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企画参加作品、ヒューマンドラマ、ホラーなど

婚約破棄された平民令嬢は、辺境の湖に招かれる

作者: 久藤ナツメ


「セシリア、君との婚約はなかったことにする」


 公爵子息アーネストの言葉は、舞踏会の広間に冷たく響いた。


「不貞を働く女と婚約していたなんて……まったく恥ずかしい。大きな間違いだったよ」


 彼の隣には、名門サルディナ家の令嬢が嘲るような笑みを浮かべて立っている。すでに婚約指輪を薬指にはめた状態で。


 話し声も、音楽も、会場の空気が止まった。

 すべての視線が、ただ一人の“間違い”に注がれる。


 セシリアは大勢から侮蔑の視線を浴び、うつむいてぐっと唇を噛みしめた。


 反論しようとしても、もう言葉が出ない。

 すでに反論は散々した後だった。それでも誰にも、婚約者であったアーネストにすら信じてもらえず、今、大勢の前で断罪が続いている。


 かすかな望みを持って、もう一度アーネストを見上げてみたが――彼は、最初から赤の他人であったかのような、冷ややかな目をしていた。


 貴族たちが、嘲笑う。


「平民上がりの卑しい娘」

「あんな立派な婚約者がいながら、他の男と通じていたんだって」

「それも一人や二人じゃないのよ」

「記憶力が良いからって、あれほど評価されるなんておかしいと思ったわ」


 もちろん不貞などしていない。事実ではないから、証拠もあるわけがない。

 評価されたのは、自分の働きが成果を上げたからだ。そんなことは調べればすぐにわかる。

 でも、もうここでは、ただ平民出身であるという事実だけが、全てを決めていた。


「私は……不貞など、しておりません」


 何とか声にしてみたものの、同じことを何度も訴え続けてきたためか、声は掠れてしまって誰にも届かなかった。

 広間には嘲笑の波が広がる。


「しょせん、小狡い平民」

「滑稽な猿真似をしたところで、貴族になれるわけないのに」

「思い上がりが」

「同じ場にいるのも汚らわしい」


 セシリアの視界が涙でにじんでいく。

 婚約者だった男の姿もぼやけて見えなくなる。いや、もう見たくなかった。


 そのとき、彼女の視界の端で何かが揺れた。

 壁にかかる水彩画。

 遠い領地で描かれたという美しい花嫁の肖像。


 手元には、白いブーケが一つ握られている。


――きれい。


 そんなことを気にしている場合ではないのに、セシリアはなぜか目を奪われた。

 花の名は分からない。ただ、どこかで見たことがある気がした。


――こんなところで、泣くわけにはいかない。


 セシリアは静かに息を吸うと、顔を上げて、誰よりも美しい所作で一礼した。

 それから、


「承知いたしました」


 と言うと、なんでもないような顔をして、舞踏会を退席していった。


「まあ、平気な顔して」

「恥知らず」

「謝りもしない」


 手足は震えていたが、公爵家の元婚約者に相応しい所作だけは、最後まで守り通した。



 ◇ ◇ ◇



 セシリアは孤児だった。


 名もなき村の教会に置かれた赤子は、泣くことも少なかった。

 祈りの言葉を一度聞けば(そら)んじ、礼儀作法も見よう見まねで身につけた。そして、美しい娘だった。


 やがて、彼女は王都の“教育庇護制度”に抜擢され、男爵家に引き取られる。

 それは、才ある子どもを貴族の器に育て、王都に仕える“人材”として鍛え上げる仕組みだった。

 セシリアは、そこでも従順に、誠実に、期待に応え続けた。


 やがて彼女は、公爵家の第三子――アーネストの侍女となる。

 その頃の貴族社会では、平民を取り立てること自体が“気高き余裕”としてもてはやされていたのだ。

 知識も礼儀も申し分ないセシリアは、“平民と貴族の橋渡し役”として注目された。


「君の存在は、僕にとって希望そのものだ。生まれが平民だとか関係ない。どうか僕の婚約者になってほしい」

 アーネストからそう告げられたときの喜びを、セシリアは今でも忘れられない。


 恋ではなかった。けれど、自分にも居場所があるのだと思えたのだ。

 そして、今夜。


 貴族社会は“本来の秩序”を選んだ。

 セシリアはもう用済みだった。

 それどころか、夜会の見せ物として消費された。


 よくある貴族の気まぐれ。

 本気にして、翻弄されたのは愚かな自分だ。


 その夜、セシリアはたった一人、自分の部屋にうずくまり嗚咽した。

 この部屋もきっと今日限り。

 家の主人である打算的な男爵は、価値のなくなった平民の娘など、一分の同情もなく切り捨てるだろう。

 これまでの努力は、全く意味がなかったと、いやでも思い知らされる。


 何も努力などしなくても、生まれて笑っているだけで、幸せになれる人間がいるというのに。

 そんな人間の暇つぶし程度に、こんな辱めを受けるなんて。

 自分はあんな大勢の前で、不貞をはたらく女だと烙印を押され、明日には王都を追放されるだろう。


 もう、消えてしまいたい。

 こんな生まれの自分が、どうやって生きていけるのだろう。

 他の人と同じになりたいと望んでいたけれど、絶対に叶わないと思い知らされた。


 泣いたところでどうしようもない。分かっていたけれど、気持ちの行きどころがなかった。

 これまで耐えてきた分の涙なのか、とめどなく流れて冷たくて――


 涙なんてきれいなものじゃない、ただの水と同じよ、とセシリアは思った。



 ◇ ◇ ◇



「辺境の侯爵家から、貴女を迎えたいと申し出がありました」

 

 舞踏会の翌朝、執務室で老執事は淡々と告げた。


「政略結婚とはいえ、貴女の立場はご存じとのことです。……それでも“ぜひに”と」


――昨日の今日で?


 セシリアは不審に思ったが、行くあてもない。

 何より政略結婚というからには、従う他ないだろう。


「場所は――リメル湖、ヴェリエ侯爵領」


 その名を聞いたとき、セシリアは小さく息を吸い込んだ。

 地図には載っていない。けれど、その名は聞いた覚えがある。


 幼い頃に読んだ、民間伝承の中だったかしら――


 受け取った文書の角には、にじんだような水染みがひとつあった。

 それが偶然ついたものかどうか、セシリアにはわからなかった。



 ◇ ◇ ◇



 ◇ ◇ ◇



 ヴェリエ侯爵家の領地に着いた日、セシリアはひどく眠気を感じていた。

 馬車の長旅のせいかと思ったが、それだけではない。

 空気が重い。水分を含んだ大気が体に染み込んできて、思考がどこか霞んでいた。


――何も考えたくない。


 頭脳明晰なセシリアにとって、それは初めて抱いた感情だった。

 


「ようこそ、お待ちしていました」


 穏やかな笑顔でセシリアを出迎えてくれたのは、侯爵家の若き当主――レイノルド・ヴェリエ本人だった。

 すっきりとした顔立ちに、落ち着いた眼差し、静かな声音の青年だった。

 どこか不思議な雰囲気を漂わせたレイノルドは、王都の社交界でも、ひときわ目を引いただろう。

 王都にいるプライドの高い貴族たちとは全く違う、沈黙が似合う人だった。


 侍従や侍女たちも、皆穏やかな雰囲気の人々で、まるで長年待っていた贈り物が届いたかのようにセシリアは静かに歓迎された。冷遇されることを覚悟してきたセシリアにとっては、思ってもみない幸運だった。


「初めまして、私は――」 

 

 身に馴染んだ貴族の作法で名乗ろうとした時、レイノルドはふわりと微笑み、人差し指をそっとセシリアの唇に当てた。


――!!


 思わず赤面したセシリアに、レイノルドはひんやりと柔らかな口調でこう言った。


「ここでは名前など、なくていいのですよ」



 ◇ ◇ ◇



 湖畔の屋敷に到着したその日から、セシリアの時間はどこか曖昧で、記憶は日に日にぼやけていくようだった。

 朝は鳥の声で目覚め、昼は湖岸に柔らかな風が吹き、夜は静寂の帳が降りる。

 それはまるで夢の中にいるように穏やかで、何かが決定的に欠けているようでもあった。


 セシリアは、自分がこれまでと少し違うことに気づいた。

 些細なことが思い出せない。

 朝に食べたもの、馬車での風景、侯爵家から渡された文書の内容――すべてが、水ににじんだインクのように曖昧になっていく。


 王都では、記憶力こそが彼女の武器だった。

 祈りの言葉を一度で覚え、貴族の家名も相関図も寸分たがわず把握して、間違えたことなど一度もなかった。


 それなのに、今の自分は、何もかもがぼんやりしている。

 でも困ることはなかった。

 ここでは、誰も過去の話をしなかったから。


「日々は流れるものですから」


 レイノルドが優しく微笑み、そう教えてくれた。


「ここでは、昔のことは語りません。日々は水のように流れ、移ろうままにあるのですから」


 思えば、誰も――レイノルドさえも、セシリアを“セシリア”と呼ばなかった。

「あなた」「奥様」「花嫁様」――その程度だ。


 年齢も、生まれも、口にされることはなかった。

 他の人たちも、名前を呼び合うことはない。


「皆、等しく同じに流れる日々を過ごしていく。それが、ここでの暮らしです」


 レイノルドの静かな言葉は、ゆっくりとセシリアの心に染み込んだ。

 

 王都では、ことあるごとに言われてきた。


「平民の娘」

「卑しい成り上がり」

「汚れた血筋」


……面と向かわずに刺してくる言葉が、心に細かな傷をいくつもつけてきた。


 けれど、ここでは誰も過去を問わず、蔑まれることもなく、穏やかな笑顔で迎えてくれる。

 それがどれほどセシリアにとって安らぎになったことか。

 たとえ、奇妙なことの多い屋敷だとしても、セシリアは王都にいるより心穏やかだった。



 ◇ ◇ ◇



 婚約者のレイノルドは必要以上にセシリアに関わろうとはせず、けれど、決して冷たくはなかった。

 朝には湖畔の花を飾り、食事の際には静かな話題を提供し、過剰な気遣いも同情も見せなかった。

 今まで誰もくれなかった種類の優しさが、そこにはあった。


「花は、お好きですか?」


 ある日、レイノルドにそう尋ねられた。

 返事をする前に、彼は温室の奥にある台座を指し示した。

 そこには、乾いた白いブーケがいくつも並んでいた。


 白バラ、百合、マーガレット――どれも少しずつ枯れ方が違い、けれどなぜか一様に、穏やかで美しかった。


「みんな、ここを居場所とされた方達です。とても綺麗でしょう」


 みんな、ここを居場所に――


 その言葉の意味を問いかける前に、レイノルドは優しく笑って、白い花を一輪差し出してきた。


「ここはあなたにとって、居場所になりそうですか?」


 柔らかい声だった。

 一瞬、かつての婚約者・公爵子息の顔が重なる。


「君は平民の生まれだけれど、僕の隣を居場所にすればいい」


 そういってくれたこともあった、あの人――

 今思えば、彼は”平民と対等である貴族”という注目を浴びたいだけで、セシリアと婚約したのだ。


 けれど、今は違う。

 レイノルドの声には、野心も飾りもなかった。ただ、そこにある湖のように、静かで、深く、どこまでも透き通っていた。


 セシリアは、ぼんやりと頷いた。


 言葉にしようとすると、胸の奥がつかえてしまう。


 


 最近、ずっとおかしいのだ。


 

 たとえば、水音。


 誰もいない部屋から、水から上がるような音が聞こえることがある。

 耳をすませると、遠くで湖が波打つような、心臓の鼓動に似た音が、絶え間なく続いている。


 夜、眠りにつく頃になると、暗闇のどこかから水音がする。


 最初は、ぽたり、と何かが滴る音だ。

 石の廊下に落ちた雫が、小さな波紋を立てているような、静かで、冷たい音。

 セシリアは寝台の上で耳を澄ました。音は次第にリズムを持ち始める。


 ぽとっ

 ぽとっ

 ぽとっ

 ぽとっ


 濡れた足で歩くような音。

 靴ではない。裸足の足音。水に濡れた肌が、石の床に吸い付いて離れる、あの特有の音。


 初めは気のせいかと思うほどかすかに、けれどその音は徐々にはっきりとして、まるで誰かが、廊下をこちらへ向かって歩いてくるような気がした。


 セシリアはシーツを握りしめ、息を殺す。

 けれど、その音は寝室の前まで来たかと思うと――すっと消えた。

 耳の奥に残っていた水の気配も、霧が散るように消え去った。


 誰もいない。

 それでも確かに、音は聞こえていた。

 そして不思議なことに、セシリアの胸には、ほんのわずかな安堵が残った。

「来てくれた」と思う自分に、彼女は少し驚いた。


 何を待っていたのかは、自分でもよくわからない。




 眠りも浅い。


 同じ夢ばかり見る。


 


 仰向けになって、湖の底に沈んでいく夢。

 水面は光を通して眩しく輝き、ゆらめく白い天井のようだった。 


 重く、静かで、苦しくない。

 水の中は明るく温かくて、すべての音が遠のいていく。

 平穏で、安心で、自分のいるべき場所――


 けれど、自分が沈んでいく先、背中の方――湖底には何かがいる。

 暗くて深い水の底から、誰かの冷たく見開いた目がこちらを見ている気がして、セシリアは湖底を見ることができなかった。




 屋敷に来て数週間が過ぎた。正確には、どれくらい時間が経ったのか、セシリアにはもうわからなかった。

 セシリアは、自分が何をしていたかうまく思い出せないことが多くなった。


 日々は穏やかだった。温かい食事、湖面をなでる優しい風、丁寧な人々の言葉。

 けれど、それらはまるで小石が立てる水紋のように、広がっては消えていき、記憶に留まらなかった。

 それでも不安はない。

 むしろ「思い出せないこと」は、ここでは当たり前のように思えた。

 


 ◇ ◇ ◇



 その日、セシリアは侍女たちと一緒に、屋敷の裏庭を散歩していた。

 草は湿って柔らかく、歩くたびに水が跳ねた。

 石造りの礼拝堂が見えた。周囲には十数体の女性像。

 どれも微笑んで、湖のほうを向いている。


 ふと近づいて見上げたとき、セシリアは息を呑んだ。

 一体の像の首元に、薄く名前が彫られていた。


 S──ria


 それは、削られかけて、かすれていた。

 

「……これは、誰の像ですの?」

 侍女たちに尋ねると、彼女らはいつもと同じように笑った。


「代々この地に嫁がれた、花嫁さま方です」

「水の加護を繋ぐ存在として……この屋敷にいらした方々」

「皆さま、お幸せに暮らしておられました」

 

 セシリアは黙って像を見つめた。

 微笑む石像たちは、どれも優しい顔をしていた。

 けれど、どれ一つとして名前が記されていない。

 輪郭の似た顔。表情の変わらない目。


――誰ひとり、語られないのに、なぜここに“残っている”のだろう。


 その矛盾に、セシリアはうっすらと不安を覚えた。

 この土地では“過去を語らない”はずなのに。

 けれど、そうした違和感さえも、水に濡れた空気がすぐに拭い取っていく気がした。

 

 夕食の席で、レイノルドにさりげなく尋ねてみる。


 「この屋敷には、昔から花嫁を迎える習わしが?」


 レイノルドはスープを口に運び、少し考えるような間を置いてから答えた。


「そうですね。うちの家系は、代々“水の加護”をいただいています」

「水の加護?」

「花嫁を迎えることは、加護を保つための――“巡り”の一つなのです」


 言いながら、レイノルドはセシリアを見なかった。

 まるで、目を合わせてはいけないことを知っているかのように。

 静かに、自然に、けれど確かに視線をそらした。


 それは彼なりの優しさにも見えたし、何かを知っている者の礼儀のようにも思えた。


 レイノルドの言っていることは、よくわからなかったが、セシリアは問い返さなかった。


「……あなたも、この地に馴染まれているようで、何よりです」


 セシリアは、その仕草の意味を掴みきれないまま、心のどこかに、ひやりと冷たいものを落とされた気がした。



 ◇ ◇ ◇



 その夜、セシリアはいつもの夢を見た。

 湖の底に沈んでいく夢。

 水の中は、静かで、何も聞こえなくなっていく。


 けれど――耳の奥に、水がぽたりと落ちる音がした。

 その瞬間、夢の中の湖面が、ゆっくり波立ち、その勢いで彼女の体はうつ伏せになった。

 そして、今まで見ないようにしていた湖底が目に飛び込んできて――


 波の音が、現実にまで届いた気がした。

 

 ハッと目を覚ますと、部屋の中に水音が残っていた。

 現実の静けさの中に、ぽたり……ぽたり……と、確かに聞こえる。


 導かれるようにして、セシリアは寝台から起き上がり、部屋の扉をそっと開けた。

 足音は立てなかった。廊下に置かれた絨毯が、濡れたように柔らかく沈み込んだ。

 遠くのほうから、裸足で歩くような水音がかすかに聞こえる。

 

 石造りの階段を下り、湿った空気に包まれた地下へと、彼女は足を進める。

 そこには、水の音しかない空間があった。


 灯りのない廊下の先、ぽつんと並ぶ祭壇。

 白い布がかけられたそれは、何もないように見えたが――近づくと、布の下に、小さな額縁がいくつも置かれていた。


 額には、肖像画。

 水彩のようにぼやけた顔立ちの女性たち。

 どれも笑っていた。どれも、同じ穏やかな微笑みで、似たような白いドレスで、白いブーケを手にしている。

 そして、その一番奥に――セシリア自身の顔が、描かれていた。

 

 名前は書かれていない。けれど、それが「自分だ」と確信する何かがあった。

 それは、孤児の自分でもなければ、王都にいた頃の自分でもなかった。

 ここで暮らす今の自分。


――私は、こんな顔をしているのね。

 

 その瞬間、どこかで水の音がぴたりと止まった。

 静寂。

 体の中にひたひたと静かな水が染み込んで、今にもあふれそうな気がした。


 セシリアは、ゆっくりとその場に膝をつき、そっと額の中の微笑みに触れる。


――また、水が落ちてきた。



 ◇ ◇ ◇



 ◇ ◇ ◇



 結婚式の朝、鐘が鳴った。

 

 湖畔の空は青く澄み、風はなく、水面は鏡のように静まり返っている。

 花嫁衣装に身を包んだセシリアは、誰に導かれるでもなく、城の奥から現れた。

 手には白いアネモネで作られた、小さなブーケを携えて。


 屋敷の従者・侍女はもちろん、湖畔の住人たちも集まって、皆、微笑みながら彼女を見送った。まるで、春を祝うように。


 レイノルドの姿は、まだ見えない。

 

「水は、すべてを流してくれます」


 誰も彼もが、口々に囁き、さざなみのような言葉が広がっては消えていく。


「水は、すべてを溶かしてくれます」

「痛みも、貶められた記憶も、名前さえも――」

 

 湖の前には、丸い白石で囲まれた小さな祭壇があった。その中央に、古びた水鏡のような鉢が置かれている。

 セシリアは膝をつき、その中を覗き込んだ。

 

 そこに映ったのは、知らない顔。

 だが、それは間違いなく、今の自分だった。


 穏やかで、ありのままでいて、静かに微笑んでいる。

 血のにじむような努力もせず、燃えるような怒りもなく、自分のために抗うこともせず――

 

 髪の色も、話し方も、整えた姿勢も――王都で必死に覚えた礼儀作法、滑らかな発音、誰かに認められるための完璧な微笑み。


 それらすべてが今、誰のものでもない形に溶けようとしていた。

 自分でいなくてもいいという、柔らかな甘さ。けれど同時に、うっすらとした恐怖が胸を冷やす。


 そのとき、耳の奥で、さざ波のような囁きが広がった。


「水は、すべての境をなくします」

「濁りは広がり、散らばって、みな等しくひとつになれます」


 それは誰の声ともつかず、湖そのものが囁きかけているようだった。


 セシリアは答えようとしたわけではない。

 けれど、気がつけば足が水面へと向かっていた。

 まるで、そうすることが最初から決まっていたかのように。


 

 祭壇から立ち上がり、湖へと向かう。

 集まった人々は、笑顔のまま深く頭を下げた。

 

 足元に、水が触れる。

 冷たさはない。温かく、柔らかく、身体をなでるように。


――あの夢と、同じだ。


 まるで、失ったものも消してくれるようだった。そう、手に入れたものなど、初めから何もなかったかのように。

 

 セシリアは一歩、また一歩と水の中へ進む。


 セシリアは目を閉じた。

 あの肖像画と同じ穏やかな微笑みを浮かべて。

 水が喉元に触れたとき、ふと、頭の奥で問いが(またた)いた。


(これは……本当に、私が望んだことなのかしら)


 セシリアのぼやけていた本能が、恐怖を呼び覚まそうとする。


――私が、なくなっていく……

 

 その時、背後から静かな声がした。


「ずっと待っていましたよ」


 振り返ると、レイノルドがいた。

 その顔は、いつものように穏やかで、柔らかく、おかしいことなど何もないかのようだった。


「あなたもようやく……誰とも区別のない存在になれるのです」


 そう言うと、レイノルドは一層やさしく微笑んだ。

 まるで、古くからの約束が果たされたかのように。


 その瞬間、セシリアは気づいた。


 レイノルドの瞳が、過去の誰かに重なって見える。

 同じ言葉を、きっと何人もの花嫁に――



――この場所はおかしい。


 過去を語ってはならず、名前も持たず、誰かと自分の区別も曖昧だ。

 なのに、肖像画や石像は残り、花嫁のブーケも溜まっていく。


――本当は気づいていた。最初から、ずっと。


 けれど、その不穏さえも泡のように音もなく消えていく。

 湖はあまりにも穏やかで、あまりにも優しかった。


 その流れに足を取られていることさえ、気づかないほどに。

 抗うには、静かすぎた。



 セシリアは立ち止まらず、水の中へと進んでいく。

 ゆっくりと、水が胸元を越え、顔を覆い、耳を塞ぎ、視界をにじませていく。

 セシリアは消えゆく意識の中で、自分の輪郭を思い出そうとした。

 

 孤児のセシリア。

 誰よりも早く礼儀を覚え、懸命に働いた日々。

 努力が認められ、賞賛を受けたこと。

 舞踏会で浴びせられた侮辱。


(私は、たくさん努力した。孤児という運命にだって抗い続けてきた。――なのに)


 記憶は濡れた紙のようににじみ、やがてぼやけて零れ落ちていく。

 苦しさも悔しさも、すべてが柔らかくほどけていく。


(水の中は心地良い。みんな同じで、何も考えなくていい。――ああ、でもここは)



――ここは、記憶を流すふりをして、深く沈めて澱ませる場所。



 最後に思ったことは、言葉にもならないまま、水の中へと沈んでいく。


 やがて湖面は、何事もなかったように静まり返った。

 波紋すら残さず、青い空を鏡のように映していた。




 ◇ ◇ ◇




 その夜。


 レイノルドは、小さな白いブーケを手にし、温室を訪れた。それはセシリアが式の時に手にしていた白いアネモネのブーケ。


 温室の奥の台座には、乾いた白いブーケが静かにズラリと並んでいる。

 語られることのない、けれど積もり続ける水底の一部。

 

 レイノルドは、手にしたブーケをその中へそっと置いた。


「……セシリア」――そう呼んでから、彼は微笑んだ。

「あなたが選んだことですから――きっとこれでいいのです」


 ひとつ増えた、白く乾いた花嫁のブーケ。

 もう、光ることも香ることもない。


 かつての違いは確かにあったはずなのに、列に並んでしまえば、もう見分けがつかなかった。


 ただ、最初からそうあるべきだったかのように、新しく加わった白いブーケは、静かに沈黙の列へと溶け込んでいった。


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