第4話 虹の瞳のリュセルテア
終わることのない車輪の音が、リュセルテアの不安をひたすらに掻き立てる。
二頭立ての豪華な馬車は内装の壮麗さもさることながら、彼女にとってはどこまでも広く感じられて、それが怖くて隅っこの方で縮こまってしまう。
馬車の中には母ユーリシァも一緒に乗っている。
しかし、離れた場所に座る母は不機嫌そうに頬杖をついて、窓から外を眺めている。
「……どうして私がこんな面倒な」
という呟きに、リュセルテアの心はますます委縮する。
当然、会話などあるはずもなく、長らく続く居心地の悪さからリュセルテアは口を開く。
「あの、母様……」
「お城までそのまま動かずにいなさい。わかったわね」
「……はい」
きつい物言いで命じられ、リュセルテアは肩を落としてうつむいた。
母は自ら望んで自分と馬車に乗っているわけではない。
そんなこと、最初からわかっていたのに、どうして話しかけてしまったのか。
きっとそれは、気持ちがふわふわと浮き足立っていたからだ。
すぐ近くにある窓に、リュセルテアの姿が写り込んでいる。
それは見るも鮮やかな薄い菫色のドレスを着た、煌びやかに飾り立てられた少女の姿。
着替え部屋で、何人もの使用人によって着せられたのがこのドレスだ。
首にはキラリと輝くネックレス。胸元を彩る桃色の薔薇のコサージュがとっても綺麗。
それだけを見れば、今のリュセルテアは立派なご令嬢である。
だが首から上は違っていた。化粧はほとんどされておらず、それに、髪。
長く伸びた黒い髪に、色の薄いリボンがいびつに結ばれている。
そんなことになってしまったのは、リボンを結んだのがリュセルテア本人だからだ。
自分を着替えさせた使用人達の誰もが、顔と黒髪に触れることを拒んだ。
だから、そこだけは自分でどうにかするしかなかった。
窓に映る自分を見ながら、彼女はリボンを結び直そうとする。だが、上手くいかない。
ほどなく、馬車はお城に到着する。
終わることのない車輪の音が、リュセルテアの不安をひたすらに掻き立てる。
けれども、それと同じくらいに大きな期待が、彼女の胸の内で膨らみつつあった。
――だって、窓に映る自分の姿が、まるでおとぎ話に出てくるお姫様みたいだから。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
初めて訪れるお城は真っ白で、全てがキラキラと光って見えた。
これは、壁の塗料に光属性の素材が使われているからだと、リュセルテアは知っていた。
しかしそんな知識など、この場の景色の壮大さを前にすれば何の意味もない。
お話で読んで、夢の中に見た王子様が住むお城。
それがまさしく現実のものとして、リュセルテアの前に現れたのだ。
お姫様のように着飾って、光るお城の中を歩く。
これは本当に現実なの?
幼い彼女の胸の内に、そんな疑問が生まれるのも仕方がないことだろう。
ただ――、
「何をぼうっとしてるの。早くついてきなさい!」
「痛っ」
母に強く腕を引っ張られ、ひじや肩に鋭い痛みが走った。
彼女さえいなければ、リュセルテアはもっとこの夢の景色に浸れていただろうに。
しかし広い通路に響くせわしない足音と腕の痛みが、少女を否応なく現実に引き戻す。
お城には、兵士や文官の姿があったが、皆がユーリシァに目を向けている。
きっと彼女のただ事ではない様にぎょっとなっているのだろう。
そう思いはするが、リュセルテアにはそれを口に出せるだけの勇気はなかった。
やがて、ユーリシァが足を止めた。
痛みに耐えて下を向いたままだったそろりそろりとリュセルテアが顔をあげてみる。
すると、そこには見たこともないような立派な両開きの木製の扉があった。
両脇には武装した兵士が直立不動で控え、それを見てリュセルテアは悟った。
ここは、謁見の間。目の前の扉の向こうにこの国で一番偉い人がいる。
母の姿を見た兵士が、大扉を開いていく。
その向こうは通路よりさらに明るく、広く、リュセルテアはただただ圧倒された。
「やっと来たか。遅かったな」
聞こえてきたのは、父ゼルロットの声だった。
彼は気難しげに腕組みし、こちらの方を鋭く睨みつけている。
「もっと早く来れなかったのか。陛下をどれだけお待たせさせたと……!」
「時間がかかったのは、この子の着替えが遅かったからです。私のせいではありません」
ゼルロットの半ば叱るような声に、ユーリシァが不満をブチまける。
そんな返答は予想していなかったのか、父は「おまえなぁ……」と声を弱らせる。
「よさんか。二人とも」
と、そこで知らない男性の声が間に割って入った。
父よりももっと強い力に溢れている、しかし深みを持った理性的な声だった。
「は、申し訳ございません。陛下」
ゼルロットは恐縮しながら深々と頭を下げる。
それでわかった。
今の声の主が、この国で一番偉い人。国王陛下だ。と。
「こら、リュシィ。挨拶をしないか! 陛下の御前なのだぞ!」
と、父ゼルロットが小声で叱ってくる。
言われたリュセルテアは「あ、ぁ……」と慌てながら精一杯のカーテシーを見せる。
無論、教育など受けていないので、前に本で読んだそれを真似ただけだ。
そうすると、母の方から「何てみっともない」という呆れ返った声が飛んでくる。
ゼルロットも娘の情けない様にいたたまれず、顔を上げられなくなっていた。
リュセルテアは、自分は失敗したのかと思って、泣きそうになる。
「ほぉ、その年にして見様見真似でも挨拶ができるか。この先が楽しみだな」
だが聞こえたのは、そんな自分を褒めてくれる声だった。
驚き半分でリュセルテアが顔をあげると、一段高い場所に座る国王と目が合った。
「そなたがマグスルシア侯爵の娘、リュセルテアであるな?」
「は、はい!」
焦ってうなずく少女に、国王は綺麗に揃えられた髭を撫でつつうなずき返す。
少し離れた場所にいるゼルロットとユーリシァが、何かを言いたげにしている。
だが国王は二人が何か言う前に、自分の脇に立つ壮年の男性に命じた。
「宰相、確認せよ」
「御意」
宰相と呼ばれた白髪の男性が、リュセルテアに近づいてくる。
「お嬢さん、少し、失礼するよ」
「ぁ……」
宰相が、その場に膝をついてリュセルテアと同じ高さに目線を合わせる。
いきなり目の前に現れた男の人の顔に、彼女は何も言えず、緊張に身をこわばらせた。
「ふむ――」
自分の顔をまじまじと見つめ、宰相が何かを確認するように一声。
顔を背けてはいけない。
そんな気がして、リュセルテアは逃げたい衝動を必死にこらえ続ける。
「深く、濁りのない透けた金色。その中に確かに垣間見える、多色の煌めき」
そんな宰相の呟きが聞こえる。
確認を終えたらしき宰相はすっと立ち上がって、リュセルテアに笑いかけた。
「悪かったね、お嬢さん」
そう笑う宰相の顔は優しくて、彼女の緊張をほぐしてくれる。
直後、宰相は国王の方へと向き直って、一度深くうなずいたのち、答えた。
「伝承通り、でございますな。『虹陽の瞳』に間違いはないかと」
「そうか。わかった」
聞こえるやり取りに、リュセルテアはドキリとした。
宰相が告げた『虹陽の瞳』という言葉に、心当たりがあったからだ。
それは、この国の最初の王妃様が持っていたとされる、伝説に謳われる瞳のことだ。
古くから虹の輝きを帯びる瞳は幸運と栄光をもたらすとされている。
そのおかげか王妃様が生きている間、国は大変に富み、そして栄えたといわれている。
「……私の目が『虹陽の瞳』?」
リュセルテアは、礼を忘れて呟いた。
それに、問いかけられたと勘違いしたのか、宰相が「その通り」と返してくる。
「我が国の史書に記載されているのだよ。『虹陽の瞳』は金色の中に七色を帯びる瞳である、と。つまりはお嬢さん、君の瞳のことで間違いないということだ」
「そんな……」
リュセルテアは戸惑い、宰相と国王を交互に見る。
言葉を探している彼女に、今度は国王の方から厳かに告げられた。
「リュセルテアよ。我が国に栄光をもたらす『虹陽の瞳』を持つそなたを、余は我が息子、未来の王太子であるセディオルの婚約者とすることにしたのだよ」
国王からの通達が、リュセルテアの心にこれまでで最大の衝撃をもたらす。
もはや、何と言えばいいのかもわからない。
ただ、王太子の婚約者というフレーズだけが、少女の頭の中をひたすらに巡る。
「お待ちください、陛下!」
しかしそこに、父の必死の声が水を差す。
「陛下、ご再考を! この娘は毒々しい黒髪。忌まわしき『呪われ髪』でございます!」
「その通りです、陛下! この娘が王太子妃なんて、内外に恥をさらすだけです!」
最も喜ぶべき立場にいるはずのゼルロットとユーリシァが大声で騒ぎだす。
リュセルテアの中に湧きつつあった激しい歓喜の熱が、急速に冷めて薄まっていく。
やっぱり自分は、呪われた子なんだ。
幼くして刻まれた自分への諦めが、暗い闇となって彼女の心を覆いそうになる。
「『呪われ髪』か。そんなものは風聞に過ぎぬな」
しかし、国王は両親の大声での訴えをその一言によって断ち切った。
「侯爵よ。そなたら貴族の間で髪の色を尊ぶ風潮があることは余も聞き及んでおる。例えば空色の髪は最も美しく、黒い髪は悪魔に呪われた証である、だとかな」
「髪の色のみで一個人の評価を定める。あまりよい風潮とは呼べませぬな、侯爵?」
国王が言って、宰相がゼルロットに咎めるようなまなざしを向ける。
それで父は言葉を詰まらせて、何も言えなくなってしまう。
「ですが陛下、この子はリボンの結び方も知らない……!」
「侯爵の奥方よ、今はこの国にとっての重大事を話しておりますゆえ、弁えられませ」
なおも食い下がろうとするユーリシァも、宰相にピシャリと遮られた。
「宰相、セディオルをこれへ。早速だが婚約者としてリュセルテアと対面させる」
「御意。ただ今、殿下を呼んでまいります」
何も言えなくなった父と母をその場に置いたまま、国王と宰相はことを進めていく。
リュセルテアはそれを、信じられない思いで眺めていた。
まさか、ずっと『呪われ髪』のせいで嫌われ続けてきた自分が王子様の婚約者なんて。
これでもう、誰にも『呪われ髪』だなんて呼ばれないで済む。
自分はいらない子じゃないのだ。王子様が隣にいてくれるのだ。
そう思うと、リュセルテアはゆるみ始める頬を抑えることができない。
「第一王子セディオル様、おなりにございます」
しばしして、宰相が王子様の到着を告げる。
自分も通った大扉がゆっくりと開かれ、その向こうから一人の少年が歩いてくる。
リュセルテアと同年代ながら背が高めの、鮮やかな金髪の少年だった。
彼は国王と共通する意匠が施された王族用の礼服を纏い、堂々と謁見の間にやってきた。
その振る舞いから、少年のみなぎる自信が伺える。
人に媚びることを知らない王の風格を、リュセルテアは彼に感じ取っていた。
「この人が、私の王子様……」
自分の運命を変えてくれる相手を前にして、彼女は小さくそう零す。
胸の奥がかすかな熱を帯びたように感じられた。これが、恋へと至る熱なのか。
「セディオルよ。話は聞いておるな。この娘がおまえの――」
国王が彼にリュセルテアを紹介しようとする。しかし、王子はフンと鼻を鳴らした。
そして王子セディオルはリュセルテアを指さし、言い放った。
「俺はイヤだぞ。呪われた女が婚約者なんて、気持ち悪い」
リュセルテアの中に生じた秘めたる熱が、その一言にかき消される。
途端、ゼルロットがその顔に安堵したような歪んだ笑みを浮かべて、王子に便乗する。
「そ、そうでございますね、殿下! このような『呪われ髪』の娘など殿下の婚約者にふさわしいはずがございません! そう、例えば我が娘のイルセリアなどは――」
「空色の髪の女か。そいつとは一回会ってみたいな」
国王と宰相が揃って苦い顔をしている前で、父と王子が話している。
その様子を、リュセルテアはまばたきも忘れて呆然となりながら聞いていた。
そして思った。
――やっぱり、自分はいらない子なんだ。