<第19話> お嬢様と、泣く花瓶。
木箱の中で泣いていたのは、一輪挿しの花瓶だった。
塗りつぶしたように真っ白な、陶器製のもの。
よくよく見れば、模様らしいものこそないが、何か文字が刻まれているようだ。
しかしその花瓶の周囲には、黒い帯のような光が纏わりついていた。
その帯の奥、花瓶の中から、悲痛な音が響いている。
これは、なんだ?
ゲーム本編もDLCも、特別ディスクだって何度もプレイしてきた。
それでも、その中でこんなものを見た覚えはない。
怖い。純粋にそう思った。
あまりに得体が知れないのだ。
これを、一体どうしたら…いいのだろう…?
私はそうっと、その花瓶を手に取ろうとする。
花瓶に触れようとした私の手は、黒い帯をすり抜けた。
そして、冷たい陶器が触れ、手の中に収まる。
顔の前まで持ち上げ、まじまじと見てみる。
この黒い帯は…無数の糸が絡んでいるんだ。
黒い糸が花瓶を締め付けるように、纏わりついている。
その糸の数があまりにも多いから、帯のように見せてしまっている。
やはり花瓶の中から、何か音が響いている。
黒い糸が苦しいのだろうか。
でも黒い糸には触れることすらできない。
私には、何もできなさそうだ。
何かもっと、ヒントでもあれば…
私は花瓶を、もう一度よく見てみる。
文字がある、けれど私の知らない言語だ。
これが…ヒント…?
睨み付けるように、まじまじとその文字を見る。
だが私の前世の知識的にも、まどプリへの知識的にも、見当が付かない。
しかし私は、縛り付けられるように、その文字に魅入っていた。
私の口が、自然と動く。
無意識に言葉が流れ出す。
「ペリストロフィ メトゥリシ キ コピ トゥ ニマトス」
「オ メプサリディ デクシオテクニアス アパーティセェイモ」
「パラカロォ エムファニスティ」
私には口から出た言葉が、何を意味しているのかも分からない。
読めない、聞いても分からない。
私の記憶にない文章だ。
海外言語らしくは思うが、咄嗟に分かるほど詳しくはない。
途端、視界が眩く光る。
しかしそれも、たった一瞬のこと。
何が起きたのか、辺りを見渡した時だった。
カシャン、という鋭い音を耳が捉えた。
思わず反射的に、その音の方を振り向く。
するとそこには、銀色に光る半透明の鋏があった。
今の音は、もしかするとこれが落下してきて鳴った音?
私は鋏に手を伸ばす。
半透明なそれは
…冷たい感触を、確かに持っていた。
これは、黒い糸と違って触れる。
糸に、鋏か…。
こうなれば、考えることはきっと一つだろう。
私は鋏を手に取り、黒い糸に向ける。
そしてその糸を
切った。
そう、切れたのだ。
切られた黒い糸は、切った感触があった瞬間から、切られた箇所から霧散して消えた。
同じように、私は銀の鋏を使ってみる。
するとたちまち、鋏は触れられないはずの黒い糸を切っていく。
黒い糸は霧散し、花瓶そのものが露わになっていく。
これは一体、何が起こっているのか…?
私は糸を切り進める。
そうしてやがて、全ての黒い糸を、断ち切った。
霧散させたのだ。
ついにその姿を全て曝け出した花瓶は、その中から嬉しそうな音を出した。
「キャッキャ」と。
しかしそれは一瞬のこと。
数秒も経てば、何も聞こえなくなっていた。
ーここでふと、思い出したことがある。
まず一つ。
ロベリア様は、異能持ちであったこと。
彼女は契約前の精霊を、魔力魔力の流れを、五感で感じ取ることができたということ。
もしあの音が、帯が、精霊や魔力の流れであったなら。
メイドや他の誰もが認識出来ない音を、物体を、認識した可能性がある。
そしてもう一つ。
この世界で、糸と鋏が意味するものは何か。
それは他ならない、『始祖の母:女神ニマ』だ。
ニマ神は、無の土地に”糸と鋏”で人を創った存在。
切っても切れない関係であり、繋がりを考えないという方が、不自然だ。
それを踏まえて考える。
鋏は、私が無意識の言葉を口にした時、現れた。
あの時、私が”詠唱”したのは"神聖詠唱"だったのではないか。
点と点が散らかっていくのを感じる。
おかしい、おかしいのだ。
神聖魔法と神聖魔術は、女神に愛された者のみしか、発動を許されないものだ。
それらは神殿の神官か、聖女くらいにしか扱えないと言われている。
ましてや、女神の象徴である物体を具象化するなど、神官でも扱える者はそういないはずだ。
そうだ、ヒロイン…エレナは?
聖女は彼女のはずだ。
彼女が聖なる魔法を扱い、物語が進んでいくのが『魔導学院と王子様』だ。
…いや、待って。
本編中で彼女のことを聖女だと明言したのは、攻略対象たち。
神殿から正式に認められた描写は、無かった。
そうだ。
無い。
…違ったんだ。
『ヒロインのエレナは聖女ではない』
なんと、いうことだろう。
もしもこれが、今、私が想像していることが、事実だとしたら?
いや、私がこの魔法を扱えることこそが、事実なのだ。
…そんなことが許されるの?
あまりにも惨い。救いがない。どうして?
まさか、そんな。
涙が、自然に溢れて、止まらなかった。
悪魔に堕とされる悪役令嬢が、真の聖女だったなんて。




