第2話 呪われ髪のリュセルテア
これは、リュセルテア・ルゼッタ・マグスルシアが七歳になったばかりの頃の話。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
窓から差す陽光が、リュセルテアの意識を目覚めへと導く。
まぶたを開くと、そこに見えるのは広いが家具の少ない、ガランとした印象の部屋。
「…………」
無言のまま身を起こして壁かけ時計を確認すれば、時刻は十時を回っている。
貴族の令嬢、しかも長女が目覚める時間にしてはあまりに遅すぎる。
普通なら、もっと早くにお付きの侍女が起こしに来る。
そして数人の使用人の手で顔が洗われ、歯が磨かれ、髪がとかされ身だしなみを整える。
それが、本来あるべき貴族令嬢の一日の始まりであるはずだ。
しかしリュセルテアの部屋にはこの時間になっても侍女はやってこない。
今日だけではない、ずっと前からそうだった。
そもそもリュセルテアには、身の回りの世話をしてくれる侍女などいなかった。
「……おはようございます」
ベッドの上で、彼女は寝巻のまま小さな声でボソッと呟く。
けれど、そんなつまらない挨拶を誰が聞いているというのだろう。
彼女の今日の第一声は、いつも通り広い部屋の中に響くこともなくむなしく消えていく。
部屋の中にはベッドと鏡台と、小さなクローゼットがあるだけ。
しかもそれらの家具も貴族が使うものとは思えない、粗雑な造りをしている。
だが、そんなものでも日常的に使っていれば愛着も湧いてくる。
みすぼらしい家具といえども、リュセルテアには特に文句はなかった。
クローゼットを開けて、そこに吊るされている服を一つ選んでモソモソと着替える。
彼女が選んだのは、木綿で織られた特徴のない地味な色合いの服だった。
それは、貴族が着るためのドレスではなく、庶民用の服だ。
仮にも上位貴族の令嬢が庶民の服を着ているなど、とんだ醜聞ではあった。
しかし今まで一度も外出を許されたことがないリュセルテアには、関係ない話だった。
脱いだ寝巻はしわを伸ばしてクローゼットにしまう。
すると、直後にクゥとおなかが鳴った。当然だが、朝食の時間はとうに過ぎている。
「おなかすいた……」
ベッドの上に腰を下ろして、彼女は弱々しくこぼした。
けれど、待っていても誰も食事を用意してくれない。他の家族はもう食べたのだろうが。
「お父様、お母様、早く早く! 早く行きましょうよ!」
いきなり、部屋の外から元気な女の子の声が聞こえてきた。
それはリュセルテアの一つ下の妹、イルセリアの声だ。
「こら、レディが廊下を走るものじゃないぞ、イルシィ」
「しょうがありませんわ、あなた。あの子がずっと楽しみにしていた演劇ですもの」
続いて、侯爵家当主である父ゼルロットと母ユーリシァの声が耳に届く。
どちらも娘を想うよき親の声そのもので、聞かされたリュセルテアの胸がズキリと痛む。
それに演劇とは何の話だろう。
三人が自分を置いて出かけるのは日常茶飯事だ。
だけど演劇という言葉を聞いて、リュセルテアの中にふと興味が湧いた。
外出が許されていない彼女はもっぱら屋敷の隣にある大書庫で本を読んで時間を潰す。
それもあって、リュセルテアは物語のたぐいが好きだった。
妹と両親は、一体どんな劇を見に行くのだろう。途端に、それが気になってきた。
大きな興味と深い羨望を胸に、彼女は部屋の入口へと向かう。
ゆっくりとドアを開けると、その眼前を明るい空色の髪をした少女が通りかかった。
「あら?」
鮮やかな暖色のドレスで着飾ったその少女――、イルセリアが姉に気づいて足を止める。
「…………」
「……イルシィ?」
何故か自分を見て無言になるイルセリアに、リュセルテアは不安を大きくする。
妹の口元が急に綻んで、彼女はプッと噴き出した。
「ああ、お姉様じゃない。そんな汚い服を着ていたから誰かと思ったわ!」
そして放たれたのは、姉を姉とも思わないその言葉だった。
「……あはは」
それに、リュセルテアは実のない笑いを返すだけ。
妹は普段から自分を姉扱いしていない。そしてそれに、彼女は慣れ切ってしまっていた。
ただ、空色の髪に可愛らしいリボンを飾るドレス姿の妹と、そうではない自分。
二人の姿の違いに、リュセルテアは姉妹の格差を感じずにはいられない。それに――、
「何をしているんだ、イルシィ」
近づいてくる足音と父ゼルロットの声には、どうしても心がすくんでしまう。
「ごめんなさい、お父様~」
露骨に甘えるような声を出し、イルセリアはリュセルテアの部屋の前から歩き出す。
去り際、彼女の嘲るようなまなざしが姉の胸を突き刺していった。
リュセルテアは反射的にドアを閉めようとする。
しかし、それよりも先に傍らにユーリシァを伴ったゼルロットが視界に入り込んでくる。
ドアを開けたままの彼女に気づいてか、二人は部屋の前で立ち止まった。
「……ぁ」
妹からの罵倒には何も感じないが、両親が自分を見る目には心が委縮する。
ゼルロットもユーリシァも、揃って冷たく凍てついた目つきで自分を見下ろしている。
「リュシィか」
ゼルロットが、彼女の名を呼ぶ。それは一体何日ぶりのことだろうか。
「まぁ、まだ部屋にいたのね。食事もまだなのでしょう。本当にどんくさい子ね」
ユーリシァもため息交じりにそう言って、興味なさげにリュセルテアから視線を外す。
自分を生んでくれたはずの人は、だが、自分を全く愛してくれていない。
それが如実に伝わってきて、リュセルテアは口を開けたまま何も言えなくなってしまう。
だが、こうして父や母とまみえるのもかなり久しぶりのこと。
そして彼女の中には、まださっき抱いた興味がかけらほどだが残っていた。
リュセルテアが、声を震わせながら問いかけようとする。
「ぁ、あの、どこに……?」
「どうしておまえにそんなことを言わなければならないんだ」
「あなたは部屋にいなさい、リュシィ。決して外に出てはいけませんからね」
問うたが直後、ゼルロットとユーリシァが即答に近い勢いでリュセルテアを否定する。
これには、さすがに絶句するしかなかった。
そうして言葉を失うリュセルテアの耳に、今度はクスクスという笑い声が幾つも届く。
笑っているのは、少し離れた場所にたむろしている使用人達だった。
「まただわ、リュセルテア様ったら」
「ああやって、か弱いふりをしてれば興味を引けるとでも思ってるのかしら」
リュセルテアは心の中で必死に叫ぶ。違う。か弱いふりなんて、したことないのに!
「さっさと食堂でパンでも食べて『大書庫』に行ってくれればいいのに」
「全く、いつまでも片付かない。めんどうくさいったらないわね、あの子は……」
使用人達が交わす言葉の中に、敬意と呼べるものは一つもなかった。
この場において、リュセルテアはどこまでも孤立していた。味方など一人もいない。
それもこれも、全ては――、
「アハハ、アハハハハハハハハハハハハ!」
場に弾ける、明るく無邪気なイルセリアの笑い声。
「もしかしてお姉様、私達と一緒に劇を見に行きたいの? ダメよ、そんなの。だってお姉様は『呪われ髪』なんですもの。呪われてるお姉様は外に出るなんて絶対ダメ!」
「そういうことだな」
イルセリアの言葉を、ゼルロットがうなずいて肯定する。
ユーリシァは何も言わないが、その手はイルセリアの頭を優しく撫でていた。
「それでは行ってくるぞ。おまえは屋敷から出るなよ、リュシィ」
「お姉様、行ってきま~す! お姉様の分まで、楽しんできてあげるわね!」
「「「行ってらっしゃいませ!」」」
使用人達の見送りの声を最後に、家族三人の足音が遠ざかっていく。
「旦那様もお可哀想に。まさかよりによってご息女が『呪われ髪』だなんてねぇ……」
年配の使用人のその言葉で、リュセルテアはついに限界を迎えた。
バタンとドアを閉めて、彼女は部屋の中に戻っていく。
「どうして、何で……」
つぶやきながら溢れる涙を手で拭い、彼女は鏡台に座ってそこに映る自分を見る。
背中まで伸びる波打つ髪。その色は見事なまでの漆黒。
――黒の色は夜の色。
――黒い髪は呪われ髪。
アルヴァラントの貴族の間では、黒い髪は呪われし者の証とされていた。
「……こんな髪の毛、嫌い。大っ嫌い」
自分の髪をグイと引っ張って、リュセルテアはしばらく声を殺して泣き続けた。




