<第7話> お嬢様、お屋敷内を歩きます。
アベルに手を引かれ、私は屋敷内を歩く。
この身体がここを歩くのは、初めてのことではないだろう。
だけれど私にとっては、ほとんど未知の空間だ。
部屋からたった一歩の廊下ですら、新鮮さを感じる。
それでも恐れを感じることなく、自然と次の一歩が出るのは、身体は覚えているということなのかもしれない。
ゲーム内でロベリア様のお屋敷内の描写がされることは、かなり少なかった。
ロベリア様視点の特別編ディスク、その中でも多いとは言えなかった気がする。
ここはどんなお屋敷なのか、それを考えるだけで胸が躍る。
と、思ったのだが…
なんだ、ここは?
ついそう表現してしまうほど、不自然な光景が連なっていた。
私の部屋に近い部屋は、皆倉庫のように扱われているようだ。
古びた調度品が押し込まれていたり、木箱の山がよく積まれている。
どこも埃っぽい印象で、あまり人の出入りがありそうな雰囲気もない。
ここが公爵家ともなる、格式高い名家の御令嬢の部屋の位置だろうか?
回答するならば、相応しくないだろう。そう言わざるを得ない。
それに気になることがある。アレこそないが、この窓の外の風景は…
「おねーさま、どうかした?」
不意にアベルに話しかけられ、目線を前に戻す。
「いいえ、差し障りないわ」
「さしさわり…?」
アベルは首をコテンと横に傾げ、怪訝そうな顔を浮かべる。
この頃の年齢は…まだ4歳程度だったか。
少し難しい言葉を使ったから、不安にさせてしまったかもしれない。
「大丈夫って意味よ、だから何も心配要らないわ」
そう言って私は笑いかける。
確かに屋敷内を不審には思っていたけれど、それもまだ幼い弟に聞くことでもないだろう。
「そっか!おねーさまはむずかしいことにも、くわしいんだね!」
そう言うと、また嬉しそうに笑顔を浮かべる。
「それはそうと…アベル、いいの?」
私は他に気になっていることを尋ねることにした。
「いいの?って…なんのこと?」
アベルはさっぱりわからないといった表情を浮かべる。
「その、私と一緒にお庭に行くこととか、手を繋いで歩いたりすること。お父様やお母様が知ったら何か言うんじゃないかと思ったけれど、大丈夫なの?」
そう言うと、アベルはこれまで見せたことのない顔になる。
なんとも不満げな、膨れっ面だ。
そして唐突に、そのより小さな口から文句を零す。
「おとうさまも、おかあさまも、ワガママでわからずやさんなんだから!ぼく困っちゃうんだからね!!」
「えっと…我儘で分からずやさん?」
「そう、そうなの!」
そう言って、ずっと前を向いていた彼は立ち止まり、私に向き直る。
「だってアベル大好き〜って言うのに、おねーさまのことは、おねがいしても、ごはんに呼ぼうとしないの!おねーさまだって、同じおとうさまとおかあさまなのに、ぼくだけなんておかしいもん」
「一緒のおうちに住んでるのに、あそぶのもダメって言うんだよ!?ぼくのおねーさまは、おねーさまだけなのに、とりあげようとするんだ!!こんなのいじわるで、ズルっこなんだもん」
正直驚いた。
もうすぐ4歳というまだ幼い歳で、姉と両親に対してそんなふうに思っていただなんて。
両親が姉弟を等しく扱わない不平感。
自分だけよく扱われることに、強い違和感を持っているようで。
こんなに幼ければ親の意見に流されそうなものを、その小さな体で彼は否定している。
そうして不平感を感じながらも、彼は自分の意思で、姉を慕うことを選んだのだろう。
「…おねーさま?」
アベルは黙ったままの私を、気に掛けるように声を投げる。
私はそれに対して、気にしていないという顔で、言葉を返す。
「アベルが思っていることは分かったわ、でもやはり私と遊んじゃいけないって言われてたんじゃない。ちゃんとお約束は守らないとダメなのよ?」
「大丈夫!ごはんのときに、おねーさまとあそんできますって言ったもん」
「そうなの…?」
「うん、おとうさまとおかあさまが、おねーさまをごはんに呼んでくれないから、ぼくから行くんだって言って来たの!そしたらダメって言われなかった!」
「そう、なの…ならいいわ…」
この元気な弟のことだ、きっと静止する間も無く飛び出して来たのだろう。
しかしここまで強かだとも思わなかった、というのが本音だ。
返事がなかっただけにしても、ちゃんと許可の上で来ていたとは…。
私はそんな彼に気圧されるようにして、笑顔を返す。
すると気分を良くしたようで、自慢げな顔を返してきた。
「おねーさまが気にすることは、なんにもないよ!早くおにわ行こ!」
そう宣言すると、再び前を向き、トタトタと進んでいく。
私は黙って、その逞しい背中に連れられていくことにする。
しばらく廊下を歩いて行くと、その先がやけに陰っていることに気が付いた。
長いこと廊下を歩いたが、この先も廊下が続いているのは見える。
しかしこの先の一部だけ、大きな影に覆われているのだ。
だがアベルはお構いなしといった様子で、何を気にするでもなく歩みを進めていく。
きっと気にするほどのことでもないのか、そう思い素直について行く。
ちょうど影の辺りに差し掛かった時だった。
横殴りに眩い光で、唐突に照らされる。
思わず咄嗟に、その光を空いた手で遮る。
そこにあったのは、屋敷の入り口かつ大広間。
数瞬前の眩い光の正体は、大広間にある豪奢なシャンデリアだったようだ。
煌びやかなその照明は、爛々とこの場所を照らしている。
影は2階に続く、大きな階段…ああ、ここにあったのか。
なんとなくそんな気はしていた。
1階を歩いてみて感じたのは、やはり高位貴族の居住スペースに思えないということ。
窓から見える景色も、やたらと地面が近く感じた。
おそらく両親や弟は2階に住んでいるのではないか。
そう思って周囲を見ていたが、どうやらこの考えは当たりだろう。
正面玄関からこんなにも遠い、家族の部屋からかなり離れた場所に私の部屋はある。
大きな屋敷の隅に、追いやられるような場所に。
思っていたよりも、家族とは精神的にも物理的にも、相当な距離があったようだ。
先程までの光景と違い、ここは非常に豪奢な上、手入れが行き届いているようだ。
大きくも繊細な意匠の花瓶に生けられた花々に、壁にはいくつもの大きな風景絵画。
まさに貴族に相応しい、豪華絢爛な場所。
それに呆気に取られていると、弟がクイクイと手を引く。
「おねーさま、ここからだと近いんだよ」
そう無邪気に笑う。
どうにも、この辺りを歩くには足が竦んだ。
きっとロベリアも、あまり訪れなかった場所なのだろうと感じる。
ここに立っているだけで、理由の分からない不安感があった。
だが弟にはそんな様子はない。
彼がここに来ることは日常の一部なのだろう。
なんとも寂しさを感じる差だが、今はここに慣れている弟に、行き先を任せることにしよう。
「おねーさま、こっちだよ!」
そう言うアベルは、周囲に目もくれずに進んでいく。
私たちはそのまま、大広間を突っ切ろうとする。
しかし次第に、人の声が広がっていく。
「ねえ、あれって」「ああ、怖い」
そんな会話が聞こえ始める。
嫌な感じがする。
思わず目を伏せて歩いていると、アベルが突然足を止める。
否、止められたのだ。
ゆっくりと、低く落ち着いた声が聞こえてくる。
「他の者に呼ばれて参りましたが…これは困りますな。アベルお坊ちゃま」
目線を上げると、そこには初老の執事服の男性が立っていた。
気品に満ちた立ち居振る舞い、立ち姿を見ているだけで風格が伝わってくる。
どうやらアベルは、彼に行く先を阻まれたようだ。
「困るって、なにが困るんだセバス」
アベルは先程までと違い、キリッとした物言いを返す。
しかしセバスと呼ばれた彼も、譲る気はないようだ。
「何を仰るかと思えば、簡単なことでしょう。そちらの”悪魔”に、この場を踏ませるのが困るのです」
その言葉を聞いた瞬間、アベルが繋いだ手の力を強めたのが分かった。
「私めはかれこれ数十年、クロートー公爵家に執事長としてお仕えして参りました。故にその玄関口を悪魔に踏ませることなど、到底見過ごせませぬ。そちらに加え、先程からこちらを見ては、怯えて作業を進行できぬ者もいるのです。聡明なお坊ちゃまであれば…」
セバスの話が続く中だった、アベルが遮るようにして口を開く。
「セバス、さっきから誰の話をしている?」
今まで聞いたことのない、低く怒りを露わにした声だった。
前にいるアベルの顔は見えない。
だが表情を見なくとも、その声を聞いた、この場にいる者が皆その怒気を肌で感じていた。
目の前に立つセバスですら、その表情を一瞬崩し、息を呑んでいた。
「誰とは、お隣に立っている者でございます」
「では聞こう、ぼくの隣に立っているのは誰だ?」
「…ご令嬢でございます」
「彼女の家名は?」
「それは…相応しくないもので…」
「それはお前が決めることじゃない、答えてみろ」
「…クロートー、で、ございます…」
「それは驚いた、お前が仕えていると言った相手じゃないか。お前は数十年仕えた家の者に悪さをするような者だったんだな、残念だよ」
「そっ、そのようなことは決してございません…!」
「ならば間違ったんだな?謝りはしないのか?」
「それは…」
圧倒的だった。
言葉選びこそ完璧とは言えないが、幼くして、上に立つ者らしく立ち居振る舞い、使用人の間違いを正そうとしている。
きっと父の仕事姿でも見たのかもしれない。
父は厳格な宮廷魔法長官と知られる、公爵家当主だ。
両親に愛されて育ったアベルだ、その姿を見る機会も少なくないと容易に想定できる。
私がそうこう考えている時だった。
セバスは私の前に立ち、軽く”お辞儀”をする。
…一体どういう意味だろうか。
「…セバス」
私は彼に声をかける。
…全く、なめられたものだ。
「は、はい。なんでしょう…」
「なんのつもりかしら?」
「と、言われますと…」
「”それ”は目上の者への礼ではないわ、だから問うているのよ。何のつもりかしら?それとも”悪魔”にすることは何もないということ?」
私の言葉に、アベルが身を乗り出そうとする。
それを空いた手で制する。
「セバス、貴方は誇り高きクロートー公爵家の使用人の顔であるはず。これ以上は言わずとも分かるわね?」
その言葉を聞き、セバスは一瞬身じろぐ。
そして膝をつき、私に深く礼をする。
「…お嬢様、大変な無礼を。最早弁明の余地もなく…この度の失態は私め個人の失態にございます。責められるべきは私のみ…どうか寛大な処置を」
深く息を吐く。
私は彼を罰するべきか。
「セバス」
「はい、お嬢様…なんなりと」
そう言い、セバスは私の沙汰を待っているようだった。
私の答えは、そう難しいものではない。
「貴方の言動は、仕える家の者に対するものではなかった。けれどね」
「今回の件は、貴方がこの公爵家に誇りを持っての行いだと理解しているわ。ならば殊更、私個人への感情で動くべきではなかったわ。」
「セバス、私から貴方に罰を与えることはしません。他の者も同様です。ですが一つだけ、貴方にこそ頼みたいことがあります」
その言葉を聞くと、セバスは不思議そうな表情で顔を上げる。
「ご命令ではなく、お頼みごと…でございますか?」
「ええ、そうよ」
「…なんなりと」
彼が息を呑むのが見えた。
ロベリアは、使用人に対しても酷い対応をとってきたはずだ。
それが誤って危害を加えないためであっても、それを匂わせるような言動をして。
使用人すら寄り付かない場所に部屋がある、そしてこのセバスの対応。
それらが裏付けのように、今は半ば確信的に思う。
「私が貴方に願うのはたった一つです。貴方には今後も、クロートー公爵家の良き使用人であってほしいのです。我が家の誇れる者でいてください」
「…はい?」
彼は気の抜けた表情を浮かべ、体制が少し崩れた。
そして動揺のまま、私に言葉を返す。
「よ、宜しいのですか。お許しになった上で、罰もなく、ましてやこのような騒ぎを起こした者に…」
「貴方にだから頼めることよ、セバス。貴方は自分のプライドを曲げてまで、私に頭を下げて見せた。他の使用人を思いやる心もあります」
「ですが他ならぬ貴女様に…!」
「良いのです、私の容姿が『王国に伝わる伝承の悪魔』に酷似していることは理解しているのだから。嫌悪されることも仕方がありません。それでも尚、私と相対し、家と使用人のために行動した貴方は、褒められこそすれ、責められる必要はないでしょう」
「そんな…ロベリアお嬢様…」
これは、間違いなく罰だ。
それを理解しているのは、おそらくこの場で私とセバスだけ。
彼自身は罰せられることなく、ただ家への忠誠と研鑽を命じられたのだ。
しかしそれは、後にこの公爵家にとっても、彼にとっても、悪い結果にはならないだろう。
「おねーさま…」
私とセバスが話している隣で、不安そうなアベルがこちらを見ていた。
きっと会話の意図が読み取れず、それでも私を心配してくれたのだ。
「それではね、セバス。私はアベルと一緒に用事をこなす約束をしているの。これで失礼するわ」
そう言い残し、今度は私が先導するようにして、その場を離れる。
アベルが向かおうとしていた方角に向かって、歩みを進めながら考える。
『王国に伝わる伝承の悪魔』と、それに酷似した私の容姿。
これは、案外根深い問題かもしれない。