5話 矜持と誇り
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街で暮らす自分を大層心配する過保護な両親との昼食会を終え、すっかり疲れ切って星爵家から自宅へと帰る馬車の中。
ベルベットの座席に深く腰を預けながら、私は簪に触れていた。
──トリマリア玉石。由緒正しいアルクレスト家の紋章石。
光にかざすと澄んだ青が微かに揺れて、窓の向こうの空に色を溶かしながら輝く。
『ねえ、リシェルさま。星爵家の皆様はご立派な方々ですね。さすがはリシェルさまのご家族です』
隣で、ルルがふにゃっと笑いながら言う。
『まあ、ね』
返す言葉は敢えて素っ気なくしたが、家族を褒められつい口元が緩むのを自覚する。
疎遠にはしているが、やはり好きではあるのだ。
『今のあの家にいるのはちょっと息が詰まるけど。でも、帰る場所があるっていうのはありがたいよね』
『私にも森がありますよ!いつか両親にリシェルさまをご紹介したいです』
ルルは呑気にそんなことを言いながら、興味深そうに車窓の外を眺めていた。好奇心の強い子だ。
と、その時。
不意に馬車が止まる。大きな振動の後で急に車内は静かになり、遅れて昔馴染みの御者の「失礼します」という声が届いた。
「どうかした?」
扉越しに訊ねると、御者が申し訳なさそうに答えた。
「すみません。前方の交差点で、少々騒ぎが起きておりまして。急ぎ確認の者を回しますが──」
「じゃあ、私も見に行こうかな」
気になって扉を開ける。
「えっ、リシェルミアナお嬢様!?それは──」
慌てる御者の声を背に、私はさっさと馬車を降りて交差点へと向かった。
◆
交差点は思った以上の混乱に包まれていた。
状況を見るにどうやら、無理に交差点を押し通ろうとした貴族の魔導車が、商人の馬車に横から突っ込んだようだ。
馬車を引いていた歩馬の手綱が切れて暴れ回っている。ホルスは通常の馬よりも力の強いモンスターだ。温厚な生き物だが、錯乱したまま群衆の中にいるのは危険だった。
……などと考えていると突然、戸惑う群衆の一角の前で、ホルスが大きく前脚を上げた。
「だめ」
私は咄嗟に駆け寄り、ホルスの前に立つ。
背後から悲鳴が上がった。
「嬢ちゃん!危ないぞ!!」
だが、私は落ち着いて立ち上がったホルスの目を見つめ、語り掛ける。
『だめだよ。落ち着いて』
『言葉?何で?』
『大丈夫。もう大丈夫だから』
つとめて優しい話し方を心掛けながら、ゆっくりとホルスの前脚を地面に着かせる。
ホルスの瞳は怯えに揺れていた。
『痛い……怖かった』
かすれたその声に、私はそっと頷いた。
『うん。よくがんばったね。大丈夫、もう暴れなくて大丈夫だから』
魔導車とぶつかった脇腹に手をかざして、簡単な治癒術式を発動する。すぐに傷が塞がり、魔獣の呼吸が落ち着いていくのを感じた。
いつの間にか静かになっていた周囲の人々が、再びざわめき始める。
「……一瞬で落ち着けちまった」
「ホルスの前に立った時はもう駄目かと思ったが。嬢ちゃん、すげえな」
つぶやきが伝播する。
私はそれを聞き流して、今度は魔導車と馬車の方に向き直った。
道の中央には豪華な魔導車が停まっている。少し離れて、馬車が暴れるホルスに引き摺られたのか路肩に滑り込んでおり、近くでは女の子が泣いている。
その父親であろう商人が、恐れと怒りの入り混じった表情で、喚き散らす若い貴族と向き合っていた。
「ふざけるな!商人風情が!これは王都にも五台とない最新の魔導車だぞ。傷ついたらどうする!」
「しかしですね……。うちのホルスが怪我をさせられたんですよ。手綱が切れたのだってそちらのせいです!」
「だからなんだ。ホルスの一頭や二頭くらい!この塗装だけでそいつらを群れで買えるんだ!」
……なるほど、これは。
私はとりあえず、言い争う貴族と商人の間をすり抜けて、泣いている少女の頭を軽く撫でた。
「泣かないで。ほら。お父さんも頑張ってるから」
そう伝えると、彼女は商人の方に駆け寄ってその足にしがみついた。
実際彼はよく頑張っている。身分差に萎縮しつつも何とか言い返そうという姿勢には好感が持てた。
一方で若い貴族の男の方は──。
私は魔導車に近づくと、ぺたぺたとわざとらしく車体を触った。
「ねえ、そこの人。よかったね。傷、ついてないみたいだよ」
すると予想通り貴族は激昂する。
「お前、な、なにを!そんな汚い手で僕の車を──」
「“汝、貴族を何と心得るか”」
喚く彼に、私は戴爵の際に全ての貴族が国王からされる質問を口にした。
その聞き覚えに、反射的に男は口を止める。
「貴族が自分の財産を気に掛けるのは悪いことではないよ。当然だと思う。でもそれは決して、民の命や安全に優先されるものじゃない」
「なんだと?」
「貴族に権威が与えられるのは、民の規範となる存在だから。貴族の家に生まれついたからといって、何もせず“そう”なるものではないんだよ。権威を笠に着て弱者を虐げることは認められない。……貴族としての矜持と誇りを失えば、あなたに流れるその血が泣くよ」
「なんだ、お前は……」
男は顔を真っ赤にして叫んだ。
「くだらない説教に耳が腐る!家名を名乗れ。どこの家の者だ!」
今日は星爵家王都邸に着いてすぐに使用人たちに、普段の動きやすい服から青のドレスに着替えさせられてしまっていた。腰から足首にかけてプリーツで作られた薔薇のラインが引かれており、上半身には大粒のラピシアが縫い込まれて輝いている。
彼は私の服装を見てどこかの貴族と判断したのだろう。
だが、私は敢えてそちらでない方を名乗った。
「私は冒盟の一級契約者、リシェルだよ」
懐からいつも持ち歩いている契約証を取り出して見せた。赤の証書に純銀の文字。それは契約者の高みの証だ。
実際は私は神獣調律官の経歴によって一級にしてもらっただけだけれど、外の人々はそんな事情、知る由もない。
そもそも一般に、戦いと狩りに生きる契約者は階級社会の埒外にある。その頂点に近い一級契約者ともなれば、並みの貴族とは十分対等な存在である。
男は言葉を失ってしばらく口ごもっていたが、やがて絞り出すように怒鳴った。
「だが……だが!一級の契約者と言っても所詮は平民だろう!そんな奴に貴族の何たるかを語る道理はないはずだ。それをお前は──」
しかし、苦し紛れの台詞を言い切る前に、彼の視線が私の髪に挿された簪を捉えた。
お兄様の挿したトリマリア玉石。
それは、偽ることの赦されない星爵家の象徴だ。
「まさか……。いや、星爵家の娘が街で契約者をやっているという噂はたしかに……あぁ、糞っ。どうしてこんなところで……!」
顔を一気に青ざめさせ、そのまま男は踵を返して足早に魔導車に乗り込んでいく。
──そうだ。
もし、彼の考えに従って平民は彼の理不尽に従わなければならないとすれば、下級貴族であろう彼が星爵家の私に逆らうことは同じくらいあり得ない行為なのだ。
それが正しいことか、そして私にその資格があるかは別として。
遅れて、声が上がった。
「すげえぞ!お嬢様!」
不意に、誰かの掛け声を口火に、周囲の市民たちから控えめな拍手が始まる。
私が上位貴族の関係者であると察してかおそるおそるの喝采だったが、騒然としていた広場に平穏が戻っていくのを感じた。
「……まったく。相変わらずでいらっしゃいますね、リシェルミアナお嬢様は」
私の行動を止めずに見ていてくれた御者が苦笑した。
急に照れ臭くなって、私は自分の馬車へと歩を進める。
「ほら、行くよ」
別にこれは私の趣味の問題だ。
あの商人と貴族を見比べて、貴族の方が気に食わなかっただけ。正しいことをしたなどと言うつもりはない。正義なんて髪飾りの流行と同じくらいには曖昧だ。
少し速足で行く後ろで、ルルがまたしてもふにゃっと笑っていた。
『リシェルさま、かっこよかったです!』
無邪気にドレスの裾にくるまってはしゃぐ。天上蚕糸の布が気持ちいいのだろう。
◇
一方のヴァルトハラン所有の第四区タウンハウス。
魔導車の一件から数時間後、レグナスは、リシェルの後を追わせていた部下からの報告を聞いていた。
「……とのことです」
報告を終えた部下が一歩下がる。
聞き終えたレグナス王子は机に肘をつき、ゆっくりと唇の端を上げた。
「殿下。魔導車をぶつけたのはカチャカ華爵のようです」
背後から今回の遠征の護衛隊長であるテルマ―が補足する。
「消すか?リシェルを煩わせたことだし……」
「お戯れを」
厳しいテルマーの言葉に主は「冗談だ」、と大きく手を振った。
「ともかくそれを相手にリシェルは家名を出さずに、な」
「とはいえ、報告の内容からすれば立ち去る前には彼もリシェル嬢の出自に気づいたようですが……」
「それにしても。彼女はそれを用いない方法を選んだ」
静かな室内にレグナスの愉快気な声だけが反響する。
「リシェル……やはりあの頃から変わっていない。誰よりも気高いままだ」
なかば陶酔するような王子の言葉に、テルマ―は眉をひそめながら言った。
「殿下。リシェル嬢にご執心なのはこの際なにも申しません。いろいろと面倒ですが、なんとかこちらで王妃とする道も模索できるでしょう。しかし今回は──」
「わかっているさ」
レグナスは静かに椅子を引いた。
「そうだな。そろそろ教国に帰らないと父上がうるさくなる。──その前にあれの確認を済ませねばならんな」
この世界の偉い順は以下の通りです。
皇家
星公 皇族の外戚などの例外。今は皇后の父である前タタルガルド星爵のみ
星爵 通常の貴族のトップ。タタルガルド、ナクトノート、アルクレストの三家のみ。
耀爵 上級貴族。どこもかなりの大貴族
護境爵 大別すると晶爵の一種で、普通の晶爵よりも格上。タタルガルド星爵が直接守護する北方以外の、国境を各要所を守護する
晶爵 中級貴族。持つ力は家によってかなりいろいろ
華爵 下級貴族
騎爵 功績によって与えられる一代限りの爵位
爵位はルミナリア皇国、ヴァルトハラン教国で基本的に共通(トップのみルミナリアは国皇でヴァルトハランは教王)です。