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息を弾ませながら立ち止まり、恐る恐る振り返ったが、狼男は追いかけてきてはいなかった。安堵の吐息と共に首を巡らせ周囲を見渡す。いつの間にか駅舎は遠くなり、灯りの溢れる街の中にいた。背の低く古い建物が並び、道に飛び出した看板が点灯している。店名から推し量るに、食事を提供する店ばかりだ。店先にも屋台が点在し、嗅いだことはないが香ばしいにおいが鼻先をくすぐる。屋台の鉄板では何かの肉が焼かれ、建物の中からも美味そうなにおいが流れてきていた。車がすれ違うことも不可能なほどの狭い道には多くの住民が歩いていて、やかましい声が飛び交っている。
住民は全て、人間の姿をしていなかった。あの駅員のような恐ろしい形相をした怪物や、馬や熊の顔をのぞかせた異形が闊歩している。のっしのっしと歩いて来た牛男を慌てて避け、シオは呆然と街を見つめていた。
ここは人間の住む街ではない。
突然、足が宙につかなくなる。後ろから自分の襟首をつかむ相手を振り向いた。ぶよぶよの肉塊の中に目鼻はなく、大きな口だけがついた化け物だった。
「ちょうどいい、客に出す肉が足りなかったんだ」
一軒の店に化け物が歩いていく。その片手に握られた肉切り包丁を目にし、シオの心臓が大きく跳ねた。
大声で叫びながら暴れるが、化け物の力は遥かに強い。
「よしよし、暴れるな。活きのいい人間だな」
包丁を持った手が、腹を抱えようとする。その太い指先に、シオは精いっぱい噛みついた。豚の声に似た悲鳴を上げて、化け物が手を緩める。地面に落っこちたシオは、兎のように跳ね起きると全力で走り出した。
「人間だ」「人間がいるぞ」
異形たちが自分を見て囁き合っている。飯が逃げたと、豚の声がキイキイとがなり立てて追ってくる。ちらりと後ろを見ると、包丁を振りかざして追いかけてくる化け物の姿が目に入り、シオは無我夢中で駆け続けた。
街はぐねぐねと入り組み、自分がどこから来たのかも全くわからない。異形たちにぶつかりながら、シオは懸命に駆ける。しばらく何も食べていないせいか、ぐらぐらと足元が揺れた。何度も転んで起き上がり、必死に裸足で地面を蹴った。
もう駄目だ。息が切れ、視界まで歪む。よろよろと路地に足を踏み入れた時、むんずと再び襟首を掴まれた。何か黒いものの中に押し込まれる。力を振り絞って暴れると、「静かにしろ」と低い声がした。「あいつが来るぞ」とも言った。
キイキイ声が近づき、シオは暴れるのをやめて息を殺す。布の中には温かで分厚い塊があり、無意識にしがみついていた。汗と土の交じった獣のにおいが充満している。不思議と不快なにおいではなかった。
「こっちに人間が来なかったか」
あの肉塊の化け物の声が聞こえ、シオは石のように身体を固める。
「こんなちっさいやつだ」
低い声が返事をする。
「俺の前を走ってったぞ。すばしっこいガキだったな」
それだそれだと嬉しそうな声をあげ、どたどたと駆け出す足音が聞こえた。微妙に足元が揺れているのは、心臓の鼓動が激しいからではないだろう。
その声も音も揺れも全てが遠ざかった頃、自分を囲う黒い布が持ち上がった。
「くそ、面倒ごとに巻き込みやがって」
そう言うのは、電車で出会った狼男だった。コートの中に隠してくれていたのだ。シオはへなへなとその場にへたり込んだ。
「おい、あいつはいなくなったぞ。おまえも早くどっかに行け」
「……もう、いい」
自然と、そんな言葉が口をついていた。「ああ?」狼男が怪訝な声を出す。シオは汗を拭うふりをして、視界の滲んだ目元を拭った。
「もういいってなんだおまえ。食われてえのか?」
わからないと囁く。電車でも同じ台詞を言ったことを思い出した。情けなさに零れそうになる涙を懸命に堪える。だが、この異形ばかりの街に自分の居場所などないことはすぐに理解した。かといって、何とかして元居た場所に戻ることも考えられない。家にいられなくて、どこかを目指して電車に乗ったのだから。どこにもいけないことを理解すると、せめて痛くないように誰かが殺してくれればと思った。
狼男は舌打ちし、路地から出て去っていった。
シオは膝を抱え、建物の隙間で目を閉じた。血の滲んだ裸足がじくじくと痛む。寒くも暑くもないのが幸いだ。もう何も考えたくなくて、立てた膝に額を押し付けた。
疲労から眠りかけた時、ちっという音が聞こえ、身体が浮いた。舌打ちをした相手に抱えられ、コートの中に突っ込まれた。それが狼男であることは、さっきと同じにおいでわかった。まるで犬にでもなったような気分だった。
ぽいと放られ床で打った背中をさすっていると、部屋の灯りが点いた。眩しさに目を細める。天井がやけに低く見えるのは、狼男がでかいせいだろう。部屋の中央には巨大なソファーが横たわり、壁際には薄汚れたシンクがある。そばには一組のテーブルと椅子があり、狼男がどっかりとそこに腰掛けた。これから、人間という食材を使った晩飯の時間なのだろう。覚悟したはずなのに、シオはうずくまったまま恐ろしさに身体を縮こまらせた。
「そんなにビクつくな。おまえみたいな骨だらけの人間なんて、不味いに決まってる」
山高帽をテーブルに置いた男の顔は、やはり狼そのものだった。夢のようだが、夢だなんてシオは思わなかった。
「安心しろ、おまえがもっと太ってから食ってやる。今は非常食だ」
物騒な台詞だが、今すぐ食われるわけではないと知り、シオの身体に安心感が満ちる。同時に緊張が緩んだのだろう、電気が切れるように視界が暗くなり、シオは意識を手放した。