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目が覚めても、窓の外は夜だった。煌々と街の灯が輝いている。ソファーの上で目を覚ましたシオに、ここは朝と昼のない異形の街なのだと狼男は言った。ごくまれに人の世界と繋がることがあり、シオのような人間が迷い込むことがあるらしい。
狼男に言われるがまま、バスルームでシャワーを浴びた。いつの間に手に入れたのだろう、身体に合うサイズの服を渡すのに、大人しく着替える。だがズボンと下着の後ろには指が三本通るほどの穴が開いていた。
「針と糸、持ってない……?」
着替えたはいいものの自分で縫って直そうとするシオに、狼男は裁縫道具ではなく一つの面を押し付けた。それは狐の面だった。白い顔に、細い目の周囲には赤い隈取の模様がある。
「ここでは、人間は食いもんだ。外に出れば、さっさと取って食われるぞ」
この面をつければ、人の姿を隠せるのだと言う。半信半疑で、シオは洗面所の鏡の前で、そっと顔に面を被せた。
吸いつくようにぴたりと面がくっついたと思うと、全身を妙な感覚が駆け抜けた。むずむずとした痒みに似た、くすぐったいような感触。そして鏡を見るシオは、思わず声をあげた。
自分の顔が、面に似てはいるがリアルな狐のものになっている。それだけではない、服から覗く肌一面に白い毛が生え、短くなった指の先から鋭い爪が飛び出す。悲鳴と共に面を外そうと顔に手をやると、いつの間にか後ろに立っていた狼男がその手を掴んだ。
「いいのか。外すのはいつでもできるが、それを外せばおまえの姿は人間のままだ。食ってくださいっつってるようなもんだぞ」
それを聞いて、シオは手の力を抜いた。鏡の中には、二本足で直立し、服を着た白狐がいる。まさに化け物の姿だ。これなら街に紛れても人間だとバレそうにはない。促されるまま鏡の前を離れ、部屋のソファーに浅く腰掛けた。隣に狼男が座り、シオが転げそうなほどソファーは深く沈みこんだ。むずむずするので触れてみると、尻には白くふさふさした尻尾が生えていた。ズボンの後ろに空いた穴からその尻尾を外に出した。
「全く、面倒かけやがって」
ソファーの前にあるローテーブルには、骨のついた肉を乗せた皿があった。その一本を鷲掴み、狼男は豪快に齧る。思わずシオはその口元を凝視してしまう。目下忘れていた空腹という存在が、今になって主張を始めていた。腹がぐうと鳴り、口の中いっぱいに涎が溜まる。
狼男は舌打ちし、皿へ顎をしゃくった。「食え」と短く言った。「部屋で野垂れ死なれたらたまらん」
獣の手を伸ばし、一つ掴んだ肉をじっと見るが、何の動物のものかわからない。だが一度齧りつくと止まらなかった。その美味さに涙さえ零れそうだった。
「おまえ、何か持ってるもんはないか」
しばらくそれを見下ろしていた狼男が言った。
「なにかって」
「なんでもいい。持ち込んだものがあったら出してみろ」
少し考え、シオは洗面所に引き返し、床に畳んで置いていたぼろぼろのハーフパンツのポケットを探った。狼男の横に戻り、手を開く。
「これだけ……」
手のひらには、汚れた十円玉が一枚乗っていた。
「金だな」狼男は顎に手を当てる。「失くすなよ。肌身離さず持っておけ。じゃないと、戻れなくなるやもしれん」
「どういうこと」
シオは尋ねたが、肉にかぶりつく狼男は答えなかった。代わりに、「おまえも戻りたいだろ」と言う。
今度はシオが返事をしなかったが、指についた油を舐めとりながら狼男は続けた。
「いくら誤魔化せるっつっても、おまえは人間に違いねえ。どうにかして戻る方法を探さないとな」
「……戻りたくない」
「わがまま言うな」
そういう狼男に、シオは震える声でこれまで受けた仕打ちを伝えた。誰かに自分の境遇を語るのは初めてで、説明はたどたどしかった。詰まるたびに、何度も唇を噛んだ。
「戻るぐらいなら、狼さんに食べられた方がいい」
狼は失笑する。
「なに馬鹿なこと言ってやがる」
「初めて、ぼくを助けてくれた人だから。役に立って死ねるなら、その方がいい」
ちっと、狼男は何度目かの舌打ちをする。生意気にと愚痴をこぼす。
「ここにいるなら、おまえは俺の非常食だ。覚悟しとけ」
鋭い爪を向けられ、シオはびくりと肩を震わせる。その爪先で、狼男はシオのズボンのポケットをつついた。そこには、先ほどの十円玉が入っていた。
「そんでも、これは持っとけ。気が変わるなんてのは、いくらでもあるからな」
「変わらないよ」
「うるせえ」
二人は肉を食べ続けた。窓の外は、夜のままだった。