った。
「前も言っただろ?毎日同じことの繰り返しだからって。学校に限らず、日常が嫌いなんだ。単調でくだらねぇんだ」
「そこから抜け出そうとは思わないの?」
「それは夢を持てってことか? 冒険しろって?そういうの、好きじゃねぇんだ。疲れるじゃん。空、見てるとさ、自分がすっげーちっぽけに見えるんだよ。朝が来て、昼が来て、夜になって、それに支配されてる人間って、もう抗いようがねぇよなぁって。結局さ、無駄な抵抗はよせってこったよ。俺はつまらねぇレールの上をずっと走っていくの。終点まで。流されるほうが楽だよ。無駄に夢持ってしゃかりきになってる奴見てると、疲れねぇのかなって気の毒に思…」
知子の平手が飛んだ。
「知子?」
もちろん平手は将平の頬をすり抜けてしまったが、押さえた頬は、じんと痛かった。
将平ははっとした。知子は夢をまだ捨ててはいないのだ。まだ生きたかったのだ。
「…ごめん」
俯くと、知子の古い上靴に、マジックで星座が書いてあった。北斗七星、カシオペア、オリオン…
「空ってさ、」
知子が桜の窓から空を見上げて言った。涙が落ちないように上を向いているようだった。
「空ってさ、そんなに単調に思えるの? 将平くん、ほんとに空、毎日見てる? 金色の朝焼けも、入道雲の夏空も、羊雲の夕焼けも、満天の星空も、全部知ってて言ってる?」
「…え?」
「将平くん、バニラ色の空を見たことがある? 鈍色の空は? 宮沢賢治の『永訣の朝』って詩、知ってる?空がもし、将平くんの言うような単調なものだったら、詩人は誰一人として、空を歌ったりなんかしない。空はもっと、美しいよ。何千年も前から、一つとして同じ表情を見せずに、それでも変わらず綺麗なんだよ。屋上が楽園だったんでしょう? じゃあどうして気付いてくれなかったの…」
知子はとうとう一筋の涙を流した。
「私ね、結核で入退院を繰り返してたんだ」
それはさっきの将平の質問への答えだろうか。
「それでも、理科の、地学の先生になりたかったから、直そうって努力したの。でも、ある冬の夜に空を見てたら、持病の喘息を併発して…そのまま病院から生きて出られなかった…バカだよね」
知子は笑おうとしていたが、涙に濡れた頬は引きつっていた。
(だからか)
だから知子は泣いたのか。将平が夢を持った者を嘲り、知子の大好きな空すらきちんと見ていなかったから。
(それどころか、俺は空が灰色だったらいいのにって思ったことすらあるよ)
空だけじゃない。見るもの全てがモノクロの世界だったら、どんなに楽だろうと。世の中全ての意味の無いものは消えてしまえと心で毒づいたことさえある。
だが、それは間違っていた。空は表情を変える。森羅万象全ての物は、千変万化の空の下に息づいている。将平もその一員ならきっと、自分の色を持っているはずだ。例えば知子がソーダ色であるように。そして桜色に染まったり、何にも染まらなかったりするように、将平だって、表情を変えることくらい出来るはずだ。そうだ、死んでいた心を生き返らせることが出来るはずだ。
(病院のベッドで空を見たいと願いながら死んでいった彼女はどんなに…)
「…辛かったな」
「将平くん?」
将平は持ってきていたサイダーをぐいと飲み干した。
もう一度、自分に言い聞かせるように囁く。
「知子、辛かったな」
何故か分からない。胸が苦しかった。本当は知らない振りをしていたのかもしれない。無数に広がる星と夢の数に眩暈を起こし、思考を停止させていたのかもしれない。本当は、走りたかったのかもしれない。本当に辛いと叫んでいたのは…
知子は静かに頷いた。
「…ずっと、一人だったの。皆私を追い越して夢を叶えていくのに、私だけここに取り残されて、そのうち新しい校舎が建って、私が死んだことなんてみんな忘れて…でも夢だけは消えなくて…叶うはずないのに、ずっと、ずっと…」
将平は知子をそっと抱きしめた。ぬくもりが伝わらないことに悔しさを覚えた。
「将平くん?」
「……」
「ねぇ、将平くん?」
「…もっと、強く抱きしめたいんだ」
叶わぬ願いに、将平は唇をかみしめた。将平の中で、何かが変わった。
「…ありがとう」
「それは俺のセリフだ…」
「…将平くん、泣いてるの?」
知子を抱いたまま、桜の窓を見上げる。
「泣くわけねぇだろ、バカ」
「うん、そうだね。ありがとう」
「バーカ」
悪態をつく将平の声は、僅か震えていた。
「…っくしょー…」
実体のない、大切な人を抱いて、少年は欠けていたモノを取り戻した。
花曇の空から、雨が降ってきた。
伸びすぎた前髪に隠れた双眸は、今確かに、世界には色があるということを認識していた。
世界から切り離された少女は、将平の鼓動の中で微笑んだ。ソーダ色の瞳は、将平の色を映し出した。
「将平くん」
「ん?」
「空を見てると自分がちっぽけだって、言ったよね」
「忘れてくれ」
「私は違うよ。空を見上げてると、自分が大きな世界の一部になったみたいで、嬉しくなるの。ああ、みんな一緒に生きてるんだなぁって」
生きている。笑ったり泣いたり。それが生きているという意味なら、さっきまで将平は死んでいた。本当に生きていたのは、知子だ。
ずっと流されて生きてきた。全てを受け入れているつもりだった。だが実は全てに背を向けた生き方だった。受け入れたはずの知子という幽霊の存在を、もう一度よく考えてみるべきなのかもしれない。
なぜ、知子はまだここにいるのか――
* * *
「これでよしっと」
右手に持った図工用のはさみをしゃきしゃき動かして、絵里は満足げに将平を見下ろした。
「おー、さんきゅう絵里。視界が開けたぜ。耳も辛気くさくねぇし。楽チン楽チン」
将平は首に巻かれていたケープ代わりのカーテンを外す。ここは化学講義室だ。新しいヘヴン。
「お前の彼女、天才」
すっきりした頭をふるふると振って、将平は祐樹の肩を組んだ。
「横着モン」
きちんと散髪屋に行かないところが将平らしいといえば将平らしい。
「でも、ちっと前向きんなったか? ショーへー」
祐樹は仲間の変化にやれやれの笑顔だ。
「ところでさ、」
カーテンを付け直していた晃久が話題を変える。
「来年からプール出来んの知ってる?」
「うそ?! この学校に?」
反応したのは絵里だ。
「おう。旧校舎ぶっ潰して、でっけープール作るの」
「マジかよ。すげーな。涼しくなんじゃん」
にかっと笑ったのは祐樹。
「嬉しくね?」
晃久は嬉々として仲間に同意を求める。
「おー、嬉しい嬉しい!俺、体育頑張っちゃうもんねー。って、将平?」
机の上に立ってガッツポーズをしていた啓太は、将平が俯いたまま動かないのを不思議に思い、声をかけた。
ガタッ!
「お、おい、なんだよいきなり立ち上がって…って将平! どこいくんだよ! まだ次の授業始まんねぇ…って、はや…なんだあいつ…」
(ウソだろ?!)
化学講義室を全速力で飛び出した将平は、旧校舎に向かっていた。脳裏には、いつか交わした言葉がこだまする。
『地縛霊ってさ、その場所がなくなったらどうなるの?』
『私は…消えちゃうと思う』
知子の悲しそうな表情が浮かんでは消え、また浮かぶ。
(冗談じゃねぇよ!)
将平の胸ポケットのウォークマンには、ブルーライトヨコハマが入っている。あの教室のソーダのビンには、将平が飾った花がある。二人で桜を見下ろす窓がある。大切な時間がある。そして――
(知子!)
将平の全てが、藤崎知子で満たされていた。
(俺は――)
知子が好きかもしれない。たくさんのことを教え、楽しい時間の中で、かわりに大切なものを教えてくれた、大切な人。
(知子!)
旧校舎に着くと、解体工事用のフェンスが張られていた。すぐ横に、ショベルカーやブルドーザーが止まっている。フェンスに張られた看板には、「工事期間五月八日〜」と書かれていた。
「ごがつ…明日…? 知子…知子!」
将平は血相を変えてフェンスを飛び越え、立ち入り禁止のロープも越えて校舎の中へ転がり込む。
「こら! そこの君! そこは入っちゃいかん!」
ヘルメットをかぶった建設業者の男が、将平の腕を掴む。
「離せよ! 大事なモンがあんだよ!」
将平は制止を振り切り、階段を駆け上がって二年三組に駆け込む。
…机が全て、運び出されていた。
「ともこ…?」
声が震えている。まさか。
「将平くん、こっち」
上から、弾むような声が聞こえた。
見上げると、知子が天井近くに浮いていた。
「びっくりした?」
知子は笑いながら将平の前にすとんと降り立つ。
「…か、やろぅ…バカ野郎! 外見てみろよ! 今がどういう状況か分かってんのかよ!」
肩を掴もうとした将平の両手は、目的を失って重力に引き寄せられる。彼は知子をすり抜けた。
「分かってるよ?」
背中で明るい声がした。振り返ると知子は微笑んでいた。そのまま窓辺に歩み寄って空を見つめる。
「壊されちゃうんでしょ? 明日、この校舎。自分の学び舎がなくなるのはちょっと残念だけど…でもこれでよかったんだよ」
「何言ってんだよ…いいことあるかよ! だってお前、消えちまうんだぜ?! それでもお前はいいって言うのかよ! 俺は嫌だ! だって俺は…」
「将平くん」
告白は、強い口調に打ち切られた。
「ダメだよ将平くん。やっぱだめだよ。将平くんは、生きてる子、好きにならなきゃ」
この世の風には決して揺れることのない黒髪。セーラー服の襟。青いリボン。それらは触れることすら叶わない。愛しい彼女の背中。抱きしめられたら、ぬくもりを分かち合えたら、どんなにいいだろう。自分には、想いを伝えることすら許されない。
「バイバイ、将平くん。好きだった」
振り返った彼女は、笑っていた。頬に流れる涙を拭うことなく、桜のように微笑んでいた。ソーダ色の瞳から、次々と悲しみの粒がこぼれ落ちる。
「バイバイって、なんだよ…」
涙を拭ってやれない悔しさは、怒りに変わっていた。
「悲しいときは笑うなよ! 諦めんなよ! 俺だけ前向きにさせといて、なんでお前だけ後ろ向きなんだよ! 泣くなよ! 俺がなんとかしてやるから! お前を守るから!」
無理だと理性が叫ぶ。だが本能は啼き続けた。
「知子! 好きだ! お前を絶対に消したりしない! 守ってやる! 返事しろよ、知子!」
知らないうちに、涙が頬を伝っていた。初めての出来事に、将平の心は戸惑う。だが叫ぶ言霊は止まらない。
「…ありがとう」
知子は静かにまぶたを閉じた。まつげがきらきらと透明に光る。
「…くしょう…ちくしょう…ちくしょう!」
行き場をなくした怒りの拳はドアを打つ。ガラスの揺れるけたたましい音が響いて、警備員が駆けつけた。
「君はさっき入ってきた生徒か?! 早く教室に戻りなさい! まだ四時間目があるだろう!」
「離せ! 俺はここにいんだよ! 離せ、離せよ!」
有無を言わさぬ力強さで以って、将平は引きずり戻される。将平は権力の絶対的な違いに絶望し、吼えた。
「ともこぉーっ!!」
一人になった何もない教室で、知子は顔を覆ってむせび泣いた。ひたすら、ひたすら、将平の心を代弁するように…。
* * *
将平はその日、帰らなかった。担任に呼び出されて旧校舎に入ったことを問いただされたとき、逆に、プールをどうして別の場所に作れないんだと訴えたが、あの校舎は老朽化して危ないから、いい機会だし体育館も近いということで、既に職員会議で全員一致で決まったことだ、と言われた。誰に問いかけても無駄だったし、不可解な表情すらされた。不良のたまり場になっているのなら、なおさら取り壊すべきだとも言われた。第一、プールが出来ると知って、旧校舎取り壊し反対を唱える生徒なんて、いるわけがないのだ。
将平は孤立した。どうすることもできない無力な自分に腹が立ち、説教途中の放課後の職員室を飛び出した。向かう先はもちろん、旧校舎だった。
「ごめん、俺、何にも出来なかった…」
入り口に俯いて立つと、知子が手を差し伸べた。
「ううん、いいの。気持ちだけで充分。ありがとう」
薄暗くなってきた教室に、一陣の風が吹く。
将平の心は凪いだ。不思議な感覚だった。
「知子、これ…」
将平はリュックからビンを取り出す。
「これって…」
水色の、ソーダのビンだった。
「ここに来る途中、体育館裏のゴミ捨て場で光ってたんだ。とっさにカバン中入れて持ってきた。最後の、プレゼントだ。冥土に持ってけ」
「将平くん…」
知子は口の端を緩めたが、将平の唇はかさかさに乾いていた。頭があまり働いていない。まるで違う誰かが喋っているみたいだ。
木造校舎を夕陽が彩る。
将平の頬や学生服はオレンジ色に染まったが、知子は夜明け前の人のようだった。薄水色の光に包まれている。
(ああ、きっと知子は日が昇る前に死んだんだ…)
わけもなくそう思って、将平は微笑む知子に見入ってしまう。
(俺はもう、こいつと会えない…)
「…くん? おーい、将平くん?」
気付くと知子が目の前で手を振っていた。顔に「どうしたの?」と書かれているような目。
言わずにいられなかった。
「…せっかく…逢えたのにな。俺ら、奇跡みたいに出会ったのにな。カミサマって、趣味悪ぃよな…」
机がなくなって広々とした空間を、将平はゆっくりと歩き回る。床がきしきし悲鳴をあげた。
「…天体観測でも、しませんか?」
「え?」
静かに、慈しむようにそっと心に触れてくる、声。
「将平くん、空、見ようよ」
夕暮れの桜の窓に頭を向けて、知子は教室の真ん中に寝そべっていた。
涙がこぼれた。
知子とデートするなら、きっとプラネタリウムがいいだろう、なんてありえないことを考えてしまったから。山手線に乗って、手をつないで…原宿とかも好きかもしれない。
「くそっ…俺、最近泣き虫んなったな…」
将平は無理やり笑顔をつくって、知子の横に寝そべった。
「もうすぐね、朱色の空に群青色がこぼれて、一番星が光るよ。その位置は、一日ごとに、十五度ずれるの。それが見えたら次は、おうし座、ぎょしゃ座、ペルセウス、ふたご座…」
星を語る知子の瞳は、子供のようにきらきら輝いていた。
「…よく、知ってるんだな…」
「この教室の窓から見える星は、全部知ってる。三十二年間、ずっと見てきたから…その星座が見える位置も時刻も、全部知ってるよ」
「知子…」
夜の風が二人の上を駆けてゆき、電気の点かない教室は、木枠のスクリーンに壮大な色彩のシンフォニーを映し出す。
藤色に染まる空、朱色の光を遺した雲、そこへ零れ落ちる一滴のダイヤモンド…
「俺…知らなかった…空がこんなに美しいなんて…」
タバコの煙を吹きかけて悪態をついた空は、信じられないくらい綺麗だった。一瞬、自分がどこにいるのか判らなくなる。完全に、心奪われていた。
「教えてあげる。星の神話。遥か昔の愛の物語」
「愛の、神話?」
「そう、愛の神話。その輝きひとつひとつには、哀しいエピソードがあるの。春の星座、ぜんぶ教えてあげるね」
知子は語り始めた。優しく透き通る声で、将平に。
オリンポスの物語を、ギリシャの神話を。
将平は黙って聴いていた。頭上で幾千の星々が瞬く。しずくが落ちてきそうだ。
夜空は廻る。数え切れない人の想いと輝きを乗せて。
星座は語りかける。太古の昔、生きた証を。
(俺はこんなに綺麗な星に生まれた…)
胸が高鳴る。こんなに静かで、満ち足りた夜は初めてだった。
やがて神話はアンドロメダとヘラクレスの恋へ移る。夜明けが、近かった。
漆黒の闇がだんだんと明けてくる。群青色の空に溶け込んだ知子は全ての神話を語り終え、呟いた。
「勇者として語り継がれるヘラクレスは嫌い。一人の女性を愛して、ケフェウスからさらっていった、そんな人間っぽいヘラクレスが好き。人は…きれいごとなんかじゃ語り尽せないよ。空は、それを全て知っている」
「だからあんなに綺麗なのか?」
目は驚くほど冴えていた。もはや空と自分の境界線が、曖昧だった。
知子は首を振る。
「空は、人の心を映す鏡だよ。綺麗な日ばかりじゃない。でも、その醜さが美しいときだって、ある。星の数だけ神話があるように、人の数だけ違う空があるんだよ」
「知子の空は?」
「夜明け前」
反対側の窓から、黄金の白い微かな光が差し込む。
「ほんの少し、寂しさを遺して逝く夜の支配者の…涙のような濃い青の空が好き。別世界の物語の全てが終焉を迎えて、また新しい日常が始まるから!」
知子は飛び起きた。
「楽しかった、将平くん。私、忘れない」
将平は苦笑いをして上体を起こした。
「…俺も、忘れない。忘れられない」
それから二人はしばらく、明けゆく美空を無言で眺めていた。澄んだ空気が二人を包み込む。
別れの時は、近づいていた。
「なぁ、知子」
「ん?」
「消えるときって、苦しいの?」
何気なく聞くつもりが、深刻な顔をしてしまった。
「そりゃあ、苦しいと思うよ。だって、無理やり土地から剥がされちゃうんだから…」
「……」
将平の拳に、きゅっと力が入る。
「…でも…」
知子は将平の拳に手を添えた。
「私が抵抗すると、きっと事故が起きて大変なことになると思うんだ。だからどんなに苦しくても、私、最期まで笑ってようと思うの」
「…苦しまなくていい方法は…ないのか?」
自分の声ではないような低さだった。一体何に恐れているのか、その数は多すぎて分からなかった。将平はまだ若かった。
「この世に未練がなくなれば…成仏できると思うの。でももう無理。将平くんに出会っちゃったから」
将平ははっとして隣の幽霊少女を見つめた。
「そんな傷ついた顔しないでよ。私、幸せなんだから。将平くんに出会えて、最高に幸せ。苦しくても大丈夫。楽に消えることを犠牲にしたって、私は将平くんに出会えて良かったって、胸を張って言えるよ」
「…とも、こ…」
「だから、ね? 将平くん、私のこと、忘れないで。これからは将平くんの思い出の中で生きてくから…」
将平はゆっくり、だがしっかりと首を横に振った。
「ああ、忘れない。忘れるもんか。お前は俺の奇跡なんだ…」
触れられぬ唇に、唇をあわせる。胸がちくりと痛んだ。
と、そのときだった。
「何をしてるんだ! 今からここは解体する。早く荷物を持って外へ出なさい! 君、ここにいたら怪我じゃ済まないぞ!」
いつの間にか、日は高く昇っていた。
「…嫌だ…」
覚悟したはずの事態に、身体が拒絶反応を示す。
「嫌だ? 何を言ってるんだ! 工事が始まるぞ!早くここから出なさい!」
「でも、でもここには…」
手首を掴まれて二人がかりで引きずり出される間際、将平は桜の窓を振り返る。
「…さようなら、将平くん。元気でね」
そこには、精一杯の努力で笑ってみせる、知子がいた。
細い手をいつまでも振っている。
「知子!」
「誰だ? 誰もいないじゃないか。ほら、早く出て!」
「…でだよ…何でてめぇらそんなひでぇことが出来んだよ! ここに生きてる奴がいるんだよ! てめぇら人殺しだ! ちきちょう!ちきちょぉぉっ!」
自分の意思に反して、廊下を歩き、階段を下りて、身体は外の世界へ連れ出される。
「うおぉぉぉぉぉーっ!!」
変えることの出来ない運命に、将平は吼えた。
将平がフェンスの外に放り出されると、大きなショベルカーがいななき、木造校舎の屋根を、残酷な音と共に破壊し始めた。
澄み切った青い空の下、大切な人と思い出が、壊されてゆく。無力な自分、響き渡る轟音、心が、ひび割れてゆく。
(何もしてやれなかった…知子は俺にいろんなものを与えてくれたのに、俺は、あいつに何一つ…)
校舎を成していたものが一瞬の空間を引き裂く音の後、次々と地面に横たわってゆく。それを踏み潰すキャタピラの残酷な唸り。
教室たちが外観にさらされ、引き裂かれてゆく。
(何も、何も、俺は何も…)
このままでは変われない。知子のいない世界で、知子に教えられた色彩に囲まれて生きるのは辛すぎる。
「知子!」
将平は知子と共に生きることを決心した。
「聞いてるか、知子! 俺、先生になるよ!」
ショベルカーの破壊音が響く中、フェンスによじ登って将平は叫び続けた。
「知子の夢! 俺が叶えてやるよ! お前が生きてたこと、俺が証明する! 一生忘れるもんか! いいな、知子は俺の中でずっと生き続けるんだ! 消えてなくなったりするもんか!」
その声は朝の登校指導をしている校門の教師にまで届く。
「あれ、寺田先生のとこの生徒ですよね? もうすぐチャイムが鳴るのに、何をやってるんでしょう…」
「おい、知子! 聞いてんのかよ!」
「間宮じゃないか。あいつ、気でも狂ったか!」
寺田は遠く一直線に見える旧校舎の解体現場へ急いだ。
「俺、頑張って勉強して、大学行って、理科の先生んなって、知子の好きな星座を…」
「おい間宮! 何してる! そこから降りなさい!」
将平は駆けつけた寺田に足を引っ張られた。
「離せよ!」
将平は泣いていた。
「ま、間宮? とにかく話は職員室で聞くから、一限も始まるし、とにかく、とにかくそこから降りなさい!」
騒ぎを聞きつけた工事の人や他の教師たちが、寺田に加わる。
「離せって! どうしてお前らはいつも邪魔するんだよ!」
遂に将平はフェンスから引き剥がされ、大人たちの中に背中からダイヴした。脱出を試みる。将平はもがいた。精一杯の抵抗で、旧校舎の二年三組を見上げるのがやっとだった。
「離せぇっ! なんで俺たちのこと、解ろうとしない! いつもそうだ! そんな奴らが教師やっていいのかよ! そんなんが藤崎知子の目標だったんなら、てめぇら全員くそくらえ! 何でも頭ごなしに否定すんじゃねぇよ! 心開いて初めて分かるモンもあんだよ! てめぇら全員、空を見上げろぉっ!」
痛切な叫びだった。
将平は罪人さながら、警官のような男性教諭たちに連行された。
解体工事はなおも続く。
将平の叫びは、枝垂桜を揺らして消えた。
* * *
いつからか青空は雲に隠れ、霧雨を降らせる。
授業なんて何にも聞いてはいなかったが、将平は教室にいた。担任に連れてこられ、自分の席に座らされ、一度も席を立たないまま放課のチャイムが鳴った。
下校する生徒のざわめきに、抜け殻だった将平の気力が、僅か戻った。
傘も差さぬままふらふらと校門を出て、旧校舎に向かう。ホームルーム教室棟である北舎は、瓦礫の山と化していた。それでも将平には二年三組がどこにあったか判る。
遅咲きの、枝垂桜の上。
立ち入り禁止のロープをくぐって桜の下に立つ。雨が学ランの肩を濡らす。
――瓦礫の中に、光るものがあった。
「…あ…」
ほとんど無意識に、足が動く。将平は瓦礫の山を登り、旧校舎の残骸を手でかき分けた。
光る欠片を取り出す。
知子の机に供えられていた、ソーダのビンだった。拾い上げようと、そっと欠片に触れると血が出た。
「…赤い…」
どこまでも純粋で、透き通っていた知子。彼女にはなかったものが、将平の全身に流れている。
将平は割れたビンを拾い上げ、ぎゅっと握り締めた。
炭酸水のような雨が、ブルーグレーの空から降ってくる。
将平は血だらけの拳を俯いた額に押し付け、歯を食いしばった。泣くまい、もうこんな簡単には泣くまい。
色をなくした空間で、制服を汚していく赤い血だけが、鮮やかだった。
わずかひとつの季節が逝くまでの短い時間。けれど、忘れられない時間。知子は将平に、多くの楽しみを与えた。世界は色彩に溢れていることを、将平もその一部であることを教えた。
空が千変万化である限り、未来永劫、その下で生きる全ての生き物は、機械のように同じではいられない。笑う日もある。泣く日もある。そして全ての感情は雨に沈み、空へ昇る。
Look Up The Sky. そこに全てがある。
「知子、俺はもう大丈夫」
将平は瓦礫の上に立ち、ブルーグレーの空を見上げて呟いた。
雨は将平の頬を打ち、彼の心を浄化する。
その後ろ、枝垂桜の幹に、文字が彫られていた。
――ショウヘイ アリガトウ――
西の空に、虹の橋が架かる。
* * *
――十年後。
明倫高校の職員室に、一人の女子生徒が駆け込んできた。
「間宮先生!」
叫ぶように教師を呼び、白衣でパソコンを打つその人物に近寄る。
「おー、どした」
将平は作業の手を止め、椅子を回して生徒の方を向いた。
「あのさ、五組でオリオン座の神話、話したんでしょ?それ、うちのクラスでもやってよ」
生徒の目はきらきら輝き、声は期待に弾んでいた。
「星、好きか?」
将平は満足そうに聞き返す。
「うん!」
飾らない、素直な返事が返ってきた。
「よーし分かった。三組は確か、今日の六限だな」
言うと彼女は、
「約束ね!」
いっそう声を弾ませそう言って、慌ただしく駆けていった。
将平はその後姿を見送りながら、傍らのコップを手に取った。一口飲む。と、
「間宮先生」
向かいのデスクから声がかかった。国語科の綾野洋子だった。
「はい?」
茶目っ気のある呼びかけに答えると、
「サイダー、お好きなんですか?いつも飲んでらっしゃいますけど」
右手のコップを指さされた。
将平は笑って答える。
「ええ、色が好きなんです」
「透明なのに?」
「透明なのに」
あの日と逆の立場だ。
「ふふっ、へんな先生」
綾野は小さく吹き出して将平の顔を覗き込んだ。
将平は思う。
(なのに、じゃない。だから、だ)
透明だから、全ての色を映し、しかし何の色にも染まらない。凛として純粋。そして、閉じ込められた炭酸の泡の数だけ思い出が。
「僕の…初恋の色なんです」
ぼそりと呟いた言葉は相手に届かなかったのか、
「はい?」
首をかしげて聞き返される。
「いえ、何でも」
将平はにっこり笑って窓からプールを見遣る。
二人で眺めたあの桜は、今もその場所で優しく微笑んでいる。
END
「色」というテーマで書いたものです。
評価のほど宜しくお願い致します。




