3話 第一の出逢い ジェリー種のルル
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「……とりあえず、こんなのしかないけど」
私は戸棚の袋に残っていたビスケットを、床におろしたジェリーにそっと差し出した。
ぺたん、と地面に潰れていたゼリー状の魔獣は、その身体を小さく揺らしてこちらを見上げてくる。
ジェリー種は草とか土とかが主食のはず。甘さ控えめの素朴なバタービスケット、私は好きだけど、食べられるのか疑問だ。
『これ、平気?……ええと』
『ルルです。ルルって呼んでください。……ビスケット、ありがとうございます』
律儀に礼を言う彼女に、私も「リシェルだよ」と名乗り返す。
ルルと名乗ったジェリー種は水色の身体を大きく伸ばし、ビスケットは一瞬でその体内に取り込まれた。
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『美味しいです。でも……すみません。もうちょっとだけ、何か甘いのは……』
クッキーを食べ終えたルルは少しの間だけ膨らんで、すぐにしゅるしゅると萎んでしまった。拾った時よりは回復したようだが、まだ目に見えて元気がない。
『ごめん、ちょっと今うちにはもう』
『そうですか……』
『ねえ。ルルは、どうしてうちの裏庭にいたの?ジェリーは森に住む魔獣だよね』
『はい。……わたしも、最初は森にいました。でもわたし、小さい頃から葉っぱや土じゃだめで、甘いものを食べないと力が出ない体質だったんです』
たしかにモンスターの中には、通常と異なる体質の個体が稀に存在する。ルルもきっとそうなのだろう。
『ずっと花の蜜をご飯にしていたんです。でも最近、森の花から蜜が全然出なくなって……気が付いたら街まできてしまっていて。それで、甘い匂いを追いかけていたら、ここに』
私は裏庭に何となく作った花畑を一瞥して、納得した。
もし皇宮の庭園なんかに迷い込んだら駆除されていただろうし、うちに来たのは彼女にとって運がよかったかもしれない。
『まあ、じゃあ、そういうことなら何かもっと甘いものを……何かあるかな』
菓子類を買い込む方ではないので、あまり期待できないと思いながらキッチンをうろついていると、私はふと、あるものを思い出した。
「……そうだ、アレム」
礫武は古代の錬金術師に生み出された砂の巨人が自我を持ち、自己増殖したモンスターだ。
捕獲した者の命令に従うため、大都市では主要な区画の防衛に“守りのアレム”が置かれることが多い。だが、その体内で潤滑剤となっている樹液が時間とともに固まってゆくため、やがて動かなくなる。
この現象は現代の技術者や魔術師ではどうすることもできず、役目を終えたアレムはただの石像として公園などに移される。そして街の者は、新しい野生のアレムを捕まえてきて次の“守りのアレム”にすることになっている。
「ルルならいけるかも」
ちょうど、ルミナリア皇都第一区の広場のアレムが樹液詰まりを起こしたところだった。
冒盟は通常の樹液詰まりの際と同じくお手上げの姿勢だったが──。
◆
皇都第一区。
街の最も中心に位置するこの区には貴族の館が立ち並び、その合間を縫うように皇国の施設や、皇城で働く者の集合住宅が建てられている。
深夜の街は静かだった。
路地の灯も落とされていて、行き交う人影はない。
『こっちだよ』
ルルを抱えて歩く道は、昼間とはまるで違う顔をしていた。冷えた石畳は暗いのに妙に白く感じるし、もう春だというのに夜風は冷たい。
『この時間だとお店は開いていないのでは?』
『大丈夫』
私は心配そうに訊ねるルルに少し驚いた。
森の魔獣なのに人間社会のルールを随分しっかりと理解している。頭のいい子なのだろう。
『目的は、あれだからね』
第一区の中央広場に辿り着いて、私はルルを地面におろし、 “守りのアレム”を見上げた。
体高は約五メートル。二足で立つ岩の巨人。砂色の体にはところどころヒビが入っているが、それでも明らかに頑強なその外見は見る者に圧をかける。
だが先月に樹液詰まりを起こしてからは、ただの石像としてここに鎮座していた。
『ねえ、ルル。この中に入って詰まってる樹液の固まってるところだけを吸い出すことって、できない?』
私はアレムの関節を指さした。
ジェリーは不定形の魔物だから、理屈でいえばどんな小さな隙間にでも入れるはず。
『これ、中に入っていいんですか?』
『まぁ、夜だしね。……ばれなきゃ怒られないでしょ』
私の言葉に、ルルはしばらくじっとアレムを見上げていたが、やがて小さく頷いた。
『じゃあ、ちょっと、行ってきます』
とろり、と溶けるようにルルの身体が平面化し、石の巨人の中に染み込むように彼女は消えていく。
そうすると沈黙だけが残った。
静かな広場に、風の音が鳴る。
「……どうなるかな」
アレムの樹液は誰かが点したものではなく、生まれた時から自然に彼らの体内にあるものらしい。ほとんど市場に出回ることはないが、野生のアレムと交戦して破壊したことがある契約者によれば、この世のものとは思えない至高の甘さだという。
──ルルがもし気に入って飲んでくれれば、彼女も元気になるし、樹液詰まりも治るし、一石二鳥なんだけど。
そんな風に考えていると、不意にアレムの足元からがたん、と音がして、ルルが出てきた。
『吸えました!……すごく、すごく、甘かったです』
空腹から解放された安心感と、多幸感が混ざったような、ふにゃりと蕩けそうで、それでいて泣きそうな声。
小さな魔獣はすっかり元気になったようで、半透明の身体がほんのり樹液の黄金色に染まっていた。
『良かった』
私は端的に答え、今度は満腹で動けなくなってしまったらしいルルをまた抱えて、帰路につく。
第三区の家に戻る頃には明け方近くなってしまっていて、私たちはベッドに倒れ込むように一緒に眠った。
これが、私と彼女の出逢いだった。
……翌朝、皇都が「第一区の守りのアレムが突然また動き出したらしい」という話題で持ちきりになったことは言うまでもない。
◆
──そして数時間後。
「……?」
起きると、隣にいたはずのルルがいない。
「ルル?」
慌てて家の中を一通り探し、どこにもいないので玄関へ向かうと、外から微かにルルの声がする。
急いで駆け寄って扉を開けると──。
「おはよう、リシェル嬢」
見覚えのある金糸の上着を纏った、やけに顔の整った黒髪の男が、ルルを指でつまんで持ち上げていた。
ルルは自重でぐんにょりと伸びきっている。
「なにしてるの?頭が悪いの!?」
私は思わず大きめの声を出した。
が、落ち着いて見るとルルはどうやら嫌がっていないようだった。扉を開ける前に聞こえたのは彼女のきゃっきゃという笑い声だった気もする。
「ジェリー種が無限に伸びるというのは本当だったんだな。見ろ、ほら」
『……ルル。ルルはこれ大丈夫なの?』
『なんだかおもしろくてすきですよ。でも私のために王子様に怒ってくれるリシェルさまは格好いいです』
ルルにそう言われてはっとする。咄嗟の叫びだったが、冷静に考えれば王族にあんな口調で話すのは処刑ものである。
……とはいえ今さら謝っても藪蛇だ。
私はレグナス王子がそういうことに寛容な人間であることに賭けながら、適当に話をまとめた。
「……モンスターごとに性質というものがあるので、ご注意ください。例えば、群れで進行を始めたら止まらないものや、生涯眠らないものなど。ですので……」
「分かっているさ。だからこそ、こうして実物で確認している」
さらにぐんにょり伸びるルル。
こういうのは、分かっているとは言わない。
この人はやはり、顔は非の打ちどころがないけれども、ちょっと頭がおかしいようだ。それとも王族というのはみんなこうなのか。
「……もう。いい加減にしなさってください、レグナス殿下。その子は私の客人です」
ため息交じりに言うと、彼は肩をすくめてルルを離した。
「客“人”、ではないと思うがな」
「そういうことではなく」
「ああそうだ、お前に手紙が来ていたぞ」
本当に人の話を聞かない!
レグナス王子の急な話題転換に呆れつつ、まだ楽しそうに笑っているルルを抱く。
そして、彼から差し出された封筒を受け取った。
その瞬間、私は自分の表情が固まったのを自覚した。
……というか、他人の家の郵便物を勝手に見るって倫理観どうなってるの、本当に。
「見ないのか?」
「後でゆっくりルルと見ます」
「今見た方がいい。面白いぞ」
意地悪く笑う彼に、私は意図して低めの声で返した。
「……面白く、ないですよ」
平民や下級貴族は使うことが許されない紺碧の封蝋。トリマリア玉石の紋章。
それだけでルミナリア皇国に暮らす者であれば誰でも、内容を見ずともこの手紙の差出人を理解する。
レグナス王子もまた、送り主を察しているようだった。
「それで、いったいどこの誰からだった?」
答えが分かっているだろうに敢えて訊ねてくる絶世の性悪美形。
私は視線を外してくれない彼にもう一度ため息をつき、諦めて封を切った。
そして、ゆっくりと差出人の名を読み上げる。
「──アルクレスト星爵閣下」
ちなみにモンスターと魔獣は同義です。普通の動物もたくさんいます。
モンスターの仲間も少しずつ増えていく予定です。
あと、本作は「一部の固有名詞以外は日本語に意訳されている」というていです。たとえば作中の挽肉団子みたいな郷土料理はこちらに当てはめてハンバーグと意訳されます。