2話 “神獣調律官”
◆
轟乱熊の移動依頼をこなした翌日。
私の自宅では、午前のやわらかな光が街路樹の影を小さな窓に落としていた。ルミナリア皇都第三区──貴族街からは離れた、けれど比較的裕福な職人や商人が多く住む、穏やかで治安の良い地域。私はそこにあるタウンハウスに、一人で暮らしている。
台所に立ち、香草を効かせた紅茶を淹れてから、ゆっくり椅子に腰掛けた。朝食は軽く済ませたし、今日は冒盟に顔を出す予定もない。というか、あのやたらに顔の良い隣国王子レグナスとの関係について、質問攻めが再開されるのが目に見えているから顔を出したくない。
静かだった。
四階建てのレンガ作りの借家は、少し広すぎるけれど居心地がいい。一日中日差しがよく採れるし、そのへんで適当に見つけてきた花を植えてある裏庭も気に入っている。庭の先、隣の屋敷との境界には低木があり、時折小鳥が枝に留まっていた。
──レグナス王子。
彼の名前は、私に”あの子”の記憶を呼び起こさせる。
香草が鼻に抜けるのと重なって、私は、その香りで満ちた草原での大切な時間を思い出した。
かつて私が三年を共に過ごした神獣、奏装獣。
「……レギナ」
そう名前を口にすると、まだ胸の奥で、温かい記憶と離別の寂しさが交じるような感覚が燻ぶった。
◆
子供時代の私はありふれた少女のはずだった。
絹のような蜂蜜色の髪。陽光を弾く白い肌。まっすぐな鼻筋と柔らかな口元。それらは全てお母様譲り。すごく綺麗なお母様にそっくりで自慢だった。
そしてとても鋭い目つき。これはお父様譲り。お父様にはよく似合っていたけど、他のパーツのかわいさを全部帳消しにするそれを自分では好きになれなかった。
ただ一つだけ他の人と違って、私は、物心がついた頃からずっと魔獣と話すことができた。
幼少期を過ごした屋敷の広い庭の中央には大人の背丈よりも高い生垣があり、その奥はひっそりとそこに棲み着くことを赦された魔獣たちの世界だった。
彼らはすぐに小さな私の友達になった。屋敷の者たちに止められることもなく、私はいつも自由に庭に出ては彼らと話した。
そんな日常は私にとって当たり前で、お父様もお母様もお兄様も何も言わなかったけれど、実際にはそれは少しだけ、普通ではなかったらしい。
◆
十二歳の春。ちょうど今と同じ三の月。
東の大国、ヴァルトハラン教国で百年余ぶりに神獣が生まれたことが話題になった。
私たちのルミナリア皇国もふくめ一帯の国々で広く信仰される、ヴァルト教の総本山を構えるヴァルトハラン教国は、国全体が聖域とされ、完全な政教一致が採られている。
そのヴァルトハランでごく稀に生まれる特別な魔獣が、神獣オルガリウスだ。
神獣の誕生に前後して王族が亡くなる例が多いため凶兆とささやく者も中にはいるが、しかし教国の長い歴史の中で、オルガリウスは一貫して聖なるものとして大切に扱われてきた。
私は、観光のつもりで両親と兄とオルガリウスを見学に行った。
教国は通常、国境を閉じているが、新たに生まれた神獣のお披露目の際のみ他国からの参拝が許されるのだ。ヴァルト教を信仰する国々の者にオルガリウスの神々しい姿を見せ、教国の威光を保つためだという。
だから私たちも、単に「滅多にないヴァルトハラン旅行の機会だ」程度の考えで、そこへ行った。
だがその場で、私はあの子と会話をしてしまった。
お父様たちは私が魔物と話せることは知っていたけれど、まさか神獣にも通じるとは思っていなかったらしい。そして私の生活は急変した。
「神獣の世話係が必要だ」、大神吏が言った。「恥ずかしながら教国にも貴女ほど神獣と繋がり合える者はいない。生まれたての神獣が落ち着くまでで構わないから」、と。
ルミナリアへの帰国後に何度か手紙を受け取ると、私は誘われるままに神獣の世話係である神獣調律官になり、数日後にはもう実家を出て、教国にある“神の借り庭”で暮らすことになった。
「断っていいんだぞ」とお父様は言ってくれたけど、あの子はとても綺麗だったから、私は調律官になってもいいな、と本心から思った。
神獣オルガリウスは、この世界で最も美しい生き物の一つだ。
狼に似た気高い姿は濡れたような深い黒に塗られ、背に大きな翼。それは自然が生み出した楽器のようで、有機的な筋繊維が浮き出しつつも金属のような冷たさが入り混じる、どこか異質で荘厳なだった。
その世話係というのは、単に餌を与えるとか、体を洗うとか、そういうものではない。神獣が安定するまで心を通わせ合い、“調律”を施す役目。
──ゆえに“神獣調律官”。
その響きが気に入っていたかと問われれば……まぁ、少しだけね。
調律官をしていた間は実家から信頼できる侍女をつけてもらったし、お母様は月に一度は無理を通して会いに来てくれた。不満も不自由もない生活だったと断言できる。
◆
「レギナ」
それが、彼が私に告げた名前だった。ヴァルトハラン教国の言葉で、”共に”・”生きる”。
毎日、教国の大神吏とやりとりして、調律に関する報告や質問を行った日々。国内で教王に次ぐ地位の彼は忙しかっただろうに、返事はいつも簡潔ながら丁寧だった。今でも私はその声色を思い出せる。
三年間。十二歳から十五歳までずっと、そうやって毎日必死にレギナと過ごした。
──そして半年前、前触れもなく突然、レギナの調律は終わった。
「神獣も随分安定いたしました。もう、お国へお帰りいただいて大丈夫ですよ」、と。
最期に顔を見ることもできなかった。
そもそも神獣のことは他国には徹底的に秘されているので、当然なのかもしれない。──私はたまたま魔獣と話せる能力があったから、他国の人間でも使えるものは使っただけ。生きて返してもらえただけでも御の字だろう、という気もした。
それでも、三年ずっと一緒にいたレギナに別れさえ告げられなかったことを思いだすと、今でも少し、苦しい気持ちになる。
「レギナ」
レグナス王子も同じ由来だろう。きっと、あちらではとても高貴な名前なのだ。
もう二度と会えないであろう、友人の名……。
◆
その別れが、去年の夏の終わりのことだ。
役目を終えた私は自分が空っぽになったような気がして、けれど実家に戻る気も起きず、ふらりと冒盟本部に行って、試験を受けた。
何か、まだ魔獣と関わる仕事を続けたかったのだ。
といってもどうせ落ちるだろうと考えていたら、何だかんだと合格してしまって今に至る。
「契約者……私もよくやるなぁ」
ぼそっと呟いて、懐かしい香りの残るカップを傾けた。
魔力が多いわけでもなく、戦闘が得意なわけでもない。ただ魔獣と話せるだけ。それでも居場所があって、サラみたいな友達もいて、一応私にもできることはあって、時々感謝される。
「……たまにカイランが様子を見に来てくれるし、まぁ、悪くはない生活だよね」
カイランは幼馴染の鍛冶屋の息子だ。
私が神獣調律官をしているうちに、いつの間にか騎士になっていて、少し前には皇国軍騎士団に配属されたらしい。騎士団と冒盟の交流会のほかにも、私がここに住むようになってからは忙しい仕事の合間を縫ってわざわざ第三区まで来てくれる。
すっかり見上げるほど大きくなって筋肉もついたカイランは、精悍さの中に人懐こさを残す顔と短くそろった銀髪に、少し灼けた肌が良く似合う青年になった。
なのに彼は、小さい頃に「リシェルミアナを守るために騎士になる」なんて言ってくれていた名残のままに、いまだに妙に世話を焼いてくれる。
まあ、だからといって特別な関係ってわけじゃない……どうもご近所さんたちには誤解されている気がするけど。
「──そうだ」
いつか特級契約者になって、隣国までレギナに会いに行こうか。
冒盟の特級契約者ならば、特例として教国の国境を越えることができる。
ふと、そんな淡い目標が浮かんだ。
それから私はゆったりとした瞬きで思い出の残滓を胸にしまいこんで、空のカップを洗いに立ち上がった。
◆
その夜。
小さな天窓の上では、月が雲間から顔を出したり、また隠れたりしていた。風の音はやや昼よりも強く感じられる。
私はベッドで横になっていたけれど、昔のことを思い出したせいか、どうにも落ち着かなかった。
──何か、音がした?
がたん、と枝を踏んだような音。魔獣か、動物か、それともただの風か。
無視して眠ろうとして、やはり気になり、私は静かに起き上がってルームシューズを履く。そして音がした方──裏庭に続く戸口に向かった。
扉を押し開けると、夜気がひやりと頬を撫でる。自分の髪の蜂蜜色が視界の端ではためいた。
裏庭は暗い。けれども、微かに揺れる影が見えた。
「……ん?」
警戒しながら近づいてみると、そこにいたのは小さなゼリーのようなもの──魔獣の潤璃種だった。
ぺたんと地面に潰れている。
そしてよく見ればジェリー特有の半透明な青い身体を小さく震わせていた。
『どうしてこんなところにいるの?』
ジェリー種は小型で、人を襲うことはまずない。ただ、本来はもっと森の中や水辺などに生息する生き物のはずだ。
私は夜露に濡れる雑草の中に一歩足を踏み出して、しゃがみこんだ。
『怖くないよ』
そう声をかけると、ジェリーはぴくりとひときわ大きく震えた。
『迷子?それとも、体調が悪いのかな』
不定形のゼリーみたいなこの生き物は、多分風邪とかは引かないけれど、気分的にこれを放置してぐっすり眠れる気はしない。私はジェリーをそっと抱き上げた。
少し粘り気のあるひんやりとした体。
触れることを拒絶はされていないようだった。
『今晩だけうち、来る?』
すると無言を貫いていたジェリーが、ぽつりと一言漏らした。
『……おなかがすきました』