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聖武騎士道

中空の玉座

作者: 聖
掲載日:2026/08/25

日本文化の特徴って、形式主義みたいなところにあるのかなーと思うことがあります。天皇制なんてまさにそうですが、中心に置かれた権威の力とか価値を曖昧にしたままで、その周辺を厳格に精密にしていくような様式。


私の気になるテーマには武士道というものがありますが、これもそういう感じする。武士道って、主君が愚かで間違っていても、それでも忠実に仕えて殉死することを美談にするようなところある。これって主君の正しさとかはとりあえず置いといて、忠実に仕えるという形式の方を最も尊いものとみなす態度じゃないですか。普通に考えたら主君が間違っていたらとっとと見放した方がいいんですが、しかしそういうふるまいは尊敬されない。


そういうことを考えていたら、既に同じようなことを河合隼雄さんという心理学者が言語化していたようで。彼は古事記の読解を通して、日本神話の中心にいる神々が実はなんもしない、なんもしないというのが重要な在り方になっているという話をしているようで、それを中空構造と呼びました。ああ、私がなんとなく考えてたようなことって古事記にまで遡れる話なんやなって。


明治から令和まで日本人の一般的な精神って、福沢諭吉の実学主義みたいなところが基本だと思いますけど。西洋文明の科学技術とか、そういう明らかに役に立つことだけに集中しよう、神とかめんどくさい話は後回しでええわ、みたいな。めんどうな話を後回しにしておけば目に見えることだけに集中できて話が簡単になるというわけですね。こういうのは儒教的な態度でもあって、和魂洋才などとも言われたわけです。


アメリカも一面でこういう実学主義であるように見えるんですが、実際にはそうではない。彼らの在り方は、実際的な活動は実際的な活動、信仰は信仰でいったん分離してそれぞれをそれぞれの様式でピュアに追求するというやり方をしている。だから最も合理的な人たちであると同時に、最も信心深い人たちでもあるというように、片面に集中している日本人からは実態が見えにくいような精神の形になる。


いわゆるプロテスタンティズムというやつですね。まあだからといってアメリカを見習ってぼくたちもキリスト教に改宗しよう!みたいなことを言っても仕方がない。このプロテスタンティズムの世俗的な面にだけ形式的に適応することで、啓蒙主義的に世俗化して力を失っていったヨーロッパなどより日本は少なくとも経済面では上回るところまでは行ってしまったわけなので、後回しにしてきた神などにいまさら向き合う理由はあまりない。


というか中心を曖昧にするというのはある意味で慎重で賢明な態度でもある。間違ったものを中心に置こうとして骨肉の争いみたいなことになるよりは、何がいちばん大事なのかはとりあえず考えないようにしていた方が、余計な争いはしなくてすむ。こんないい加減なことでは本物にはなれないかもしれない。しかしあやしいカルト宗教などを信じて間違えるよりはなんにも信じない、目に見えることだけ信じてた方がマシだ、という態度は確かに合理的だし、平均的な日本人の態度というのはおおむねそういうものだと思います。


ところで、かつて新渡戸稲造という人がいて、武士道という本を書いて世界的なベストセラーになりました。これは日本にあった武士道というものを正確に解説した、というものではない。彼はクリスチャンだったので、武士道をキリスト教倫理になぞらえるような形で、日本にもそういう精神的な文化があったんやで、というやり方をして、ふむふむそれはすごい、って欧米でも歓迎されたという話です。


つまり、日本にも西洋の騎士道と並ぶような精神修行の文化がありましたよ、と。ここで、新渡戸は武士には武士道があったが、でも武士はキリストを知らなかった、というところまでは指摘した、と理解することができます。しかし当時の国際政治状況では、だから武士である日本人はキリストを知ってキリストを主と仰ぎましょう、というところまで話を進めることはできなかった。


でもいまならそういう話をすることもできるんじゃね?というのが私の問題意識なわけですね。キリスト教を国是にしたら欧米に植民地化される、みたいな状況はもうないわけですから。つまり、日本文化の、中心を曖昧なままにして周辺を充実させる、という在り方は、中心に偽物を置いて無用な争いになるような事態を避けるという文明の知恵でもありましたが、しかし最後に中心に正しく正しい本物を迎えるための歴史的な準備だった、と理解することができるわけです。


必ずしもキリスト教という人間の団体を信じるということではなく、端的にキリストそのものを信じる、というのが大事なところなんですが、まあでも現状こういう話に興味がある人はほとんどいないでしょうね。でもさー、AIとかで人類が労働する必要もなくなっていって、みんな暇になってきたらやることなくなってきて、こういうことも考えざるをえなくなってくるんじゃないかな。私はそう思うんですけどねー。

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