8話 第一皇子と星爵令嬢
◇
〈花の祝典〉当日、夕刻。
皇都中心部の石畳を深紅の魔導車が滑るように走っていた。
車体に刻まれた竜の紋章は皇家のもの。本来、皇城内部どうしでの移動は徒歩で済むが、大祭に合わせて敢えて魔導車に皇子たちが乗って市民にも見えるように場外を一周する、という慣例に従った走行だった。
後部座席に座る青年の名はエクリアス=ファン=ルミナリア。ルミナリア皇国の第一皇子にして、次期国皇になるべき人物だ。
銀に近い明るい金色の髪に整った色白な顔。中性的な面持ちだが碧眼は鋭く、それを憂いを帯びた重い睫毛が覆う。
車窓の向こう、それぞれの家々が思い思いの花を模した旗が飾る街並みを眺めながら、従者が祝典の参加者のリストをめくるのに対して、彼は薄い桜色の唇を小さく動かし、端的に相槌を打っていた。
「本日の花の祝典には、アルクレスト星爵家のご令嬢もご出席とのことです」
「……ああ。らしいね」
従者がリシェルミアナの情報を告げると、エクリアスは興味なさげに首を傾けた。
「確かめさせましたが、どうも本当に噂通り街で契約者をしているとか。いろいろな意味で“特別”なご令嬢だと囁かれております」
「そうか」
貴族筆頭の星爵家令嬢。
家格を考えれば自分の婚約者に据えられておかしくない──どころか、最も自然な相手だ。エクリアスはリシェルミアナについてそう客観的に見ていた。
だが、それ以上の感慨は特にない。
「ここで考えても仕方ないことだよ。どうせ今晩には会える。実際に優秀ならそれでいいし……もし我が国の星爵家の者としてふさわしくなければ、相応に扱うだけだ」
「左様で」
ふん、とエクリアスはつまらなそうに鼻を鳴らした。
しかしその後に、直近の報告を思い出してごく僅かに表情をやわらげる。
「とはいえ、先日のカチャカ華爵と商人の馬車の衝突の際の立ち回りはすでに僕も聞き及んでいるけれどね」
伝え聞いた話が真実であれば好感が持てるが……と思いつつも、自らの目で見たものしか信じてはならないと教育された第一皇子は、その先入観を意識的に振り払った。
そんな彼の様子を察して従者は一応補足を入れる。
「神獣調律官となる以前には、アルクレストで一通り星爵家の教育を受けておられたとのことです。なので、少なくとも作法などは問題ないかと」
エクリアスは、それを聞いて短く自身の記憶を辿ってみた。
現在十七歳の自分と十六歳のリシェルミアナ。
同年代の第一皇子と星爵令嬢だ。どこかで会ってはいるだろうが──。
「彼女は十二歳で家を出てしまったということだからね。正直、印象がほとんどないんだ」
まあ、そのおかげで今日は新鮮な目で中立的に彼女を見られそうだけど。そう考え、しかしさした興味は持てず、エクリアスはまた窓の外へと視線を外した。
皇族がルミナリアの心臓であることは間違いないが、国は三星爵家の均衡によって成り立っている。逆に言えば、三家のバランスさえ取れていれば皇国の運営は自ずと安定するのだ。
エクリアスから見て現国皇である父はそのことをよく分かっており……しかし分かりすぎている人物だった。
出娑張らず、欲をかかず。
決して愚鈍ではないが建国期の史書に書かれているような傑物でもない。
──そして自分もまた同じく。
エクリアスは己がそれなりに優秀であると自負しており、皇子としての努力も怠っていないと断言できた。
けれど。
もしこの時代が何か歴史の潮目になるようなことがあれば、父や自分には何もできないだろう……そんな恐怖が時折、彼を支配する。
「といっても、むやみに弱気になるべきではないね。何より今日はかわいい妹の誕生日だ」
街を回り終えた魔導車は再び皇城の正門へと滑り込んでいく。
エクリアスのつぶやきは車輪の音と合わさって、石に低く沈んだ。
◆
同刻。
私は星爵家の馬車の中で身支度の最終確認をしていた。
──薄青の柔らかな布地のドレスに白銀の刺繍。胸元と袖を控えめに飾るリリオラの花は、この国の春を象徴するものだ。デコルテと裾周りには幾重にも折り重なるレースが流れ、体を動かすたびに夜の微かな光を拾ってきらきらと瞬いていた。
「……控えめに、って言ったのに」
仮縫いの段階で、できるだけ地味にして欲しいとお願いしておいたのだけれど。
しかし、いざ完成したドレスは、家格をそのまま誇示するかのような存在感を放っていた。
こんなものを着た私に喜ぶのはルルくらいのものだ。
案の定、ルルは私の足元のふかふかのクッションの上で跳ねながら嬉しそうにしている。
『リシェルさま、今日はいつも以上におうつくしいですね。神さまが天使さまとまちがえてお空に連れて行ってしまわないか、心配になります』
どこの吟遊詩人の言い回しなんだか。
大袈裟すぎる誉め言葉に私は苦笑する。
『はいはい。……でも、ルルは今日はお留守番ね。大勢人がいるし、ちょっと疲れると思うから』
『はい!了解です。しっかりクッキーの番をしておきます!』
柔らかい体を微妙に伸ばして敬礼らしき仕草をするルルに小さく笑って、私は馬車を降りた。
◆
皇城前。
磨き抜かれた石畳には、煌めく無数の光の粒。祝いの花飾りの揺れる各家の馬車が行き交い、門の内外に上級貴族たちの姿が並ぶ。
私は気後れしながらも、その中に降り立つ。
──瞬間。
周囲の音が数秒だけ消え去り、遅れて辺りがざわめいた。
「アルクレストの娘?」
「病弱でもうずっと表に出ていないとか……」
「だが元は次期皇后の筆頭だったと聞いたぞ」
「うちでは勘当されて市井に落ちたと話していたが──」
「それにしても、この暗い夜に本物の月の女神のような……」
まあ、予想の範疇だ。
随分と好き勝手言われているわけだが、それもそのはず。私がこういう場に顔を出したのは四年ぶりくらいなのだ。しかも、以前は年端もいかぬ子供だった。
結婚できる年齢になって急に祝典に出て来た私に注目が集まるのは覚悟していたことだ。
それにおそらく、”星爵家の令嬢が契約者をしている”という話を信じていなかった人たちが今になって真相を気にしだしたというのもある。
せめて、勘違いでお母様似の美人と思われないよう、しっかりお父様ゆずりの鋭い目を開けて牽制に努める。
そうやって人形のように歩く。
履き慣れない色ガラスの靴が足を圧迫するが、私は一目から逃れるため、礼を損なわない範囲で最大の速足を維持した。
と、そこに。
「リシェル」
良く知る声がささやくように届き、慌てて顔を上げた。
すると皇国軍騎士団の制服に身を包んだカイランが、門の脇に立っていた。
「あれ、カイラン」
「おう。ああ、俺は花の祝典の警護の任務に割り振られてな」
「へえ。まあ、あまり緊張しすぎないようにね」
カイランが肩の力を抜けるように、と思ってそう言うと、生意気にも、彼も同様の台詞を返してきた。
「リシェルこそ。平気か?こういうのは相当久しぶりだろ?」
「うん。まあね。……でもカイランの顔を見たらなんか安心したかも。ありがとね」
小声でそう感謝を告げる。
だがそれを聞いたカイランは赤面して、「どうしてリシェルは簡単にそういうことを……」などとぼやき出してしまった。
──相変わらず初心だ。
最年少で正騎士になった彼のことだから腕は立つのだろうが、騎士として上手くやっていくうえで少しはこういうやりとりにも耐性をつけないと今後困ると思うのだけど。
なんだか、そういうところが弟みたいに思える。私は心の中でひそかにカイランの照れ屋改善計画を打ち立てた。
……ちなみに、なぜか向こうは私の方が妹だと思っていそうな雰囲気だが。
「じゃあ」
「おう」
「まあ、また帰りに」
そして、城門をくぐって大回廊へ。
登城者たちの身に着ける宝石が放った輝きを吸って鈍く光る大理石の壁と、高く伸びたアーチの天井。その下で皇家の紋章が刻まれた赤い絨毯が、まっすぐに天上の広間へと伸びている。
周囲を行き交うのは色とりどりの絹布と、よく研磨された革細工。図鑑でしか見たことのないような鉱物。彫金技術の粋を込めたような腕輪や髪飾り。
……けれど。
そんな煌びやかな場にそぐわない、もしゃもしゃという粗雑な音と呑気な鼻唄もまた、通路にこだましていた。
『なによ?』
『いえ。何も』
『祝典の日に草食べてるドラゴンがいたらよくない?』
『……私が決めることではないです』
私と話しながら、器用に草をはみ続ける竜。
うすいピンク色にかすかな緑の斑点が浮かぶ、馬車数台ぶんはある巨体。
──“王家の飼い竜”だ。
『ふーん。ね。言葉が分かるってことは、あなたが有名な“魔獣語り”なんだ』
『……まあ』
『へぇ。そう。ま、でも、どうでもいいけど』
王家の飼い竜。
それは数世代ごとに交代しながらルミナリアを見守ると言い伝えられている魔獣だ。
竜は本来、単独で百人隊を軽々と葬ることができる至高の戦闘力を備えた生物である。
圧倒的な膂力と人間より高いとも言われる知性を併せ持ち、ギルドでは明確に“最大脅威”と位置付けられている。
その例外は、卵のうちに回収され、皇城で人の手で孵化させられた飼い竜のみ。
今代はわがままでお花畑のような女の子だと言われているが、果たしてそれが真実か確かめるすべはない。飼い竜の行動には、何人たりとも深く干渉することが許されていないためだ。
──だから今日の彼女の振る舞いについても、祝典の参加者も警護に当たる騎士たちも、見て見ぬふりをしているのだ……。
『じゃあ。お祭り、楽しんでね』
『ん、ありがとう』
どこまでも自由な竜に見送られ、そのまま、天上の広間に入る。
私が足を踏み入れると、冒盟本部のさらに数倍広いその空間には、すでに多くの人々が集まっていた。
ざわざわと波打つ声の渦の中。
喧騒には様々な色が混じる。
──楽しげな会話。相槌。高揚した笑い。商談の駆け引き。恋の予感を覚えさせる甘やかなささやき。不手際に苛立つ鋭い声。
私はそのひとつひとつを程よく聞き流しながら、できるだけ目立たなそうな壁際まで足を進めた。
こういう空間にはいつまで経っても慣れない。同じ騒がしさでもギルドのものとはなぜか違う感じがするから不思議だ。
しかしまあ数時間のことだ、と自分に言い聞かせた。
◆
その後も歓談の途切れない広間。
だが不意に、場が俄に静まりかえった。
誰かが呼びかけたわけではなく、ただ、自然と。
──直後。
皆が理解した。ああ、これこそが一国の頂点たる者の威厳なのだろう、と。
高座の扉が開き、玉座の後ろから国皇が姿を現す。
「国皇煌下、ご聖着!」
「皇后煌下、第一皇女殿下、第一皇子殿下、第二皇子殿下、ご聖着!」
案内役が声を張り、それに応じて国皇の横に並ぶのは皇后と、今年十三歳を迎え本日の主賓扱いのアリシア皇女、その兄にあたる第一皇子と第二皇子だった。
ルミナリア国皇はざわめきの波紋が広がりきるまでしばし間をあけ、やがてほとんど音を立てなくなった参加者たちをゆっくりと見まわしてから、大きく両手を広げた。
「楽にせよ。諸君の参列に皇家は感謝する」
そして、続く彼の開宴の合図に伴い、客たちは再び最大の歓喜を示した。
「──それではこれより、本年の花の祝典を始める」




