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Last Letter

作者: ミナト碧依

 佐伯智宏様――と。

 酷く不揃いな字で宛名が書かれた封書が僕の元に届いたのは、その冬の初雪の降った日だった。初雪と言っても今は一月で、確かに随分と冷え込んでいるけれど、これは積もらないな、と思った。

それでも故郷から手紙が届いた日に雪が降ったのは、なんとなく運命のような気がした。

 晶はどちらかというと、夏の似合う笑う女の子だったけれど。



 それは手紙を受け取る四ヶ月前。九月上旬のことだった。

僕はお盆の帰省ラッシュに遭うのが嫌で、世間では夏休みが終わったような頃に帰省した。こういうとき大学生って便利だ。

 病院の受付の前を通り過ぎ、エレベーターに乗り、和之に教えられた階のボタンを押した。目的の階につくと、ナースステーションも通り過ぎて病室を探す。

 漸く目当ての部屋番号を見つけると、ドアは閉じられていた。ドアの横の壁を見ると、河本晶様と書かれたプレートがひとつだけあった。他のプレートも、他のプレートを入れる場所もなかった。

 その意味を下手に勘ぐってしまった僕は、しばらくその壁を見つめてしまった。僕の横を通り過ぎていった看護師に警戒心を含んだ目で見られ、僕は漸くドアをノックした。

「どうぞ」

 すぐに短い返事が返ってきて、僕はドアを開けた。緊張に反して特別な重さもなく開いた扉の向こうで、彼女は驚いた表情を見せる。それは一瞬のことで、すぐに笑顔にすり替えた。

「やあ、久しぶり」

 そう言って片手を上げて、晶は白い歯を見せて笑った。さばさばした性格の、彼女らしい挨拶だった。

 ひまわりの柄がプリントされたオレンジ色のTシャツは、いかにも元気な女の子という晶の印象そのものだった。けれど晶の肌は夏だというのに青白くて、イメージと合うはずなのになんだか似合っていなかった。高校の時の晶はテニス部で年中日焼けしていたのに、今は白すぎる。

 晶は「そっか、来ちゃったかー」などと言いながら、広げていた雑誌を閉じてイヤホンを片付け始めた。

「びっくりしたよ。手紙」

 動揺を悟られないように、ふてぶてしく見えるように、敢えて大きくため息をついた。

「あらら、呼ぶつもりはなかったんだけど。ここにいるって、和之にでも聞いた?」

「まあね」

 八月の中頃に届いた最初の手紙は、最初母親からのものだと思われた。

 母は荷物を送ってくる度にたとえそれがどんな小さな荷物でも一言添えるが、手紙単体で送られてきたことはなかった。パソコンどころか携帯電話も普及して久しい現代。いくら機械音痴の我が母といえどスマホは持っているしLINEだって使う。それなのにわざわざ封書で何の用かと、僕は少し緊張した。

 けれど中から出てきたのは、実家の住所の書かれたもう一つの封筒だった。案の定母が添えた手紙には「あんたに手紙が届いたので送ります」と、見ればわかることが書いてあった。

 白い封筒に、丸くはないけれど整った女性らしい文字。どことなく見覚えがあったけれど、すぐに人物を特定できるほど馴染んだ文字でもなかった。でも裏返して見た差出人の名前を、僕は忘れていなかった。

 河本晶。僕の高校時代の同級生で、一年生のときのクラスメイトで、僕が初めて付き合った女の子だった。

 晶からの手紙はシンプルだった。月並みな挨拶から始まり、大学進学で地元を離れた僕を気遣う言葉と、付き合っていた頃の謝罪と、やはり月並みな文句で終わっていた。晶らしく端的な言葉でつづられた手紙は、便箋一枚すら埋め尽くすことなく何行か余っていた。

 返事を出すべきか少し迷ったけど、晶からの手紙が端的過ぎて、どう書いていいかわからなかった。多分、元々返事を必要としていない手紙だった。呼ぶつもりはなかったという晶の言葉は本当なのだと思う。

 それでも僕は、晶に会いに来た。

「俺があのまま放っとく奴だと思ってたか? わざわざ夏休み狙った頃に手紙寄越したくせに?」

 重苦しい空気にしたくなくて、少しだけ緊張しているのを悟られたくなくて、僕はわざと皮肉った言い方をした。晶は落ち込むでも悪びれるでもなく「そうね」と顎に手をあてた。

「じゃあ佐伯智宏君。今日だけ私の下僕ね」

「は?」

 何が「じゃあ」なのかわからず、僕は目の前で晶が着替え始めるまで、呆気に取られていた。



 言われるまま病棟を抜け出す手引きをさせられ、下僕宣言から三十分後には、僕は助手席に晶を乗せて運転していた。車で来ていた僕は、つまるところ足にされたのだ。

 晶は久しぶりの外出というのが嬉しいのか、窓を開けて楽しそうに外を眺めている。

 あの後着替えてファンデーションやらマスカラやら(それ以外は僕にはよくわからない)をばっちり塗った晶は、個性的な顔立ちをますます際立たせていた。濃いわけじゃないけど、ギャルっぽい服が好きそうだ。

 実際惜しげもなく太股を晒すショートパンツや、だぼっとした夏用ニットなんかは、そういうギャル御用達店で買ったのだと思う。確かに病気で顔色は悪いけれど、晶にはよく似合っていたし、綺麗になったと素直に思った。それと同時に、僕達はやっぱり恋人としては合わなかったのだとも感じた。

 化粧をした顔なんて見たのは多分ほとんど初めてで、ピアスをあけたことも知らなかったし、僕と晶の間に流れた時間の差をありありと感じた。それはそうだ。晶と付き合っていたのは高校一年生のときで、最後に顔を見たのは卒業式で、僕らはもう、二十歳になったのだから。

「なあ、もしかして俺呼んだのってこのため?」

 信号待ちで停車したとき、僕は晶に不満を言った。本気で不機嫌になったわけじゃないけど、本当にこれだけの理由で呼ばれたのなら、一応元彼氏なのだからと思って緊張していた自分が報われない。

「だから、呼んでないって言ってるじゃない」

 晶は顔だけ僕を振り返ると、グロスを塗った唇を尖らせた。

「でも、折角共犯者になってくれそうな人が来たんだから、使わない手はないでしょ? 車ないし、あたし一人だとどこにも行けないし。これだから田舎って不便よねー」

「さいですか……。相変わらずだなあ」

 僕はため息をつきながら、信号が青になったので発進させた。そうだ。晶はこういう人だった。

 晶は誰よりも自分に正直に生きていて、とにかく自由奔放なのだ。高校のとき、そんな晶にみんなよく振り回されていた。それで辟易させられることも多いのに、不思議と周りからは好かれていた。

 自由奔放は晶の長所だけれど、当時一番近くにいた僕は次第にそれを傍若無人と思うようになった。晶に振り回されることに苛立つようになり、結局僕は耐えられなくなった。そうして一年が終わる頃には、僕たちの関係も終わっていた。

 今にして思えば、もっと文句を言えば良かったんだろう。でもあのときの僕は、我慢している方が偉いような気になっていた。幼かったのだ。

 僕たちは病院から一番近い海辺の駐車場に入った。車を止めると、晶はエンジンを止まるのも待たず車を飛び出した。十センチくらいあるんじゃないかというヒールの高いサンダルのまま、子どものように走っていく。

 一応は海浜公園という名前がついているらしいその一帯は、狭い砂浜と小さな水場がある程度で、遊泳もできない区間だ。九月の平日では人気もない。

「んー、海なんていつぶりだろ。やっぱ夏は海だよねー!」

「はいはい。にしても、情緒はないよなー」

 確かに海には来たものの、工業地帯と漁港の隙間を有効活用するために造られたような海浜公園はひっそりとしていて、右を見れば工場群、左をみれば遠くに漁船が並んでいるのが見える。変な磯臭さ(海からではなく、おそらく漁獲網が近くで干されている)も感じて、きらきらした思い出にはなりそうにない。

 晶は砂浜に降りるためにサンダルを脱ぎながら、僕を睨んだ。

「気分盛り下がるようなこと言わないでくれる? 海水浴場の方に行けるならあたしだってねえ」

「あーはいはい。すみませんあんな遠いとこは流石に連れて行かないから」

 病院を抜け出す手伝いはしたものの、根が真面目な僕には近場に連れてくるのが精一杯だった。ここならせいぜい一時間くらいで戻れるけど、泳げる場所まで行くと二~三時間、病室を空けることになる。そこまで病院や晶の家族に心配をかけたくなかったし、何かあったらと思うと怖くもあった。

 晶はサンダルを両手に一足ずつ持つと、コンクリートの階段から砂浜に下りた。海に向かって歩いていく晶の後を、つかず離れずの距離でついていく。

「ごめんねー智宏」

「もういいよ。一緒に怒られる覚悟はできてるから」

「じゃなくて。本当に、来るとは思ってなかったんだ」

「別にいいけど」

「あ、でも時期はたまたまだよ。スマホ解約した後に、『連絡すれば良かった』って思って」

「だから手紙って、びっくりしたよ。解約したのなんて知らないし、繋がらなくて心配するし。和之にでも聞けば良かったじゃん。俺も今回そうしたし」

 和之というのは二つ年下の晶の弟で、僕にとっても高校のサッカー部の後輩だった。練習に熱心な和之は晶のことを差し引いても好感を持てて、よく練習を見てやった。

「だってあの子、なんかピリピリしてるし、流石に嫌だったのよ」

「ああ、そういやあいつ、受験生だっけ」

「それもあるけど、私がもうすぐ死ぬからでしょ」

 そう言って晶は、小走りに海に入っていった。

 僕は動けなかった。『もうすぐ退院だからでしょ』とでも言われたのかと思った。そのくらい平然と晶本人の口から零れた言葉に、僕は咄嗟に言葉が出てこなかった。

 思わず固まってしまった僕を見て、振り返った晶は「相変わらず嘘が下手だね」と微笑んだ。

「智宏も知ってたんだね。やっぱり、だから来たのか」

 僕が嘘がつけない性格ということを差し引いても、晶は鋭い方だった。僕に晶は誤魔化せないし、何より本人が知ってるなら嘘は無意味だと思って、頷いた。

 晶の手紙だけでは、多分会うことまでは考えなかった。たとえ携帯が繋がらなかったとしても。

 それでも九月に入って和之の方から連絡があったとき、僕は晶に会わずにいられなかった。晶が入院し、既に余命宣告を受けていると知ってしまっては。

「いつ、知ったんだ」

「スマホ解約する少し前。ってゆーか、知っちゃったから解約したんだけど。もったいないし、親は呼ばなくても毎日来るからLINEも使わないし。まあ料金は親負担だったけど、多分治療費も馬鹿にならないだろうから」

 いつもの調子で合理的な理由を並べる晶に、僕もなんとなく力が抜けた。とっくに砂まみれになっていたスニーカーを靴下ごと脱いで、海に入る。秋の気配を含んだ水は、少し冷たかった。

「やっぱ晶を騙すなんて、無理だったんだな。和之にすげえ言われたんだけど俺。『姉ちゃんには黙っててください』って」

 なんとはなしに海の中で足を動かすと、水が跳ねて晶にかかった。晶は楽しそうに、僕に向かって水を蹴った。僕もまた水を蹴った。

「我が弟ながら甲斐甲斐しい。でも、まぬけ。あの子にあたしが騙せるわけないじゃない」

「和之の様子、そんなに変だった?」

「突然、お見舞いに来たのよ」

「それまで来てなかったのか?」

「そ。『俺受験勉強あるし、姉ちゃんピンピンしてんじゃん』ってほとんど来なかった。部活引退したくらいから、受験生らしくピリピリし始めてたしね。でも突然『勉強教えて』って来て、ああこれはなんかあるなって。その後も勉強だ用事だって不定期だけど週に一、二回来るし、その内に『あーそっかー』みたいな」

「駄目じゃん、あいつ」

「ねえ。智宏でも気付きそう」

 何気に失礼なことを言われつつ、反論もできないので話題を移す。

「で、なんで俺に手紙くれたの」

「んー、なんとなく、やり残したことだと思ったのよね。なんか、別れたあと結局喋んなくなっちゃったし。これでも気にしてたのよ」

「俺のこと、まだ好きだった?」

 そんなことはないとわかっていて、おどけた風に言ってみた。しんみりするのは、晶は好きじゃないと知っていたから。

 案の定、晶は大袈裟にため息をついた。わざとらしく目をすがめて、サンダルを持ったまま腕を組んで見せる。

「自信過剰。何年経つと思ってんの」

「あ、やっぱり?」

「ただ、今どうしてるかなー死ぬ前にもう一度顔くらい見たいかなーって思うくらいには、情はあったのよ。友達としてならうまくやれたのかなって思ったけど、付き合って別れるとそうもいかなくなっちゃったし。主に智宏が」

「ごめん」

 殊勝な謝罪が口をついて出た。僕たちが疎遠になったのは、僕が晶を避けるようになったからだ。何故って『気まずかった』の一言に尽きるけれど、やはり幼かったと今は思う。

 僕が謝ると、晶は「よろしい」と鷹揚に頷いた。水のかけ合いに飽きたのか気が済んだのか、今度は波打ち際に沿って歩き始める。

「どう、智宏。大学楽しい?」

「楽しいよ」

「楽しくなさそうに言わないでよ」

「本当に楽しいよ。俺やっぱり文学好きだわ。作品読むために資料読み込んで研究するわけだけどさ、資料も調べ始めたら思ってた以上に奥が深いし、研究されつくしたような昔の作品でも『あれ?』って思うことあるし。まあ、論文漁ってたら俺が研究するまでもなく誰かが気づいてることがほとんどだけど」

「出た、本の虫」

「俺なんてまだまだだよ。先輩にまさに本の虫って感じの人がいてさ、二個上なんだけど。二年あっても、あの知識量と読書量に追いつけないと思うもん」

「そっか。それは楽しそう。教授じゃなくて、先輩なのね」

 晶の言葉に他意はなかったのかもしれない。けれど僕は、どきりとした。

「羨ましい」

「晶は文学に興味ないじゃん」

「そうじゃなくて。大学さ、前期半分も行けなかったんだ。後期は、もう休学届出した。本当は辞めるつもりだったんだけど、両親が許してくれなくてね」

 合理主義の晶らしい。スマホを解約したのと同じようにしようとしたのだろう。

 自分の病気について知らないふりをし続ける晶の優しさを僕は知った。彼女の両親は、娘が自分の病気について気付いていることを知らない。だからこそ晶も強くは言えなかったのだろう。あの頃は傍若無人に見えていたけれど、こういう優しさだって、僕は知っていた。

「あーあ。一回くらい、一人暮らししてみたかったなあ。海外もまだ行ったことないし。あっ、北海道旅行! 今年こそは絶対雪祭り行こうって、友達と言ってたのに」

「北海道? なんかイメージと違うなあ」

「何よイメージって」

「晶は北より南国のイメージだからさ。マリンスポーツとか好きそう」

「ああ、それもやってみたかったなあ。でも今は、雪が見たいの」

 何気ないその一言に、僕はまたどきりとした。僕は晶が余命宣告を受けたとしか聞いていなくて、彼女の命の期限は知らない。けれどその言葉に、ついその遠くない未来を考えてしまった。

「あ、うん、確かに。まだ暑いし、冬が恋しくなるな。雪が見たいって思うあたり、俺やっぱりこっちの人間なのかなあと思うよ。かまくらとか造りたくなる」

 少し早口になった自分を滑稽に思いながら、それでもはぐらかさずにいられなかった。晶がそんな僕に気付かない訳はなかったけど、おかしそうに笑ってくれた。

「それこそ意外。智宏、そういうの子どもっぽいって思ってやらなそうなのに」

「向こう雪降らないし、降っても雪合戦もできないレベルなんだよな。できないって思うと、やりたくなって。それになんていうか、季節感狂うよ」

「そっかあ。その気持ちはわかるかも」

 晶は不意に足を止めた。俯いたときに見えたうなじがあまりにも儚げで、痛ましいと思ってしまう。

「ねえ、智宏。会えなくなると、会いたいって思ってくれる?」

 不意に見せた寂しそうな表情。

 なんて答えたらいいのかわからなくて「晶」と、ただ彼女の名前を呼んだ。

「病気にならなかったら、あたしも多分連絡なんてしなかった。智宏もだよね。もしかして元気だった方が、もう一生会わなかったのかな、あたし達」

「そう言うなよ」

 否定はできない。病気をしなかったら晶は僕に手紙を書かなかっただろう。僕だって一度はその手紙を無視した。嘘を言えない自分の真面目さが少し嫌になった。

 ぽちゃんと音がして顔を上げると、晶のサンダルが片方、水に浸かっていた。

「おい?」

「ごめん、ちょっと」

 額を抑えて少し身をかがめた晶に、僕は慌てて駆け寄った。持っていたスニーカーが邪魔で、砂浜の方に放り投げる。

「おい、大丈夫か」

「そんな必死な声出さないで。暑いしちょっと疲れただけ。大丈夫。そんなすぐ死なないから」

「車戻ろう。おぶろうか?」

「ううん、歩く。歩きたい」

 横から晶を抱えるようにして、僕たちはなんとか車に戻った。横になれるように、助手席じゃなく後部座席に座らせる。

 僕は放り出していた自分のスニーカーを取りに行って、そのついでに水場で自分の足を洗い、タオルを濡らしてから車に戻った。タオルを手渡すと、晶は軽く顔の汗をタオルに吸わせただけですぐさま足を拭き始めた。車内に砂が落ちるとか、そんなの気にしなくてよかったのに。

 僕はすぐに病院に戻ろうとしたけれど、晶がそれを拒んだ。さっきよりは呼吸も穏やかになっていたし、もう少し晶に付き合うことにした。怖いけれど、我が儘を聞いてやりたいという思いが勝った。

 晶に言われて、僕は一緒に後部座席に乗り込んだ。頼まれると断れず、そのまま肩を貸す。高さが丁度良いのだと、晶は気持ちよさそうに目を閉じた。

 恋人のことが頭をよぎったけれど、晶を邪険にはできなかった。海風が心地よいからとエアコンは点けずに後部座席のドアを開け放していて、それがなんだか免罪符のように思えた。

「ねえ、智宏」

「何」

「今、彼女いるの?」

「いるよ」

「じゃあ、ごめんね。一応病人だから多めに見て」

「病人なら病院戻れよ」

 少し苛立った言葉は、本心だった。僕はこんなに弱った晶を見たことがなくて、晶は死なないと言ったけれど、本当は怖かった。僕の行動が、晶の命を削っているように思えて。

「……みんなね、私を悲劇のヒロインにするの。それで本当の病名とか余命まで隠して、治るって信じたまま死ぬ方が残酷だよね」

 僕には答えられなかった。どちらがいいのか、それは多分、本人にしかわからない。知らないまま希望を持ち続けて生きるのと、期限をつけられた自分の命を見つめてながら死の恐怖の中で生きるのと。僕はどちらだろう。

「でもね、それだって不幸だとか思ってる訳じゃないの。みんなの優しさだってわかってるし、私はこうして気付けたし。確かに長くは生きられないけど、そんなの誰だって保証はされてないでしょ? あたしは死ぬってわかってる分こうやって心構えできるから、寧ろ幸せなのかも。智宏とも久々に会えたし。あ、怒らないでよ? 理由はどうでも、久々の再会くらい、喜んだっていいじゃない」

「晶は、いつも正しいな」

「そう?」

「屁理屈っていうほど変すぎず、妙に納得させるの上手いっていうか。それでよく、高校のときも言いくるめられてた気がする」

「そんなこともあったっけねー」

「でも人間って、そんなに正しく生きられるものか?」

「どういう意味?」

 我ながら、正直身勝手だと思った。忘れていたとまでは言わないけれど、手紙を受け取るまで晶を思い出すことはなかった。晶の言う通り一生会わないというのは大袈裟でも、自分から会おうとすることはなかっただろう。

 晶が覚悟を決めていると言うなら、そんな僕に言う資格はないのかもしれない。でもだからと言って病気を知らなかったことにはできなくて、もしこれが最期になるなら、きっと聞かなかったことを後悔するから。

「怖くないのか」

 晶は答えなかった。それ以上は聞きたくないという、無言の抵抗なのかもしれなかった。それでも僕は黙らなかった。

「俺は晶みたいに割り切れない。俺今、死んで欲しくないって思ってる。生きてて欲しいって、めちゃくちゃ思ってるよ」

 僕が言い終わると、晶は小さく笑った。一瞬、泣いたのかと思った。

「本当に、正直な人だなあ」

「あき……」

「ごめん智宏。やっぱりあたし、多分嘘ついた」

「何、どれ?」

「本当は、智宏に会いたかったのかもしれない」

 晶の手が、弱々しく僕の腕に触れた。僕は何と言えばいいのかわからなくて、ただ頷いた。

「あたし、誰かにそう言って欲しかった。『死なないで』って、悲しんで欲しかった。『死にたくない』って、言いたかった」

 秘密とは、酷く孤独なのだということを僕は知った。晶が全て気付いているということを知っているのは晶ただ一人で、それを隠すためには、誰かに弱音を吐くこともできなくて、独りで抱え込んで。

 僕は晶の手を握った。恋人のことは相変わらず頭の片隅にあったけれど、目の前で傷付いている友人に優しく出来ないような男には、なりたくなかった。

「馬鹿だな。いつだって好き勝手やって周り巻き込んでたくせに、こんなときばっかり気ぃ遣うなよ」

 晶が僕の胸に縋るように額を押しつけてきた。抱き締めたいとは思わなかった。ただ見下ろした背中が小さくて、哀しかった。僕は晶の手を強く握った。

「死にたくないよ。みんなが生きる未来に、あたしがいないなんて嫌。怖いよ。怖い。死にたくない。もっと生きたい……っ」

 晶は泣いた。子どもみたいに声を上げて。多分、晶が病気になって初めて、誰かに見せた涙だった。

 僕は一生、この涙を忘れないでいようと誓った。



 一度足を拭いたタオルでそのまま顔を拭きたくないと、僕はタオルを洗うためにパシらされた。それが泣き終わるきっかけで、タオルを洗って戻ると晶はもうほとんど泣き止んでいた。そうして僕らはやっと病院へ向かった。

「智宏。あたしの為に、泣いたりしないでね」

 しばらく車内は無言だったけれど、不意に晶が口を開いた。その声はもう、いつもの晶だった。だから僕も、いつもの調子で返す。

「さっき悲しんで欲しいって、言ったじゃん」

「誰かが死んだときって、もう二度とその人に会えない自分が可哀想で泣くんだと思うから。だから、智宏。あたしを哀れまないでね。それであたしが死んだら、自分のために泣いてね。そしたらあたし、死んじゃうのはすごく寂しいけど、でもやっぱり、すごく幸せな女になれると思うから」

 そのとき、僕は晶の二つ目の嘘に気付いた気がした。咄嗟に「ごめん」と言いかけて、僕はやめた。

「泣かないって言った方が、男らしいかな」

「無理でしょ、智宏には。映画とかもすぐ泣くじゃない」

「そうだな。うん。約束する。俺は自分のために泣くよ。晶の方が、先に死んだらな」

「明日はどうなるか、わからないもんね」

「その代わり、もし俺が先に死んだら、晶も自分のために泣けよ?」

「うん、そうする」

 そう言って晶は笑った。それを見て僕は、晶は本当に強い女性だと思った。

 そして四ヶ月後、二通目の手紙を受け取ったのだ。



『この間は会いに来てくれてありがとう。

 どうか、この手紙を遺書だとは思わないで。

 智宏。

 あなたに逢えて良かった。

 あたしは精一杯生きて、幸せに死にます。』



 初雪の降った日、届いた封筒に差出人の名前はなかった。ただ不揃いで不格好な宛名の字はおそらく彼女の弟のもので、中からは見覚えのある白い封筒が出てきた。八月にもらったもの以上に短い手紙はやはり晶からで、心なしか文字が弱々しかった。

 辞書で調べてみたら、遺書とは故人が死後のことを考えて書いた手紙や文書のことらしい。だったらこの手紙は、確かに遺書ではないのだろう。きっと晶が生きている間に、僕に宛てられた手紙なのだ。

 それでもこれは多分、最後の手紙になったのだろうと僕は思った。

 ベッドの上で布団にくるまって、僕はぼんやりと天井を見上げていた。晶との約束を果たそうと思ってティッシュ箱とゴミ箱をベッド脇に置いたけど、涙は出てこなかった。

 その内にチャイムが鳴って、起きるのが億劫で無視していたら玄関の鍵が開く音がした。

 やばいと思うより先に開いたドアが、ドアストッパーに途中で止められる。慌てて玄関を開けに行くと、沙也香さんがおっとりした調子で「寝てたの?」と言った。

 沙也香さんとは、付き合ってもうすぐ一年になる。二つ年上で、口数が少ない訳ではないけど、物静かな人だ。常に自分のペースという点では晶と共通するかもしれないけど、時間を惜しむように常に何かをしていた晶と違って、一冊の本と一杯のお茶でのんびりと過ごす時間を愛するような、そんな人だ。この人の周りでゆっくり流れる時間が、僕にはとても居心地良かった。

 沙也香さんは部屋に入って荷物を下ろすと、「あーあったかい」とほっとしたように笑った。瞬間、外との温度差で沙也香さんの眼鏡が曇って、二人で笑った。

 沙也香さんがコートをハンガーに掛けている間に、俺は廊下のキッチンに立って電気ケトルに水を入れた。

「智君、今日は講義ない日だっけ?」

「サボった」

「あれ、珍しい。ていうか、そろそろテスト直前で、範囲とか発表されてるんじゃないの?」

 沙也香さんの言葉で急に学生の現実に思い当たった僕は、潰されたカエルのような声で呻いた。我ながらどこから出したんだ、というような変な声だった。

「忘れてたの?」

 呆れる沙也香さんをよそに、僕は二つのマグカップにティーバッグを放りこんだ。お湯が沸くまで少しかかるから、一旦部屋に戻る。

「そういえば、郵便受け空だったよ」

「あ、うん」

 九月の帰省からこちら、僕が頻繁に郵便受けを確認しているのを知っている沙也香さんは、自分が来るときにも覗いてくれるようになっていた。

「智君は何をそんなに待ってるのかな。合格通知を待つ受験生や就活生でもないのに」

 晶の事は、沙也香さんには話せていなかった。後ろめたいというわけじゃない。晶が守っている秘密を、晶と接点がない人とはいえ他人に話すことに抵抗があったのだ。

「ラブレターだったりして?」

 そう言って、沙也香さんがニヒルに笑う。

 今となっては、もう秘密を守る必要もない気がした。沙也香さんの冗談めかした言葉に乗っかる形で、僕は頷いた。

「そうだね。多分、ラブレターだ」

「おや、おねーさんは嫉妬してしまうよ」

 冗談だと思った沙也香さんは、またおっとりと微笑む。

 ラブレター。

 何気なく肯定したその言葉が、僕の中に意外なほどすとんと落ちた。そうだ。あれは遺書なんかじゃない。

「智君?」

 黙り込んでしまった僕を、沙也香さんが心配そうに覗き込んだ。キッチンの方からカチリとケトルのスイッチが上がる音がする。お湯が沸いたのに、立ち上がれなかった。

「もしかして、何か届いた?」

「ごめん沙也香さん。俺今、他の女のこと考えてる」

「相変わらず変なところ正直だなあ。私は君のそういう誠実であろうとするところ、好きだけどね。……私、いて大丈夫?」

「沙也香さんが、良いなら」

「そういうときは『いてください』と素直に言いなさい」

「じゃあ、いてください」

「はい」

「抱き締めてもいいですか」

「どうぞ。それは聞かんでよろしい」

 沙也香さんは僕に向き直って両手を広げた。抱き締めたいと言ったのは僕なのになんだか動けなくて、そうしている内に沙也香さんの方が迎えに来てくれた。「よーしよし」と言って頭が撫でられる。

 たった二つの歳の差のせいで子どものような扱いを受けるのは毎度のことで、男としてのプライドはその度にへそを曲げてもっと子ども扱いされるのも毎度のことだったけれど、今日ばかりは不満を言うどころか泣きたくなって。元々泣きたかった筈だけど、本当に、心の底から泣きたくなって。

 ああ、抱き締められたかったんだと、思った。

 僕は泣いた。あの日の晶みたいに、声を上げて。沙也香さんは何も言わず、僕を抱き締めてくれていた。その温もりにまた涙が出た。

学生時代に書いた短編を加筆修正しました。

色々拙いけれど、昔の自分に会ったような気分になりました。

何度か直しているので、最初に書いたのが何歳のときだったか、もうあんまり覚えていません。笑

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