第6話 運命との邂逅
大陸最高の英雄は、二十年に一度王都を訪れる。
リュセルテアがそれを思い出したのは、着替えをしている真っ最中だった。
七百年前から続く大英雄『夜大公』による王都訪問。
通称『大行幸』と呼ばれるそれは、他国に対するアルヴァラントの示威行為だった。
今なお『夜大公』はアルヴァラントと共にある。
それを内外に、そして大陸全土に知らしめるのが、この『大行幸』の目的なのだ。
――という情報を、リュセルテアは本で読んで知っていた。
だがまさか、その重大行事に自分が巻き込まれることになるとは。
思ってもみなかった、というのが正直なところだ。
「終わりました」
と、感情を欠いた声がリュセルテアに届く。
それは、ドレス背面の編み上げ紐を結んだ使用人の声だった。
使用人はそれっきり無言になって離れて、着替え部屋には無機質な沈黙が落ちる。
部屋に用意されていたドレスは、パッとしない地味な色合いものものだ。
リュセルテアにはドレスを選ぶ自由も許されていない。
王妃教育に赴く際にも、服装はあらかじめ選ばれたものを着ていっている。
そして、いつも準備されるのは彼女の魅力を損なうようなものばかり。
それはリュセルテアでも一目見てわかるくらいに、センスを欠いたドレスだった。
両親の目的は空気みたいに透けて見えている。
もちろん、単なる嫌がらせだ。
あの二人はとにかく、リュセルテアに恥をかかせることに執心していた。
だけどそんなの、何の意味もない。
今の自分は何も思わない人形なのだから、好きに服を着せればいい。
私は何も感じない。
私は何も思わない。
鏡に映る自分に何度もそう言い聞かせ、リュセルテアは明るい色のリボンを手に取る。
髪を飾るリボンだけは、ずっと自分で結んできた。
それは、使用人たちが頑なに彼女の黒髪に触れることを拒み続けたからだった。
黒は呪いの色。
黒い髪は悪魔に呪われた証。
それは根拠のない迷信に過ぎないが、人々に深く根付いた考えでもあった。
かつて人類を滅亡の危機に追いやった邪神の眷属は、その身を黒く染めていたという。
そこから人々は黒という色を忌避するようになったのだ。
「着替えが終わりました」
リボンを綺麗に結び終えて、リュセルテアは誰にともなく告げる。
くすんだ色のドレスに、対照的に黒髪を飾る鮮やかな色合いをしたリボン。
リュセルテアの格好は見るからにチグハグで、脇に控える使用人達も失笑している。
彼女らの囁き合いも耳に届くが、リュセルテアはその一切を無視した。
自分はただの人形だから、どう言われても何とも思わない。
そうやって自分の心に重く蓋をした少女は、表情を全く動かさないまま部屋を出ていく。
己の黒髪を飾るリボンだけが、彼女の本心を物語る。
その無意識の抵抗に、リュセルテア本人も気づいていなかった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
迎賓の間には、すでに自分以外の家族が全員揃っていた。
侯爵家の屋敷でも最も華美に飾られたこの広い部屋に、これから夜大公がやって来る。
「あら、お姉様ったら遅刻よ~? ……って、なぁにその格好! リボンとドレスの色が全然合っていないわ。そんな格好でお客様をお出迎えするの? 信じられないわ!」
部屋に入るなり、まず妹からのこの罵声だ。
しかもその場にいる父も母もイルセリアを咎めることなく、ニヤニヤと笑っている。
「…………」
リュセルテアは無言のまま歩みを進める。
自分以外の家族三人は『夜大公』を出迎えるのに相応しい服装をしていた。
中でも、イルセリアの服装には特に力が入っているようだった。
彼女の空色の髪を引き立てる桃色のドレスは、レースやリボンで派手に飾られている。
多数のアクセサリを身につけて、今のイルセリアは見るからに煌びやかだ。
リュセルテアとは全く逆の意味で目立っているともいえる。
「これから『夜大公』って方と一緒にセディオル様もいらっしゃるそうなの!」
イルセリアは無邪気にはしゃいでいた。
第一王子セディオルが来ることは、リュセルテアも予想がついていた。
次に国王となる者が『夜大公』を歓待する。
それが『大行幸』のならわしであり、今回の歓待役がセディオルのはずだからだ。
これには、アルヴァラントの王太子が誰であるかを示す意味もあった。
そして、イルセリアはセディオルのお気に入りでもあった。
リュセルテアではなく彼女を婚約者にしたい。と、セディオルは何度も言っていた。
「ねぇ、お父様。その『夜大公』という方はお姉様の『呪われ髪』を見にいらっしゃるの? 大丈夫かしら? 英雄様に呪いがうつっちゃわないかしら? 心配だわ!」
「おお、イルシィは優しい子だなぁ。だが大丈夫、ちょっと会わせるだけだよ」
あからさまにこちらを蔑むイルセリアに、ゼルロットが相好を崩す。
それを意識の外に追いやって、リュセルテアは思索にふける。
かの『夜大公』がマグスルシア侯爵家を訪れる理由は、自分だけではないだろう。
彼の十二番目の妻が、このマグスルシア家の出であるはずだった。
名前は確か、ナーセリア・リリア・マグスルシア。
もう六十年以上も前に『夜大公』に嫁いだ、顔も知らないリュセルテアの親族だ。
「奥方様、そろそろお着きになられます」
「わかったわ」
迎賓の間に入ってきた執事長にうなずき返し、ユーリシァが夫の方を振り向く。
「行きますわよ、あなた。イルシィ」
「そうだな、出迎えに向かおう」
「ええ、そうね。お父様、お母様。セディオル様にお会いできるのが楽しみだわ!」
いつものように三人だけで盛り上がる中、ユーリシァがリュセルテアに命じる。
「リュシィ。あなたはこの部屋から出てはいけませんよ」
こちらに一瞥もしないまま、母は父と妹を連れ立って迎賓の間を出ていった。
一人残されたリュセルテアは、広い部屋の真ん中に突っ立ったまま、長く息を吐いた。
大書庫の中で、ひそかな憧れを抱き続けた『夜大公』。
けれど脳裏に浮かぶのは、二年前の、王子様への憧憬を打ち砕かれたあの日の記憶。
「どうせ、何も変わらないわ……」
そう、これまでと何も変わらない。
どうせ『夜大公』も自分を笑いものにするだけだ。どうせ……。
胸にくすぶる小さな期待の灯火に、少女は諦めという名の水をぶっかけた。
もう、何も感じたくなかった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
やがて、運命のときが訪れる。
「さぁさぁ、どうぞ夜大公様! 奥方様も、こちらでございます!」
やけにへりくだった父の声がドア越しに聞こえる。
少しの間を置いてドアが開かれ、まずは愛想笑いを浮かべたゼルロットが見えた。
「こちらに、セディオル殿下の婚約者が……」
そして続く、聞いたことのない男性の声。
それは涼やかでありつつも力強く、そして同時に深みもある、不思議な印象を持つ声。
耳に届いた瞬間、リュセルテアの背筋にゾクリとしたものが走る。
だが悪寒ではない。
彼女はただ一言聞こえた声に、魅せられてしまったのだ。
刹那、頭の中が真っ白になってしまう。
そうしているうちに、彼はリュセルテアの前に姿を現した。
背が高い、濁りのない銀色の髪を丁寧に撫でつけた蒼い瞳の男性だった。
その瞳に宿る蒼は、今まで見てきたどの蒼よりも美しくて、リュセルテアは息を呑んだ。
これまで読んできた物語にも『夜大公』は何度も登場してきた。
そのたびに、物語の文章は彼の容姿を褒め称えていた。
だがリュセルテアは知る。
それは、別に何も褒めていなかった。単に事実を列挙していただけなのだ。と。
心底からそう納得してしまうほど、レクリスの容姿は完璧だった。
そんな『夜大公』を前に立ち尽くす少女の耳に、今度は何かが軋む音が聞こえる。
次に部屋に入ってきたのは、ユーリシァと、彼女の押す車いすに乗っている老婆だった。
やけに線の細い、混じりけのない白髪を上品に整えた、柔和な顔立ちの女性だ。
しわくちゃのその顔には妙な可愛げがあって、見ていると心が安らぐような気分になる。
「ありがとうね、ユーリシァさん。助かりましたわ」
老婆が、ユーリシァの方を軽く振り向いて礼を言う。
その物言い一つにも気品が感じられて、ただ者ではないことが伝わってくる
「大伯母様。無理にこちらに来ることもなかったのでは?」
車いすを押すことが面倒だったのか、ユーリシァがそんなことを言い出す。
彼女は今、老婆のことを大伯母と呼んだ。
つまりはこの年老いた女性こそが今の『夜大公』の妻。
マグスルシア家から嫁いだ十二番目の花嫁、ナーセリアなのだろう。
「すまない、奥方。彼女をこの場に連れてきたのは僕のわがままでして」
すると、レクリスが謝って、ユーリシァはその顔色をさっと青ざめさせる。
「そ、そうでしたのね。いえ、あの『夜大公』様が謝られることなんてありませんのよ。わたくしも久しぶりに大伯母様とお会いできて、嬉しく思っておりますの!」
母の声ははっきりとわかるくらいに震えていた。
「おい、部屋の入り口で何を突っ立ってるんだ。早く入れろ! 無礼だぞ!」
と、開いたままのドアの向こうから、威勢のいい怒鳴り声が聞こえてくる。
この傲岸不遜という言葉を形にしたような声は、セディオル王子に違いなかった。
「……チッ、やっぱりいるのか」
セディオルは、部屋に入ってリュセルテアを見た途端、眉間に思いっきりしわを寄せた。
だが直後、その隣に寄ってきた妹イルセリアが、彼の腕に自分の腕を絡ませる。
「で~んか♪ ダメでしょ、そんなにお姉様を睨んだら。お姉様、泣いちゃうわ!」
「ああ、そうだな。あんな姉を気遣ってやれるおまえは優しいな、イルシィ」
二人は、それこそ婚約者同士であるかのように密着して、互いに笑い合っている。
迎賓の間に全員が揃ったところで、父ゼルロットがリュセルテアに命じた。
「リュシィ。何をぼうっとしているんだ。早く挨拶をしないか!」
高圧的な彼の怒声に、リュセルテアはビクリと震えて我に返った。
「……ぁ、えっと、マグスルシア侯爵家の長女、リュセルテアと申します」
焦りながらも、リュセルテアは何とかスカートの裾をつまみ、そう挨拶をする。
そこに返されたのは、第一王子セディオルの不機嫌げな舌打ちだった。
「何だ、そのみっともないカーテシーは。王妃教育を習わなかったのか……?」
「言っちゃダメよ、殿下。お姉様は一生懸命頑張ってるのよ? でもお姉様だもの!」
当然のように浴びせられる罵倒。
そこから続く幾つもの失笑と、向けられる蔑みのまなざし。
頭を下げたまま、リュセルテアは沈みそうになる気持ちをグッと堪える。
そしていつも通りに無表情を作って顔を上げ、セディオルとイルセリアと相対する。
表情を動かさないリュセルテアを見て、セディオルはその顔をさらに不快げに歪める。
一方で、イルセリアは母親譲りのイヤらしい笑いを深めた。
「お姉様ってば、つまんない顔~。こんな人が婚約者なんて、殿下も大変ね!」
「全くだ。『虹陽の瞳』か知らないが、何でこんな女を妃にしなくちゃいけないんだ」
吐き捨てるようなその言い方も、もう聞き慣れた。いや、聞き飽きた。
だが何も感じない。自分は人形だから。何も思わないから、痛くない。苦しくない。
誰も助けてくれない中で、少女はそうやってまた自分の心を守ろうとする。
どうせ誰に頼ることもできないのだから、こうやって我慢し続けることしか――、
「殿下」
あの人の声がした。
「女性に対してその言いようは、いささか礼を失しているように思いますが」
いつの間にか、震えるリュセルテアの隣に『夜大公』が立っていた。